3-4. 接収デフレ(Confiscatory Deflation)

3-4. 接収デフレ(Confiscatory Deflation)

既に述べたように、デフレ全てが良性というわけではない。ある種のデフレは非常に悪性である。それは政府や中央銀行が引き起こすもので、財産権を侵害し、貨幣価値をゆがめ、商取引を妨害する性質を持っている。この悪性デフレが長引けば、その経済は原始時代の物々交換社会に引き戻されるかもしれない。

この種のデフレは、政府や高級官僚が人々の手持ち現金を即時接収する形で始まる。このようないわゆる接収デフレは過去20年間の間に何度も起きているが、世の嫌デフレ派はその事実を完全に無視している。例えば80年代にはブラジル、旧ソ連、そしてアルゼンチンで接収デフレが起きている。二年前はエクアドル、そして現在は再びアルゼンチンだ。このような接収デフレの存在に気づき、その悪影響について非難している経済学者はMurray Rothbard以外に存在しない。

接収デフレはたいていの場合、銀行信用デフレの進行で金融システムが清算の危機に立たされているような状態において、政府筋が介入する形で発生する。要は預金凍結である。

接収デフレのわかりやすい事例は、今まさに進行中のアルゼンチンであろう。1992年、またもやハイパーインフレに襲われたアルゼンチンは、米ドルに1:1で固定された新ペソを導入した。この新ペソとドルの交換比率を一定に保つため、アルゼンチンの中央銀行は二つの確約をした。一つはペソとドルの即時交換。もう一つは自身のペソ債務をほぼ100%、ドルで保証することである。この方式はIMFが承認したものであり、結果として暗黙の救済保証があったわけだが、銀行の信用発行が爆発的に膨張することを防ぐことが出来なかった。

投資目的の米ドルが国中にあふれ、それらの米ドルを元に中央銀行が商用銀行の準備金を拡張し、各商用銀行はその準備金の上に銀行預金を上乗せした分にレバレッジをかけて、融資に回したのである。結果、アルゼンチンの通貨供給量(M1)は1991年から1994年までの間、年率60%もの伸びを見せた。95年に5%の減少をした後、M1は再び急増を始める。96年が15%、97年が20%。だがペソが過大評価されていると判断した海外投資家は、ペソの対米固定が長続きしないと判断し、アルゼンチンへのドル流入は急停止する。98年のM1は1%しか伸びず、アルゼンチン経済は急速に景気後退に突入。99年になるとM1はやや縮小を始め、2000年には20%の縮小を記録した。

通貨供給の縮小は2001年6月まで二桁の勢いで続く。2001年になると、アルゼンチン国民は銀行システムに不安を抱き始め、預金流出による銀行信用デフレが始まり、預金量の17%に相当する145億ドルが引き出された。同年11月30日だけで、7億ドル〜20億ドル程度(色々な数字がある)の預金が各銀行から引き出された。この金曜日の取り付き騒ぎ直前でも、中央銀行の準備金は55億ドルしかなく、これで700億ドル相当のペソ預金を保証しなければならなかったのである。Fernando de
la Rua大統領とDomingo Cavallo経済大臣はこの事態に対処すべく、同年12月1日土曜日、ペソの対ドル固定を守るための政策を発表した。具体的には、向こう三ヶ月に渡り、国内預金者が引き出せる金額を一週間あたり$250に制限。海外への送金は$1000までと厳しく制限された。

海外への現金持ち出しは禁止された。銀行はペソでの融資を禁止され、米ドルでの融資のみが可能とされた。だが、米ドルの流通はきわめて希薄だったのである。小切手やDebitカードでの支払いは可能とされた。だが、当座預金やDebit/クレジットカードをもてない低所得者層にとっては何の意味もなかった。

Cavall経済大臣が引き起こした無慈悲で悪質な接収デフレは当然のことながら現金取引商売に大打撃をもたらした。「小売取引市場は完全停止に追い込まれた」という報告もあった。結果として景気後退は悪化し、暴動や略奪が巻き起こり、27名の命が奪われ、民間事業は何百万ドルもの損害を受けた。戒厳令が敷かれ、de la Ruaは引責辞任した。

1月6日には新たにEduardo Duhalde大統領とJorge Remes Lenicov経済大臣が就任し、過大評価されていたペソを対ドルで30%引き下げるという発表を行った。だが、1ドル=1.40ペソという公式レートは、闇レートと比べるととても高い水準であった。アルゼンチン政府はもちろんこの事実に気がついていたが、ペソ交換レートを現実的なものに近づける代わりに、接収デフレを強化したのである。政府は$3000以上の預金口座を一年間凍結。総預金額670億ドルの少なくとも1/3が影響を受けたと思われる。うち、435億ドルは米ドル預金で、残りはペソ預金であった。$5000未満の預金口座保持者は、凍結終了する1年後から12ヶ月分割で預金引き出しを許された。それ以上の預金口座保持者は2003年9月まで預金に手をつけることが出来ず、その後も2年かけて引き出すことが強制された。ペソ預金についてはより自由が与えられたが、最初の凍結で既に1/3の価値を失っていたわけだし、その後何度も切り下げの憂き目にあっているのである。ペソ預金引き出しが許されたのは二ヵ月後からだが、やはり分割引き出しは強制された。小切手やクレジットカードについては制限はなかったが、これらはアルゼンチン庶民の手が届くものではなかった。

Lenicov経済大臣はこの接収デフレは、実質破綻していた部分準備金銀行システムを保護するためのものだと認めていた。「もし銀行が破綻したらみんなが預金を失う。銀行の手元にある現金は、預金全額を保護するには不充分だ。」と自身が語っている。Lenicov大臣が必死に防止しようとした銀行信用デフレでは、より価値を増したペソがより少ない流通を維持することで商取引を続けることができた。だが、接収デフレは商取引の機会を葬り、経済を原始時代の物々交換や自給自足の状態に戻してしまう。

学術界、メディア、あるいは超国家的官僚機構などに巣食う嫌デフレ主義者達は、アルゼンチンで起きたような接収デフレの存在に気づかないか、「質素倹約措置」などと歓迎するのがせいぜいだが、被害に遭ったアルゼンチン国民は接収デフレの本質を鋭く表現している: これは経済官僚達による銀行強盗なのである。引退した織物工Ramona Ruiz氏は空っぽのATM機の前で「金返せこんちくしょー」と怒鳴っていた。

(被害者の声が色々表現されている部分は割愛)

だが、アルゼンチンの銀行にお金を預けた人たちの悲劇はまだまだ続くのであった。1月1日に大統領に就任した時点では、ドル預金はドルで引き出すことを保証していたDuhalde大統領は、1月下旬にその約束を翻し、ドル預金引き出しを全額ペソで行うことを許可した。この時点でペソはドルに対して40%下落していたから、預金者は160億ドル相当の購買力を奪われたことになる。その購買力はそのまま銀行に移転されたのである。接収デフレが継続し、預金者達は自分達の財産に手をつけられない状態が続く中では、預金者達はペソ下落と共に自身の財産が失われていくのをじっと見ているしかなかった。が、ここで流れが変わる。アルゼンチン最高裁は2月1日、預金凍結を「非合理的」で財産権を犯す「深刻な」違憲とする判断を下したのである。これにより、接収デフレは本来あるべきであった銀行信用デフレに切り替わる道が開かれた。翌2日、Duhalde大統領は震えながらテレビ出演し、翌月曜と火曜日に銀行は閉店したままでよいと宣言。最高裁に対する露骨な抵抗を示した。腹を立てた市民達は路上に繰り出し抗議活動を展開。だが、めげない大統領は翌月曜日、最高裁決定を180日間中断するという挑戦的な宣言を行い、さらに最高裁長官に対する弾劾を加速するよう議会に呼びかけた。

この時点で、理にかなった効果的な手法はただ一つ。アルゼンチン政府が、政策を現実にあわせることである。そして、その現実とは、銀行のあずかる預金がもはや(というか、これまで一度も)ペソとドルで確定される財産ではまかないきれない、という状況である。部分準備金システムのどこにも、預金額全てに対応するだけの貨幣が存在しないのである。銀行に金を預けるということは、その銀行の貸出債権や準備金を含めた投資ポートフォリオの権利を保有する、というのが現実経済である。したがって、アルゼンチンの全ての銀行の財産はただちに預金者達に移転されるべきである。具体的には投資信託の形をとることになろう。移転された銀行の財産を、もともとの銀行に預けてあった金額で比例配分する形で預金者達が引き受ける。結果として、一度きりかつ、急速・急激な通貨供給の収縮が発生する。結果として、民間が保有していたドル+ペソおよび、銀行が準備金として保有していたドル+ペソの合計額まで通貨供給量が収縮する。名目消費者物価と名目賃金も急激な収縮をみせるだろうが、ペソの購買力も同等に上昇するので、商取引は元に戻るはずである。また、資本資源の再配置や財産の再分布なども市場主導で進んでいくことであろう。

  • 信用デフレでにっちもさっちもいかなくなった国で起きる、非常に悪性のデフレ。
  • 名目は「その国の金融システムの保護」。
  • 実質は経済官僚や銀行経営者達による強盗。
  • 最近の例として2000年のアルゼンチンが取り上げられている。
  • 預金凍結→通貨切下げ、というのが常道。