政治におけるコミットメント

政治というのは何かと考えてみると、結局、私たちは今ここで生きている社会が、よりよいものになっていくことを目指して行う日々の営みだと言うことができるのかもしれない。
政治には二種類ある。一般的な、大衆社会論から考えるなら、政治とは、言わば、一人一人のコミットメントのことだと言えるであろう。そして、その一番分かりやすい例が、選挙である。選挙は一種の「権力」であるわけが、いずれにしろ、その一票の積み重ねが、選挙の勝利となる。確かに、一人の票など、なんの大きさもない、と思うかもしれない。しかし、ある人の

  • 私は次の選挙では誰誰に投票する

といったような、コミットメントは、その人に、大衆運動的な「動員」を結果させる場合があるわけで、見過ごせないわけである。
コミットメントとは、一種の「約束」のことである。一週間後の選挙の日に私は選挙場に行って、ある政党に投票すると「約束」することは、こうやって、パブリックな場で、そういった発言をすることによって、その人に「簡単に自分が公の場で多くの人を相手に約束したことを反故にはできない」という、いわば「弱い強制性」が働くと考えられる。
(ちなみに、もう一つの政治とは、リチャードローティが言った「詩人=エリート」による政治である。ローティは、世界を「リード」していく、イノベーティブな知は、一部の限られた「エリート」の中から、言わば「詩」という形で、一般大衆に語られる、といった見積りを行った。彼の考えでは、この世界を牽引するのは、「エリート」であって、大衆は「エリート」が考えた、イノベーションをパクることしかできない「動物」のような低能な存在だと考えた。)
いずれにしろ、このコミットメントは重要である。というのは、私たちは、そういった人々の「約束」をもって、この世界を見通すからだ。

  • 私はAという意見に賛成である。なぜなら、Bという理由によって。

と言われたとき、私たちは、この社会の、なにもない空間に「補助線」を引いたことになる。つまり、この意見を「基準」として、意見が分かれていく。そして、こういった意見の集積が、一つの投票結果に帰結するなら、それは実際の「力=権力」となっていく。
しかし、です。
ここにパラドックスがあるわけである(こういうことを言うと、また怒られるが)。
前回、哲学者のパラドックスについて書いた。プラトニストは、「中庸」を

  • 思い出す

わけであるが、このことを日本の原発政策について考えてみよう。日本は原発を止めるべきであろうか? この問題においても、プラトニストは「想起」する。原発賛成派と、原発反対派の

  • 共通点

とはなんであろうか? それは、賛成派も反対派も「賛成」する、という奇妙な主張のこと、となる。それが「中庸」である。
なぜ、原発賛成派も原発反対派も賛成することになるのか? それは次のようなレトリックによって、成立する。

  • 無限の未来においては、日本は原発廃炉すべきだ。
  • ただし、今すぐには、日本の原発廃炉はしない。

この二元論の何が問題なのか? この主張のポイントは、現状においては、まったく「廃炉」を強いるパワーの行使を行わないことが決定している。そういう意味では、完全な保守派の意見に便乗している。しかし、そう開き直っては、原発反対派に

  • 軽蔑

されてしまう。それを回避する方法として、「無限遠点での<廃炉>」を主張することになる。こっちの意見においては、確かに「威勢がいい」。原発廃炉にしろ、と確かに言っているわけで、未来永劫、原発を行っていきたい人たちには、一見すると、耳の痛いことを言っているように聞こえる。
しかし、ちょっと待ってほしい。
よく考えてみよう。
無限の「未来」とは何だろう? 重要なポイントは、その時代には、私たちは「生きていない」ことである。これは、決定的である。はるか未来に、原発廃炉になるべきだ、と言っても、その時代には、すでに、私たちは死んでいる。はて、どうして、そんな自分がちがもう生きていない時代の

  • 選択

にコミットメントができるであろうか。言うまでもないが、はるか未来の日本の選択は、「その時代の人」たちによって決定される。どんなに、その時代に何かを言いたくても、なんの

  • 発言権

が今の時代の人間には存在しない、ということなのである。
ここは重要なポイントである。
上記のプラトニストの「悟り話法」は、何が悪かったのか?
私たちは、結局のところ、「自分が生きている間」にしか、コミットメントできない。まあ、選挙権がない。だとするなら、「はるか未来の原発廃止」は、何も言っていないのと同じ、ということを意味する。こうした場合、私たちは何にコミットメントできるのか、、を問うことが非常に重要だ、ということになる。
つまり、どういうことか。
私たちが生きている間。一般的な「寿命」と呼ばれている期間の範囲の間に、何にコミットメントをするのか、と問うことが重要になる。私たちが、80歳になるだろう、あと3、40年くらいの間に、原発は何基まで削減するのか。どうやって、「もんじゅ」を廃止するのか。
はるか未来には、原発を日本が止めると言うなら、あと3、40年という自分たちの寿命が尽きる間に、どれくらいの「割合」にまで、低くするのか?
言うまでもないが、私たちが考えることができるのは、ここまでです。
それ以降の日本人がどうするのかは、その時代の人たちが考えることになります。そして、大衆社会論においては、それ以降の「未来」に介入しようとすることは、現代人の「傲慢」だ、ということになるでしょう。未来の私たちが何を選択するのかに、私たちが介入することはできません。その時代のことは、その時代の人たちが選んだ未来が行われることになるでしょう。だからこそ、私たちは

のこの時代の「責任」を、引き受けようとする。その限りある「有限」の時間の中において、やれるだけの「理想」のために、何ができるのか、と(倫理的に)問うわけです...。