金色喜女

marginalism2017-06-09


 Noism1『Liebestod−愛の死』レパートリー『Painted Desert』埼玉公演初日に行ってきました。
 http://noism.jp/npe/n1_liebestod_pd_saitama/
 私は特に日程の都合に問題がない時は初日のチケットを取るようにしています。
 以前、たまたま初日のチケットしか取れなかった公演に行ったら、翌日から病気休演でそのまま死ぬんじゃないかという空気に居合わせてしまったこともあるんですが(その後復帰され、今も無事生きて活動してらして何よりです)、楽日のテンションではなくて、通常のテンションでどこまで魅せてくれるのか知りたいからというのもあります。楽日には何か起こりやすい、その何かを目撃したり共有する醍醐味も知ってはいるんですが、何らかの表現をするプロの人たちがそういった特別なモチベーションの働かない日にどこまで出せるか地力を知った方がその人の表現者としてのポテンシャルをきちんと見極められそうだから、という理由もあります。

 今回のNoism公演はかなり意欲的で心意気に好感を持ちました。

 山田勇気演出振付の『Painted Desert』は、私が初めて観る金森穣と井関佐和子が直接関わっていないNoism作品だったのですが、その二人がいなくとも50分(だったかな?)充分及第点で成立させることが可能だとわかったのは観客として収穫がありました。
 石原悠子が化けたな、と思ったのは『カルメン』再演でミカエラを演じていた時なんですけど、彼女はいつも作品に対して献身的で健気なんですよね。こういう作品で与えられた役割はもっと中心に入ることかなとも思ったんですけど、それはもう場数を踏めば身につきそうだし、それしかなさそうなので、もっとこういった役割に慣れたらいいなと思いました。そうしたらもう一段階化ける。今回は池ヶ谷奏がそういう意味で化けたというか、ステージ上がったんではないかと目を引きました。中川賢も含めてこの辺りのダンサーがしっかりするとカンバニーとしては安定すると思うので、この作品は大切な機会だったんじゃないかなと。芸術監督と副芸術監督が彼ら彼女ら(山田勇気含め)に安心して任せることができるようになれば色々楽になるんじゃないかなと。Noismは「間がない団体」という印象も強かったので、彼ら彼女らの成長によってカンパニーもまた成熟に近づいた兆しが見えました。
 作品自体に関しては女装男性ダンサーと男装男性ダンサーのリフトが優雅で迫力があって良かったです。いつか男装女性ダンサーと女装女性ダンサーのリフトも入るといいな。アイスダンサーで男性をリフトする女性もいるので、タイミングをうまく取れればできそうだと思ってるんですけど、フロアダンサーだと私が思っている以上に難しいんですかね?男性をリフトする女性の姿が格好よくて大好きなんですよ。仏リヨンに独創的なリフトを次々と考え出すアイスダンスコーチ兼コリオグラファーの先生がいるので、もし気になるようでしたら、ミュリエル・ザズーイという名を覚えておいてください。ミュリエル先生の作るリフト大好きです。女性に男性をリフトさせるというアイディアを実行させてそのカップルを五輪金メダルに導いたのも素晴らしいです。今リヨンのリンクが改修中らしいので、余裕ありそうなので是非。
 それにしても、スカートを履いた男性ダンサーは可愛らしい。ピナ・バウシュカーネーション』の時も思ったけれども、女性よりずっとたおやかで可愛らしい。成人男性の可愛らしさが剥き出しになる機会を普段なかなか見られないので貴重だ。女性ダンサーが男装をすることにおいてはそのような意味合いは帯びない。マニッシュもしくはボーイッシュなファッションが市民権を獲得している時代において男装のショートカット女性は舞台での異化装置にはなり得ない。この場合は女性が既に獲得しており、男性が未だ獲得していないジェンダーの非対称性によって異性装の意味合いが異なってしまう。そして男性が生きる不自由な世界のことを思う。逃れられない視線から自由になる舞台空間を私は愛する。そこで繰り広げられたことが遅れて普遍性を帯びる世界のことも思う。
 Noism作品でたまにフェリーニ的だという印象を受けることがあるのですが、『8 1/2』の「人生はお祭りだ」に象徴される不思議ながらも楽天的で解放されたラストの大団円のことが念頭にあるんですよね、きっと。
 『Painted Desert』はまさにフェリーニ的で、だからこそNoism的でもあるなと。だからこうやって金森穣以外の作品の上演機会が増えることはNoismの幅が広がっていいなと感じました。思っていたよりNoismって強度のある集団なんじゃないかなとなぜか安堵しました。今やっと芽が出てきたところでもある感じなので、焦らず少しずつみんなで見守って育てて拡張できればいい部分が見えて嬉しかったです。

 新作『Liebestod−愛の死』は、タイトルとポスタービジュアル見た瞬間に沸き立ちましたよね。おおついにワーグナーきたかと。いや音源明記されてないけどこのタイトルでこのビジュアルならワーグナーだろと直感で。これクリムトでしょ?じゃあワーグナーじゃん!と。「イゾルデの愛の死」ならベジャールの『M』だ、あそこに挑戦してきたかと直感で沸き立ちましたよね。その直感が当たっていたことが判明して、しかもめちゃくちゃ金森穣に強い影響を与えてきたことを知って武者震いを起こしましたが、その時点ではただただ興奮してました。
 私、ベジャール作品の『M』の「イゾルデの愛の死」使用シーンがとてつもなく印象深かったんです。音楽が聞こえないくらいに。音楽が聞こえないどころか作品中最大のクライマックスであろう切腹シーンも見逃すほどにただただ緑色の海と楯の会の持つ桜の美しさに見とれてよだれ垂らすし、首も固定していたみたいで痛めるし、そこで「イゾルデの愛の死」が流れていたことにすら気づかないし。聴覚優位の私が視覚的に取り込まれて他の感覚を忘れたのは後にも先にもあれ1回きりなんですよ。あとでパンフレット読んで、あそこで使われていた音楽を知ってなんでそれが聴こえてなかったのかと崩れ落ちたという。でもあまりにもそこでそれが流れるのが適切すぎて視覚からその曲を見たんだなともまた思ったんですよね。そして金森穣が『M』について語るまでベジャールの弟子だということをうっかり失念していたんです。なので点と点が繋がった瞬間に震えました。私と金森穣は同じ作品の同じ場所で感動を共有していたんです。同じ魅力に取り憑かれた人間があの曲で勝負するんです。これで金森穣と共有できるものがなければ私もう彼の作品を観なくていいと覚悟して作品に臨みました。
 
 吉崎裕哉は『カルメン』の闘牛士役を観た時に、街の人気者のものすごい陽のオーラを撒き散らしていたことが印象に残っていて、あの華やかさが持ち味のダンサーのキャスト名が「末期の男」ってどういうことかな?と気にしていたのですが、多分彼はとても素直な人なんですね。緊張や固さが客席のこちらにも伝わってくる。求められた役割を果たしているかどうかは私にはわからないところがありますが、素直さは長所なのでこのまま濁らずに舞台に立ち続けて欲しいです。だって今回ひどい。舞台上には金森穣の気配が濃厚で、井関佐和子は「穣さん!穣さん!穣さーーーん!!!」という気持ちをぶつけてくるし、こんなシチュエーション誰だって戸惑うわ。こんな身代わりですみませんってなるわ。夫婦でひどいわ。ひどい夫婦相手に目の前の女の視界に本当は自分がいないのにそれでも相手をし続ける報われない男の心情を表現していて、そういうものとしては成立していたので偉かったわ。金森穣が繰り返して扱う「人形」というモチーフを意図的には託しているわけじゃないんだろうけど、そういうものとしてそこに立つしかできないし、そこに寄りすがるしかないし、彼なりのベストは尽くしていたと感じました。誰もが思うよ「夫婦でやれ」と。夫婦でやらないから倒錯的な世界観になってて、それはそれで面白かったからいいんですけどね。

 そんなこんなで可哀想な当て馬が退場して井関佐和子の独壇場になったらすごかった。

 「ラブレター」というキーワードを見かけて、二人から客席への「ラブレター」なのかなとてっきり思い込んでいたんですが、客席無視の正真正銘振付家である夫から舞踏家である妻へのラブレターだった。そして舞踏家である妻から振付家である夫へのラブレターでもあった。愛する人にしか見せない可愛らしい表情を湛えてなぜか客の前で井関佐和子が踊る。そんな楽しそうで嬉しそうな顔を客席にまで惜しみなく見せていいの?と彼女とその表情を一身に受けるはずの彼の尊さに涙する。こんなにデリケートな部分をさらけ出す勇気に感動する。
 『M』は緑色と桜色が蠢く様子に見とれていたけれども、今回は金だ。金森穣の「金」、井関佐和子の「金」髪、二人の愛の象徴は「金」だ。金の幕が燃え盛る。自分を、相手を燃え上がらせる行為を象徴する金の表現・黄金の愛が素敵だった。ずっと声を漏らさないように口元に手ぬぐいを押し当てながらむせび泣いていた。人を愛していることを表現するのは脆くて怖くて、でも強くて、ありったけの臆病さをありったけの勇気で乗り越えた人だけがたどり着ける境地で、傷つきすぎて、これ以上傷つきたくなくて、それを見せられない人間にはただひたすら眩しい。死で終わる物語を私たちの世界では「悲劇」と分類することになっている。しかしそれは当人にとっては悲劇なのだろうか?
 「あこがれのために死ぬのではない、死にながらあこがれるのだ」という言葉への説得力を与えた振付家と舞踏家が表現したのは死によって結ばれる、死によってしか結ばれない二人のそれは幸福への扉なのではないかということ。イゾルデ=歓喜の女は喜びの絶頂でその瞬間を迎える。それは悲劇ではないし、正しい行為だと信じきっている。三島由紀夫=Mの時もそうだった。この曲はそういう使われ方をした。愛に殉じるものたちの死、もしくは死によって愛が成就するものたちの生、愛の行為としての死を選ぶものたちのその瞬間に流れる音楽は歓喜の歌以外の何者でもない。純度の高い無垢な喜びしかそこにはない。


 その様子を見てむせび泣く私は、度重なるdisasterにより男性不信、人間不信を抱えてしまっているため、誰かといるより一人でいることの方が気楽だ。あまりにも傷が深いため心療内科認知行動療法も追加されてしまい、この日もカウンセリングを受けてから会場に向かった。でも、一人でいることで何も残らないのは寂しいとも思う。死ぬ時に誰かと取っ組み合って築いたものが何もないことはきっと寂しいだろうなと思う。崩壊した世界をずっと歩いてきたせいで、心を許せる人がどこにもいない人生が寂しい。「人を愛する」という感情を忘れているのか、もともと知らないのかもわからない。「愛の世界」の住人は違う世界の人たちだと思ってきたのに、そこにあこがれる私がいる。その世界に移住できるかもしれないとかすかな希望を抱く私がいる。「愛の世界」の言葉を知りたいと思う。奪われた言葉なのか教えてもらえなかった言葉なのかわからないけれど、習いたいと思う私がいる。逃げるより格闘したい私がいる。