誰かの所業

今日も仕事。そして、転職活動再開、求人応募。

誰かのお土産の菓子、フロアの全部署に配られていて、自分の机にだけ置かれていなかった。単なる意地悪なのか存在感が薄いからスルーされたのか分からんがまあ別にいい。舐めやがって。

ある程度、殺気立ってくるとようやく自分らしさが戻ってくる。

ゴールデンワーク

大型連休はありません。5月も週休1日です。

勉強せずにFランク大学から履歴書を殴り書きして底辺販売会社に就職したから当然です。

まあ勉強して役人勤めでも激務なことはあるだろうが、役人は休出手当てや残業代をガッポリ貰えるでしょう。

どうせ50年後には永久に休んでいるのでどうでもいいです。

それにしても世の中の人間は生まれる日も死ぬ日も皆、バラバラなのにどうして同じ日に休みたがるのだろうか。

 

憂鬱

ゴールデンウィーク(大型連休)はない。日曜日のみ免業日である。

相変わらず仕事はサボりながら、楽しくはない。

仕事がつまらない→辞めたい(辞意)→転職先を探す(転職活動)→見つからない→仕事がつまらない

ここ10ヶ月間、このループである。

それでも自分のルールとしては次を決めてから辞めたい。性格上、無職になれば無為に耐えられず妥協して転職してさらにヤバい職場に行きかねないからだ。

現状は仕事中なのに無為に耐えているが、給料を貰えているのだから耐えられる(たまに発狂しそうにはなるが)。

 

話題を変えよう。

最近のマイブームは辻仁成SNSを見ること(良いことが書かれている)とダイアンのラジオを聞くこと。今一番好きな芸人はダイアンだろう。昨今は地下芸人の躍進が目立ち、濃度の濃い地下室の空気をまとった芸人が多過ぎるが、ダイアンにはそれがないからいい。

 

人間は日々楽しいと思える「快」を探す必要がある。好きな芸人であれ好きなブログ好きな食べ物好きな書物、ルーティンであれ、何であれ。憂鬱に対抗するにはそれしかない。

 春、この弛緩した空気が苦手である。暖かな陽気に促され、緩慢な動きをする老人たちは外へ飛び出し、徒歩で、自転車で、彼方此方から筍のように飛び出してくる。自動車事故が多い四月。弛緩は、破滅と隣り合わせである。

 

 相も変わらず、とある混合物の営業(見習い)を続ける私であるが、進歩もなく、やる気もなく、頭の中に膜が張っているようで何の張り合いもなく、これも一種の破滅へと通ずる道のりを歩んでいる気がしてならない。

 

 自分は変なところを歩いているようだ。自分が歩くはずではなかった道を歩いていると、虚しい気持ちに捕らえられることがある。

 そして毎日滑って転ぶ。生半可な気持ちで歩けば足を滑らし、泥にまみれる。

だがその様子を誰も見ていない。立ち上がって進みもせず、引き返しもせず呆然としている。

 疲労で得られる旨い飯も喰えず、身の置き所を失い、自尊心を傷つけられた。うろうろ車で走り回り、インターネットカフェで金銭を浪費した。

 百年後に死んでるとはいえ、もう既に死んでいる感覚を持たせられるとは。実につまらない思いで生きている気がしてならない。

復興見舞

取引先のある被災地へ遥々と復興見舞い。

道中、悲惨な光景が幾度も目に入る。

 

ただ一切は過ぎて行きます。

転職はできず、妥協して現職に就いたまま。

衣食住があれど悩みは尽きない。営業は無理であろうなどと考えることに草臥れた。結句、考えることを止め、感じることにした。

考えることを放棄するので、このブログをまた暫く放置します。ではまた。