『SS』 月は確かにそこにある 28

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 呆然と唇が離れるのを見ているという、間抜けというよりも腑抜けな俺の目の前で名残惜しそうに指で唇を抑えているのは誰だ? 今何をされた、なんて言う訳にもいかないほどに生暖かい感触が残っているにも関わらず、これは夢なんじゃないかと思えた。何故かって、俺がキスしたのは夢の中での一回であって、それはお互いにノーカンというか夢だとあいつは思ってるわけで。それがいきなりの現実世界でのファーストキスは男相手だなんて、いや今は女なのだが。
 とにかくどうなっているんだ、何で俺は古泉にキスされたんだ? それよりもハルヒの願いは何だっていうのか、古泉が何を考えていたのか、いやそれより唇の感触が忘れられそうもないなんてどうにかしてるぞ俺の神経! いかん、何の話をしていたのかも分からん、古泉はこれを狙っていたのか? ってキスする必要なんかないだろうが! 
「そんなに焦らなくても私の想いは伝えましたけどね。単に涼宮さんの先を越しただけですし」
 いや冷静に言うな、というかハルヒの先って何だ。キスしたことで開き直ったのだろうか、古泉は笑顔のままで余裕すら感じられる。
 頭が痛い、もう許容量は既にオーバーしてるのにまだ詰め込まなきゃならないのか? テスト前だってもう少しは楽なんだ、徹夜もしたことないからな。
「…………先程の行為の真意を尋ねたいんだが?」
「おや、冷静ですね。もっと取り乱すかと思ったのに」
 お前が泣き顔のままなら俺は焦りまくってたんだけどな。そのニヤケ面は男でも女でも俺の心を一気に冷ましてくれるよ。
「それに涼宮さんの心が分かったから、ですか?」
「ノーコメントだ。さっきも言ったが、もしもハルヒがそう思うなら直接俺に言えばいい。こんな回りくどいやり方はあいつらしくないだろう」
 それだけだ、そう言うと古泉の余裕の笑みが消えた。
「流石に涼宮さんの事となると貴方よりも分かっている人はいないという訳ですか。では、私の気持ちはどうなるんでしょうね?」
 それについても言う事は一つしかない。
「俺は泣きそうな長門有希を見た。それでも俺は古泉一樹、お前と一緒にハルヒの元にいる。それが答えだ、それをお前も望んだんだろ?」
「…………完璧な回答ですね」
 これだけで分かる関係というのも何だろうな。だがあの俺の居ない数日間をハルヒと共にお前も過ごしたよな。その時、お前は俺が戻ってきたことを喜んでくれた。少なくとも『機関』としてではなく古泉一樹として、そう言ってくれたはずだ。
 そんなお前が何故ここまでして、と言いそうになったのを俺は喉の奥で飲み込んだ。理由などは後から分かるものかもしれないが、古泉にだって長門のような事情はある。それは朝比奈さんも同様かもしれないが、今回はたまたまこいつだった。それだけだと思うんだ。
 少しだけ俯いた古泉が尚も俺に問いかける。
「諦めろ、と?」
「違うな、この世界の俺なら何とかするかもしれないってだけだ。俺は自分のところだけで精一杯なんだよ」
 そんな答えを望んでいるとも思えないが、長門の時だってそう答えれば良かったのかもしれない。あっちの世界の俺と長門は顔見知りではあったようだしな。こっちの世界だってSOS団があるのなら俺も嫌々ながら耳にだけは入れてるだろう。
 すると古泉は俯いたままクスクスと小さく笑い、
「丸投げですか、あなたらしくもない」
「丸投げじゃないだろう、苦労するのはどっちにしろ俺だ」
 そのやり取りで充分だったのか、顔を上げた古泉は仮面ではない笑顔だった。
「分かりました、今はそれで納得するしかないのでしょうね。こちらの貴方がどのような人物かは分かりませんけど」
 どこにいても俺は俺さ、お前らのような突拍子も無い連中と一緒にされたくはないね。そう思ったので肩をすくめた。
「それよりも時間が無い。森さんから聞いてるだろ? 転校の話だ」
「分かっています。だからこその先程の行為だったのですから」
 やはり確信犯か、だがもうそれはいい。時間が無いのは事実で、チャンスは一度しかないのだから。
「明日、喜緑さんと会長に北校まで来てもらう。森さんと新川さんもだ、他の人間は恐らくいないと思う。SOS団のメンバーは今回は除外していいようだからな」
「なるほど、私の記憶にはありませんが鍵となるのはその方々ですか。それで場所は北校でいいのですか?」
「俺の勘が当たっていればな。お前の行動範囲を全て知ってる訳じゃないが、俺の知る限りでは候補は一箇所しかない」
 確信してるって程じゃないが間違いはないだろう。後は時間帯の問題だな、ということで、
「SOS団の活動までは普通に過ごす。そこからが勝負だな、まあ後は似たようなもんだと思う」
「そうですか、そこまで分かっているなら後は私は従うしかないという事なのですね」
 そういう事だ。もう何を言おうが俺は進んでいくしかない。但し古泉一樹を連れて、という前提の下でだ。
「了解しました。では、また明日」
 あっさりと了解してくれた古泉は何も言わず後にしようとした。流石に時間も時間なので送らなければならないか(見た目は女なのだから)と思ったのだが、目で制された。勿論この世界においても古泉の家など知らないというのもあるが、何より一人になりたかったのかもしれない。そして俺にそれを止める術などなかった。
 しかし、見送る俺に一度だけ振り向いた古泉は、
「明日………朝の事なのですが、」
 気まずそうに言うな。さっきまでの雰囲気が台無しだ。俺は大きく溜息をついた。
「弁当、親にはいらないって言っておいてやる。忘れんなよ」
 これだけで顔を輝かすな。では、と再度頭を下げて今度こそ振り返らず帰る女の姿を視界から消えるまで見送った俺は、小さくやれやれと呟いて自転車を止めたところまで戻ったのだった。
 何も考えずに自転車を走らせて、ふと見上げればもう月は中天に輝いている。満月なのかどうかは知らないが、まだ俺の目からは新円を描いているようにしか見えない月は玲瓏と地上を照らしていた。ああ、もう寒さが身に染みてくる。俺は自転車の速度を上げた。
 




 家へと帰ると親の小言が待っているかと思ったが、諦めたのかお咎めもないままに俺は無事に部屋へと戻る事が出来た。嵐の前の静けさかもしれないが、被害を受けるのはこの世界の俺なので今のうちに心の中でだけ謝っておく。
 今日は本来は休息日のはずなんだ、それなのに一日中出歩いた挙句に精神的な疲労だけが蓄積された止めに古泉のあの行動だ。うわ、思い出すんじゃなかった! よく冷静でいられたなんていうつもりはない、単にキャパシティを超えたから淡々とこなせただけだ。
 思わず枕に顔を埋めてこのまま窒息死してやろうかと思う。いや、その前にロープだ、天井から俺を吊るしても切れない太さの。もしくは拳銃でも構わん、怖くて自分では撃てないかもしれないから眉間に突きつけてもらうと助かる。いや、死ぬから助からないんだけど。
 とにかくさっきまでの俺は開き直った別人のようなものであって、本音を言えば恥ずかしさで死にそうなのだ。よりによって古泉だぞ?! しかも泣きながら微笑むなんて反則だ、その姿に見惚れたなんて屈辱的過ぎる。
 おかしくなってるんだ、古泉も。そしてあの古泉の顔を忘れようとしても忘れられない俺も。この出来事を無かったものに出来るというだけで戻る価値はあると思うぞ? どんなに言い訳してもだ。
「明日、明日なんだ………」
 そうだ、明日になれば全部終わりだ。俺達は元の世界に戻り、そして、どうなるのかはハルヒ次第なんだろう。だけどそれも戻らなければ始まらない。
 だから忘れさせてくれ、あの少女の涙を。その後の儚げな微笑みを。
 そしていつまでも残っている唇の柔らかく温かい感触を。
 目を閉じれば浮かんでくる幻影を払いのけるように俺は意識を遠ざけようと必死に眠りに付こうとしたのだった。




 羞恥のあまり眠れないかと思っていたが、いつの間にか意識を失っていたようだ。
 だからかもしれないが俺は失念していたのだろう。
 前に同じような状況に陥った時、俺は素直に元の世界には戻れなかったということを。それを思い出した時には既にもう遅かった、しかもこの時の俺はまだそんなことには気付いてもいなかったのだから。