銀座ファースト法律事務所所長のつぶやき

弁護士田中清のブログ。最近気になることや、趣味のことなど雑記。

弁護修習

 検察修習のあとは、弁護修習だった。
 指導教官は9期の中坊公平先生、イソ弁(勤務弁護士)は18期の谷沢忠彦先生、共に京都大学卒業で、私の先輩だった。
 中坊法律事務所での司法修習生は2人目で、B班の浜本さんが昭和44年7月末から11月末、A班の私が、11月末から3月末までお世話になった。浜本さんは、口述試験のとき、四谷の長崎寮で一緒になり、松戸の寮に入るとき、質屋に麻雀牌を一緒に買いに行った人である。浜本さんは、麻雀が強く、同期の仲間内では、「さすらいのギャンブラー」の仇名があった。私もそのころは、麻雀やパチンコに明け暮れていたころで、中坊先生から「もう、修習生を採るのは懲りた。お前で終わりや」と言われたことを思い出す。
 中坊先生は、情に厚く、豪放な人柄で、弁護士間でも人気が高かった人である。私が修習中に大阪弁護士会の副会長に40歳で当選され、昭和45年4月から副会長をされることが決まっていた。当時の最年少副会長だった。
 中坊先生にも谷沢先生にもよく飲みに連れて行ってもらったことを思い出すが、「はて、事件では何をさせてもらっただろう」と思っても、よく思い出せない。
 しかし、中坊先生や谷沢先生のお人柄と接することができたことは、一生の財産であり、それから、お亡くなりになるまでお付き合いをしていただいた。
 中坊先生や谷沢先生からは、弁護士としてのお客様との接し方、事件処理の仕方を教えていただいたのは、大きな収穫であり、後日弁護士になってからも、よく思い出す。
 特に、中坊先生は、森永ヒ素ミルク事件で原告被害者のお宅を一軒一軒回られ、涙を流しながらその声を実際に聞かれたことは当時でも有名であり、中坊先生からも、そのお話を直接聞き、「田中君、現場を回ることはほんまに重要やで。これは、忘れたらあかんで」と言われた。後日、豊島産業廃棄物処理事件でも、往復船便で2日掛かる現場を何回も訪問されたことは、有名な話である。「田中君、現場は大事や。現場百遍やで」という中坊先生の声が今でも耳に響くのである。

  弁護士 田中 清(弁護士法人銀座ファースト法律事務所)