昨日、高校生の息子が、下関の国際フェリーターミナルを出た。
学生の頃、どきどきしながらの一人海外の旅。
宿を予約せずに、360度の自由を満喫すると息巻いて乗った関釜フェリー。
あのときに「温泉マークは宿の印」と聞いて飛び込んだ連れ込み宿を兼ねた旅人宿。
あれ以来何度も泊まった宿はまだあるらしい。
結婚前にまだ「彼女」だった嫁さんも連れて行って、早速にサンダルを盗難。
苦情を言うが「サンダルは国際市場で安く買える」と一蹴された。
昨日、高校生の息子がここの宿を目指して、下関の国際フェリーターミナルを出た。
船内2泊、釜山1泊の小さな旅だ。
受付で未成年の渡航の親権者承諾にサインをしながら、いろんな気持ちが交錯した。
初めて一人で海外へ出たときのドキドキを今、彼は体験しているのだ。
その親として、それを想像するなんて、それこそ想像したこともなかった。
フェリー乗り場で出航を待つ人の列に並びながら、もうここは外国なんだと感じる。
9割近くが韓国人観光客。
自分は今回は見送りだけだけど、少しだけ旅の気分を味わった。
「気をつけてな」と握手で見送り。
たった3泊4日だけど、あのボロ宿を見つけることができるだろうか?
週末でフルハウス、他の安宿を探せと言われて、見知らぬ町をバックパックを背負って徘徊するもまた一興。
声を掛けてくる人の親切に身を委ねるのか、それとも観光客目当ての小ズルイ引っ掛けと振り切るかも旅の醍醐味。
そろそろ向うの税関が開き、似てはいるものの近くて遠い異国のゲートに飛び込むのだろう。
町中の看板、通行人の話、すべてが疑問符に変わる。
いったいどんなことを思うのだろう?
俺の時代と違って、スマホってやつがある。
人と人の意思の疎通の円滑さを目的に電信、電話、携帯、スマホと進化してきたはずの機械だが、それが旅の面白さを半減させているように思えてならない。
ネパールのカトマンズで出会った若者に声を掛けてみたものの、「フェイスブックで話しましょう」とすぐに行ってしまった。
目の前に起こる何かよりもスマホの中の擬似リアリティの方が優先される事態が起こっているのだと感じた。
「旅先ではな、スマホの電源、切っとけよ」
老婆心ながら、旅を面白くするアドヴァイス。
今朝、そろそろ税関が開くなぁと思わずモーニングコール。
「お掛けになった電話は電源が入っていないか・・・」
よしよし、言うことは聞いてるなと思いつつ、出入国カードの書き方は分かるだろうかと案じている。