6月最後の週末はひとり京都。
例によって研究室でも過ごしましたが、24日(土)には、京都国立近代美術館の「藤田嗣治展」に行きました。
生誕120年にあたり、日本初公開20点を含めて、約100点を展示。
「生涯を網羅したこれほどの規模の回顧展が実現するのは日本でもフランスでもはじめての機会」という宣伝文句にふさわしい、見応えのある企画でした。



朝10時の開館直後に入ったのですが、大勢の人出でした。それでも、話題の展覧会だけに、東京だったらもっとたいへんな混雑だったろうと思います。
京都に暮らすメリットの1つに、こういう価値あるイベントでも、まずまずゆっくりと観ることができるという余裕があげられます。


「カンバスその物が既に皮膚の味を与えるような質のカンバスを考案する・・」と藤田自身が書いているように、白磁をおもわせる柔らかい透明感、「なめらかで光沢のある画布」は、いくら観ても見飽きない魅力があります。


・ 彼は,戦前・戦中と日本に帰国。その後、1950年に再びパリに行き、2度と日本に戻らなかった。

・ 1955年にフランス国籍を取得、59年にはカトリック受洗、68年81歳で死去・・・・。とすれば、「藤田嗣治展」ではなく「レオナール・フジタ展」と銘打つべきではないのか

・ 最初のパリ滞在の1920年代、出品した絵がすべてサロン・ドートンヌに入選し、会員に選ばれたころ、彼は画布に「(藤田)嗣治・T.Foujita」と署名している。再渡仏以降の絵からは、日本語の署名は消えている。

・ 「藤田がなぜフランス人になったか、これまた日本では大きな話題になった事件である」(カタログの解説文)そうだが、日本では二重国籍を認めないから「事件」になるので、彼自身はさして深刻に考えなかったかもしれない。単純に、日本での人間関係に疲れ、パリの自由な空気を選び取ったのかもしれない。

・ 国籍上はフランス人でもあり日本人でもあるという存在があってもおかしくないのではないか?(日本はこういう考えをみとめない。フランスはOK)

・ それとも彼は、フランス人としてのアイデンティティを自ら引き受ける確信を抱いたからこそ、国籍を取得したのだろうか?

そんな、さまざまな雑念とともに、館内を観て歩きました。