夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

生命倫理。

例によって、主に新聞報道からであるが(読売新聞)。


池田晶子さんのことを、きちんと評価する、という意味では、読売新聞のことはけっこう信用している。

いや、これは”坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”の逆バージョンかもしれないが。。



断片的な報道から、僕の意識に残っているのは、

1.タイで、人工授精。
2.人数は10人程度の代理母
3.依頼者は日本人の若い男性。
4.資産はある。タイ当局は従って人身売買の可能性は低いとみている。
5.謝礼は200万円くらい?
6.受精卵を代理母が受け入れ。
7.受精卵の卵子は複数の国籍のものを購入。
8.日本人男性の言では、事業の後継者が必要である、というのが理由。
9.引き続き継続して子供を産ませる予定であったので、医師?あるいは斡旋業者?は異常と判断し、タイの当局?へ申し出るも問題ないとされた。

以上のようなものだ。



断片的な主に新聞報道などからの記憶なので、これが真実なのかどうかはわからない。

わからないが、この報道を聞いて感じること、それは”ここまで来たのか”という思いである。



生命を技術的に扱えるのであれば、当然行き着くところ。生命と面して、〝できるがやらない”と決める項目をどうするのか。生命倫理、という言葉が表すところはどこのところか。

池田晶子さんの著書を読むと、この部分で池田さんは大きな問題意識をお持ちだったことがわかる。人間の品性、根本的なさもしさに理由する”やむにやまれぬ”という要素をまぶした個人的なふるまい。

クローン牛ドリーしかり。臓器移植しかり。


生きる、ということに直接関係する、肉薄し、あるいは”土足で踏みにじる”可能性のある技術。

個人がルール、現法律に反しないかぎり、なにをやるのも自由だ。

こういう考え方の裏に潜むもの。



今回の出来事で感じるところ。200万円はたぶんタイのある階層の女性にとって、一時的に”仕事として”自らの腹の中で、他人の子供の成長を助け、育てる行為の代価としては、十分以上に魅力的だ、ということ。

自分の卵子の子ではない。基本的に見しらぬ外人の精子による授精卵。自分の遺伝子は関係できない。あるいは影響できない。

上記の条件であれば、費用さえ負担すればある国では合法的に子供を入手できる。そこには、子供を持つときの、男性と女性の愛情、という要素は全く含まれない。

生まれた子供はいつか、”僕は、私は、愛のない人工の子供である”ということを強く意識することが、あるのかもしれない。

他人とは生まれた経緯が違う。

また、周りには、同じ父親の精子によって人工授精された、名も知れぬさまざまな国籍の卵子によって生まれた”兄弟”がいる。

このことをどう思うのか。


この事実は、”人工授精界”の、あるいは”こどもを持つという事実”にとっての、新機軸である。

これであれば、基本的に金があれば、子供を持つことができる。
どんな国籍の外人とのハーフも可能。相手のプロフィールも選び放題。


容姿もさまざまなトライが可能だ。相手の女性も、顔やプロフィールは当然見るだろう。人気のある卵子は、たぶん共通だ。容姿端麗、頭脳明晰。あるいは長命。あるいは”病気になる遺伝子が少ない”。


DNAからそれらの情報が入手できれば。


究極は”すべての人類の母たる卵子”がセレクトされるのだろう。


いわば女王蜂のように。。


卵子だから、本人が死んでも生きている。
そうか、これが不老不死、か!!



自分が何歳でもOK。冷凍保存しておけば、自分が90歳でもOKだ。


面倒な結婚、離婚は必要ない。



事実を極限まで絞ってしまえば当然こうなる。世間には、”愛によらない”ブランド牛ならぬ、ブランド人間がどんどん増える。

自然結婚児とブランド個人児の割合が逆転

という事実を人類が受け入れる日が、いつか来るのであろう。


ブランドで生まれた人間は、ブランドで生まれる人間を肯定し、再生産する。そう、自分の存在を肯定するために。


いやはや、書いていて空恐ろしくはなるのだが、これは間違いなくいつか見る世界だろう。むろん法律での規制により到来が遅い、速いはある。だが、確実に、来る。

人間のふるまいをみていれば、そうなる。


ロボットに意思があるのか。ものに意思はあるのか。
植物には。

そんなレベルに近い論理的な問いを、孕むものである。


ファイブスター物語を最近読み返したことを書いた。

バランシェは人工生命体たるファティマを作る。


ファティマに個体の意識はある。遺伝子的情報は共有だが、意識はすべて別だ。人工的に意識を複数持つ場合はあるが。


なぜだか、そのことを、思い出した。


いずれにせよ、人間がどう増えてゆくか。個人の遺伝子をどう生かすのか。財力、という要素でできること。代理腹は、いわば昔の”乳母”のようなものだろう。家を継ぐための政略結婚。子供を産めばあとは乳母に育てさせる。

結局は似たことはおきてはいたのだ。だが、そこに、ゆがみはあった。生まれた子供の葛藤はあった。

ここにも、たぶん、大きく、ある。



画像は、ミス・コリア候補者の顔が、整形によりほとんど見分けがつかない、という事実を示している。


ここにも同じような問題がある。


もはや”養殖”か”天然”か、という違いなのかもしれない、所詮、人間も。。