さくらん桜

桜の季節はとっくに終わり、一年で最も打破したい梅雨がやってまいりました。梅が咲かないのに梅雨とは、コレ如何に?
遠くに雨の音が聞こえると、とたんにそれは近づいてきて、世界を覆いつくします。何事もわずかならば愛せますが、世界が覆われるほどにはびこってしまうと、もう愛の対象としては見れないのが人間の浅ましきところ。その点同じ降るでも桜は善きこと。人の心を落ち着かせぬ魔性の花ながら、その怪しさは局地的であるからこそ発揮されるのです。ポイントに存在してそこを動かない。しかしその場所のみは独自の空間を形成する。スポットの美しさ。隔絶された世界。西行法師が「願わくは 花のもとにて 春死なむ その如月の望月のころ」という歌を残しております。季節(旧暦2、3月)も、場所(花(桜)の下)も、さらに月(望月=満月)まで指定するとは、何たるリザーブ。贅沢のきわみです。
所有を尽くすと限定の美しさが分からなくなる。「願い」は限定を求める心から生まれるものだなぁ、とつくづく思います。
で、西行法師といえば。


東方妖々夢」ラスボスの西行寺幽々子女史ですね、ハイ。最近この話題ばっかりですね、ハイ。桜の下に死体が埋まっている梶井基次郎、はたまた坂口安吾な冥界のお嬢様です。お供の少女剣士・魂魄妖夢を連れて、陽気に食道楽を尽くしております。幽霊とは存外エネルギーを使うものなのでしょうか?

で、もう一枚。*1何事も程々が一番です。過分な所有、貪りの一番恐ろしいところは、自分が「貪っていること」を忘れることにあります。量を尽くせば尽くすほどそのものの中に飲み込まれ、何をむさぼっているのかを喪失するのです。しまいには自分が何者であるかすら、忘れてしまうかもしれませんね。

しかし私も罪業の身を離れえない男。ほどほどを知りません。桜とてほどほどを知らないのもあります。

私の地元、S市の権現堂桜堤です。壮観ですね。ちなみにこちらは夜桜。

先週の「らき☆すた」でこなたたちが歩いていたのはこの土手です。S県でも桜の名所として大宮公園を抜きそうな勢いだそうです。地元民としてはうれしい限り。でもってこいつが、オープニングでこなたがおどってるとこらへん。

ついでにこなたオヤジが女子高生を観察してるトコ。


ご確認を。ああ、今日は画像をアップしすぎた。今日は桜の為にすっかり錯乱してしまいましたよ。梅雨なのに、梅なのに。

*1:ちなみに扇の柄が違うのは西行法師終焉の地・弘川寺。その近辺にある金剛寺蔵の「日月山水図」を参考にしました。テキトーです。