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2011-11-27

IT部門に変革を促す提案とかを求める前に考えるべきこと

id:gothedistanceさんのブログをみて、”経企部門が吐露する「システム部門への不満」”という記事を読んで見た。コンサルタントの書いた提灯記事っぽいのであまり突っ込みすぎるのもどうかと思うが、自分の仕事に遠くない内容が多いのでいくつかコメントしてみたい。


本記事では経営層がシステム部門に対して何を期待しているかを聞くために、下記の通り経営企画部門に対してインタビューを実施している。

この問いを検証するために、経営層に一番近いポジションにある経営企画部門に対して匿名インタビューを実施し、システム部門に対する期待と不満をざっくばらんに話していただいた。

経企部門が吐露する「システム部門への不満」 - システム部門再生:ITpro

まず、経営企画部門に聞くというのが間違っている。 経営者が何を求めているかを確認するのなら、経営者のところに行かなければならない。経営企画部門というのも経営者の下の一組織に過ぎなく、IT部門に上位にあるわけではない。結果として、この記事は経営企画部門からIT部門への責任のなすりつけみたいなことが起きてしまっている。本記事ではIT部門に対する「経営層の不満」が3つあげられているが、これは「経営企画部門の不満」と読み替える必要がある。


経営層の不満(1) なぜ事業戦略の遂行にもっと関与できないのか

当たり前のことではあるが、システム部門が「ビジネス/業務への貢献」を十二分に果たすには、自社の事業そのものに対する理解を深めるとともに、それらの遂行に積極的に関与することが重要になる。

経企部門が吐露する「システム部門への不満」 - システム部門再生:ITpro

事業戦略遂行が何を指しているのか記事を読んでもよくわからないのだが、一般的な意味で考えるに事業戦略を遂行するのは飽くまで事業部門であり、それをIT部門に求めるのは酷だろう。自社のビジネス、事業環境などへの理解を求めるのならわかるが、遂行までIT部門に求めるのは適切ではない。

CIOに経営会議で事業戦略などについて意見することを求めるというのもそれはそれでありだと思うが、それはIT部門ではなく、CIOに求めることだ。一経営陣であるCIOとIT部門を同列に考えてはいけない。


経営者の不満(2)なぜ変革を促すような提案を積極的にできないのか

システム部が予算を持っていないことが原因の一つと言いつつも、保守的な提案ではなく、もっと変革につながる提案を期待する意見が出た。

経企部門が吐露する「システム部門への不満」 - システム部門再生:ITpro

これも良く聞く話だが、その会社がどのような組織形態をとっており、経営者が誰に変革を促すような提案を期待しており、それに応じて予算をどのように配分しているか、が重要であり、予算の問題を解決せずに「IT部門からの提案が足りない」とみりみり締め上げても無理がある。

本記事で紹介されているJUASの”経済産業省による「企業のIT投資動向に関する調査」”の中で、調査対象企業がどのようなIT部門の組織形態をとっているのか、という興味深い調査がなされている。

f:id:ktdisk:20111127043005p:image:w600

上記で示されている開発・運用部隊に「変革を求める提案を」と言っても酷だ。組織の中で、戦略・企画を担っているのは誰で、そこに適切な人材と十分な予算が配分されているかが重要であり、提案内容の質の議論はその後であるべきだ。


経営層の不満(3)なぜ成果に対する説明責任を果たせないのか

 A社では、システム投資に対する事前評価、事後評価を実施している。ただし、そもそもの評価方法に対する理解や合意が十分にできていないがゆえに、経営層に成果を十分理解してもらっていないのが実情という。

経企部門が吐露する「システム部門への不満」 - システム部門再生:ITpro

この疑問が何故IT部門に向けられるのかが、私には今ひとつわからない。自社の事業戦略遂行を支援するシステムであれば、事後評価というのは事業部門を中心になされるべきではないのだろうか。経理業務・システムを見直すことにより、決算の早期化を目指すプロジェクトであれば、実際に決算が何日に締まったかで評価をすべきだし、サプライチェーンの統合によりリードタイムを短縮することを目標としたプロジェクトであれば、実際にリードタイムがどれだけ短縮したかで評価をすべきだ。

「経営層に成果を十分理解してもらっていないのが実情」とあるが、経営者や事業部門の人間がITの活用を重要な経営課題としてとらえていないから、こういうことがおきるのではないだろうか( もちろんIT部門にも問題はあろうが・・・)。


私は外資系の企画部門に属し、日々外人のIT部門の人間から「この要望のBusiness Justificationは何だ」とか、「優先順位付けをするから定量的なBusiness Impactで説明しろ」とか言われている。「お前ら言う割りにBusiness Justificationを理解するほど、日本の事業環境についての知識ねぇだろ」とか、「定量的な数字をだしたのに、よりBusiness Impactの低い北米の要件の方が優先されているだろう」とか、私もIT部門に言いたいことは100個くらいある。ただ、私の勤める会社の場合は、変革をもたらすようなアイデアは事業部門からだされて、IT部門はあくまで最新の技術動向や自社のITの方針を踏まえて実現方法を一緒に検討し、それを適切なテクノロジーで導入するパートナーであるという位置づけがはっきりしている。IT部門には主要事業や主要経営課題ごとにBusiness Analystが配置されており、各事業部と開発・テスト・運用の部隊とのブリッジをしてくれている。それなりにうまく言っており、その大きな要因として十分なリソースと適切な人材がIT部門に配分されていることがあると思う。


上述したJUASの”経済産業省による「企業のIT投資動向に関する調査」”の中に面白い統計がある。”IT投資額の年商に締める比率の国際比較”というもので、要するに年間の売上に対して何%のIT投資がなされているかが、地域別に示されている。それによると、日本は1.03%、北米は4.31%、欧州は3.03%。即ち、北米は日本の4倍、欧州は日本の3倍の予算が割り振られているということだ。

変革を促すような提案をしろ、と言ったところで先立つものがなければ、適切な人材も確保できないし、今以上の仕事もすることもできない。もちろん、手元のリソースで最大限の価値を産むように努力はしないといけないのだが、自社の潤沢なIT部門の要員を見ると、こんな提灯記事で色々言われる日本企業のIT部門を不憫に感じてならない。

2011-11-03

ありがちな「キャズム」の3つの誤用

ジェフリー・ムーアの『キャズム』を今更ながら読んでみた。

キャズム

キャズム

「キャズムを越えた、越えない」とかいう話がどうも軽薄で胡散臭く聞こえ、勝手に敬遠してたのだが食わず嫌いはよくないと思い、この度手にとることにしてみた。読後にまず感じたのは「『キャズム』って結構いいことを言っているのに、世の中で誤用されていることが多いなぁ」ということ。書評は別に書くとして、本エントリーでは自分の中の整理も込めて、世で誤用されるキャズムの典型例をあげてみたいと思う。


新しいもの好き、マニアだけでなく、一般層に普及することを「キャズムを越える」という

これは最も多くある誤用なんではないだろうか。イノベーター、アーリーアダプター、アーリーマジョリティ、レイトマジョリティ、ラガードという分類はネーミングの妙で、直感的でわかりやすい。それが故に、ムーアの定義にこだわらず、誤用乱用されているケースが多い。単に「普及してきた」と言えば良いことを「アーリマジョリティ層に浸透してきた」とか、「キャズムを越えた」とか言われるているのを良く目にする。「普及してきた= アーリマジョリティ層に浸透してきた」では必ずしもないし、「アーリマジョリティ層に浸透してきた=キャズムを越えた」でも必ずしもない。ターゲットとする市場にアーリアダプター、アーリーマジョリティという顧客の分類があてはまるかどうかもわからないし、あてはまったとしてもその間に実際にキャズムはないかもしれない。単に「普及した」とか「ヒットした」という話なのか、本当に「キャズムを越えた」という話なのか注意して見た方が良い。


「全ての製品・サービスにキャズムは存在する」と考える

本当に革新的な製品・サービスが、自ずとその価値を認め活用してくれる顧客のみでなく、より受け身で保守的な顧客層に受け入れられる形でそれらが提供され(ホールプロダクトとして提供される)、浸透し、時代の流れを作っていく、それが「キャズムを越える」ことと私は本書を読んで理解した。そもそもキャズムというのは、本当に革新的な製品・サービスにのみ存在するものであり、どの製品・サービスにあるものではない

”なぜ、Facebookだけが、キャズムを楽々とこえるのだろうか?”という記事を見た。この記事では「実名制」がキャズムを楽々越える理由として紹介されているが私は違うと思う。「そもそもキャズムなんてそこにはないから」、それが理由と言えば理由と私は考える*1Facebookが弾みがついたように浸透しているのは事実だし、「実名制」が鍵となっているのも間違いない。ただ、それは実名制が響く顧客層にうまく訴求しただけであり、あんまりキャズムとは関係ない。mixiの匿名ユーザがFacebookにレイトマジョリティ、ラガードとして流れることはあるだろうか?市場や顧客層が違うのだからこれはないだろう。Facebookの流行をキャズム理論で捉えようとしているのが間違っているのだ。Facebookの「加速度的な」浸透を説明には、キャズム理論よりも、もっと単純にネットワーク外部性という考え方で見る方が遥かに自然だろう。


キャズムを如何に越えるかより、越えたかどうかに注目する

キャズムの理論というのは、アーリーアダプターとアーリーマジョリティは顧客層が全く違うのだから、それぞれの層に攻め入る時は異なるマーケティング戦略をたてなければならない、というのが肝だ。技術や考え方が革新的であれば、それを見つけ、自らその技術を活用して、自社の問題を解決するために骨身を削るアーリーアダプター層に売りつくした後に(もしくはその前に)、どうやってターゲットセグメントを決め、ホールプロダクトを構築し、販売チャネルを整備して、アーリーマジョリティ市場に食い込むのか、という議論が本書では延々とされている。ところが、世の中でキャズムが語られる時は、後付けで「越えたかどうか」を評価項目として使用されることが多い。で、また市場の16%(ジェフリー・ムーアが目安値として提示しているもの)を越えたかどうかのみを評価しているものも結構目につく。「越えたかどうか」ではなく、「如何に越えるか」が大事な点であることを強調したい。


有名なマーケティング理論である「キャズム理論」によると、発売されて間もない時期に購入するイノベーター層(2.5%)、次いで情報感度の高いオピニオンリーダーと呼ばれる層(13.5%)が購入し、この2つの層の合計である16%のシェアを超えるか否かがヒット商品になるかならないかの境界線(キャズム)であるとされています。・・・<中略>

キャズム理論(イノベーター理論)では、シェア16%の壁を超えてヒットするには、上述のような「オピニオンリーダー層」にいかに支持されるかが重要だとされています。

【コラム】調査データから見えるマーケティングのヒント (6) スマートフォンは「ケータイ」を超える大ヒット商品となるか? | ネット | マイコミジャーナル

というような記述を読んでも以前なら「ふーん」という感じだったが、読後に読むとひっくり返ってしまう。申し訳ないが、どこをどう直したら良いのかわからない程、間違えだらけ。「本を読んでないし、自分は誤解しているかもしれない」と感じた方、ここ十年で注目を浴びているだけあり、とても勉強になるので是非ご一読を。

*1:そもそもシェアが16%を越えたら「キャズムを越える」と考えている点で間違っている

2011-10-20

『ソフトウェア企業の競争戦略』 製品で儲けるか、サービスで儲けるか

『ソフトウェア企業の競争戦略』を読んだので書評を。

著者マイケル・クスマノはMITスローン経営大学院の教授で、ソフトウェア・インダストリーの大家。長年にわたるソフトウェア企業へのコンサルティング、並びに研究の集大成が本書にまとめられている。本書のテーマは多岐にわたるが、あえて1点にポイントを絞れば「ソフトウェア企業は製品で儲けるべきか、サービスで儲けるか」という点に集約できる。


ソフトウェア企業をライセンス収入で儲ける「製品企業」、製品に付随する導入・保守などのサービスで儲ける「サービス企業」、その2つを兼ね備えた「ハイブリッド企業」の3種類に大別し、それぞれの長所と短所が紹介されている。アクセンチュアやPwCコンサルティングのような会社が「サービス企業」と位置づけられ「ソフトウェア企業」にみなれていることに若干の違和感は覚えるが、視点は斬新で面白いし、ソフトウェア業界を俯瞰する上で便利な視点であると思う。


本書ではソフトウェアビジネスに関わる原理原則がいくつか紹介されている。その中でも「製品企業」の構造的な脆さについての考察は全てのソフトウェア企業が認識すべき重要な視点である。「製品企業」は、ベストセラーを出すことができれば、非常に早い速度でマーケットを制覇することができ、また通常のビジネスでは考えられない程の高い利益率を実現することができる。ただ、その反面、時間の経過と共に製品がコモディティ化したり、市場の成長が鈍化したり、低価格の競合製品が現れたり、経済環境が悪化の影響をダイレクトに受ける、などの「長期間覇権を維持するのが困難な構造的な脆さ」があると筆者は指摘する。マーケットのサイズは決まっているため、一度市場を席巻するとそれ以上に拡張することは大変困難であり、アップグレード製品の提供などでライセンス収入を拡大しようとしても、当初の成長率を維持するまでには至らない。もちろん、マイクロソフトやアドビのような長きにわたって「製品企業」の旨味を享受している会社もあるが、クスマノはこの2社はあくまで例外であり、一般的な「製品企業」は、ライセンス収入からえられる売上・利益は時間とともに減っていくことをデータと共に本書で紹介をする。


そして、上記と対となるもう一つの原理原則が本書では紹介されている。それは、サービス・ビジネスを立ち上げることが、製品のコモディティ化、市場の鈍化、経済環境の悪化の波を受けながらも、安定した売上を確保するのに最も有効な手段であるということ。本書ではOracleSiebel、 Business Objectsなどのソフトウェア企業の、製品とサービスの売上推移が紹介されているが、どの企業にも年をおう毎に製品の売上が下がっていき、サービスの売上が上がっていくという傾向をみることができる。サービスは労働集約的であり、利益率は製品と比較すると非常に低いが、保守、カスタマイズなどのソフトウェア・サービスは継続的かつ安定した収益の基盤となり、ライセンスからの収益の波を吸収してくれる。そして、継続的にサービスを提供できるようなロイヤルティの高い顧客基盤を作ることの重要性を筆者は強調する。


製品主体か、サービス主体かという切り口は色々なところに応用ができて面白い。本書では販売チャネルについてはあまり触れられていないが、ここにも筆者の切り口を応用できる。「製品企業」であれば、自社に大きな営業部隊を持たず、パートナーを経由して販売をし、少ないSGAで効率的に売りさばくことができる。だが、その反面、ロイヤルティの高い顧客を自社に囲いこむことはしずらいし、新しい製品がでた時にそれを市場に浸透させるということはしにくい。「サービス企業」であれば、「製品企業」と比較し、パートナーと立ち上げるのは手間も時間もかかり、かつサービスビジネス自体がパートナーに吸収され、自社に落ちてこないことが多くなるので、自ずと自社営業部隊を多くもたなければならない。ただし、自社にロイヤルティの高い顧客をそれによって囲いこむことができれば、好不況の波を乗りきることができるし、新しい製品をリリースした際にそれを購入してもらうこともずっとしやすくなる。


本書は出版されたのが2004年であるため、その内容、及び取り扱うトピックが若干古いことは否めない。例えば、SaaSオープンソースサブスクリプション・モデルなどについては殆ど触れられていない。但し、提供される切り口は普遍的で、本書で提供される筆者の視点を元に、SaaSオープンソースサブスクリプション・モデルのようなソフトウェア・ビジネスの新しいモデルを考察することは十分に可能である。日本語訳で445ページとかなり読み応えがあるが、ソフトウェア企業に勤める人には是非手にとって頂きたい一冊。

2011-10-08

スティーブ・ジョブズ氏の訃報に寄せて

今年は原因不明の消化管出血を患い、検査のために病院に通う日々を一時期過ごした。「お前は若いから癌なら進行が早くポックリいく」なんて激励を周囲から受けつつ、可能性としてなくもないよなぁと死について考える貴重な機会をえた(幸いにも癌ではなかったが)。


死を意識すると「自分の生きた証」って何だろうってことを考える。難しいテーマで、未だにはっきりと答えは見つからないが、「自分が存在した世界」と「自分が存在しなかった世界」の「差」が「自分の生きた証」なんじゃないかと今は思っている(そのまんまではあるが・・・)。


友人、知人、同僚、お客様、そんな人達に自分は何か「差」を残すことができてるのだろうか、ブログを書き散らし、それを読んで頂いている人たちに何か「差」を作ることができているのだろうか(最近全然更新してないが・・・)、何てことに思いを巡らしつつも、確かに存在するわが子は私の「生きた証」であり、はっきりと「証」があることに幸せを感じる。


先日スティーブ・ジョブズ氏の訃報を受けた。強いショックを感じたし、「早すぎる・・・」ととても悲しい気持ちにもなった。でも、「ジョブズ氏のいた世界」と「ジョブズ氏のいなかった世界」の「差」、彼の「生きた証」に思いをはせると、ショックとか悲しさという感情は自然と消え、ただただ「お見事」という尊敬の念が湧きおこる。


数え切れないくらいの「差」を世界に残した素晴らしい人生を全うしたジョブズ氏。お疲れ様でした。


心よりご冥福をお祈りいたします。

2011-08-10

『昭和16年夏の敗戦』 日米開戦という意思決定とその失敗の本質

猪瀬直樹(@inosenaoki)の『昭和16年夏の敗戦』を読んだので書評。

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)

十六年夏、彼らが到達した彼らの内閣の結論は次のようなものだったからである。

十二月中旬、奇襲作戦を敢行し、成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、しかし、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、終局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから日米開戦は何としてでも避けねばならない。

『昭和16年夏の敗戦』 〜第二章 イカロスたちの夏〜

太平洋戦争での日本の敗戦は昭和20年夏。その4年も前に、日本とアメリカとの戦争がいかなる終結を迎えるかが予測されていたという。その予測を作成したのは、日本中のエリートが集められて設立された総力戦研究所。『昭和16年夏の敗戦』は総力戦研究所に招集された30代の精鋭たちが如何に日本必敗という結論を導きだしたのか、そして日本という国がそのような分析もある中で、真逆の日米開戦という決定に如何に踏み切ったのか、が描かれている。


本書の読みどころは2点ある。一つ目は、日本が如何にアメリカとの戦争に突入していったのかという史実を学ぶという点。本書を読む前は、日米開戦は軍部の暴走と独断専行により勢いのみで決定され、それを中心となり推進した人物が軍部出身の内閣総理大臣である東条英機、というような理解をぼんやりしていたのだが、それが全くの間違いであることを本書を通して知り、歴史認識を改める非常に良い機会となった。


総力戦研究所では総力戦を「長期戦を予期すべき国家間の戦争において武力対武力の抗争のほか、あらゆる手段を尽くして相手国を屈服させるための諸方策」と定義し、戦争を進める上で不可欠となる石油の需給を詳細にシミュレーションし、日本という国が総力をあげてアメリカとどれくらいの期間戦争ができるのかを算定していく。「社会を知らない学生のように性急で観念的でもなく、熟年世代のように分別盛りでもない」三十代の知性が導き出した試算は、結果として非常に高い精度をもっていた。彼らの正確なシミュレーションは当時の東条英機内閣に提示されるにいたるが、その提案が受け入れられることはなかった。「戦闘機に対して竹槍でつっこむような無謀な戦争」と後付けで言われる戦争に突入する前に、その実証研究が実は内閣に提示されていたという事実は興味深い。

総力戦研究所とは別に企画院という組織が石油の需給バランスを同じくシミュレーションするのだが、こちらの方は「戦争をやる!」という勢いにのまれたつじつま合わせの数字が提示され、結局日本はこの数字を元に日米開戦に踏み切ってしまう。著者がまだ存命の企画院総裁の鈴木氏に当時の模様を詰め寄るようにインタビューするシーンが本書に登場するのだが、その箇所は圧巻。委細はここでは紹介しないが、是非本書を手にとって読んで頂きたい。



二つ目の読みどころは、小説でありながら「意思決定」ということについて重要な示唆を提供してくれる点。本書は「大日本帝国憲法」上で定義される「統帥(大本営)」と「国務(政府)」という2つの機能を解説しながら、軍人と政治家がどのように「日米開戦」という意思決定をしていったのか、その失敗の本質はなんだったのかを描いている。東条英機は内閣総理大臣として、そして天皇の意思を受け、開戦を止めようとするのだが、「国務(政府)」という機能しか担わないため、満州事変、日中戦争などの過去のしがらみに縛られる「統帥(大本営)」を押さえることができない。「統帥(大本営)」と「国務(政府)」という機能の分離によりおこる意思決定の機能不全の結果、日本は「国家の最高の政治的意思決定」であるべき「開戦」という行為を最終的な意思決定者不在のまま、事務手続き的に進めていくこととなる。「仕組み」に不備があり、その「仕組み」を乗り越えてリーダーシップを発揮する能力を保持する人がいないと、こんな大きな誤りをこんな簡単に起こしてしまうものなのかと、意思決定のための「仕組み」作りの重要性を再認識するにいたった。


また、「数字」という意思決定をする上で重要な客観的指標についても、下記のような非常に興味深い指摘がなされている。

数字というものは冷酷だと、しばしばいわれる。数字は客観的なものの象徴であり、願望などいっさいの主観的要求を排除した厳然たる事実の究極の姿だと信じられているからである。数字がすべてを物語る、という場合、それはもはや人知を超えた真理として立ち現れている。数字は神の声となった。

しかし、コンピュータが、いかに精巧につくられていても、データをインプットするのは人間である、という警句と同じで、数字の客観性というものも、結局は人間の主観から生じたものなのであった

『昭和16年夏の敗戦』 〜第二章 イカロスたちの夏〜

外資系企業で日々データと格闘している私にはこのポイントが痛い程わかる。数字が重要ではないとは言わないが、

  • 数字を選び、選ばれた数字に対して重み付けをするのはあくまで主観であり、数字が自体が客観性の究極の姿にはなかなかなりえない
  • 人間というのは、「不都合な真実」をきちんと直視し、常に客観性を保って行動できるほど強い存在ではない

という2つの点も 同時に理解した上で、「数字」に向き合わなければならない。このたった2つのことが理解されていなかったが故に、300万人もの命を失う戦争に日本は身を投じてしまった。私自身が戦争を始めるかどうかの意思決定をすることなどありえないが、日々「数字」と向き合っている中で、事実に真摯に向き合う姿勢を失えば、ビジネス上の大きな失敗など簡単におきうる、ということを再認識するにいたった。


以上、長々書いたが、日米開戦という日本の歴史にターニングポイントを学ぶ、そして「日米開戦」という意思決定の失敗の本質を学ぶ、という2点で本書はとてもおすすめ。8月15日も近いことだし、まだ読んでいない方は夏休みの課題図書に是非加えてはいかがだろうか。

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