佐藤順一(サトジュン)演出作品レビュー(かこのたわごと)

演出について考えるとき
あまりに巧く鮮やか過ぎる演出というものは
逆にストーリーが頭に入ってこないのではないだろうか?
いや、実写映画などは今までの実感としてむしろストーリーは頭に入らないほうが良い
しかしそれは長回しが可能な実写であるからではないのか?
アニメの場合はむしろ危険な気がするのだが・・・
サトジュンの演出アニメをここ最近見ていて思うことや印象みたいなものはずいぶん違ったりする
まずストーリーが頭に入らなかったから逆にカタルシスがつゆも感じられなかったものとしては
墓場鬼太郎ホスト部
ぱっと思いついてこの二つについて言うと
とにかく素晴らしすぎるくらい演出の完成度は高かった
しかも脚本自体も特筆悪いというわけではなく、むしろ骨がある部類だ
なのに見終わった印象としてはほぼゼロなのだ
この場合、ひたすら穿った見方をせず一般視聴者よろしく話だけ追っていけばまた感想はちがうかもしれないのだが
それにしても不思議な読後感というか、勿体無いような感じがある
逆にじわーっとカタルシス的な読後感を感じ得たものとして
ARIAの11話
とりあえずこれである
こっちは大した脚本ではないのにラストの方で武者震い的なものが身体から出てきた。
これが演出か、とほぼ初めて自覚できた類だったと思う。
僕の好きな傾向かというとそれはちょっと違うのだが、
とにかく「掴む」ということにあまりに革新的な演出でもないのに掴まれた。これが演出なのかとうっすら感じたもので
今まで触れたことのない感覚であった
貴重な資料だった


そして残り、
カレイド、ポケ戦、シンデレラ・フォウ、メモル(ちょっと微妙だが)、ユンカース(これは通常のサトジュンコンテとは若干異なる、
芝居を魅せるスタイルだが、読後の印象としてはそれほどテレビのサトジュンとは変わることがないから不思議だ。)
これらは誠に的確な、お手本とも言うべき仕上がりになっている。
そして、それだけに脚本の良し悪しが露骨に画面に出る。
脚本を裸にしてしまうというか、完全に脚本を尊重するサトジュンならではの良くも悪くもと言ったところが、見事に露呈したものになっているのである。
これが、演出家の本分というものなのだろうが、はっきりと僕が目指さないであろうスタイルであるということが分かる。
しかもこれが通常のオールマイティなコンテマン・サトジュンの本質であるということが何本か見て分かるようになった。
では、僕がサトジュンを目指すということはどんな意味があるのか?
とにかく基本を知るというのは勿論のことだが、やはりこうして見ていくと分かってくる。
僕には映像学のリテラシーというものはこれまで何一つなかったのだということである。
怖いほどに、ない。テストでもやらせたら余裕で0点だったというほどに。
では今まで何千と観てきたアニメは全て何だったのだろうかと言いたくなるほどに、効能はなかったということであろうか?
そういう事すら気づけないというのはやはり作り手ではないのだと思う。
そこにすら到達できないのに演出は語れないし、レイアウトも、メソッドも読み返せない。
ここまでたどり着くまでえらく無駄をしたものだ。
それとは言え、やはり演出というものはそれ単体で表現を突き詰めるならば、むしろストーリーなど、脚本などない方が都合がいいということは、いい加減分かってきたと思うのだ。
だからこそ、僕は目指すべきものがやはりドラマなのかなとも思う。
しかし、山本直樹は、今の、完成した山本直樹はドラマではない、決してドラマじゃない。
台詞で語らないからだ。
僕が将来台詞で動かす方向に行くのか、それを否定して高みに上るのか、どっちも楽しそうだがとにかく、まだサトジュンを知ることで、リテラシーを養う必要はありそうだ。
幾原邦彦ウテナの凄さすら、正直今はよくわからないし(だからこそウテナは内心ひどくつまらないと思っている自分がいるのである)
そう、細田守も・・・(だってワンピース199話の方がなんとなく良いとは思うじゃない?確かにカッティングは今見ても飽きさせないと思うが)
やはりレイアウトを見る目が、まだない。視線誘導や、カットの積み重ね、それによる感情の発生方法、カメラワークによる情感の発生方法、スマートなカメラ、状況説明(レイアウト&カメラ)等・・・(2008年12月20日1:00のメモより)


また随分いい加減な事を言ってますな〜(今もか)