「低学歴の世界」と「高学歴の世界」の溝?

「教育フェスタ」や「学び合いフォーラム」といったイベントを主催し、新たな教育文化の創造に取り組んできた杉山史哲さん(株式会社FREED代表取締役)の問題提起を見て触発されました。

数日前、斎藤環さんが「ヤンキー内閣」という言葉を使い、「私がヤンキーと言っているのは、日本社会に広く浸透している『気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ』という空疎に前向きな感性のこと」と表現していたのを見て、うまいことを言うなあ、と感じていたのですが、僕の「ヤンキー」に関する理解が浅かったことを痛感したのが、ここに紹介されているブログの書き込み。「低学歴の世界」という言葉、そして、その世界観は、かなり衝撃的でした。この記事の後半でリストアップされているURLに飛び、ブログを読むことをおすすめしたいと思います。

「最終学歴という言葉を死語にし、最新学習歴を更新し続ける本来の意味での生涯学習社会を目指す」という僕のテーマについても、これまでとはまた別の角度からアプローチする必要もあるなあ、と気づかされました。80年代のアメリカの「インナーシティ」で起こっていた状況に近いことは感じます。でも、「狭い空間での横並び意識」が強い日本の社会ではもっとややこしい感じがします。

これまでの学校教育は「格差社会」を助長する方向に働いてきた面が大きいとするならば、学習学は「一人ひとりがいつかその人なりの形でヒーローになる可能性を持っている」というメッセージを伝えることで、「格差」を低減する方向の力になりたいと願っています。

  高学歴世界の人は「学歴なんて関係ないよ」って澄んだ目で言うんだよね……。
  そういう話じゃないんだ。

といった反論、というか、諦め、を乗り越える力を持ちたいと思いました。

以下、杉山史哲さんのFacebookの書き込みです。
杉山 史哲 - 今僕のTwitterのタイムラインでは「『低学歴』の世界」に関してかなりバズっているんだけどfaceb... | Facebook
紹介してくれてありがとう。

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今僕のTwitterのタイムラインでは「『低学歴』の世界」に関してかなりバズっているんだけどfacebookではあまり見ない。

この「低学歴」の話の流れは、コンビニのアルバイトが冷凍庫に入った写真をSNSにアップして炎上した「事件」に関して、このブログ
http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425
が「低学歴の世界」と言及し、そこから、
[http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/08/07/221155
:title]

[http://anond.hatelabo.jp/touch/20130809115823
:title]

[http://d.hatena.ne.jp/potato_gnocchi/touch/20130809/p1
:title]
といった感じで、関連するエントリが書かれていき、バズっていった。

ちなみに自分は、父は高卒、母は短大卒で、祖父母、叔父や叔母、従兄弟といった親戚の中で、大学まで進学したのは自分と妹くらい。育った地元は最寄り駅までバスで30分近くかかる振興住宅地で、中学もほどほどに荒れていた...

そんな昔を思い出しつつ、2、3日前からずっとこのことについて考えている。


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ちょうど同じタイミングで、別の友人MさんとのFacebook上での対話から、中学生が安易に
「自分にあったものを選んでほしい」
と質問してくるのはなぜだろう、ということを考えるきっかけがもたらされました。

僕(本間)が思ったのは、自分に合ったものを他者が選べるという幻想は、それまで他者(おそらくかなりの確率で母親、次いで教師達)が「あなたは〜」という刷り込みをパワフルに行なってきた結果なのではないか、ということ。学習学は、自分という存在を理解することが、学習の原点にあり、また、究極の目的にもなりうるという立場です。

一元的にものをとらえるのは「幼稚性」であり、その意味では「年齢」や「点数」を目安にせざるを得ない学校という社会装置の性格が幼稚なのかも知れません。その結果が、「低学歴の世界」と「高学歴の世界」の溝として現れているのではないかと。

この状況を脱却していくためには、学校が人間という存在を複眼的にとらえる叡智を備えていくこと、具体的には、一人ひとりの子ども達の持つ可能性を色々な角度から評価できるようになること、が大切だと感じます。「学習する学校」(ピーター・センゲの言葉を借りると Schools that Learn)へと進化していくことが、これからの学校の目標になっていかねばならないと思うのです。

今はまだ、この大きなテーマについて、まとまった考えを発表することができませんが、引き続き考え続けていきたいと思います。