「学校という空間」をこそ もんだいに しよう

 大分県の 教員採用試験で いんちきが あったのではないか、というニュースが さいきん 報じられているようです。
 なんと まあ、なげかわしいことだ! 不正は ゆるせん! 競争は 公正に おこなわれなければならん! 個人の 努力と能力こそが むくわれるべきなのであって、コネで 採用が きまるなんて とんでもない!
 などということを わたくしが いうわけが ございません。試験なんか やるから、「不正」を やるひとが でてくるのです。だから、いっそのこと 教員採用試験なんて やめちゃったら いいのではないか、というようなことを かんがえます。なりたい ひとが 教師になる。ひとが あまるようだったら くじびきで えらぶ。教育に たずさわるのに、とくべつな「適性」だとか「能力」だとかが もとめられるという 社会の ありようは、おかしい。まあ、その はなしは こんど また かきます。
 さて、このたびの 疑惑について、保坂展人(ほさか・のぶと)さんは ブログで つぎのように かいています。


大分教員人事汚職と「学校コネ社会」の病根 - 保坂展人のどこどこ日記

……学校という空間を構造的に支えているのは、「成績評価」である。入学試験や定期試験の「学力考査」で合否が決まり、また定期試験の点数で「偏差値」「通知表の評価」が決められていく。そして、この学校における評価は、子どもを選別する課程でもある。「成績上位者」がより難易度の高い学校歴を手にしようと競争を繰り広げるのであり、その成績に「カンニング」や「成績水増し」などの不正が発生しないように厳しく目を光らせているのが「日本の学校」の明治以来の光景ではないか。
 ところが、肝心の先生が「不正手段」をもって教員採用試験に合格していたり、また学校管理職の人事が「商品券・贈答品」などの賄賂によって左右されていたというのでは、「評価は攻勢・公平になされており、ルールは厳格に適用されているはず」という学校神話は崩壊するのである。


 ほさかさんが ここで「学校神話」という いいかたを しているのは、おもしろいと おもいました。評価の「公正・公平」だとか、ルールの「厳格」な適用だとか、そういったものは「神話」ですよ、と いうわけです。
 どういう ふくみで「神話」という ことばが つかわれているのか、この記事だけからは わかりません。しかし、うえに 引用したところからは、「明治以来」の学校制度に たいする、ほさかさんの 根本的な 批判意識を みてとることが できます。「子どもを選別する」過程としての「成績評価」。そして これによって「構造的に支え」られているところの「学校という空間」。
 すばらしい! どうも さいきんでは、こうした近代の 学校の ありかたそのものに たいする ぎもんや ひはんが 正面から かたられることは すくないような きがします。学校が「子どもを選別」しているということは、あらためて もんだいに されるべきでは ないでしょうか?
 ただし、この ほさかさんの 記事は、「学校という空間」の ありかたを もんだいにするというより、教師が いんちきで えらばれるのは まずいよ、というほうに 重点が あるようです。そんなこと してたら、「学校神話」が「崩壊」しちゃうじゃないか、と。
 でも、そんなもの「崩壊」しちまえば いいじゃん。わたしなんかは そう おもうのです。
 「学校という空間」のほうをこそ もんだいに すべきです。わたしの 主張は、「入学試験や定期試験」は いっさい やめにしましょう、というものです。学校から あらゆる試験を なくそう。「成績評価」ですって? おとなの ぶんざいで えらそーに! そんなものは さっさと 禁止しちまおうぜ。
 まず 指摘しなければならないのは、「学校の 試験は いかさまだ」ということです。こんなことは、わたしなんかが あらためて いわなくても、げんに 学校に かよっている こどもたちの おおくが きづいていることだと おもいます。試験による「成績評価」が、公平に あたえられた 機会のもとでの ひとりひとりの「努力」だとか「能力」だとかを そのまま 反映するようなものではない、ということは はっきりしています。
 学力試験という ゲームでは、国家のなかで 支配的な 階級、民族、人種に 位置する おやを もった こどもが 有利です。というか、そういった支配層の こども*1が 「選別」において有利な たちばに たてるように、学校のカリキュラムが くまれているのです。
 学校教育とは、支配層が みずからの 特権を じぶんたちの こどもに 相続させるために でっちあげた いかさまの ゲーム場に ほかなりません。地主が じぶんの 土地を 特権として むすこに 相続するように、ブルジョア中産階級は 教育を つうじて みずからの 特権を じぶんたちの こどもたちに 相続しようとします。かねもちの おやほど、かねの かかる 私立の 学校に かよわせ、塾に かよわせ、また 本を かいあたえるなどして、じぶんの こどもが 学校教育における「選別」の 勝者になるために とりはからうのに 有利です。
 もっとも、不利な たちばに おかれた こどもが、みずからの「努力」と「能力」によって じぶんの おやよりも 地位を 上昇させるということも あります。学校教育が そうした 通路を いくらか ひらいてきたという面が あったことは たしかです。しかし だからといって、学校が ひとりひとりの「努力」と「能力」を 公平に 評価する やくわりを はたしてきた(はたしている)かのように いうのは、いいすぎでしょう。公平な 競争における「努力」と「能力」の結果、勝者の 地位が あたえられるわけでは ありません。じじつは その ぎゃくです。不公平な 競争における 勝者が あとから(事後的・遡行的に)「努力した ひと」「能力に すぐれた ひと」と みなされるに すぎません。いわば、いかさまの 競争によって かったのが、あたかも そのひとの なかにある「性格」や「実力」の 成果であるかのように よみかえられるのです。
 さらに、おやが かねもちか どうか、あるいは どのような文化資本を 手にしているかといった おや・家庭に ちょくせつ 関係する 条件だけが 重要なのでは ありません。学校の カリキュラム、つまりは 学校で おしえられ 試験で「成績評価」されることがら自体が、支配層の こどもに 有利なように つくられているということも 指摘しなければなりません。
 その もっとも わかりやすい 例が、こくご*2の 表記法の ややこしさです。にほんごは 漢字を つかわない(あるいは へらす)ことで、その よみかきの 習得に かかる 負担を かなり すくなくすることが できます。しかし、こくご教育においては、習得に ひどく 負担のかかる 表記法を わざわざ えらんで 採用しているわけです*3


ABE Yasusi no peezi

 kono bunsyoo o "yominikui" to omou hito mo ireba, roomazi de kakanai to "yomenai" hito mo iru wake desu. nihongo wa "roomazi demo kakeru" no desu.


 みてのとおり、にほんごは ローマ字でも かけるのですね。ひらがな・かたかなだけでも つづれます。点字でも かきあらわすことが できます。さまざまな かきあらわしかたが かんがえられるのですが、教科としての こくごでは、「これ以上に ひどいものは かんがえられない」というくらいに ややこしく 習得の たいへんな 漢字かなまじり表記を「こくごの ただしい かきかた」として 児童・生徒たちに おしつけているわけです。
 なんのつもりで そんなこと するんでしょーか? その《意図》を あきらかにするには、歴史を ひもとかなければ ならないでしょうから、いまの わたしの 手には あまります。しかし、漢字かなまじりの表記のみを、こくごの「ただしい」「まともな」かきかたとして 採用することの《効果》は あきらかです。支配的な 階級、民族、人種に 位置する おやを もった こどもが あらかじめ 有利な たちばを あたえられる、ということです。
 よみかきの しかたが ふくざつで、その習得に 手間と時間が かかるものであるほど、経済力や 文化資本が ものをいうように なります。また、その ふくざつさは にほんごが 母語でない ひとにとって こくごの よみかきの 習得を いっそう むずかしいものに しています。「にほんごを 母語とする ひと」、また「にほんごを あらたな 言語として 習得した/しつつある ひと」の いずれにとっても、【にほんごを はなすことができても、 こくごを まんぞくに*4 よみかきできない】という 状況が うまれやすくなるわけです。
 このようにして こくごの よみかきの 技能は、ひとりひとりの ひつようや べんりさを みたすものというより、むしろ「子どもを選別する」手段に なりさがっているのです。このことは よみかきに かぎらず、学校教育を とおして つたえられている 技能や 知識の おおくについて いえることでは ないかと おもいます。選別そのものが もくてきに なっている。選別のために 学校が 運営され、カリキュラムが くまれ、授業が おこなわれている。しかも、そこで おこなわれる 競争は いかさまだ。
 じゃあ、学校での 競争や 評価を より「公平」なものへと あらためて ゆけば いいじゃないか。たしかに、そういう 方向で かんがえて みることも できるかもしれません。
 しかし、どうなんでしょう? そもそも「公平な 競争」とは なんでしょうか? いったい、どんな条件を みたせば「公平な 競争」と よべるのでしょうか? いかさまではない 試験・競争というのは ありうるのでしょうか? 
 そのあたりは また こんど かんがえてみたいと おもいます。きょうの ところは つかれたので、しりきれとんぼ。文章の むすびとして わたしが いいたかった「学校から あらゆる 試験を なくそう!」というところまでは たどりつけませんでした。



参考リンク

 障害学の 見地から にほんご表記の もんだいを ろんじた文章として、あべ・やすしさんの 文章が とても 参考になります。
漢字が 排除するもの - hituziのブログじゃがー
よみやすさって、なんだろう - hituziのブログじゃがー




 また、こくごの 表記の ふくざつさが いかに 文字弱者を つくりだしているかについては、おなじ あべさんによる 論文「漢字という障害」(ましこ・ひでのり編著『ことば/権力/差別――言語権からみた情報弱者の解放』三元社、2006年asin:4883031926)が おすすめです。なんか ヨイショしまくってますけど、ほんとに おすすめ。

 くるまいすは、一般的に「あるけない」という身体的障害をおぎなうための手段や補助具であるとみなされている。だがそれは、社会の多数をしめる「あしであるく」ひとたちの固定観念である。くるまいすは、二次的な「あしのかわり」などではない。「あしであるく」のが人間の標準であると、「だれがきめるのか」ということだ。あしで移動するひともいれば、くるまいすで移動するひともいる。そこに「健常」や標準、「身体障害」や例外という概念をもちだす必要はないのである。
 おなじく、「漢字をつかう」ということも、いま現に日本社会の多数派はそのようにしているという現実があるだけであって、漢字をつかうということに、必然性も社会的義務も存在しないのである。日本語の文章は、漢字をまじえてこそ日本語になるのではないし、漢字まじりの文章はたんに「一般的」であるにすぎないからである。もちろん、漢字まじり文が最高のものだという主張もある。しかしおおくの犠牲のうえになりたつ表記法が「最高のもの」だというなら、それは「だれにとって」最高なのか。それこそ、といなおす必要がある。


 表記のしかた、語句のえらびかた、文体をどうするか? それは ひとりひとりの かきてが「だれにむかって かくのか」「どのような よみてに ひらかれてありたいのか」を かんがえながら 模索してゆくべきことなのだと おもいます。そこに「標準」や「必然性」なんてものは ない。「ただしい かきかた」「まともな 文章」といった かんがえかたから ぬけだそう。
 あべさんの 論文の うえに 引用した ぶぶんを よみながら、わたしは そんなことを かんがえました。




 あと、漢字の もんだいについは わたくしが まえに かいた 記事を ひとつ あげておきます。
漢字について - やねごんの日記

*1:わたし自身 かつて そういう 位置にある こどもの ひとりであったし、そのことによる さまざまな 特権を おとなになった いまも 手にしています。

*2:ここでは、にほんの 学校教育において 教科の なまえになっている「こくご」という ことばを あえて つかいます。より 変化の可能性と つかいてに おうじた 多様性に とんでいる「にほんご」と、国家が 学校教育などを とおして おしつけてくる「こくご」を、この文章では つかいわけたいと おもいます。もちろん、にほん社会が「にほんご」を 母語とする ひとたちだけから なっているのではない、という点は みおとして ならないとも かんがえます。

*3:ここには、法律のことばを ややこしくすることで、専門家でない ひとびとの 手から 法が とおざけられているのと よく似た 構図が あると おもいます。

*4:この「まんぞくに」の ハードルを あげている 要因の ひとつが、漢字かなまじり表記だけを「まともな」かきかたと みなす かんがえかたでしょう。