『学園都市とアリス』について(あとがきにかえて) Text By 幸田龍

 ほんの遊びごころと真剣な悪ふざけ、それにその時々のノリと勢いでもって書き上げたあの処女長編を、作者であるぼく自身、どう解説すればいいのか、もはや適当なことばが見つかりません。手法についてなら、話しことばを中心に、思いつく限りの要素をサンプリング/コラージュしたかった、と断言できる(対話の場面がやたらと多かったりしたのはそのためです)。でも、肝心の内容については、作者のぼくでさえ、手に負えない代物になってしまったように思うのです。実際、あの作品を執筆していて、何度気が狂いそうになったかわからない。わからないし、もしかしたらそれは、無意識のうちに、何かとんでもないことをやらかそうとした証だったのかもしれない。で、もし本当にそうだったら、自分の技量が圧倒的に足らなかったのだと、それで気が狂いそうになったのだと、今はひとまずそういう風に、自分では納得しています。

 それと、もうひとつ。ぼくはあの作品を、音楽から得たインスピレーションをメイン・ソースに書いたと明記しておきます。以下に挙げる楽曲は、いずれもぼくの大好きな、とびっきりイカしたポップ・ミュージックで、作品を執筆する上でなんらかの原動力となったものばかりです。作品を読んで下さった方には、これをなんらかの(あくまで)参考資料として活用し、今一度再読していただければ、また未読の方には、これをきっかけに作品に興味を持っていただければなと思います。傑作とは口が裂けても言えない出来ではありますが、過去最高に思い入れの強い作品であることには変わりないので、今回はあえて書かせていただきました。

 ◎XTC“サージェント・ロック”
 ◎ブラー“ガールズ・アンド・ボーイズ”
 ◎808ステイト“ボニーウィーン”
 ◎コーネリアス“ラヴ・パレード”
 ◎フリッパーズ・ギター“恋とマシンガン”
            “午前3時のオプ”
            “世界塔よ永遠に”
 ◎ピチカート・ファイヴ“新ベリッシマ
 ◎プラスチックス“トップ・シークレット・マン”
         “トゥー・マッチ・インフォメーション”

 最後に、作品を買ってくださった方に、誤植が多々あったことについて深くお詫び申し上げます。次回の文学フリマでは、新作の他に今作の修正版も発表する予定なので、ブースで声をかけていただければ、それを無償にて差し上げたいと思います。

認識論的文体論

 そのような記憶を忘れないのは石だけだろう。綴られた字を読むのは誰なのか。記憶を回想するのは誰なのか。

 冒頭部。「綴られた字」は、後半「保持」されたあとの「。(句点)」が付された文章に対応しているとも読める。あるいはもっと個人的に読みを楽しんでしまうのなら、「石」が「保持」する機器であるとも読めるし、特に意図のない描写としての「石」かもしれない。とりあえずそのへんの読みは作者に倣い、書かないことで語ることにしたい。

 それより最初に戻ろう。しつこいようだが再度引用する。

 兵士はそう返しただけで、やはり職員に関心が無いのか、目も合わせずに粛々と歩き続けた。職員は鎖を結んだりほどいたりした後に、囚人に話しかけた。
「この後に取り調べがあるけれど、今やってしまおうか」
 兵士のほうからカチリという音が聞こえ、職員は
「別に取り調べは取り調べ室でやらなければいけない訳ではないしね」
 と付け足した。

 この、「兵士のほうからカチリという音が聞こえ、職員は」という描写は、たとえば写真に似ている。写真は(基本)レンズを通した一瞬の光景を切り取るものであり、ではその一瞬後というと、それは視る者の想像にゆだねられる。「躍動感のある」写真とは、そのように一瞬後が映りこまないがゆえに、視るものの脳裏にその一瞬後の動きを想起させるといったものではないだろうか。

 仮に、この描写がもっと説明的であったとするなら。

 兵士はそう返しただけで、やはり職員に関心が無いのか、目も合わせずに粛々と歩き続けた。職員は鎖を結んだりほどいたりした後に、囚人に話しかけた。
「この後に取り調べがあるけれど、今やってしまおうか」
 その時、カチリという音がした。兵士が腰に下げていた鞄から機械を取り出した音だった。

 こう書いたときに「いけない」というわけではない。けれど、この書き方をすると描写の質が変わってくるのである。というのは、この小説の「カチリ」の描写は、認識の現在形を切り取った一瞬であるからだ。この書き換えた例文、『カチリという音がした。→兵士が腰に下げていた鞄から機械を取り出した音だった。』と書くとき、後半部は前半部の音「カチリ」を振り返って説明している(時間が経っている)。つまり、一瞬前に鳴った「カチリ」の音を明らかにすると、その代わりに時間は遅滞するのであるし、読みも限定される。きっとこの文章は、そういった時間の淀みと限定的な読みを極力排除するようにできているのではないか。では


 ・わたし目がけて壁がつっこんできた。

 という一文があるとする。この文は高速道路を走行中、自動車事故に遭う描写と見てほしい。もちろん、高速道路は走っている車めがけて突っ込んできたりはしない。壁に向かって突っ込んでいるのは自分のほうなのだ。だけれど、運転している当人の視点=一瞬の認識からすれば、それはまぎれもなく「わたし目がけて」つっこんできているのだし、それ以上の認識は時間を停めてしまう。全ては書かれたままに書かれている。それは説明不足というより、書かれている以上に過剰に読まれうるのだ。作者の明確な意図や読者の答えとは全く別の、ただそこにその文字が書かれている事実とでもいったとりあえずの「意味」から離れた場所で、「カチリ」のくだりはそのように過剰な読みを誘惑するようにできているのだし、それは「文体的に」というしかない魅力的なフォルムをしているのだった。

「綴られた字」を読むのは、もしや僕ではないのか? クヤシイけど少し、嫉妬できます。

「正読」の自由「誤読」の自由

 おそらく、それが答えである。それがこの小説のひとつの答えだというのは多分それで正しい。正直な話、この読み方をしたのは僕ではなく僕の知り合いなので僕が先に思いついたわけではないので僕が先に読んでいればと思うと、答えを先にいわれてクヤシイ。うそ。再度引用する。

 兵士はそう返しただけで、やはり職員に関心が無いのか、目も合わせずに粛々と歩き続けた。職員は鎖を結んだりほどいたりした後に、囚人に話しかけた。
「この後に取り調べがあるけれど、今やってしまおうか」
 兵士のほうからカチリという音が聞こえ、職員は
「別に取り調べは取り調べ室でやらなければいけない訳ではないしね」
 と付け足した。

 ひとまず「正答」の見つかったこの文章に、今更一体なんの用があるのか? 答えが見つかったのでそれでスッキリしたのではないのか。作者の仕掛けた叙述のトリックを読み解き、「問題」は解決したのではないのか? もちろんそうだ。では、ここは?

 脱走者たちを捕らえろ、という命令が下った。この収容所では、しばしば脱走が発生する。脱走が発生した場合、原則として全ての職員が対応にあたらなければならないため、食事をしていた者、睡眠をとっていた者たちもしぶしぶ銃を手に取り、谷底へと繰り出してきたが、皆一様に関心は低いようだった。

 赤字にしたこの部分には、書かれていないことがある。というかこの小説は、描写すなわち「書く」という行為をしながらなお、どこかしら「書いていない」感がつきまとっている。この部分においての描写では、必ずしも職員が銃を持っていないとは書かれていない。つまり、この収容所にいる人間たち(職員、兵士、もしかしたら書かれていない人たち)は、全員が銃を持っているかもしれないし、持っていないかもしれない。ただ、持っている人がいることは確かであり、むしろこの描写はおそらく、どちらかといえば職員も銃を携帯しているように書かれているように見える。

 ここが作者の明確な意図であるかどうかは知らないし、作者の用意した「正答」を言い当てる、そのことが最も重要なファクターであるならば、文学は減点方式のテストと変わらないのである。作者の書いたテクストが完全に作者の手のうちにおさまりきるものであるとは僕には思えないし、だから作者の「正答」は、あらゆる読み方のなかの一つでしかないし、同時に重要な一つでもある。いってみれば、正読、誤読など本当はないのだ。
 たとえばぽつり、「りんご」とわたしが言うだろう。ある人は赤いりんごを思い浮かべる。ある人は青いりんごを。またある人は故郷の通学路に丸々と実っていたりんごを感傷とともに思い浮かべるかもしれぬし、あるいはけさ出掛けに一口齧ってテーブルの上に無造作に置いたままでいるりんごを気がかり気味に思い出すかもしれない。それは人それぞれであり、「りんご」とただ言う場合、人は様々にりんごを想像し、決して同じ「赤」を想像するとは限らない。ゆえに言葉、それもそうしたノイズが複雑に交錯し合う「小説」という場では、特にその読みは錯綜する。それは読者に限らず、作者も例外ではない。ふとした拍子に説明不足に陥った文章が、その字面を保ちながらしかし、作者の意図を離れるということ。作者の「読み」が、読者の「読み」と対等に、ある配列のまま動かぬ言葉と向かい合いまるで自らを映す鏡のごとく、それぞれ「正しく」、あるいは「間違って」読めてしまうということ。作者が「正解」をどうこう言ったところで、そのような形に書かれたテクストが複数の読みの可能性を秘めていることに変わりはないのだ。(ただし、麹氏がそのこと自体を意図してやっている節があることをここに明記しておきたい)

 読解に戻そう。したがって、この小説においてはあらゆる場所に銃口が潜在している。カチリ。この音を立てたのは何も録音機材であったとは限らない。その読み方も正しいといえば正しい。*1正しさにこだわる必要はない。『斜め後ろに控えた兵士は、銃を構えて薄ら笑いを浮かべている』などとは一行も書かれていない。書かれていないがゆえ、あたかもそれが書かれているかのように、しかもそれが実際に書かれるよりももっと読者の想像力にゆだねられた読者の能動的な読みを必要とさせる文章なのである。*2賢明な読者ならおわかりだろう。あるいは、執拗な読者なら。注意深い読者なら。よい読者なら。

*1:句点が付されている会話文は、「カチリ」のくだりから少し離れた、「N、これから今回の脱走についての取調べを行う(略)呼びかけているんだ。」からである。したがって、「カチリ」の時点から「保持」が始まっていると考えるのは早計である

*2:「新しい処刑台を運び込んだ業者は言っていたよ。『これは先の所長の設計なのです。先の所長は大変に活動的で熱心なお方で、企画立案から資金調達、製造、調整にまで全て関わりになられました。そちらのお方は、そう、あなたです。先の所長をご存知で?ご存知でないと。ああ、そうですか。この保護者の所長殿は代々大変に優秀な方が務めておられる。初代所長殿はこの保護所のメカニズムそのものを作り上げたお方で、ほとんど作品といってしまっていいでしょう。〜(略)〜」 この部分を僕ははじめ、囚人が自分の言葉で話しているのかと思った。囚人の口から語られた業者の長広舌は、まるで囚人自身の言葉そのものででもあるかのような(綴られた字を読み上げるかのような)正確さで、写真にうつりこんでしまった被写体のごときよどみない事実として語られるだろう。ゆえに僕は、最初これが囚人の口伝いに語られている業者の話だということを見落としてしまったのである。僕はこう読んだ。この正確無比な記憶力を持つ囚人に較べたら、むしろその超人的な囚人を隔離している他の人々のほうが囚われた弱者なのではないか、と。そんなブンガク的な読み

銃口はどこを向いているのか?

 はじめは銃を構えた音かと思った。

 兵士はそう返しただけで、やはり職員に関心が無いのか、目も合わせずに粛々と歩き続けた。職員は鎖を結んだりほどいたりした後に、囚人に話しかけた。
「この後に取り調べがあるけれど、今やってしまおうか」
 兵士のほうからカチリという音が聞こえ、職員は
「別に取り調べは取り調べ室でやらなければいけない訳ではないしね」
 と付け足した。

                              麹弘人『斜めと前で』

 今回は編集だけだが僕も参加させていただいた文藝サークル、「M@D AGE」の新刊で、麹弘人氏の新作をまず取り上げてみることにする。いきなり内輪を取り上げるのもどうかと思うし、内輪だからこそ書きにくい、それは先刻承知の上だし、内輪だからこそ面白く思う部分もある、それも否定できないが、ひとまず感想を書きたいと思ったので書かないわけにはいかなかった。

 と過去形で書いてみたものの、明確な結論がすでにあるというわけでもなく、ただしこの部分はちょっとした瞠目に値する。カチリ。はじめは銃を構えた音かと思った。「この後に取り調べがあるけれど、今やってしまおうか」という不穏な職員のセリフのあとに、兵士のカチリ。兵士は銃を持ち歩いている。この小説の設定は、ひとまずいまここに住むわたしたちの現代ではなく、「この場所を知る人は誰もいない」百年後の世界である。とはいえ、ファンタジーやSFであるかというと一概にそうともいえず、というか言うまでもなくジャンル分けは無意味だろう。
 脱走者を捕らえろ。職員たちはしぶしぶ起き出し、谷底へ繰り出していく。彼らは一様に「関心が低い」。また、この収容所は「脱走をさせないことよりも、脱走した囚人を傷つけずに捕らえることのほうが重要視されている」という一見寛容な方針であるのだが、それでも脱走者は捕まるだろう。なぜなら、「この収容所は深い谷の底に位置し」ており、谷底は海岸に突き当たるまで続いている」ため、「脱走した囚人は(きわめて)捕らえやす」くなっているからだ。
 そんなわけで、「銃を持った兵士と、プラスチック製の鎖を手に持った職員」が二人連れであらわれる。もちろん、囚人の前に。そして上に引用した部分。カチリ。兵士は銃を構えている。

 ――この後に取り調べがあるけれど、今やってしまおうか。職員の不穏なセリフ。そしてカチリである。兵士は兵士であるがゆえ、銃を持っている。その銃口は結局のところどこにも向いた形跡はなく、一度も書かれていない。だが、兵士は確かに銃を持っているのだった。僕は、はじめは銃を構えた音かと思った。こう思った。

  • 兵士はそう返しただけで、やはり職員に関心が無いのか、目も合わせずに粛々と歩き続けた。職員は鎖を結んだりほどいたりした後に、囚人に話しかけた。

 ↓

  • 「この後に取り調べがあるけれど、今やってしまおうか」(殺してしまおうか)

 ↓

  • 兵士のほうからカチリという音が聞こえ(職員のほうに銃口が向く)(たじろいだ)職員は

 ↓

  • 「別に取り調べは取り調べ室でやらなければいけない訳ではないしね」

 と付け足した。

 先走りそうになった職員を、兵士が銃口でいさめる。と同時に、こうも読めるのである。
 

  • 兵士はそう返しただけで、やはり職員に関心が無いのか、目も合わせずに粛々と歩き続けた。職員は鎖を結んだりほどいたりした後に、囚人に話しかけた。

 ↓

  • 「この後に取り調べがあるけれど、今やってしまおうか」

 ↓

  • 兵士のほうからカチリという音が聞こえ(囚人のほうに銃口が向く)、職員は

 ↓

  • 「別に取り調べは取り調べ室でやらなければいけない訳ではないしね」

 と付け足した。

 もしや職員がいう「取り調べ」とは、いささか血生臭い拷問じみた尋問なのかもしれない。その証拠に、斜め後ろに控えた兵士は、銃を構えて薄ら笑いを浮かべているではないか。

 しかしこののち、こう書かれるのである。

「君の名前は?」
「N」
「N、これから今回の脱走についての取り調べを行う。我々の発言は記録され、その記録は全国民が自由にアクセスできるよう保持される。よって、全ての発言は真理に奉仕するように行わなければならない〜(略)」

 保持。これが何を意味するか。賢明な読者ならおわかりだろう。あるいは、執拗な読者なら。注意深い読者なら。よい読者なら。つまり、この会話は録音されるのである。ここであの不穏なセリフと音が蘇る。

 この後に取り調べがあるけれど、今やってしまおうか」
 兵士のほうからカチリという音が聞こえ、

 果たして兵士は、銃口をどこに向けているのだろうか? いやむしろ、兵士は初めからどこにも銃口を向けてなどいないのである。では、「カチリ」というあの音は? おそらくそれは、テープレコーダーのような録音機材の鳴る音ではなかったか。その後に交わされる会話がいままでの「この暑いなか、その軍服ではおつらいでしょうね(職員)」「いかにも(兵士)」といった淡白なやりとりであったものがとつぜん、饒舌な、しかし説明口調になるのは会話の「保持」を意識した登場人物たちの語りの変化ではなかったか。「保持」間違いない。そうだ。それが答えだ。そうだろうか。

往復書簡(2) 筆者:幸田龍樹

 LOL 菊池さんへ

 いえいえ、不躾だなんてこれっぽっちも思っていませんし、むしろこういう風にやりとりをしていただけるということだけでも本当にうれしいです。受けた質問はできる限りお答えしたいですし、ぼくらも思い付く限りは、いろいろとお聞きしたいです。

 感想、ありがとうございます。あれはなんというか……あまりに粗削りというか、とにかく自分で納得のいっていない部分が多々あって、でも時間の都合上、ほとんど見切り発車の状態で発表せざるを得なかったものでしたから、それこそいろんな意味で心配していましたね。菊地さんも含めいくつかの方から好意的な評価をいただけたことで、ようやくホッとすることができたという感じで。

 ただ続きについては、今、極私的な理由で先に書き上げたいと思う作品(それを次回の文学フリマで発表します)があるので、それを書き上げた後に、発表した分を時間をかけて修正し、すべて完成させた上で、いつか一挙掲載しようと考えています。

 さて、質問への返答ですが……あの手法を用いたことと、逃げつつも抗うということには、切ることのできない、非常に密接な繋がりがあります。

 というのも、《小説とはかくあるべきだ》という考えが、ぼくにはあまりないんです。特にそこに描かれる人間や技法については、まったくと言っていいほどない。《かくあることだってある》、というのがぼくの考えなんですね。好き嫌いはあっても、否定は絶対にしない。《いい小説》をひとに薦めることは多々あっても、それはみな《かくあるべきだ》という風に捉えたものではない。ただ唯一、《かくあるべきだ》とひとに押し付けたり、押し付けられたりすることには否定したいんです。《かくあるべきだ》という観念にひとたび縛られると、それこそあらゆるものが終わるような気がするので。

 以上で返答は終わりです。どう説明すればいいか迷って、思っていた以上に時間がかかってしまいました。本当にすみません。何か不明な点があったらその都度お答えしますし、ぼく以外のメンバーにも何か質問などがあれば、どんどんして下さい。ミノさんにしてもコウジさんにしても、ぼくにはマネしたくてもマネできない、本当に素晴らしいものを持っていますし、考え方もまったくといいほど違いますから。

 それではお返事、楽しみに待っています。

 ムーンライダーズを聴きながら

 M@D AGE 代表 幸田龍樹

無題(作家性を回避する作家性)

 そんなわけでこの「主体性のない文体」だが、これについては作者の書き分けの技巧云々というよりは、全体に渡った特徴的な筆致であると見たほうが正しいのかもしれない。冒頭部を再度引用する。

 ペナ山本という名前を付けた人物のことは何ひとつ知らないけれど、その名が何を素にして付けられたのかは知っている――現在人気急上昇の、某若手女性タレントの名前だ。ぼくはその某若手女性タレントを、何度かTVで観たことがある。

 とやかく言うなら、ここで「ぼく」は「ペナ山本という名前を付けた人物について何ひとつ知らない」というエクスキューズ付きで、間接的に「ペナ山本」の謎を提起している。ご丁寧に「TVで見たことがある」という説明付きである。そしてそれきり匿名性の言葉の中に紛れ込んでしまう。「ペナ山本」の名付け親のことを述べているはずが実のところ「ペナ山本」本人について語っているといったあたかも文体が責任を負うことを拒否しているかのような些細な論点のズレは、この後の「ペナ山本」の不在と、不在の語り手たちが目まぐるしい寸劇を演じることを許すだろう。なにしろ二段落目から行われている喜劇の切り貼りは、その脈絡のなさにおいて、「ぼく」が「ペナ山本を知らない」ことについて語っているのではなく、「ペナ山本の名付け親を知らない」ことについて語っているのだとでもいったような論点のズレから始まっているからである。読者がなんと言おうと、《これは「謎」の不在を書いた小説なのだ、したがって「わたし」はそこにいない》この種の「わたし」的なものからの回避は、「不在」についてとめどなく語るスタイルを通して姑息な「わたし」が実はいることを明かしてはいないだろうか。言いかえれば、「わたし」を不在にしようと文体が目論み多くの作家の引用や主体性のない「ぼく」、不在の「ペナ山本」が書かれることによってより一層、「わたし」が意識されて書かれていることが明るみに出るのではないだろうか。もちろん、最初に僕が躊躇いながら言ったように、対象としての「精神」や「内面」は言葉で「表現」されうるものではない。「精神」や「内面」を上手に書くということは、その再現度がより忠実になるということではなく、言葉としての「精神」や「内面」を上手に書き加えていくことに他ならない。俗に言う文章力とは、ひとえにそのことである。ゆえにこの小説は、「わたし」の文脈の前提のもと、「わたし」を抑圧した地点から始まっているのではないだろうか。答えのない「謎」が「読者」をダマす、その意図は、書いている「わたし」の文脈を免れてはいない。

(1)の嘘

 ところで、この小説の嘘は、未完であるということかもしれない。作者はもちろんまだ書き続ける気でいたが、時間的余裕がなかったため、中途で筆を折ることになったようだ。いずれにしろ、これが完結したかどうかは甚だ疑問である。ひとまず「物語」として書かれていないことは問題ではない。むろん「起承転結」を持ち出すまでもなく、小説は「物語」という体裁で始まるにしろ始まらないにしろ、その特性上、紙面に言葉が書かれなくなった時点で絶対に「終わる」。『大都会交響楽』においてもその「終わり」を免れることはできないが、しかしこの小説の匿名性を加味して考えてみたとき、話が少し違ってくる。<フジヒコ><キクヒト><先生>は、「ペナ山本」以外で幾度か登場する人物である。であるが、その輪郭は舞台として設定された「大都会」と同様に曖昧としたままで、多くの場合、

 しかもさっき――ついさっき、フジヒコからこんなことを言われたのだ……
 ――……いいか? オレが今から言うことを、これから絶対に守ってくれ……ああ、さもないとおまえさん、大変な目に遭うぞ……え?……いや、今回ばかりはマジでだ、冗談じゃない……ああ……おまえさん、都内から一歩も外に出るんじゃないぞ? いいか? もしこいつを破ったら……そん時は確実に、ヤラれるぞ……そう、そのまさかだよ……ああ、久々にな……例のあんちゃんの情報だから、間違いないよ。
(下線部は原文中傍点部)

 のように、人づての言葉で書かれていて、いま喋っている自分が〈フジヒコ〉であったり〈キクヒト〉であったり<例のあんちゃん>であったりすることを断言できるという場面がない。語り手が主体性を欠いているのである。また、

 大失態だ――昨日はずっと調べものをしてたんだ、〈一睡もしないで〉ね……本当だよ、信じてくれよ……――と言いたいところだけれど、そんないいわけが通用するわけがない……ぼくは《その手のプロ》であり、《先生》なのだ。そんな人間が、こんな大失態を冒してはいけないのだ……しかし本当に、本当にどういいわけすればいいのだろう?
 ――そもそも、誰に?

 あるいはこのように、自分が《その手のプロ》であり《先生》であり、匿名の《ぼく》であるかのごとく書かれていたりもする。舞台である「大都会」が曖昧としているのは、「明治通り」や「新宿の路地裏」が書かれるときに、それら描写が一切されることがなく、「明治通り」「新宿の路地裏」といった単語が「名称」としてただ単に書かれるからであろう。また、似たようで違うといった単語も多く見られる。《その手のプロ》は即ち《業界一情報通》であるとは明言されないし、《先生》と《おじさん》と《あんちゃん》に共通する『目上』の人間は、それらの個人性をぼかしているだろう。また、二人の男が会話しているというシーンの焼き直しも、同一人物とは限らない。このような曖昧とした匿名性が短編集的なこの小説を終始一貫してつらぬいていることが、ほんらい「短編集」とその「続編」、さらに「ワンシーン」を並べたにすぎなかっただろうこの「小説」群を、一つの「小説」として接着しているのかもしれない。この小説はどこで終わっているのかというと、ところどころで終わっているに違いない。それは編集作業に似ている。