2013-04-06 『Holy Motors』
■[映画]『ホーリー・モーターズ』(レオス・カラックス/2012) 
100年前に壊れたはずのオルゴールが突如メロディーを奏で始めたかのような、恐怖と驚きと、何より望みが託された映画。レオス・カラックスの待望の新作は、彼の作品がいつもそうであったように、再度、映画と対峙する「動機」を冒頭の画面に示す。リュミエール兄弟以前にエティエンヌ=ジュール・マレーによって発明された写真銃で撮影された、少年のダイナミックな運動。ここで人間の身体、運動というカラックスのキャリアを貫くテーマと同じくらい重要なのは、この100年以上前に記録された少年の運動が「行って、戻る=中断される」運動であったことであり、ここには『汚れた血』におけるドニ・ラヴァンの、多幸感の絶頂から同じく中断されてしまった、あの疾走を重ね合わせることの意義、以上のものがある。なぜならこれは、この100年以上前に撮られた少年の映像を、まだ20代半ばのカラックスがまったく意図せずに、あのとき繰り返していた、ということであり、これは作家本人さえ意図していなかった映像史に対する巨大な「反復」=運動を意味するからだ。エティエンヌ=ジュール・マレーの映像に「100年以上前に発明されたモーション・キャプチャー」を見たカラックスの作業は、ジャン・グレミヨンが『燈台守』で同じくリュミエール以前のゾエトロープという影絵の再発明へ立ち返ったように、歴史に対する大きな大きな反復=再発明を試みる。それこそが映画を駆動させるもの、”ホーリー・モーターズ”である、と。カラックスの主張は複雑な回路を通してきっぱりと単純な対象への力強さを志向している。意図になかったもの、つまりまったく望外なものを現在のカラックスが発見してしまった、ということの絶えることのない枝葉は、『ホーリー・モーターズ』のすべてのテーマと関わってくる。望外ともいえる多幸感からの中断、というまるで人生のようにメリーゴーラウンドな運動は、その根底に、すべてに間に合わなかったということへの深い悲しみ、喪を潜めている。たとえば冒頭の映画館でカラックス(自身が出演している)は劇中の死=銃声に間に合わない。スクリーンから流れる港を出発する船の汽笛の音、再び生きることの音を聞くことだけが彼に許されている。『ホーリー・モーターズ』は、このプロローグによって一旦フレームの外に置かれた希望を、ドニ・ラヴァンの身体による非プログラム化によってフレームの中に取り戻していく、託していく作業のように思える。このレクイエムの作業は、カイリー・ミノーグの素晴らしい歌声、その空気を切り裂く発声、歌詞(「Who Were We?」)、さらに地の底から上昇していくかのようなダイナミックなカメラワークによって、魂の解放!が謳われる、極めて美しいシーンで最高値を記録する。
ミシェル・ピコリの放つ、「美は見る人の瞳の中だけにある」というセリフが頭について離れない。瞳=カメラがどんどん小さくなっていく、というモチーフは、『ポンヌフの恋人』におけるジュリエット・ビノシュが抱えていた盲目の問題と関わっている。『ポンヌフの恋人』においてジュリエット・ビノシュはどんどん目の自由を奪われていった。故にドニ・ラヴァンの吐く炎は傷口にして刃であり、ジュリエット・ビノシュが夜の美術館で蝋燭の炎を頼りに絵画をアップ(!)で見るシーンは痛ましくも感動的だった。または『ポーラX』のギョーム・ドパルデューが最後に見たピンのボヤけた景色を思い出してもいいだろう。あるいはカテリーナ・ゴルベワが深すぎる眼差しで幻視した、「海の底にいる友達」。そこには映画を駆動させる聖なる原理があった。では、『ホーリー・モーターズ』のミシェル・ピコリの言うように、「見る人がいなくなってしまったら?」。カメラの背後に誰もいなくなってしまう、という恐怖と、相反するようだが彼岸に向けられたかのような希望は、『ホーリー・モーターズ』に含まれるいくつかのレクイエムの一つだろう。「カメラアイ」というものに対する長い長いお別れ。『ホーリー・モーターズ』の中で、ドニ・ラヴァンの瞳によって一人の女性を捉えた主観ショットの、恐ろしくも涙で滲んだ、あの刻まれ方を一生忘れることはできないだろう。それは長い長いさよならを、無言で告げるためのショットだった。窓枠の向こうでさよならを告げる女性。主観ショットは主観ショットではなくなり、瞳はドニ・ラヴァンという主体のものだけではなくなる。『ホーリー・モーターズ』は、もう二度と会うことのできない彼や彼女、家族との長い長いさよならと、これから先も共に生き続けることができる、ということを教えてくれる。ほんの少しのユーモア=喜劇と二度と取り返しのつかない喪失は、人生において狂暴なほど混沌としながら、決してお互いを消し合うことはないのだ。
追記*エティエンヌ=ジュール・マレーの作品は基本的に全裸か全裸に近い人間の運動と動物(馬、犬、猫)の運動がメインでした(DVD3枚組のボリュームだった!)。カラックスがあちこちのインタビューで言及している『クロニクル』(ジョシュ・トランク)という映画は、カメラの背後に誰がいるか?という問題をPOV方式を利用して突き詰めた、とてもとても面白い作品だった。好きだ。
追記2*『ホーリー・モーターズ』は勿論「仮面」というテーマで語ることができる。このテーマにおいてはドニ・ラヴァンやエディット・スコブは当然として、エヴァ・メンデスのシーンが極めて興味深い。また「アレックス」というテーマで語ることもできる。オスカー氏がアレックスと名前を呼ばれたのは、どのエピソードだったか、その後の展開と共に面白い。カイリー好きとしては、あのネタにニヤリ。いくつもの見方ができる傑作だ。
追記3*『ホーリー・モーターズ』プレミア上映時のレオス・カラックス@ユーロスペース、ティーチインは以下の記事で。
http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20130131#p1
『ホーリー・モーターズ』は本日より劇場公開!駆けつけられたし!
2013-03-04 『Martha Marcy May Marlene』
■[映画]『マーサ、あるいはマーシー・メイ』(ショーン・ダーキン/2011) 
ショーン・ダーキンの処女長編『マーサ、あるいはマーシー・メイ』は、ただ其処に在ることの恐怖と不安を心理的な背景の説明を省いた、宙吊りのサスペンスとして描いている。この恐るべきデビュー作の設計において、ショーン・ダーキンの”説明不足”が、入念な設計に導かれた結果であることを理解するのに時間はかからない。何故なら舞台となる湖の水面に向けられたカメラの距離とそのフレーミングが、ただ其処に水が在るというだけの恐怖と不安を嫌が上でもこちら側に感じさせるからだ。乱反射する水面の鈍すぎる不穏な輝きが、そのままマーサ、あるいはマーシー・メイの、さらに観客の内面にカイロス時間的な現在地を創りあげていく。このショットに触れるとき、この作家の水に対する畏怖、倒錯的で危険なシグナルはこちらを切迫させる。マーサがカルト教団に入信した心的原因自体に意味があるのではない。この作品のカメラが向けるすべての風景、その不穏な恐怖は、マーサの台詞のとおり、夢の続きあり、現実の続きとして、ただ其処に在る。また、この作品において、”マーサ”とは、名付けられた一人の女性という「容れ物」であり、別の名前で生きていくメタモルフォーズを可能とするだけでなく、同時に、”マーサ”自身から決して逃れられないことを、あらゆる手法のヴァリエーションで示している。この映画を2回目に体験したとき、つくづくと感じたことは、『マーサ、あるいはマーシー・メイ』は極めて緻密に余白を創ることに賭けているということだった。これは恐るべき野心だ。
美学的には被写界深度のとり方という細かい配慮がまずあり、それが暗闇に忍び寄る影の古典的な演出と結びついていることは明らかだが、そういった設計の一つ一つが何と繋がり、何に奉仕しているか、ということの聡明な余白に驚きを隠せない。『マーサ、あるいはマーシー・メイ』において、マーサ(と観客)は亡霊という追っ手に常に追われ続けるのだが、マーサ自身がカメラの前、さらに他人の視線(同じくカメラアイ!)から、一枚の肖像であることを逃れられないことへの切迫した悲しみ。「自分が自分であることの疲労」が影となって一人の少女を追いかける。それは危険な雰囲気に溢れたジョン・ホークスがマーサに捧げるギターの弾き語りのシーンで最初のハイライトを迎える。ジョン・ホークスはマーサであり、マーシー・メイという名の「一枚の肖像」の歌を捧げるのだ。前座で演奏する男性のカットを割らないことと、ジョン・ホークスの歌とエリザベス・オルセン(マーサ)の顔という単純な切返しの対比があぶりだす肖像。また、ドレスアップしたマーサが階段(この作品の重要な装置だ)を降りるシーンで流れるスタンダード・ナンバー、「ソフィスケイテッド・レディ」の甘美な歌が放つ強烈な毒。洗練されたレディよ、それが君の本当の姿なのか?と問うこの曲の、因果的でありつつ、因果的であるが故に、本来の甘美な歌の記憶と別の意味を持ってしまう、という歌の響きによる反復の作用。頻繁に登場する「role」(=役割・役柄)という台詞が示す、風景や人間との関係性の齟齬。画面における美学やシナリオにおける設計は、すべて一つのこと、余白という名の亡霊を描くことに奉仕している。それらはいったい、昨日の私たちからどれだけ遠いのか?その残酷な余白に自分がいることを発見するとき、『マーサ、あるいはマーシー・メイ』は、作品と自分という距離すら失くしてしまうのだ。
追記*決して多幸感に包まれるような作品ではないけどね(笑)。けどこれは素晴らしい作品と作家の誕生だ。こんな新人が出てくるんだからアメリカ映画の鉱脈は深いんだ。ショーン・ダーキンの次回作はジャニス・ジョップリンの伝記映画!『マーサ、あるいはマーシー・メイ』のテイストでジャニスを撮るとしたら、楽しみすぎる。
『マーサ、あるいはマーシー・メイ』はシネマート新宿ほかで公開中。
2013-02-13 『Moonrise Kingdom』
■[映画]『ムーンライズ・キングダム』(ウェス・アンダーソン/2012) 
ウェス・アンダーソンの新作は、何かを正そうとしたり、何かを変えようと主張する作品ではなく、登場人物のパーソナルな歴史が抱えてしまった悲しみを、それぞれが受け入れること、尊重すること、さらに調和させることへ向けて、映画設計の美学的な重きが置かれている。この世界における悲しみとは、そのまま「人生」という言葉と置き換えられるが、ウェス・アンダーソンの壮大なヴィジョンは、「人生」という言葉に内包される「国境」という言葉さえ見据えているようだ。『ムーンライズ・キングダム』において、頻繁に地図と行く先が示され、さらにアクションの美学的な側面において、戦争映画のユーモラスな書き換え(具体的には行進。テントという小道具。の絶妙すぎるズラし方)が行われているのは偶然ではないだろう。旅を続けることによって新たな地図を書き加えていくこと。地図にない地図を誰かと新たに作り出していくことこそが、”ぼくらが旅に出る理由”であり、この世界に残された歓喜なのだ。サム少年の「ディス・イズ・アワー・ランド!」という叫びには、そこが小さな恋人たちの二人だけの王国であることだけでなく、この世界に新たに書き加えられた地図であることを知る、という感動がある。『ムーンライズ・キングダム』は、互いの悲しみを黙って受け入れることだけではなく、その手法、その距離の在り方を、あくまで映画の美学の上に立つ、ただ一つの方法であるかのように示している。たとえば『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』のマーゴ(グウィネス・パルトロー)の少女時代ともいえる(二人はお風呂のシーンで一致するのだが、それはこの記事ではやや余談だ)少女スージーが抱える双眼鏡の視界、その運動がそれだ。『ムーンライズ・キングダム』において反復される、ズームアウトによる全景の提示と、形式的には対照を成す、双眼鏡による他者との距離の接近。サムとスージーが草原で再会するシーンにおいて、他者(恋愛)との距離をキャッチするという動物的な感覚(胸キュンです!)で双眼鏡は用いられ、スージーが母の不倫を目撃するシーンにおいては、逆に自分が疎外されていく距離を知る、という悲劇のために双眼鏡が用いられる。『ムーンライズ・キングダム』において、ズームイン/アウトは、それが真逆の運動であることに関わらず、共に人生の喜びと悲しみを「クローズアップ」にしてしまう。スージーは言う。「(双眼鏡は)どんなものでもすぐそこにあるように見える。私の魔法だと信じているの」。それはサムの美しい返答の通り、韻を踏まない創造的な”詩”に他ならない。
『ムーンライズ・キングダム』は、大人vs子供の古典的な物語の構図によって駆動しているといえるが、ウェス・アンダーソンのチームによる、丁寧な視点の変化、ズラし方によって、その強固な構図は完全に解体され(そう、ちょうど劇中に吹き荒れる嵐のように!)、登場人物のそれぞれがそれぞれの演奏を担当する者として「調和」を引き受ける。新たなオーケストラを奏でるために。ここには新鮮な驚き+笑い(ここが大事!)が溢れている。『ムーンライズ・キングダム』は、他者との違いを尊重することで世界を再構成させる、世界をグルーヴさせていく、発明品のような映画だ。ちょうど最近体験することが叶った『ホーリー・モーターズ』(レオス・カラックス)で、ミシェル・ピコリの放ったこんな台詞を思い出している。「美は見る人の瞳の中にある」。見る人の瞳の中にだけにある記憶が映画(=王国)を紡いでいくとしたら?『ムーンライズ・キングダム』で、最後にサムと別れるとき、スージーがどういったアクションをとったかを思い出そう。そして少年サムが残す、”決して忘れない”という無言の約束は、『ムーンライズ・キングダム』を見る人の瞳の中にだけ記憶される。「ディス・イズ・アワー・ランド!」と歓喜を叫んだサムとスージーのように、劇場が明るくなったあと、ガッツポーズをとることが、『ムーンライズ・キングダム』への最良のアクションなのだ。
追記*『ムーンライズ・キングダム』と『ホーリー・モーターズ』は全く違う作品だけど、この先の人生、どんなことがあっても旅をすることを止めてはならない、と共に教えてくれるという点で、私にとっては同じように大切な映画です。両作とも2度目、3度目の方がグッとくる映画です。しかし、ブルース・ウィリスに泣かされるなんてね、、。あのシーンの古典映画的な画面の収まり、ハンパない。カッコよすぎるぜ。
2013-01-31 Leos Carax @ EUROSPACE
■[映画]レオス・カラックス@ユーロスペース 
『ホーリー・モーターズ』先行上映+レオス・カラックス登壇@ユーロスペースに行ってきました。朝7時半から並んだのもよい思い出です。大変なことになりましたが、テンションあがったね。『ポンヌフの恋人』のときは二晩前から並ぶ人がいた、というエピソードを聞いて敵わんわー、と思った次第。
さて、この日のレオス・カラックス×岡田利規×佐々木敦の対談は、ツイッターでも問題に感じた点を表明してしまったように、まったくうまくいきませんでした。あらかじめ断っておきますが、この記事自体は、うまくいかなかった対談を曝してやりたいといった悪意は微細もありません。また、1時間に渡った対談の完全版などそもそも書けるわけがないので、カラックスの言葉を中心に拾うことにしたことを了承した上で読んでいただけると助かります。なのでこれを読んでもあの場の空気は分からないはずです。間違っても佐々木氏や岡田氏の話に耳を傾けていなかったわけではないですよ。あの場に関しては、個人的に問題というか、相違だと思ったところはいくつかあるのですが、そのことはまた別の問題です。なによりこの日の主役である『ホーリー・モーターズ』が、そしてカラックスの言葉自体が、とても感銘を受ける内容だったからです。実物のカラックスは、すごくカッコいいのだけど、どこか弱々しい、母性をくすぐる、つまり彼の映画と同じ印象でした。ずっと見てきた映画と変わらない人が其処にいた。嬉しかった。
対談は岡田氏とカラックスのファーストコンタクト、「青山真治に会いたい」というカラックスの突然の要望がきっかけで、日仏学院でのパスカル・ランベールを迎えた企画の打ち上げの店で、不意打ちのように遭遇した。前からカラックスのファンだったのでとても驚いた。というエピソードから始まりました。以下採録。
−−−−−−−−−−
岡田「(『ホーリー・モーターズ』は)演技をするということを考えるとき、演じている自分と本当の自分は違う、と考えられがちですが、果たして本当にそうだろうか?、という問いを、自然主義的ではない手法で観客に説得力を持たせるように作られている作品でした。演じるという問題を、映画人や演劇人のように演じることを職業として扱う人だけでなく、そうでない人にまで深く関係する問題として提示している作品だと思いました。」
佐々木「今日岡田利規さんをゲストとしてお招きしたのは、『ホーリー・モーターズ』がこれまでのカラックスさんの作品以上に、映画についての映画、演技についての映画だったからです。演技ということを中核に添えているという意味では、映画と演劇は兄弟のような関係にあると思います。」
カラックス「私自身この映画を発見したのは編集の時でした。この映画は短い時間で構想され、撮られています。他の国で他の映画を作ろうと思っていたのですが、いろいろな理由で作れませんでした。今年はなんとか早く一本映画を撮影しなければ、という思いで作った映画です。短い時間で早く作るためにラッシュを見ることをしませんでした。逆に『Tokyo!』のときは早撮りでしたが、ラッシュは見ていました。早く映画を作るときはラッシュを見るともうやめようと思うことがあります。それを避けるためにラッシュを見ませんでした。この映画の主人公はSFの世界にいる主人公、ということで構想をしました。この主人公は俳優と呼べるかもしれませんが、むしろ俳優ではなくSFの世界に生きている人物です。この一人の人物の一日を描きました。朝起きてから夜にいたるまでの一日です。今日生きているということはどういうことなのか?、という問いかけをしたかったのです。主人公は屠殺人であってもよいし、肉屋であってもいいのですが、そうすると彼が何故そういうことをしているのか説明をするために、フラッシュバックを使わなければならなくなります。今回のような仕組みで撮ることによって、様々な年齢、様々な人間の経験を一日の中に表すことができたのです。」
佐々木「ドニ・ラヴァンさんとはおそらく、阿吽の呼吸だと思いますが、今回の撮影にあたって何か話し合いなどされたのでしょうか?」
カラックス「今回早く撮影するために、いくつかの要素がありました。パリで撮影をすること、低予算で撮影をすること、デジタルで撮ること、ラッシュを見ないことです。ただドニ・ラヴァンを撮影することは早い段階から分かっていました。ドニ・ラヴァンは私が一番知っている俳優だからです。よく知っていると言っても、実人生のドニ・ラヴァンのことは全く知りません。一緒に食事をしたことは一回もありません。友人ではありません。今ドニ・ラヴァンは私の家から200m先のご近所に住んでいますが、普段は会うこともありません。ドニ・ラヴァンは私と同じ年齢で、背丈も同じくらいです。出会ったときはお互い20歳か、21歳の頃だったでしょうか。最初の作品『ボーイ・ミーツ・ガール』のとき、ドニ・ラヴァンとはまったく話をしませんでした。出来上がった作品を見たとき、私はドニ・ラヴァンを彫像のように撮影していたことに気がつきました。よく彼のことを見ていなかったのではないか、と思いました。ですから2本目の作品のときは、ドニ・ラヴァンを動かし、ドニ・ラヴァンに踊らせました。今回の作品でもそれ以上のことは話していません。今回の場合、衣装やメイクに多くの時間をかけました。それぞれの人物がどのように話し、どのように動くのか、それ以上のことは話していません。」
岡田「僕も私生活での役者との付き合いはありません。それで十分だと感じています。」
佐々木「冒頭のシーンで監督本人が出演していることについて」
カラックス「この作品を撮るとき、最初に頭の中にあった映像はいま私が見ているような映像です。すなわち観客を正面から見ている映像です。闇の中で観客たちがいて、その人たちを正面から見る画です。観客が眠っているのか死んでいるのか分かりません。そこで眠っている人が目覚めて、そのような観客を発見する、というシーンを思いつきました。シナリオを書かなければならないので、仮の役名として”レオス・カラックス”と書きました。この映画を作っているときに、ミシェル・ピコリが演じている役を自分がやればいいのではないか、と思ったこともあります。しかしそうすると観客はミシェル・ピコリが演じている人物が誰だか分からなくなってしまう、と思ったのです。あの人物は映画作家ではありません。プロデューサーなのか、マフィアなのか、内務省の人間で監視カメラの責任者かもしれません。そこで第1部の最初の登場人物を、自分の飼っている犬と共に演じました。」
カラックス「ドニ・ラヴァンと出会ったのは20歳の時で、私はドニ・ラヴァンの20歳から50歳までを撮影してきたことになります。ドニ・ラヴァンは20歳の頃よりも遥かに偉大な俳優になりました。ドニ・ラヴァンは特殊な身体を作り上げていきました。それは素晴らしい身体で、私はその身体をいつも撮りたいと思っています。だからこそこの映画の冒頭で19世紀のモノクロのエティエンヌ=ジュール・マレーの連続写真を挿入したのです。『ホーリー・モーターズ』は人間の身体と関係があります。映画作家は画家と同じように人間の身体や顔を見ることを好みます。風景や建物やビル、人間の作り出したもの、タバコやピストルやいろいろなものを見るのが好きですが、映画作家は何よりも人間の身体を見ることを好みます。走っている人間の身体、泣いている身体、セックスをしている身体です。そこで冒頭の部分に映画の祖先ともいえる19世紀の連続写真を挿入したのです。あれは男と子供が2人でボールを投げて走り、何かを壊すのです。これこそが”ホーリー・モーターズ”、映画の神聖な原動力です。」
岡田「映画の中で”お前がお前として生きるという罰をお前は受け容れなければならない”という台詞が胸に響きました。」
カラックス「撮影をするときに何かの思想があって映画が始まるわけではなく、ある種の映像と、ある種の感情があって、その照合関係を見つけることから映画が始まります。この映画に関しては、2つの感情が基盤にありました。2つの感情、互いに相反する感情といってもいいのですが、ひとつは自分であるのことの疲労という感情です。自分自身を抜け出すことができない、いつも自分自身でしかありえない、そのことからくる疲労。自分であり続けるために狂ってしまうような、そのような疲労感があります。もうひとつの感情は、夢でもありえるんですが、自分自身を新たに作り出す必要、自分自身を新たに作り出したい、という感情です。この映画の中に「"revivez"(再び生きる)」という歌が挿入されています。しかし自分を新しく作り出すことはなかなかできません。かなりの力と幸運がなければそうしたことはできないのです。私は俳優には興味がありません。私が関心を持っているのは我々自身です。」
岡田「人間としては自分自身であることから逃れられないが、そのことと比べれば作家性は変えやすいものだと僕は感じています。僕は作家性を変更させていくことには興味があります。(カラックスが)作家性に興味がない、ということもありえますが、そのことについてお伺いしたいと思います。」
カラックス「私は寡作です。それには多くの理由があります。幸運にして若いときから映画を撮ることができましたが、いろいろな問題があって多くの作品を撮ることができませんでした。けれどもいずれにせよ、多作になることはなかっただろうと思います。それには理由があります。自分が以前の作品を作った自分と同じであると確信が持てなければ次の作品は作れないからです(注*「自分がもはや前作をとったのとは同じ人間ではないという確信が持てないと、新作はとれない」の誤訳をしてしまった、と通訳の福崎さんのツイートがありました。ただカラックスが語る言葉としては、とても美しい言葉だし、むしろとても美しい誤訳だと、勝手ながら感銘さえ受けています・笑)。たくさんの映画を撮る作家もいます。たとえばファスビンダーがそうですが、彼の場合は全てが素晴らしい作品になっています。しかしファスビンダーはそのために自分自身を燃焼させ、若死にしてしまいました。いい映画を作っていたとしても、人生のため、あるいは実験のために、あまりよくない作品を作って生きていく映画作家もいます。いずれにせよ、毎年のように自分を新たに作り出すことはできません。それは不可能です。」
佐々木「『ホーリー・モーターズ』は虚構に関する映画、ということもできると思います。今日のお話は映画と実人生、演劇と実人生という話で展開していると思うのですが、一方で映画と演劇は紛れもないフィクションといえると思います。フィクションのいま持っている力、役割とは?」
カラックス「映画の美は、映画が純粋なフィクションではない、という部分から出発しています。映画の美、映画の詩は、ドキュメンタリー的な部分、ドキュメントの部分から出発しています。この映画のドキュメンタリーの部分、それはドニ・ラヴァンが其処に存在しているというところです。ドニ・ラヴァンは私が作り出したものではありません。私が発明したものではないんです。ドニ・ラヴァンにカツラを被せたり、メイクをしたり、目の色を白にすることはできますが、その下には必ずドニ・ラヴァンがいるのです。(映画の中で)美しい女性が出てきたとしても、それは私たちが作り出したものではないのです。映画がヴァーチャルなものを作り出すこともあります。たとえばモーション・キャプチャーにはドキュメンタリーの要素は存在しません。人間は消えてしまい、その動きだけがコンピューターに捉えられているからです。それはまた面白いものだと思います。個人的に探求こそしていますが、しかしこれはもはや映画とは呼べません。最初に登場したモノクロの連続写真のフィルム、これはむしろ身体をモーション・キャプチャーとして捉えたものだと言っていいでしょう。19世紀に既に発明されているんです。何故人間の体に白いマーカーをつけて、コンピューター処理をする、という発明が生まれるまで、こんなにもの長い間待たされなければならなかったのでしょうか?19世紀に既にモーション・キャプチャーはあったのです。ドキュメンタリーとフィクションの間で、あのモノクロの連続写真では、人間が走り、ボールを投げます。モーション・キャプチャーのようにエティエンヌ=ジュール・マレーは既に人間の身体を捉えていたのです。映画において”モーション”という言葉、これは英語でもフランス語でも同様なのですが、感情、そして感動、”エモーション”という言葉と近いのです。映画にはドキュメンタリーを出発点として、こうやってフィクションに到達していく、という動きが存在します。」
2013-01-18 『Adieu au Langage』 et 『Holy Motors』
■[DAILY]『Adieu au Langage』 et 『Holy Motors』 
まずはアンディ・ウォーホルによるデニス・ホッパーと、デニス・ホッパーによるアンディ・ウォーホルを二枚並べた、架空の切返しの図から。
ジャン=リュック・ゴダールが3Dに挑む現在撮影中の新作『Adieu au langage』から新たなスチールが3枚アップされていました。これは『Adieu au langage』に出演している女優のMarie Ruchatのサイトにアップされていたものです。既出スチールや情報に関してはIONCINEMA誌による「2013年、期待の映画100本」特集、簡単なシノプシスに関してはWild Bunchの『Adieu au langage』公式サイトで確認できます。アメリカでの配給はなんと20世紀FOX社!今年のカンヌ国際映画祭への出品が見込まれているそうです。
現在オーディトリウム渋谷では「逆襲のジガ・ヴェルトフ集団+JLG」「ゴダール/新世紀の起源 De l’origine du nouveau siècle」と題してゴダール特集上映が行われています。
こちらはレオス・カラックスのインタビュー。最新のものではないですが興味深い発言をいくつかピックアップしてみようと思います。
「”怒り”は僕を初心に戻させてくれた。構想していた企画がフランスでは全て流れてしまったんだ。僕はフランスにおける謂わば”病”だね。『Tokyo!』(『メルド』)まで映画を作ることが叶わなかった。東京でドニ・ラヴァンと日々を振り返る間もないくらいのスピードでデジタルの映画を撮った経験を活かしたんだ。『ホーリー・モーターズ』を撮るなら、パリで素早く撮ろうと決めた。そうすれば制作の資金を見つけるのも容易になるだろうからね。」
「『ホーリー・モーターズ』はおそらく僕の作品の中で最も無意識が反映された映画だ。撮影で何をしたかをいちいち見直したりしなかったからだと思う。撮られたものに左右されることはなかったんだ。」
「『ポーラX』に出演したカテリーナ・ゴルベワにE.T.A.ホフマンの小説を教えてもらったんだ。それはホテルの一室にオペラハウスへの秘密の通路があることを見つけてしまった男の物語だ(注*カラックスはインタビューの中で作品名を明かしていないのですが、『ドン・ファン』と推察する批評があります)。男は部屋に行き、オペラを見て、女性と恋に落ちる。素晴らしいアイディアだと思ったね。「私の部屋の前に以前は無かったはずのドアがある」というカフカの一文を思い出すね。僕はこのホテルの一室にある秘密のドアというアイディアを劇場に繋がるドアとして改変した。」
「『ホーリー・モーターズ』は映画の歴史やジャンルを示そうというアイディアが出発点ではない。僕は映画の言語を使ってこのサイエンスフィクションの世界を作った。願わくば映画についての映画とは思われたくないね。」
「自分の作品を見直すことはない。常に僕の中に生き続けているけどね。僕はレファレンスが嫌いだ。でも唯一意識的に自分の過去の作品からのレファレンスを利用したシーンがある。モーション・キャプチャーのシーンだ。ドニ・ラヴァンがベルトランナーの上を走る。これは僕の二作目『汚れた血』のデヴィッド・ボウイの曲が流れるシーンからのレファレンスだ。」
「『ホーリー・モーターズ』は現代を生きることに関する映画だ。リアルなアクションとフェイクなアクションの対立に関する映画だ。」
「『ホーリー・モーターズ』を編集しているときに、この作品はチャップリンの『モダン・タイムス』に近いのかもしれないと思った。」
「僕にとって編集は音楽のようなものなんだ。作曲家になったような気分になれるんだよ。」
別記事で『ホーリー・モーターズ』がLA批評家協会の外国語映画賞を受賞したレオス・カラックスが寄せたメッセージ(授賞式には欠席:受賞を拒否したとも言われています)が紹介されていました。「外国語映画は世界中で作られている。アメリカを除いてね」など、”外国語映画賞”ってそもそもなんやねん!という皮肉でいっぱいの文章(賞賛されています・笑)だったのですが、最後のセンテンスはとても美しいものでした。
「そもそも映画とは、もうひとつの人生を旅する必要がある人のために創られた言語(外国語)なのです。」
『ホーリー・モーターズ』の日本版公式サイトができたようです。ユーロスペースほかにて4月公開&全国順次ロードショー!
レオス・カラックスも来日する「第16回カイエ・デュ・シネマ週間」@アンスティチュ・フランセ東京も今日からスタート!フィリップ・ガレル、ジャン・グレミヨンやジャン・ルノワールの作品を上映するという、カラックスへの白紙委任状のような内容。アラン・レネの新作もやるよ。
http://www.institutfrancais.jp/tokyo/events-manager/cc2013/
ミゲル・ゴメスやジャン=アンリ・ロジェのことも書きたかったですが、長くなってしまったので繰り越しで。最後にハーモニー・コリンの『スプリング・ブレイカーズ』の最高に楽しい公式予告編がアップされたので貼っておきます。あんまり最高な予告編なんで、まだ見ていない映画のようにワクワクしちゃってます。日本ではこの夏に公開が決まったようです。水着ギャル対ギャングスタ!ブリトニー・スピアーズ!『スプリング・ブレイカーズ』の夏が来るだなんて素敵じゃないですか。再会をとても楽しみにしています!
















自分の読解力のなさに打ちのめされました。
映画って難しいんですね