「慣れる」と「構造化」

私が普段から常々強烈に思っていることの一つに、「慣れほど恐ろしいものはない」というのがある。で、その「慣れ」とは何か、ということをつらつら考えているときに、ふと構造化に問題があるのではないかと思った。というか、ことによると当たり前かもしれないが。「慣れ」というより、「マンネリ」のほうが分かりやすいかもしれない。「マンネリ」はどういう仕組みで起こるか。一つ考えてみたことには、例えば、面白い噺家の漫談を何度も聞いた場合、最初は面白いが、だんだんと面白さが薄れてくるようになる。それは一つのギャグを何度も聞き続けた場合はもちろんだが、毎回違う内容の話をしていても、話の「傾向」が分かってきてつまらなくなるということがある。問題は、この「傾向」である。つまり、私たち聞き手は、無意識のうちに話の中の類似した部分を読み取り、話の内容あるいは話し方を「類型化」して解釈しているということだ。そうした類型化=構造化によって、話のパターンが読め、それによって次にされる話が予想できる。予想できるから面白くなくなるのである。
このように、私たちの絶え間ない無意識の「構造化」の努力によって、「慣れ」は起こる。そして、今までにも何度か言ってきたように、慣れるということは非常に絶大な効力を持っていると思う。例えば、極限状態の中で気が触れるということがあるが、あれを一種の慣れと見なすならば、極限状態にシフトするベクトルと同じ大きさの逆ベクトルを「慣れ」は持っていることになる。
ま、最後は例によって論理を飛躍させてみるが、絶え間ない構造化こそ、現実主義的認識に欠かせないものである。しかし、人はイデオロギーによく見られる理想主義によって、そうした無意識の構造化の結果をゆがめられてきたのだとすると、このイデオロギーイデアリズム=理想主義とは、現実主義認識の基盤をなす「構造化」と同等の効力を持っているものだと言えるのではないか。ならば、理想主義を支える認識の論理とは如何に?ニーチェ的に言えば、弱者道徳が契機なのだろうが、それとは違う見解は出せないものであろうか。また追々考えてみることにする。

ピレンヌ・テーゼ

アンリ・ピレンヌ - Wikipedia
ピレンヌ・テーゼという言葉を事典で見つけたので、どういうことか聞いてみた。その解説によると。従来、世界史においてヨーロッパ中世が形成されたのは、ゲルマン人の大移動によって古代(=ギリシア・ローマ世界)が終焉したからだと考えられていた。しかし、ローマ帝国は一気に外敵の侵入によって滅んだのではないし、ゲルマン人自体がローマ帝国=教会の枠組みの中に組み込まれていたことを考えれば、ゲルマン大移動は西ローマ滅亡の原因とはなっても、古代世界から中世へ移るはっきりとした契機とは言えない。実際、西ローマ滅亡後にゲルマン人によって建設された諸王国同士でも、交易などの商業運動は保たれていた。
これが大きく変動したのは、西アジアにおけるイスラム勢力の勃興によると考えられる。イスラム世界はムハンマドの出現によって急速に形成された。イスラム勢力はトルコから中近東、さらにはイベリア半島にまで勢力を広げた。その結果、西ヨーロッパ勢力が掌握していた交易の要である地中海がイスラムの手の及ぶところとなり、交易が閉鎖的に行われるようになった。軍事的には、イスラム勢力は東西ヨーロッパ勢力を圧迫し、ビザンツの聖像禁止令などを誘発し(イスラム偶像崇拝禁止に対抗するため)、東西ヨーロッパの分断を決定づけた。その結果として、団結の必要に迫られた西ヨーロッパ勢力は、文化的トップであるローマ教皇が、最も強い勢力であったフランク王国カール大帝シャルルマーニュ)への「戴冠」という形で一体化したのである。それら諸要因によって封建制度を軸とする中世ヨーロッパが完成する、というのがピレンヌ・テーゼらしい。
ただ、これには反論も多く、イスラム世界で活躍するムスリム商人の活動によって交易は維持できたのではないかという話などがある。しかし、異文化の侵入という最も大きなインパクトをヨーロッパ世界に与えたのは、間違いなくイスラム勢力であり、ここに「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」というピレンヌ・テーゼの象徴的字句は明証されるのである。最初は何となく解説を聞いていたが、テーゼの全貌が見えてくるにつれ、私は若干の身震いを伴うような衝撃を受けたのである。世界史とは実に面白い。