KYのES細胞が癌化する。

[rakuten:book:13069077:image][rakuten:book:12728794:image]動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか『新潮』6月号に掲載されている川上弘美福岡伸一の「いのちのふるまいを記述する方法」を読む。(2009年3月25日・紀伊国屋サザンシアターにて)

福岡 私も川上さんの小説を読んで、いろんなことを考えさせられました。『どこから行っても遠い町』の表題作の主人公は、自分は何事も決めずにここまで生きてきたという人物ですが、ある時「でもそれは、違っていた」と気づく非常に決定的な場面がありますよね。妻にも娘にも愛人にも、何も決定的なことを言ってこなかったし、すべてを委ねて生きてきた。それにもかかわらず、自分が存在しているだけで、何かを決めていたんだと気づく。その場面を読んだ時、私はちょと震えてしまいました。
川上 どうもありがとうございます。
福岡 実は細胞の世界にも、それと同じことがあるんです。細胞は、受精卵が二つ、四つ、八つと分裂して増えていって、数百個ぐらいになった時、初めて自分がどんな細胞になるかを決めはじめます。つまり、細胞一つ一つは最初から自分の天命を知っていて、私は脳になる、私は肝臓の細胞だ、と決めているわけじゃない。指令書も持っていないし、誰かに命じられるわけでもない。では、どうやって決めるのか?実は前後左右の細胞とそれぞれ空気を読み合うんです。空気というのは喩えですけれど、隣り合う細胞同士が接していて、情報や物質を交換したり、細胞表面の凸凹を互いに差し出したりしてコミュニケーションをとって、「きみが脳の細胞になるならば、私は心臓の細胞になろう」「きみが皮膚の細胞になるなら、私は骨の細胞になりましょう」と文楽人形のパーツのように細い糸で結ばれながら、互いに他を律して、自分の分担を決めていく。
 この時期の細胞同士のコミュニケーションが、その細胞の後の人生を決めるうえで、非常に重要な鍵を握るわけなんですが、ここで、細胞を一個一個バラバラにしてシャーレに撒くと、その細胞はどうなるか? というと、前後左右の細胞がなくなって、互いに空気が読めなくなって、結局みんな死に絶えてしまうんです。つまり、自分が何になるかを決められなくて、死んでしまう。
川上 それを『動的平衡』で、読んだときは、驚きました。
福岡 そのことを、今から二十年位前に、何回も繰り返し実験した人がいたんです。すると、ある条件下では、バラバラにされた大半の細胞は死んでしまうのに、ごく一部、自分が何になるか決められないままに分裂だけはやめない細胞がありました。それが昨今、新聞紙上に盛んにでてくるES細胞です。つまりES細胞とは、自分が何者になるかわからないままに増え続ける、時間が止まった細胞なんです。つまり自分探しをしている永遠の「旅人」(笑)。
 このES細胞に「空気」を読ませると何かになるんです。別の受精卵からできた数百ぐらいになった細胞の塊の中に、自分探し中のES細胞を戻してやると、前後左右のコミュニケーションができ、うまく全体を折り合いをつけて、心臓になったり、脳や肝臓になったりする。何になるかは、細胞の塊のどのあたりに入ったのか、そこで周囲の細胞とどのようなコミュニケーションをしたかによって決まるので、その都度、まったくの一回性の過程を経ることになるんです。でも、わずかにタイミングがずれただけで、コミュニケーションができなくなってしまって、ES細胞は何にもなりきれずにどんどん増えて、ガン細胞になってしまう。
 ガン細胞というのは古くから知られていますが、一旦は肝臓の細胞に、あるいは脳や皮膚の細胞になったのに、ある時、自分自身を忘れて逆戻りして無個性になって、無目的に増え続けて、全体の仕組みを乱してしまう存在です。だから、ガン細胞とES細胞というのは紙一重なんですね。ガンの究極的な治療法があるとしたら、そのガン細胞に「きみはもともと肝臓の細胞だったじゃないか。正気に戻りなさい」と言って、その細胞がハッと気づいて肝臓の細胞に戻ることです。しかし、ここ百年、世界中の科学者が最高の知恵を絞って研究しても、今なお、自分自身を忘れたガン細胞に自分を取り戻させることはできずじまいなわけです。だから、ガンがコントロールできない程度にしかES細胞はコントロールできないわけでして、ES細胞にバラ色の夢を語り過ぎることに対して、私はもう少し慎重じゃないといけないなと思うんです。(p202)

ES細胞とガン細胞とが、同じ文脈、問題を抱えているとは知らなかったです。「細胞ちゃん」に「意味の世界」に立ち戻させることなんでしょう。この世と同じ「難点」を孕んでいますね。新潮 2009年 06月号 [雑誌]

福岡 これだけ不確定なことだらけの世の中で、唯一確実なのは、人は必ず死ぬということだけです。人が死ぬというのは生物学的に言うと、非常に利他的なんですね。だから死んで世代交代することが動的平衡、つまり新しい状態をもたらすことなので、絶え間なく入れ替わっているというのは、自分の体の中が入れ替わっていることでもあり、ガンを抱えながら生きているということでもあり、また、死んで新たな生命が生まれるということでもある。
川上 もし永遠に生きていたら、自分がガン化していることになるわけか。(p204)

僕の体は60兆個の細胞から出来ており、入れ替わり立ち替わりしているわけです。たった一つの受精卵が細胞分裂を少なくとも50回繰り返して、脳、肺、胃腸などの臓器をつくり出す。一生涯で臓器の細胞は数千回入れ替わると言われる。新しい細胞は毎日8000億個もつくられる。そりゃあ、DNAのコピーミスが起きて当然です。コピーミスが起こる(突然変異)と、細胞はとどめなく分裂を繰り返すわけです。健康な人の体でも一日にガン細胞は5000個も発生し、消えていく。「ガン抑制遺伝子」や「免疫細胞」(りんぱ球)の働きによって毎日、5000勝0敗の戦いに勝ち続けて健康を保っているわけです。
だけど、1敗して生き残ったガン細胞(スーパー細胞)の一つが倍々ゲームでゆっくりと分裂を重ね、10年から20年かけて1000万個に増殖すると1ミリぐらいの大きさになって、ガン告知されることになるのです。(参考:中川恵一『がんのひみつ』朝日出版)