こういった反応が出てくるのが……

ある意味京アニのすごさなんだろうけど。

http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20071210/1197282169

ブクマにも100文字ぴったりでコメント書いてみたけど、なんかコメントも含めていまいちあれらの作品の本当のすごさが伝わってないよーな気もしたので、改めて。

まず、京アニ版Kanonを見て「原作通り」と言ってしまう人は観察力ゼロと断言するものである。感想文としてはアリですよ。もちろん。おれだって原作のテイストをよくここまで生かして作品を作ったなと思うし。でも、作品を語るつもりでその言葉を発したら、オレとしてはもうその人は全く信用しません。だって、そもそも一本道の24本(Kanon)、及び、一本道の12本+2本(Air)では、作れるはずがないんだから。どっちの作品も。それでもし、原作と同じだ、と感じたなら、その時点でなんかおかしいと思わなきゃ。

これらの作品を、原作通りだと感じることが出来たのなら、それはなぜなんだろうか。これは、考えてみるに値するテーマかもしれない。以下ちょっととっちらかってるけどアイディアスケッチとして3点挙げてみる。

まず作品の基底となる部分では、(こういった作品においては特に)各キャラクターの立ち振る舞いをよく理解していること、これが重要な点だ。たとえば、劇場版Air京アニAirを比べてみよう。同じキャラクターデザインを元に構築されたこの2つの人格は、しかし、決定的に別のものとして描かれている。たとえば、ある極限的状況に置かれた観鈴は、どのような行動をとるか。Airという作品において観鈴という人格の行動と選択が主たる構成要素である以上、ここをズラしたらAir以外の何かになってしまうわけだ。「同じ設定・同じキャラクター・同じシチュエーションを使って,違う才能がオリジナルと別の演出・別のテーマを持って,どのような作品に仕上げてくるのかを考えていたほうが有意義だと感じる」という人に対しては「同じ設定・同じキャラクターデザイン・同じシチュエーションを使って別作品を作るくらいなら、最初から別作品を作るべき」と返すだけである(そういう意味では、AirじゃないけどAirじゃないと思えば劇場版Airは個人的にアリだけどね)。対して京アニ版。Kanonにおいては、エンディングへの流れは1キャラクターに向かっている以上、他の4キャラの立ち位置は必然的に変わらざるを得ない。Airも同様。これにより、同じシチュエーションであれば意味づけを変える必要性を生じさせるし、同じキャラクターを維持するためならシチュエーションを変えざるを得ない点もあるだろう。こういう視点を前提としてもう一度見直せば、色々な発見があるはずだ。

次に、キーポイントとなるシーンに関しては、出来るだけオリジナルのテイストを生かそうとしている点。作品の肝となる印象的なシーンについては、ヘタにいじろうとしていない。原作通りで面白みがないというのであれば、それはこの点に関してはその通りかもしれない。しかし、印象的なシーンだけをつないで作品になるのであれば誰も苦労はしない。変化率が極大になるポイントを確実に抑えるためには、それらの間をどうするか、もしくは1本20分強という制約の中でどこにそのシーンを置くべきか、そもそも置けるのか、そういった目に見えない苦労が発生する。それに、そもそも前項でも述べたようにただ単に全キャラの全イベントを順繰りに並べただけでは作品にならないのだから、使いたいシーンを入れること自体が難しい。そういった意味で、特に違和感がなく原作にあるシチュエーションがきちんと配列されているのであれば、それ自体が奇跡的なことなのだ。そこに本当に作家性がないか。よく考えてみる必要がある。個人的には、監督とシリーズ構成のお二方のたどり着いた構成は、非常に独創性あふれるものだったと考えている。特に、原作には存在していない幾つかのシーンがどのように配置されているかを良く考えてみるべき。あえて挙げないけど。

最後に、キャラクターデザイン。まあ、京アニAirKanonも、ぜんぜん原作通りではないのに原作通りだと思われている点が奇跡的なんだけど。特にKanon。あれを原作そのまんまですねーとかいうヤツはもう(自主規制)。以下、原作、東映版、京アニ版のキャラクター紹介へのリンク。この3例からは、ここ数十年にわたって、アニメーションキャラクターデザインがどのように進化してきたのか、そのエッセンスが感じられると言っても過言ではないかもしれない(どっちだよ)

原作: http://key.visualarts.gr.jp/product/kanon/character/
東映版: http://www.toei-anim.co.jp/tv/kanon/chara.html
京アニ版: http://www.tbs.co.jp/anime/kanon/04chara/chara.html

このように、翻案においては外してはならないキーポイントがいくつか存在する。逆に言えば、そこさえ抑えておけば、後はどのような翻案をしてもいいと考えている。そういった意味では、別にこの元記事の趣旨自体に反論しようとは思わない。ただ単に、京アニのKey翻案作品をその反例として挙げるのが間違っていると考えるだけだ。どう好意的に読んでも、それは言いがかり以上のものではない。

尚、オマエだって具体的なシーンは拾ってないだろうと言われるとちょっとツライので、オマケとしてリアルタイム視聴時に書いた感想にリンクを貼っておく。

Air http://lapis.dameda.net/d/anime_sort.html#4
Kanon http://lapis.dameda.net/d/anime_sort.html#27

って、読み返してみてもたいしたこと書いてないな。笑。

もひとつ、Key作品には果たして翻案を許しうる余地があるのかどうか、という点もかねてから疑問として持っている点であり、これも劇場版AIRにあわせてメモ書きしたことがあるので一応リンク。

http://lapis.dameda.net/d/200508.html#20050805_3

箇条書きにして整理するとつまんなくなるものって色々あんだよな。