躊躇について

 問題なのは始まりである。なにかを書くにあたって僕の場合、まず最初に躊躇がある。それは後ろめたさとかそういった感覚ではなく、選択肢的な問題だ。これから僕が言葉を書く、決定済みのはずのそのことが、始まる言葉の選択如何でどのように流れうるかということ。最初の言葉に何を選び取るか、それによって如何様にも書けてしまうし、何かしらを決定づけてしまう。深遠で高尚な懊悩、そんなものを人が意識しているうちは、人はそれを書いてしまうし、「フロイト」や「デカダン」の文脈で使われるような語彙を、書く人が既に知っているというそのことが、「精神」や「退廃」の影響を文脈に義務づけてしまうだろう。いわば端的に、「自己表現」は嘘なのであるし、「私小説」は嘘である。仮に「精神」や「内面」という単語を肯定したとして、書く人は、書く人の「精神」や「内面」が「自己表現」されるまでの過程に、紙という媒体があることを忘れているだろう。「紙」に、「文字」で書かれた言葉が、現代風に言ってみれば「変換」あるいは「遮断」、とにかく、紙面の上の「言葉」として決定的に置き換えられてしまっていること、「わたしのこころ」が、既に言葉に変えられてしまっていること、そのようななかで、私的なことを書く行為そのことにいわば《生のままの》誠実さ律儀さが表出すると考える人たちには大いに疑いの余地があると思うがさておき、熟達は、書くべき対象としての「精神」をより律儀で精確な形で表現できるようになることではなくて、それとは別の上手な「言葉」として紙面の上に書き付けることであると思う。いま僕は「躊躇」によってこれを書いていて、しかしながら始まりにおけるこの「躊躇」は、『大都会交響楽』の作者にはない。

理想的な逆転劇

 もちろん僕は、いま、これらの言葉、例えば「主体性のない文章」「匿名性」「わたしの不在」といったような便宜上の呼び名について執着しようとは思わない。僕は言葉を自由自在にあやつることはできないし、もし本当に自由自在な言葉があったとしたら、人がこれほど言葉を長く書き連ねる必要はなかっただろう。

 舞台である「大都会」が曖昧としているのは、「明治通り」や「新宿の路地裏」が書かれるときに、それら描写が一切されることがなく、「明治通り」「新宿の路地裏」といった単語が「名称」としてただ単に書かれるからであろう。

 と僕は以前に書いただろう。僕は、「大都会」が曖昧としているその理由として、「大都会」をはじめ、「明治通り」「新宿の路地裏」などといった言葉が、単なる「名称」として書かれるだけで、その描写の一切が書かれないということを挙げた。ここに問題がある。いや無い。「問題」提起しなければ書けないというのも虚しい話だ。ひとまずここに「問題」はない。書きたいと思うのはむしろ「問題」という言葉にへばり付いた意味のことである。

 ここに「社会」という言葉がある。「社会」という言葉は例えば「腐った」という形容詞と共に使うことができるが、では、「社会」という言葉それだけを見てみたらどうだろうか。「社会」とはいかなる意味で用いられる言葉なのか。形容詞なしの「社会」は一体全体どんな状態の「社会」を意味しているのか。また「社会」は、普遍的に「社会」としての意味を保ち続けているのか。そもそもこう社会社会社会と書いているうちに、「社会」という漢字が視界のなかで次第に分離して、線と線の組み合わせによる「文字」や「記号」に見えてきやしないだろうか。
 いわば、「社会」は、便宜上使われた、抽象的な物差しでしかない。「社会」とは何ぞやといった「社会」の意味を考える以前に、「社会」は「社会」という言葉であり、言葉は線の組み合わせである。つまり、「社会」という言葉には、あらかじめ意味などないのだ。『問題』は、この「言葉」を読むに際して、「言葉」と「意味」との間に厳然としてある隔絶を捉えられないことにある。「社会」は便宜上ただ「社会」と名指しされるものであり、「社会」という言葉のひとことによって「社会」という言葉の対象を言い表すことは決してできないのだ。

 ――いま、ここに、タンスのカドにアシのコユビをぶつけた人がいる。そのとき、人は「痛て」と口にするかもしれない。そのとき、「痛て」という言葉は、あたかも心身に備わった条件反射のごとき執着心のなさを露呈しながら、まるでその言葉が「本能」によって口にされるかのような身振りで、あられもなく「痛て」の演技をする。この場合、むしろその反射神経こそが、「言葉」と「意味」が密接状態にあるかのような錯覚を生み出し、その錯覚する一瞬すら、意識される間もなく過ぎ去ってしまう。外国語を使う人がそんなとき果たして「痛て」と口にするだろうかなどと問いかけるまでもなく、言葉=意味にはならないのである。
 「社会」という言葉は、それ自体ではいっそニュートラルな意味だとしてもよいだろう。「腐った」という形容詞をもってすればそれは「腐った社会」になり、「あたたかい」という形容詞を付与してやれば「あたたかい社会」となる。だが「社会」という言葉は、「社会」だけで使われるとき、《形容詞のつく必要のない》《ニュートラルな》《平凡な》《普通な》《中間の》《プラマイ0の》、奇妙な均衡をささやかに湛えてはいまいか。人がおもむろに「社会」と口にするとき、「社会」は、ある理想的な均衡の上に夢見られる《一般的な》社会として、抽象的に語られてはいないだろうか。ここで話が戻る。「大都会」「明治通り」「新宿の路地裏」といった「名称」は、「社会」という名称と同様に、《形容詞のつく必要のない》《ニュートラルな》《平凡な》「明治通り」として、自明のもとに取り扱われているだろう。

 ――「明治通り」と書いたのだから、これは僕のイメージ通りの「明治通り」だ。と作者は口にするかもしれない。だが、「明治通り」という言葉が文字通りの「明治通り」ではなく、ある理想的でニュートラルな幻想にまみれた視界に映る「明治通り」の一語だということは既に明らかだ。

 そして冊子の別のところで、作者はこのようにも書いている。

 抗いつつも、逃げながら。
 逃げつつも、抗いながら。

 要するにどっちでも同じの同語反復なのだが、しかしこの「逃げる」というニュートラルの言葉が、かなり抽象的な意味と接着されていることを見逃してはならない。ここに、作者にとっての「ニュートラル」の意味が見られるのである。「逃げる」という言葉の意味と、「抗う」という言葉の意味とのあいだに、何の摩擦もない状態。ここにおいて、ニュートラルな「逃げる」は、「抗う」こととほぼ同じ意味といってもほぼ差し支えないだろう。けして「(負けて)逃げる」の意味(敗走)では使われず、長距離選手が勝利に向かって「逃げる」ような意味で、「逃げる」は《普通に》語られる。
 この「逃げる」という言葉は、ニュートラルな意味として「戦う(抗う)」を含んでいる。だが、この「逃げる」の理想的な勝利は、例えばかつて揶揄的な文脈で使われていた《オタク/お宅》という言葉が、今では自ら「オタク」であると自称されるまでに至ったことと、近い類似点を感じないだろうか。この「逆転勝利」は、「言葉」と「意味」の蜜月が、あまりにも容易に摩り替えられ、捻じ曲げられうる仮初めでしかないことを明らかにしてはいないだろうか。この小説に「大都会」はない。あるのは、「大都会」という言葉と意味が摩り替えられ剥離してしまうその瞬間の、瞬間的であるがゆえ目にしがたい「意味」の『理想的』な運動である。

 もっともそれは、この小説に限ったことではないのだったが。

ペナ山本の『発見』

 ペナ山本という名前を付けた人物のことは何ひとつ知らないけれど、その名が何を素にして付けられたのかは知っている――現在人気急上昇の、某若手女性タレントの名前だ。ぼくはその某若手女性タレントを、何度かTVで観たことがある。

 冒頭は、「ペナ山本」という言葉の発見から始まる。「ペナ山本」という名前を付けた人物のことは何ひとつ知らない「ぼく」の告白は、たった三行で終わってしまう。ただし「ぼく」は、「ペナ山本」の名付け親については知らないが、「某若手女性タレントの名前」についてはおおよそ見当がつくという。以後、「ぼく」はこの小説には現れない(あるいは現れているのかもしれないが、特定されるように書かれていない)。この冒頭は「謎=ペナ山本」を提起するという形の一種のステレオタイプであるが、それにしても「ぼく」は、「ペナ山本」についてではなく、「ペナ山本」の名付け親について述べていることに着目すべきだろう。この些細な論点のズレが、「大都会交響楽」を書かしめているのではないだろうか。つまり「ぼく」はここで、無責任な感想を述べているに過ぎない登場人物だということをも無責任に無意識に回避しようとする。次は空行を一つ置いてこう書かれる。

 ――……とまあ、こんな感じだな、今回仕入れた情報は……え?……そう言われてもなあ、こっちはこれでもさ……いやなんでもない、マジゴメン……ん?……ああ、そう言ってくれるとマジ救われるわ……うん……え……うん……いやもちろん、オレだって納得しちゃいないよ……うん、言い訳するつもりじゃないんだけどさ、みんなお手上げなんだよ、今回に限って、何故か……うん……そうそう、誰に聞いてもそのひとことなんだよ……ああ、まったくどうかしてる……ん?……業界一情報通のあんちゃん……うん……そうそう、いつものね、うん……なあ?これじゃあ調子狂うよ、マジ……

 突然、ぶつ切りの形で誰ともつかない人物が誰かと会話している。前述したように、ここでは既に「ぼく」はなく、「誰ともつかない人物」が、顔の見えない「誰か」に向かって話しかけている。「誰か」の言葉はここには書かれない。この匿名性の「謎」とともに、「今回仕入れた情報」「業界」「情報通」といった思わせぶりなキーワードを提示して、また空行が置かれ以下のように書かれる。

 ついさっき――ほんの一時間くらい前のことだ。ぼくはブラック・コーヒーを飲みながら、フジヒコに渡されたメモを何度も何度も丁寧に読み返していた。――左右に傾けてみたり、逆さまにしてみたり、光にすかしてみたり、裏面にしてみたり……火であぶってみようかほんの一瞬悩んだけれど……つまりはまあ、命拾いしたかもしれない、というわけだ――いろんな意味で
(下線部は原文では傍点)

 前二つの段落の引用と、ここに登場する「ぼく」や「フジヒコ」が同一の人物であるという保証はここではされない。「二人の人物が会話する」→「メモを受け取る」という連想があるにも関わらず、まるで一個の小説の冒頭がここから書かれるがごとく、『ついさっき――ほんの一時間くらい前のことだ。ぼくはブラック・コーヒーを飲みながら、フジヒコに渡されたメモを何度も何度も丁寧に読み返していた。』という言葉が書かれてしまう。前と同様に思わせぶりな「命拾い」「いろんな意味」といった言葉は、ここでは傍点つきで強調されている。この小説において一貫して見られるのが、太字の「ペナ山本」と、傍点の「思わせぶり」である。この二つの強調において、《太字》と《傍点》の差別化が謀られているところに、作者が計算した思惑があるだろう。つまり、太字の「ペナ山本」の発見から始まり、中心にあるその謎をめぐって延々と迂回する形で書かれているかのように偽装されたこの小説は、一つ一つの断絶された段落がほとんど別個の小説のように「冒頭」を変奏し、あるいはどこかで見たような「挿入部」として実際に書かれているにも関わらず、思わせぶりの《傍点》と、ところどころ登場する「ペナ山本」が図々しくその文脈に居座ることによって初めて、「小説」と「小説」のあいだを繋ぎとめて一個の小説にしているだろう。草稿段階でこの小説を読ませてもらった僕が、高橋源一郎の『さようならギャングたち』に似ていると思ったのはそのためである。

(1)の嘘

 ところで、この小説の嘘は、未完であるということかもしれない。作者はもちろんまだ書き続ける気でいたが、時間的余裕がなかったため、中途で筆を折ることになったようだ。いずれにしろ、これが完結したかどうかは甚だ疑問である。ひとまず「物語」として書かれていないことは問題ではない。むろん「起承転結」を持ち出すまでもなく、小説は「物語」という体裁で始まるにしろ始まらないにしろ、その特性上、紙面に言葉が書かれなくなった時点で絶対に「終わる」。『大都会交響楽』においてもその「終わり」を免れることはできないが、しかしこの小説の匿名性を加味して考えてみたとき、話が少し違ってくる。<フジヒコ><キクヒト><先生>は、「ペナ山本」以外で幾度か登場する人物である。であるが、その輪郭は舞台として設定された「大都会」と同様に曖昧としたままで、多くの場合、

 しかもさっき――ついさっき、フジヒコからこんなことを言われたのだ……
 ――……いいか? オレが今から言うことを、これから絶対に守ってくれ……ああ、さもないとおまえさん、大変な目に遭うぞ……え?……いや、今回ばかりはマジでだ、冗談じゃない……ああ……おまえさん、都内から一歩も外に出るんじゃないぞ? いいか? もしこいつを破ったら……そん時は確実に、ヤラれるぞ……そう、そのまさかだよ……ああ、久々にな……例のあんちゃんの情報だから、間違いないよ。
(下線部は原文中傍点部)

 のように、人づての言葉で書かれていて、いま喋っている自分が〈フジヒコ〉であったり〈キクヒト〉であったり<例のあんちゃん>であったりすることを断言できるという場面がない。語り手が主体性を欠いているのである。また、

 大失態だ――昨日はずっと調べものをしてたんだ、〈一睡もしないで〉ね……本当だよ、信じてくれよ……――と言いたいところだけれど、そんないいわけが通用するわけがない……ぼくは《その手のプロ》であり、《先生》なのだ。そんな人間が、こんな大失態を冒してはいけないのだ……しかし本当に、本当にどういいわけすればいいのだろう?
 ――そもそも、誰に?

 あるいはこのように、自分が《その手のプロ》であり《先生》であり、匿名の《ぼく》であるかのごとく書かれていたりもする。舞台である「大都会」が曖昧としているのは、「明治通り」や「新宿の路地裏」が書かれるときに、それら描写が一切されることがなく、「明治通り」「新宿の路地裏」といった単語が「名称」としてただ単に書かれるからであろう。また、似たようで違うといった単語も多く見られる。《その手のプロ》は即ち《業界一情報通》であるとは明言されないし、《先生》と《おじさん》と《あんちゃん》に共通する『目上』の人間は、それらの個人性をぼかしているだろう。また、二人の男が会話しているというシーンの焼き直しも、同一人物とは限らない。このような曖昧とした匿名性が短編集的なこの小説を終始一貫してつらぬいていることが、ほんらい「短編集」とその「続編」、さらに「ワンシーン」を並べたにすぎなかっただろうこの「小説」群を、一つの「小説」として接着しているのかもしれない。この小説はどこで終わっているのかというと、ところどころで終わっているに違いない。それは編集作業に似ている。

無題(作家性を回避する作家性)

 そんなわけでこの「主体性のない文体」だが、これについては作者の書き分けの技巧云々というよりは、全体に渡った特徴的な筆致であると見たほうが正しいのかもしれない。冒頭部を再度引用する。

 ペナ山本という名前を付けた人物のことは何ひとつ知らないけれど、その名が何を素にして付けられたのかは知っている――現在人気急上昇の、某若手女性タレントの名前だ。ぼくはその某若手女性タレントを、何度かTVで観たことがある。

 とやかく言うなら、ここで「ぼく」は「ペナ山本という名前を付けた人物について何ひとつ知らない」というエクスキューズ付きで、間接的に「ペナ山本」の謎を提起している。ご丁寧に「TVで見たことがある」という説明付きである。そしてそれきり匿名性の言葉の中に紛れ込んでしまう。「ペナ山本」の名付け親のことを述べているはずが実のところ「ペナ山本」本人について語っているといったあたかも文体が責任を負うことを拒否しているかのような些細な論点のズレは、この後の「ペナ山本」の不在と、不在の語り手たちが目まぐるしい寸劇を演じることを許すだろう。なにしろ二段落目から行われている喜劇の切り貼りは、その脈絡のなさにおいて、「ぼく」が「ペナ山本を知らない」ことについて語っているのではなく、「ペナ山本の名付け親を知らない」ことについて語っているのだとでもいったような論点のズレから始まっているからである。読者がなんと言おうと、《これは「謎」の不在を書いた小説なのだ、したがって「わたし」はそこにいない》この種の「わたし」的なものからの回避は、「不在」についてとめどなく語るスタイルを通して姑息な「わたし」が実はいることを明かしてはいないだろうか。言いかえれば、「わたし」を不在にしようと文体が目論み多くの作家の引用や主体性のない「ぼく」、不在の「ペナ山本」が書かれることによってより一層、「わたし」が意識されて書かれていることが明るみに出るのではないだろうか。もちろん、最初に僕が躊躇いながら言ったように、対象としての「精神」や「内面」は言葉で「表現」されうるものではない。「精神」や「内面」を上手に書くということは、その再現度がより忠実になるということではなく、言葉としての「精神」や「内面」を上手に書き加えていくことに他ならない。俗に言う文章力とは、ひとえにそのことである。ゆえにこの小説は、「わたし」の文脈の前提のもと、「わたし」を抑圧した地点から始まっているのではないだろうか。答えのない「謎」が「読者」をダマす、その意図は、書いている「わたし」の文脈を免れてはいない。