『本とコンピュータ・第二期14号』

(2004年12月10日刊行,トランスアート,ISBN:4887521928

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特集〈日本人の読書習慣:消えたのか? 変わったのか?〉のいくつかの記事を読む.




平出隆「私の読書習慣 — あるいは読むことの純潔さについて」

  • 七〇年代の終りから七,八年,澁澤龍彦の家に通うことになったころ,私はこの稀代の読書家の読書ぶりをそばで眺める機会をえて,とても安心したことを覚えている.澁澤さんは一種の特殊な能力をもって,その本のエッセンスへと,まっすぐに視線の先をもっていく.このとき,最初のページから最後のページまで追うとはかぎらず,視線は驚くべき効率のよさで,ある本と別の本とさらに別の本とのあいだを,それらの核心のあいだを行き交うのである.[p. 47]

  • たとえ私がある本を最後まで読まなかったとしても,すべては「軽快さ」とともに,「無責任」のうちに,また「純潔さ」さえもって,「達成」されているのである./このように見るとき,書評のための読書というものは,「軽快さ」を失い,「責任」を負い,「純潔さ」から遠く離れている.[p. 48]



そーかあ,書評のための読書は「純潔」ではない,と(汗).

もう一カ所 —




狐「書評者に“名前”なんか要るでしょうか」
  • 私は,そもそも書評には評者の名前など要らないと考えているのです.[p. 78]

  • 書評者は伝達者だと思う.肝心なのは本を閉ざして自己主張することではなく,本を開いて,そこに書かれていることを伝えることのはずです./伝える.実に単純なことです.しかし,書かれていることをどうとらえ,どう伝えるか,それが思いのほかにむずかしい.もしも伝えるべきことがうまく,十全に,いきいきと読者のもとに届いたならば,それが書評者にとっての幸せというものでしょう./そしてそのとき,書評文からは評者の名前などきれいに消えて,どこを探してもみあたらないはずなのです.それで,それだけで,いいのです.[p. 79]



揚げ足をとるわけではないのですが,書評記事を読者に開かせるためには「匿名」ではなく「顕名」が必要ではないでしょうか.皮肉なことですが,“狐”という「顕名」があればこそ,この人の書評なら読んでみたいという気になるのだとぼくは思います.