◆おしたじ

恵比寿さま

江戸時代を舞台にした時代小説を読んでいると、必ずぶち当たる壁が、方角と時刻、そして通貨制度だ。これが慣れないとけっこう面倒なんである。例えば暮れ六つとか、戌亥の方角で火事が発生、立ち食いそばが十六文、飲み屋の支払いを二朱金で払ったとか、生半可の知識だと、話が中々先へと進まない。そこで、おさらいとなったわけだが、興味のない人にはまったくつまらない話だから、飛ばし読みしてちょうだいね。

子を北として右周りに、丑、寅、卯と続いていく。卯が東の方角、従って丑はやや北よりの北東ということになり、ちなみに丑と寅の間である北東は鬼門の方角とされていた。昔の時刻の呼び方は、現代でも色濃く残っており、例えば「正午」は午の正刻を略したもので、午前、午後は午の刻の前後ということだ。他にも、草木も眠る丑三つ時、丑の刻(とき)参り、お八つなどがある。 年がら年中、ということを表す言葉として「四六時中」というのがあるが、江戸時代にはこの言葉、「二六時中」と言っていた。江戸時代は一日が2×6=12刻だったからだ。 

さて、江戸の時刻法だが、基本的にはまず、一日を十二分し、午前零時を基点として十二支を当てはめる。時刻を数字で呼ぶ場合は、子の正刻を基点として九つとし、次の丑の正刻では9×2=18の十の位を省いて八つ、寅の正刻では9×3=27の十の位を省いて七つ、以下同様に六つ、五つ、四つと一刻毎に減らしてゆき、午の刻には九つに戻る。間である丑の初刻を九つ半、寅の初刻を八つ半と言った。一日に同じ数字が2回あるので、例えば、六つは明け六つ、暮れ六つなどと区別して呼んでいた。

江戸の通貨制度では、1朱は100文、8朱が1分、4分は1両小判、大判は8両に相当した。文はビタ銭、朱は銀貨、分と両は金貨だった。時代劇を見ると、もらった小判をよくかじっているのを見かけるが、あれは金か贋金かを見分ける手段だった。いってみれば、現代の感覚に置き換えると、1文が10円玉、1朱が100円玉、1分が千円札、1両が5千円札といった感じかな。

江戸っ子はごく当たり前のように醤油のことを、「御下地−おしたじ−おしたぢ」といっていた。これは「常陸の国の醤油」、「お常陸 おひたち」が転じたものとされている。江戸時代、野田、銚子と共に土浦も醤油の生産が盛んだった。大辞林によると、「おつもり」とは「酒席で、その杯限りで終わりにすること。また、その杯」とある。「これで今日は終つもりにしよう」などと使い、もちろんその時点で徳利の酒は空になっているわけで。