Matchingから流動性を包含したGroupingへ

 世界の貧困問題のデータブックを見ていて、現状のこのグローバリゼーションがさらに貧困地域格差を生みだすという問題(映画「ダーウィンの悪夢」的な)について考えていた.
 結局のところ 大規模にインフラを整えて地域格差を無くすべくしたところで、緩やかに可能性が平滑化して行く“間”に 逆に高配がきつくなってしまい、全体として偏りが濃くなってしまうということを示している.しかしまた、これは何も貧困地域だけの問題ではなく、先進地域の職能分化的や所与の条件によるポテンシャルの偏りについても同じように言えることだろう.
 ということは、だ.「良き状態」を追求するには、結局全ての部分を繋いでしまうことに解決策を求めるのではなく、これまでのように分断された中で いかにその補完的サイクルを維持させながら、流動可能性を担保してやることに意味があるんだろうと考えた.
 つまり、何らかの需要と供給について 循環サイクルをより小さな範囲で可能にさせるよう努めることが一つの解決策だろうと言っている.しかしながらその状態とは、まさに職能分化的個性やら偏りや個別最適な才能を否定するものであり、ある程度の範囲 包括的でジェネラリスティックな働きを求められる機会が多くなるということだろう.それは効率化の波の中で逆行する動きであり、それだけで何か過去よりも良い状況に移行できるとは到底思えない.つまり、その小さな循環サイクルを維持しつつも、どこかで流動性を担保する逃げ道を必ず設けておくという そのバランスルールが必要だということだ.

 さしずめ、その流動性主体が 小さな循環サイクル範囲に入り込むためにはそれは何らかのGroupingについての技術的・社会的ブレークスルーが必要になってくる.昨今のSNSに見られるコミュニティの発生については ある意味そこが人間の自発的意図を持ってしか対応できていないためにそれは少し物足りないわけだが、どこかそういったGrouping欲求を根底に持ち合わせているということは言うまでもないだろう.とにかく、これまでの効率性を重んじた社会経済の構築に、情報検索も含めてMatchingが重要視されていたところだが、実はMatchingというよりも本質的にはGroupingであり(つまり1対1対応ではなく、多種でまとまりを作ること)してその先にその範囲の循環サイクルを作っておくということ(単に複数人入れておけばいいわけではなく、またそれが似たようなタイプを集めればいいわけではなく、そこで何かが循環するようなバランスで異質で共振可能なものを選択して投入する)が重要になってくる ということだけ備忘録的に書いておこうと思ったのが今日のエントリーの意図である.おわり.