泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

 こんな記事が出ていることをajisunさんのブログで知った(なぜ大手の新聞で報道されていないのだ)。すさまじい内容なので、全文転載しておく。
シルバー新報 7月29日号
介護職員基礎研修カリキュラム 新規就業者は500時間
http://www.silver-news.com/silver/newest.html

 厚生労働省は、二○○六年度から現行のヘルパー研修を見直した「介護職員基礎研修」を導入する。具体的な研修体系や運営のあり方を検討していた同省の研究会(座長・堀田力さわやか福祉財団理事長)がこのほど、講義・演習三六○時間、実習一四○時間の合計五○○時間とする研修カリキュラムをまとめた。在宅・施設を問わず、新たに介護サービスに従事しようとする場合には受講が義務付けられることになる。すでにヘルパー資格を持っている人や無資格の施設職員などについては受講科目を免除する措置を設けて受講を促す。報告書では、研修の質が確保されるよう、修了時の評価を行うことや研修機関に対する教育も必要と指摘。年度内の最終報告でガイドラインを示すとしている。
 現行のヘルパー研修に代わる基礎研修の導入は、将来的に介護職員に国家資格である介護福祉士資格を義務付けるための移行策の位置付けだ。同研究会では、昨年度から資格取得前後を含む介護職の生涯研修体系について検討しており、昨年十一月に取りまとめた第一次中間報告の中で、介護福祉士の資格を持たないヘルパーのレベルアップと新規就業者の就業要件とするために、施設・在宅共通の基礎研修の創設を提案していた。
 今回まとめられた第二次中間報告では具体的な研修カリキュラムを提示。現行の一・二級研修の内容をベースにしているが、これまでバラバラだった講義・演習を一体的に学習できるよう一科目あたりの標準研修時間を三○時間とし、コミュニケーションや介護技術の修得に重点を置いて九○時間に拡充するなど大幅な見直しだ。「ソーシャルワーク」「生活支援とアセスメント」「認知症の理解」「医療との連携」の四科目は、個別ケアの実施能力の向上を目的に、新たに追加する。
 さらに実習も従来の三○時間から一四○時間に大幅拡充。施設で十日間、通所・小規模多機能事業所、訪問介護事業所でそれぞれ五日間程度とし、さらに介護保険事業所以外のNPO社協など地域の社会資源の訪問も半日程度行う。一日八時間めいっぱい行ったとしても二週間以上はかかる日程だ。
 新規就業者にはこの五○○時間が義務付けとなるが、すでにヘルパー資格を持つ現任者には、二級カリキュラムで足りない科目を追加で受講する措置を設けた。追加受講時間は一年以上の実務経験があるヘルパー二級者で一五二時間、実習は免除する。実務経験のないヘルパー二級者は三二○時間だ。また、施設職員など無資格で就業している介護職については、実務経験一年以上であれば実習は免除するが、それ以外は新たに全カリキュラムを受講する。いずれにしても無資格者の場合は、導入から一定期間内に基礎研修を受講することが必要とした。(以下略)

 介護福祉士の有資格者の「レベル」が、ホームヘルパー等と比べて高いということがいまだかつて実証されたことがあるのだろうか? 4年生大学で社会福祉士資格を取得しようと思っている高校生には、こう言わなければいけない。
 「悪いことは言わないから、介護福祉士にしておきなさい。大学在学中に介護系の資格をとっておかないと、施設などはどこも雇ってくれないよ」。
 社会福祉士となって事業者に雇われても、「無資格者」。仕事をしながら、500時間研修。ありえない。この目的はレベルアップだけではなかろう。介護福祉士の既得権の拡大か。あるいは財務省から金を引き出すためのカードか。いずれにせよ、くだらない。

比較

 全国障害者介護制度情報の掲示板が盛り上がっている。
http://www.kaigoseido.net/topF.htm
 さまざまな書き込みに「事務局」が対応しているが、かなり政治的にはっきりとした意思表示をしている。それについてどうのこうの言うつもりはない。気になるのは、以下のような主張である。前後の文脈を切り捨てるのは乱暴だと承知の上で、一部抜粋。

 施策の優先順位としては、外出介護よりも、死なないための、生存のための介護が優先されるのが当たり前ですが、現実はそうなっていません。(754)

 施策の優先順位としては、予算を増やさないのならば、まずは命の危機のある部分に使い、次に社会参加などの文化ニーズに使っていくのがあたりまえです。その当たり前が行われていないという問題があります。(754)

 自己負担がまったくなくなると、家族同居の移動介護の利用者の歯止めがかからず、財政難が拡大します。(749)

 これらは「移動介護なんかに金を使うくらいなら、生存のための介護に金を使え」と読み取られても仕方がない(と少なくとも自分には思える)。一見、筋が通った主張のように思えるが、このような欲求階層論的な施策の提言には、率直に言って全く賛成できない。
 まず、行動援護類型の創設ともつながる話だけれど、移動介護だから「社会参加などの文化ニーズ」を満たすためのものだ、というような単純なものではなかった。再三書いてきたが、運用実態として移動介護は多機能である。また、仮に社会参加の支援を主機能と認めたとしても、外出するという極めて「当たり前のこと」をこの時代に「文化ニーズ」と言って「生存」と比較することは適切だろうか。
 24時間の介護保障が必要な人がこの社会にはたくさんいるにもかかわらず、そのほとんどの人が必要なだけの介護を受けられていないということはその通りであり、この人たちに介護保障が必要であると主張することは全く正しい。自分にわからないのは、そこでなぜ「他の支援の必要のなさ」を訴える必要があるのか、ということである。この論理を障害者福祉業界の内側でのみ押し通そうとするのは、障害者・事業者間の対立を深めさせるだけの中途半端なリアリズムではないのか。パイの奪い合いをするのではなく、なぜパイの大きさそのものを問わないのか(義務的経費化はちゃんと評価しているようであるが)。文化ニーズが許せないなら、「文化政策なぞ必要ないから、福祉政策に金を回せ」と言えば十分だろう。
 論点は少し変わるが、そもそも「命」や「生存」にかかわる介護とは何のことを指すのだろうか。単純に医療的なケアの必要な介護のことだろうか。重度の知的障害をもつ人々は必ずしも医療を必要とするわけではないが、もし彼ら彼女らが一人暮らしをはじめるとしたらどうか。そのとき必要となる支援は「命」や「生存」にかかわらない介護だろうか。掲示板内でそんな議論はされていないし、書き込む人々がどう考えているのかはわからないが、なんだか前提とされている障害者像が偏っているような気がして仕方がない。これが、知的障害者の地域生活支援をやっている者の単なる被害妄想であるとよいのだが。