エドワード・ホール『かくれた次元』

この本こそ、まさに、
モラトリアム
な一冊の一つにふさわしい、と言えるだろう。特に、若い人たちにこそ読んでほしい一冊だと思う。
なぜ、この本が多くの人たちに読まれるべきと考えるのか。それは、自分を相対化することと関係する。自分を相対化するとはどういうことか。私が若い人と言った意味は、彼らが「これから」多くの人との関係の中を生きることになるだろう、という意味になる。
しかし、それは、どういうことを意味しているのか。
子供の頃というのは、人間関係が狭い。それは、例えば、クラスの中での関係であり、部活動の中での関係であり、いずれにしろ、そういったある「継続した小集団」内での力の関係の中に、閉じていた、と言えないこともない。そして、その集団は極端に「同世代」に閉じる。
もちろん、その中でも、さまざまな軋轢は、言うまでもなく存在する。ストレスは当然、人間ですから、無くなることはない。というより、イジメを典型として、場合によっては一般社会など比較にならないくらいの負担を人々に残すこともある。しかし、言い方はあまり良くないが、イジメは一つの最悪のケースであり、それは、一つの典型ではあるが、この世の中は、さらに、多様なストレス社会であるとも言える。
たとえば、世界各国の自殺率ランキングというのを見ると、日本は東欧の旧共産圏の中に混じって、極端に自殺率が高い。ということは、どういうことなのか。東欧の旧共産圏が、どういう所であるのかを考えると分かりやすいでしょう。社会的な人の流動性がない社会だと言える。ある現場で、自分の地位を確立する。しかし、そこで「あんた、いらない」となると、途端に真っ暗になる。自分のここで長い間、つちかってきた、スキルなどが、外で評価されにくいことを意味している。
基本的に、社会が「秘境」「秘術」的な、感じなのだろう。以心伝心。「みんな」新卒採用。相手が、「何年入社」かどうかだけで、判断される。基本的に、外から人が来ない。すると、どうなるか。他人の仕事を客観的に評価する基準がない、ことを意味する。俺はこんなに身を粉にしてがんばってるのに、なんで分かってくれないんだ。しかし、いいのである。評価がない、ということは、「みんな」分かってる、ということである。ここで大事なことはその「みんな」である。ここには、「外」の人は入っていない。「中のみんな」。内部に評価の基準がないということは、外部にはさらにない、ということである。秘境的、秘伝的、内部の以心伝心が彼ら内部を繋ぐ全てであったとするなら、そこから外れるとは、なにを意味するのか。
彼は、自分の優秀さを人に伝えなければならない。自分はこれだけのことをできる。きっと役に立つ。そこで、戸惑うわけです。変だな。俺は中にいたとき、「こういうのを相手にしていなかった」。なのに自分が外に来たら、その相手にしていなかった奴らと同じことをするんだ...。
NGOライフリンクの清水さんが言っていたように、自殺するケースでは、さまざまな事態が複合して襲ってくる場合が多いという。その中の一つとして、所属部署の配置転換が言われていた。その理由の詳しいところまでは、私には分からないが、やはり、新しい所に移転するということは、自分の今までの蓄積がスキルとなるのか、という不安があるのだろう。
私が掲題の本を推奨する理由の一つもここにある。人は動物である。「間違いなく」動物である。私たちも動物と同じように、ストレスに弱い。ストレスは、体内の免疫系を弱め、人の抵抗力を弱め、さまざまな肉体的な問題を悪化させやすくする。
こういったことを、意志の問題だけに、極論することは、問題の解決をさらに困難にするだろう。
人間のあらゆる能力は「トレードオフ」である。ある分野での、極端なまでの、才能は、往々にして、他の分野の無能と等値の事態である。しかし、こういったことを極端に非難することは、現代社会においては、あまりふさわしくない。大学教授など、さまざまなクリエーティブな仕事をしている人たちには、往々にいて、一般常識を疑いたくなるような人格を指摘したくなることがあったとしても、むしろ、それが彼の学問的なモチベーションなのかもしれない。私たちがこのグローバル競争社会で少しでも比較優位になるということは、ほんの少し、鼻差だけでもの差によってでも、この競争に勝つことを求められている、と言えなくもない。ということは、どういうことか。さまざまな「才能」に鷹揚である「べき」ということを言っている(私たちに求められているのは、安心社会ではなく、寛容社会なのかもしれない)。
これが、個性尊重社会、なのだろう。
しかし、私たちが、まるで、天の声のように、個性を尊重、と言う前に、そもそも、人間とはなんなのか、いや違う、「動物とはなんなのか」そういった知見の上に考える必要がある。

区画2と3にシンクがおこったとき、すべては変化した。オスにいくつかの型が区別できるようになった。

  1. 三ビキほどいる攻撃的なドミナント・オスは、正常な行動を示した。
  2. 受身的なオスは、攻撃も性行動も避けた。
  3. 過剰に攻撃的な下位のオスは、メスを追いまわしてばかりいる。三ビキか四ヒキのオスが、逃げまわる一ピキのメスを同時につけまわす。追跡帰還の間、これらのオスたちは礼儀を欠いてしまう。穴の入口で立止まるべきところを、メスについて穴の中へ入ってしまうので、メスは一時休止ができない。また交尾のためメスの背に乗るとき、通常二、三秒でよいところを数分間もメスの背の皮膚に咬みついている。
  4. 汎性愛的(パンセクシャル)なオスは、発情メス、非発情メス、雌雄、老若の区別なくどれにでも乗りかかろうとする。
  5. 何ビキかのオスは社会的、性的交渉から退いて、主に他のネズミが眠っているときに外へ出ていってしまう。

上記の引用は、ドブネズミをある、人工的な閉鎖された実験環境に、複数匹をある程度、個体密度を高くして育てた場合の現象を記述している。
さて上記の引用の最初にあるシンクという言葉であるが、以下のような定義となる。

シンク(sink)ということばは、腐ったものやごみを捨てる容器つまりごみためから転じて用いられている。カルフーンは、ロックヴィルの小屋のネズミの多くにみられた行動のゆがみをひっくるめて呼ぶために「行動のシンク」(behavioral sink)ということばを作った。彼の考えによれば、このような現象は、「動物が一カ所に異常に多く集まったときにおこる行動的プロセスの産物である。これを示す『行動のシンク』ということばが不健康な意味をもつのは、けっして偶然ではない。まさに行動のシンクは、集団の中に生じるあらゆる病理的な状態を悪化させるように働くのである。」

こういった指摘が、なにを意味しているのかについては、若い多感な時期を過している人たちには、よく理解できるのではないだろうか。
重要なことは、これを、単純に個人の「心理の病気」の問題に局限できるのか、ということなのだろう。
以前に、なぜオスが、これほど、瞬発力系の筋力が発達しているのか、ということを書いた。ようするに、こういった筋力の発達を抑制する、免疫系がホルモンなどで抑圧されているから、ということになる。ということは、どういうことか。免疫系が抑圧されているということは、それだけ、ストレスに弱い、ということになる。
男はストレスに弱いわけだ。あんまり自分を過信するのもよくないのだろう。無理に、自分は社交的と強がるのも場合によっては、考えもの、ということだろうか。
しかし、これは、特に育児中の女性や子供にとっては、決定的に重要なことである。
動物など下等な存在であり、ただ、アナーキーにバカばっかりやってるのだろう、と考えているとしたら、とんでもない進化論否定論者ということになるだろう。動物とは自分たちのことであり、自分たちの鏡であり、結局のところ、なにも変わっていない、という側面は当然のように指摘されうる。
動物の世界を支配しているものとは、「なわばり」と「順位」である。なぜ、上記のネズミたちが異常な(まるで人間のような)サディスティックな行動をとり始めたのか。それは、食料の問題ではなかった。そこには、好きなだけ、食料が人間によって提供されていた、実験環境であった。このネズミたちは、その
「なわばり」と「順位」
を維持できるだけの、距離、空間をお互いの間に確保できなかったわけだ(これが、この本のタイトル「隠れた次元」、の意味になる)。
つまり、ここに
都市設計
の重要な、ポイントがある。
各個人は、必要以上のストレス社会に自分のポジションを見つけなければならない。だとするなら、そんな彼らが「帰る場所」は、どこまでも、プライベートな空間が、
他人と関係なく
存在する必要があるだろう。つまり、それが「なわばり」なのだが、別にそこは、孤独である必要はない。地域猫のような、動物がいたっていい。
他方の、「順位」であるが、ここで重要なポイントは、これは、極端に、「正確」である必要はない、ということである。とりあえず、でも、順位がある方が、礼儀の体系が機能して、社会は秩序を構成しやすい、ということである。
ですから、よく、スポーツでいい成績をあげた人が言うように、「みんなに感謝」なわけだ。どんなに社会的な地位の高い人でも、多くの人たちの譲り合いの精神で、のびのびと才能を発揮できたはずだし、子供を身籠った、お母さんが、「社会で一番弱い」んですね。そういう、一番弱くても、子供は、この国の財産ですから、みんなで、そっと距離を置いて、見守ってやれるような、寛容な部分を社会が持たないと、なんもかんもが、ストレスで、日本社会そのものが、滅んでしまうのでしょう。
そんな感じで、私はこの本から、多くの若者たちが「考え始める」のではないか、と思うですけどね...。

かくれた次元

かくれた次元