愚弄の追認

原発の再稼働に急ぐ電力会社・野田政権・および経団連などの動向を耳にするにつけ、よくもまあ、人々をここまでコケにできるものだ、と私は思う。これは再稼働が妥当かどうか、という判断以前の問題だ。コケにされている圧倒的人数は不満を述べている。しかしそれはまるで蟷螂の斧であって、嬲られているという表現のほうが正しいかもしれない。

先日は「欺瞞」と書いた。欺瞞に対する人の反応も様々だ。感情的に怒ったり、逆にシニカルになったり、いやこの判断は妥当である、と述べてみたり、欺瞞に結託してみたり、経済が、と解釈したりしている。しかしそれもまた無関係。否定にしろ賛成にしろ、いずれにしろ追認にすぎないことはもはやはっきりしている。民主主義国家の亜形態として追認主義国家、という分類を作ったらよいかもしれない。

ひどいものだ、と思っていたら、このところ定期的に眺めていた日本のテレビドラマに、現在進行形のこの事態に対するメッセージが込められていて驚いた。堺雅人が負け知らずの敏腕弁護士役の主演を務める「リーガル・ハイ」というドラマの第9話である。毒舌かつコミカルなセリフが機関銃のように繰り返されるのが演劇みたいでおもしろく、私は第9話まで見た。この第9話はかなりすごい。田舎にできた大企業の化学工場による水質汚染によって健康を害した住民たちが公害訴訟を起こそうとする。立ち上がった住民たちは「絆」やら「誠意」やら「和解金」やらでたちまち懐柔されそうになるが、そこで堺雅人が凄まじい長台詞の機関銃を超えたキャノン砲のようなアジテーションを行う。これが実に素晴らしいのである… と説明してみて思ったが、この説明だけだと田中正造現代バージョンみたいで、全く言葉が足りていない。時間のある人は見てみるとよいと思う。

フルバージョン、デイリーモーション

なお、私と同じような強い印象を持った人も多いらしく、堺雅人の長台詞の部分だけを抜き出したものもある。こちらだけをみてもよいかもしれない。

堺雅人の長台詞、FC2

この脚本は、原発事故によって汚染された日本の広大な土地とそこで不安にみちた生活をおくる人々のアナロジーであり、強いメッセージが込められている。脚本家の古沢良太が込めたこのメッセージ、それにおそらく自身としても深い思い入れで自らを演出した堺雅人、今まさに社会で起きていること、という三つが見事に一致した稀有な場面である、と私は思った。まさに演劇である。文章におとしてしまうとその名調子がかなり失われてしまうので引用しないが、書き起こしはこちらにある*1

現代の国家が人間の生死を管理している、という事態は今更はじまった話ではない。また生命倫理の議論などを眺めれば、揺りかごから墓場まで、すなわち受胎管理から生命維持装置まで、我々の生が管理されていることは事実である。そうした管理と制限の下にありながらも時に片鱗を見せる自由と取引しながら生きるというのが現代の生だ。しかしながら、原発事故以降、再稼働の話も含め、日本における生命の管理と自由の取引は不渡りに近い状態にある。それはあまりに露骨、というか露悪的でさえある。天下りの「リスク」という生の管理を追認せよ、いやするでしょうねいうまでもなく、となにものかがささやきながら、個人が生きるという事象が捨象されていく。堺雅人の台詞にある「ゴミクズ扱い」という比喩もあながち過大ではないかもしれない。

*1:追記:こちらにまとめがある。http://matome.naver.jp/odai/2134134054864919601