宮崎駿は、スタッフに茶髪の禁止を命じようとしたが、止められた。

koikeakira2004-07-19

http://www.1101.com/ghibli/index.html
宮崎駿のいやらしさを象徴するような逸話だと思う。
私は宮崎駿は大好きで、大嫌いだ。
ナウシカ、トトロ、ラピュタ、各作品の記憶を遺伝子に持たないアニメには興味が無いと言っていい。しかし。

氏が作品中で可とする人間像は非常に限られていて、特に女性にはつっこみどころが多い。
彼の世界で、なぜ女性は純粋無垢であり続けないければならないのだろう?
私が見る宮崎駿の女性観は、「こうあってほしい」という願望でもなければ、「こうだったらよかったな」という悲願でもないし、「こんなんだったりして」というオタク的恥じらいもなく、「こうあるべきだ」という理屈もない。「こうだ」という排他的背景でしかない。本人が意識しているかどうかにかかわらず。
しかし、作品中の世界には、女性を無垢たらしめる環境が整備されていないのだ。
この人の作品の舞台って、大人達が欲望むき出しで少女を奪いにかかる世界ばかりなのである。
戦争とか略奪とか、普通に考えれば手練手管を身に付けて手に土をつけなければ生きてすらいられない修羅的状況か、無作為な悪意の大人が次々登場して、何気ない一言で主人公の少女を少しずつ傷つけて行く平和な現実か。
そんな場所で少女達は無垢でいられるわけがないのだ。ずるさ、抜け目なさ、卑屈さを刻み込まれずにいることは、物理的に不可能だと思う。

(その点、私は少女漫画が好きである。理想の女性と、その理想の女性の性質を守る環境が整備されている。私は少女漫画はあまり読まないけれど。だって刺激が足りないんだもん。)

あるいは、宮崎駿本人の意識として、女性がどのような現実に搾取されようとも清くあるというファンタジーを創作していると自覚してのことだったりしたら・・・戦慄。「レイプされて気持ちよがる女」と同じ構造の暴力ファンタジーである。

というわけで、私がジブリ作品を見て感じる違和感を言葉にしてみました。でもなんだか、斎藤環やなんかが言っていたところの「無垢で傷付かない少女」という現在の漫画・アニメお定まりのテーマが登場してしまいました。そういった女の子達とジブリの女の子達の違いは、女の子が攻めるか攻められるかというところにありそうです。宮崎駿は攻める女の子も書いているにはいますが。宮崎駿や、その登場人物達のように、無作為な悪に対するとか、面白いと思います。
セーラームーンなど戦闘ものの敵キャラは、ほとんどの場合制裁を受ける準備ができているだけ誠実だけれど、やっぱり無作為や、無作為を装った悪っていうのが一番タチが悪いと思います。世界は正義を装った悪に満ちているけどね。ふふふ。

粘膜的生活

私の娘が小さかった頃、母乳を飲み、毎晩べったりと皮膚をあわせて寝ていた時に感じていたこと。
赤ん坊の肌は、大人の肌のようにまだ「皮」ではなくて、まだ粘膜なのだ。皮膚はあくまで粘膜の延長にある。
あの頃、常に娘の薄い膜のような皮膚に触れながら、生活が粘膜を中心に回転していたように感じていた。じっとりと濡れた愛の世界。
母子関係というのは、一般的なイメージのように柔らかく暖かく、清らかなものではない。
ベタベタとしていて、けっこうエッチだ。そして母と子の利害は一致しない。
また、母と娘の快楽は娘の成長とともに断たれる運命にある。
男性はそれを再び女性の体に求めることができるが、女性はできない。レズビアンを実験的にやってみたことはあるが、その時すでに私はもう女性の体に何を求めたらいいものかわからなくなっていた。