言及いただきありがとうございます

id:kaikajiさんに、僕の映画『パッチギ』の拙い感想*1を言及いただきました。受け手の映画の解釈の違いがなぜ生まれてくるのかという点が非常に参考になりました。

 ただ、こういう微妙な問題だからこそ、井筒監督は、それを「ネタ」とも「ベタ」とも取れる余地を残しておき、それに関する事実認識の「正しさ」よりもむしろそこで生じる人間と人間とのぶつかりあいを描くことを上位におく、という表現方法をとったのではないだろうか。そして、そういった監督の姿勢に、僕としてはかなりの共感を覚えるのだ。

 こう考えてくると、この作品は育った地域・年代・知識量によって見方にかなりの温度差が生じる作品なのかもしれない。僕のように関西で人権教育を受けて育ち、ある程度リアルな日本人−朝鮮人の関係がイメージできる人間にとっては、監督は政治的な対立をひとまず「棚上げ」にした上で成立しうる人間のドラマが描きたかったのだな、という風に感じるし、これを「朝鮮問題に関するある種の見方を押し付けられている」と感じてしまった人は見るのがしんどくなるのだろう。

kaikajiさんが書かれている通り、観る者の「育った地域・年代・知識量」という意味での背景や経験などが作品の解釈に大きく影響するのかもしれません。
kaikajiさんと時代は異なるかもしれませんが、西日本で育った僕の周囲には、僕が物心ついた80年代でも在日であるなしを問わず「朝鮮人」というイメージに無意識的にそして無条件に差別的な態度をとる人がいました*2*3。だからそういう背景で育つと、たしかに『パッチギ!』は「超えろ!」というメッセージとして解釈されるのだなぁ、と*4思いました。
とすると、映画に対する『嫌韓流』的な反応というのは(宮台真司氏が言うところの)都市ヘタレ保守が社会の流動化に対する不安で吹き上がって「断固・決然」と「在日および朝鮮人寄り解釈の拒否」という形で反応しているとして、そうなる前のあの無条件な差別というのは社会の共同体的な自明性*5をあてにできてたから平然と存在してたと考えていいことなのか悪いのかと思った次第。

*1:http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20050124

*2:「この『バカチョン』が!」という言い回しも平気で使われていました。

*3:http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20050123

*4:個人的にはかなり別の意味も入ってたので映画に感動したことを明記しておきます。

*5:これも突き詰めればいろんな意味での「不安」が原因かと思うのですが