3-3. 銀行信用デフレ(Bank Credit Deflation)

3-3. 銀行信用デフレ(Bank Credit Deflation)

通貨供給側が原因となるデフレは歴史的に見て二種類に分類される。最も有名なのは部分準備銀行の崩壊や収縮にともなう通貨供給減少で、金融危機などに伴って預金者が一斉に大量の引き出しを行う結果生じる。第二次大戦前までは、預金取り付け騒ぎの多くは景気後退の序幕であり、これらの景気後退は常にデフレを伴っていたと言ってよい。「銀行信用デフレ」は、預金者が銀行に預けてある元本保証の資産が戻ってこないのではないか、という不安を抱いたときに発生する。

銀行は預かったお金を金や銀という形の資産にするが、部分準備銀行は、預金者が一斉に預金を解約してきてもそれらを全て支払える立場にはないのが普通である。なぜなら、預かった資産の何倍ものお金を貸し付けているからである。

金融危機から生じる取り付け騒ぎは、多数の銀行を完全な破綻に追いやり、預けてあった現金・預金は実質無価値となってしまう。生き残った銀行たちも、預金の一斉解約に備える必要があった。結果として、これら生き残った銀行は融資に慎重になり、できるだけ多くの現金を用意することで、取り付け騒ぎを沈静化させるようになる。預金一斉引き出しと、銀行の貸し渋りという組み合わせは、通貨供給量の大幅な減少につながり、それは通貨そのものの需要を喚起し、結果として通貨の価値上昇につながる。

第一次世界大戦後の米国では、中央銀行が各銀行の持つ金資産を担保として預かるようになった。この結果、インフレ後に生じる金融危機が生む銀行信用デフレをうまく押さえ込み、銀行システム全体が崩壊するのではないかという預金者の不安を回避できるようになった。

この銀行信用デフレは、たいていの場合は数々の銀行破たんに端を発するわけだが、我々はこの種のデフレを経済にとって良い効果をもたらすと判断する。銀行信用デフレは、部分準備銀行がもはや正常に機能せず、預金全額が返ってこないと判断した預金者達が自発的に資産を取り戻そうとすることから始まる。信用第一で商売をしている企業は、たとえそれが金融機関であれ、装甲車を作る会社であれ、法律事務所であれ、市場の信用を失ったら、市場から排除されるような調整が働き、消費者は信頼を取り戻すようになる。銀行信用デフレは良性であり、自己浄化過程の一環にすぎない。

1930年代以前は、物価や賃金は法的な制限で縛られることはなく、銀行信用デフレは一過性のものであり、深刻な経済混乱につながることはなかった。事例を紹介しよう。

1839年初頭の米国では金融危機が生じていた。これは1830年代に設立された特権銀行であるSecond Bank of the United Statesがもたらした強力な経済拡張への反動であった。ビジネスがピークに達した1839年から底を打つ1843年まで、通貨供給量は34%減少し、Bank of the United Statesを含む23%の銀行が破綻し、卸売り価格は42%下落した。大規模な価格下落にも関らず-実際のところは大規模な価格下落があったから、なのだが-この間の実質GNPと実質消費は、それぞれ16%, 21%と伸びを見せていたのである。一方で、実質投資額は23%減少したが、これは経済にとって良性であった。デフレ期前に発生した過剰投資は生産される必要があったからである。残念なことに、このような銀行信用デフレの良い面は、大恐慌の発生と共に忘れ去られてしまった。

1929年から1933年に発生した銀行信用デフレによる通貨供給減少規模は、1839年から1843年にかけて生じたそれと実質的には同じ程度であった。だが、Hoover政権および初期Roosevelt政権が実施した「安定化政策」がもたらした物価や賃金の硬直性は、デフレ下における資本資産の再割当過程を妨害してしまった。

自由な資産交換が妨害された結果、経済は約1/3収縮し、1929年から1933年までの間、物価は20%下落したのである。

  • 金融機関の破綻に端を発するデフレ。
  • 破壊的創造という観点では良性=市場から退去すべき参加者が一掃される
  • 大恐慌以前は短期的かつ急速に収束するものだった。
  • ケインズ主義による各種救済策が導入されるようになってから、長期化・深刻化し、悪性となった。