光陰矢の如し、日々年々その言葉が実感せられる特にこの年の瀬、年齢を重ねるというは身体の変化とともに1年を早く感じる感覚の加速ででもあるようだ。
しかしまあ、それだから余計に、というか、慣れを捉えて日々の歩みを少しでも確かなものにしたい、という気持ちもある。どこがどうなれば”確か”なのかはいまだ見えないわけであるが、この”見えない”に逃げないで取り組むこと、昨日書いたが”好きであること””道を楽しむ”ことがその一つのよすがであるかもしれないな、などとぼんやり考えている。
2012年も本日限り、知的に進化したかは大変心もとなく、増えたのは最早本棚に置ききれず、床に積み上げられ歩行は限界(時にふらつくと共に崩落する)のところまで来た書籍類、となればはるかなるため息が口をつくのみ。
しかしまあ、こうしておけば”ありゃ、こんな本あったのか”という新鮮なオドロキがつまった”ワンダーカマー”な部屋である、などと言い訳をする相手も特にはなく、こうして1年が過ぎ行かんとしているわけである。
いいのかなあ、これで。
ああ、そういえば、光陰が矢になっても、すこしはいいことがあった。空を、自然を、感嘆と惜別(何に?)を持って見るようになった気がするのだ。我が池田晶子さんが書かれた文章でも特に好きな1節、なんども本ブログで取り上げてはいるが、”考える人”のフッサールの項、ちょっと開けてみると、
死は光の刹那であってはくれない、やはり徐々なものだと遙けき吐息。死の質感が、事象の輪郭を鮮やかに、事象の生成を細かく深く、見せるようにする当のものだということには気づいていたのだ、時として正午(まひる)の全停止!
わたしは、どこ、に居たのか。
(考える人 P.63 中公文庫版)
ああ、ここで池田さんは”遙けき吐息”をつかれていたわけである。詩的なる文章の深みと喜びをも教えてくださったこの文章をちょっと引用させていただいたが、この文の前段で光射す、若葉に季節のめぐりを感じていらっしゃるのだ。
残業帰りに空を見る。月がいつもとてつもなく綺麗だ。視力が衰えたはずのこの眼に、まだ見える星がある。朝焼けを見る、流れる水面を見る。
こうしていまたまたまここに生きていてこの風景に出会っている。
そんな気持ちは、昔はあまりなかったなあ。
- 作者: 池田晶子
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1998/06/01
- メディア: 文庫
- クリック: 9回
- この商品を含むブログ (23件) を見る
あはは、結局は毎年”池田さんありがとう”かあ。
まあ、これはこれでいいのかもしれない。
来年もどうぞ宜しくお願いします。