『アズミ・ハルコは行方不明』

knockeye2014-04-06

アズミ・ハルコは行方不明

アズミ・ハルコは行方不明

 『ここは退屈迎えに来て』はよかった。あれは、構造が源氏物語。いろいろな女性を主人公にした短編を、集めたようなフリをしながら、実は、ひとりの男子が主人公で、しかも、だんだん時間を遡っていく。ラストシーンがすごくいい。
 こういう風でしか書けない、‘男子の色気’みたいのがあるんだっていうのも発見だったし、女子目線の‘いい男’を描く方法論の発明だったんじゃないかなと思った。
 山内マリコの第二作目(なのかな)は『アズミ・ハルコは行方不明』。
 そうそう、言い忘れたけど、この日曜日は、昨日よりさらに寒くて、どこにも出掛けずに本を読んでいました。
 今度のはちょっと推理小説っぽい。吉本隆明の「推理論」は、
「けっきょくわたしたちが<推理>と考えているものの本質は、はじめに既知であるかのように存在する作者の世界把握にむかって、作品の語り手が未知を解き明かすかのように遭遇するときの遭遇の仕方、そして遭遇にさいして発生する<既視>体験に類似したイメージや、分析的な納得の構造をさしていることがわかる。」
と書いている。
 作者の既知と、語り手の未知が、交差する仕方の魅力を評価しなければならないとしたら、『アズミ・ハルコは行方不明』は、そんなにうまくいっていない。
 とくに、「少女ギャング団」の世界と、「アズミ・ハルコ」の世界がうまくつながっていない。
 「少女ギャング団」の世界と、「アズミ・ハルコ」の世界は接続したかったはずだが、接続できなかったようにみえる。「少女ギャング団」はファンタジーとして消えていくしかなかった。結果として、アズミ・ハルコにもカタルシスがないように思った。
 この小説のようなセックスや恋愛のあり方は、曾野綾子とかには絶対書けないあり方なんだけど、その山内マリコにしても、「少女ギャング団」となると、作者の世界に完全には取りこめないみたい。
 「女子高生」という簒奪されまくり、消費されまくったイメージと、現実の女性はどうつながるのか。つまり、女子高生はどうやって現実の女になるのかだけど、これはけっこうな難題だな。
 ところで、「スプリング・ブレイカーズ」に出演していたジェームズ・フランコは、ネットで17歳の女の子をナンパしたとかで、テレビで謝罪する羽目になったらしい。でも、17歳の女をナンパして何が悪いんだろう?。