『時の彼方へ』(エリア・スレイマン/2009)


東京国際映画祭「アジアの風」部門にてエリア・スレイマンの新作。4つの時代のイスラエルをスレイマン(最後はスレイマン自身が演じるという半自伝的な作品)が物言わぬ傍観者として見つめる。イスラエルという”特殊”な国籍を持ちながら何処までもコスモポリタンな作家スレイマンは、国内の複雑な戦闘の歴史を織り交ぜつつ、だからこそ何処までもアッケラカンとした手付きで極上の喜劇と活劇を展開させる。雷雨の中、タクシーの運転がままならなくなり「時の彼方へ」ワープする冒頭、続いてセスナ機と車が大接近で並走するシーンから最上級のアクション劇が爆進する。ここの画面連鎖スゴすぎる。TIFFの音響の良さがとても活きてる。


軽度の統合不全を抱えていると思われる隣人は灯油を頭からかぶり焼身自殺を仄めかす近所迷惑の常習犯だ。繰り返されるこの隣人の自殺未遂を毎度トホホな徒労感と共に止めるのがエリアの父ファードの役割。毎夜の海岸での魚釣りは、不審者扱いする軍隊が二人に強烈なライトを当てる(ライトを当てられた二人の振り向きが面白い)。喜劇の全ては繰り返し反復され、やがてズレていく。スレイマンはこの「反復とズレ」のアクションに、悲喜の混濁した情感を持ち込む。灯油かぶりの隣人が起こす喜劇が郊外のブルース(統合不全、記憶障害)のような悲劇と両面性を合わせ持っているように、底抜けの喜劇は底抜けの悲劇を絶えず誘発する。イスラエル建国時の市街戦における銃声の響きと、晩年の母の背後で煌びやかに舞う花火の爆音はどこか似ている(このシーンが更に感動的なのは窓枠=フレームの中の出来事というところ!)。軍隊の機械の如く整理された動きと、学校や屋内における人物の喜劇的な配置と動きはやはりどこか似ている。『生きるべきか死ぬべきか』におけるルビッチの精神がこれ以上ない形でアップデートされたような感慨を受ける。


感動的なのはこの悲喜劇の未来が次代の若者へと放たれるところだ。目の前に大砲を向けられても携帯電話片手に恋人をデート(ダンス)に誘う男子。この男子の行動はどこまでも正しいと思える。クラブの前で若者に注意を促す軍隊は、徐々に4つ打ちのリズムにノッてきてしまう(この作品、音楽の使い方にも「反復とズレ」の作用が細か〜く散りばめられている。路上における「ゴッドファーザー 愛のテーマ」の口笛の響き方、反響っぷりが忘れられない!)。


同時にこの喜劇は人生を左右する離別を描く。深い悲しみと笑いは、表裏一体のポエジーとして放たれる。大傑作。今年のベスト候補。

『シーリーン』(アッバス・キアロスタミ/2008)


カンヌ国際映画祭60回記念につくられたオムニバス『それぞれのシネマ』のキアロスタミ篇を見た方なら『シーリーン』における実験的な作風はある程度予測できたのではないか。上映前にキアロスタミからの伝言ということで「日本の観客は世界一我慢強い。今回は30分だけ我慢してください。30分だけ我慢したらご褒美があります」というコメントが発表される。承知してます。とはいえ、まさか91分をアレだけで乗り切るとは!隣でノートを開いて一生懸命メモしていた女性(映画ライター?)は途中で深い眠りに落ちたようです。かくゆう私は先日のギー・ドゥボール『サドのための絶叫』で妙な免疫ができていたせいか全く眠くはならなかった。ただ、上映後、一部の方の大きな拍手喝采の傍らで、本当に考えさせられた作品でもあります。作品制作に2年かけたというキアロスタミの情熱的挑発に。


スクリーンに投影される映画館で映画を見る女性のアップは、そのまま、この作品を見つめる私たち観客の切り返しショットとしてある、というもっともらしい言い方は間違いではないと思うけど、彼女たちの瞳から覗き見る彼女たちの目の前に投影された映画=光の強さの前に、どこか頼りない。以下、考えたことを簡単にメモしておきます。


映画において人物の顔アップが劇的効果を目的として使用されるのならば、劇的効果と劇的効果を絶えず繋いだ場合、劇的効果は役割を失い、平均化を余儀なくされる。キメのショットの連続はキメにあらず。素晴らしい顔の連続で迫るキアロスタミの挑発は、劇的効果の平均化への批評ではないか?


この間見たギー・ドゥボール『サドのための絶叫』は視聴覚を完全に分断していた。あそこには見つめるべき対象すら不在だった。キアロスタミは『シーリーン』で女性の瞳の奥に画面を投射する。「視覚の物語」は女性の瞳の奥の光と、女性の顔という実存性にこそあるが、「聴覚の物語」は完全に私たちの見つめるスクリーンの外にある。『サドのための絶叫』とは全く逆の方法で視聴覚が分断されている。「聴覚の物語」が言葉を失った際、メロドラマによく似合う音楽が流れる。音楽の前で女性は涙をこぼす(ジュリエット・ビノシュ!)。女性の目の前にあるスクリーンの明滅と、私たち観客側のスクリーンの明滅が重なる。あらためて人や物が影でしかないことが剥き出しになる瞬間、儚さと恐れを感じいる。すべての光がなくなってしまったら、私たちの存在自体が消えてしまう。キアロスタミの挑発は人と物の存在、存続へ向けたギリギリの賭けだ。