おい、逼迫、日本のアニメとアメリカン・カートゥーンの決定的な違いをおしえてやる。


終電間に合ってしまった……
666さんとkarimiさんには悪いことをしたような…


さて、帰り道ボンヤリ某スレを眺めていたら
http://blog.livedoor.jp/hayashida2007/archives/1136111.html
というブログを見つける。


対談相手の有村さんてカオスアニメ大全の人だっけ。


まあ、なんというか、
「枚数」と「パース」が作画の評価基準になっちゃってるあたりがなんとも。


http://d.hatena.ne.jp/mattune/20090616で紹介した
sukebeningen大先生の理論はただのギャグじゃなかったのか、って感じ。


作画評価基準には勿論色々な要素がありますが、
「タイミング」や「立体感」などと並んで重要なものがあります。
それは「ポージング」です。


田中宏紀について語る時にポージングを抜きにして語るのは
無知か悪意があるのかどっちかではないかと疑ってしまう。


ポージングについては板垣伸
http://www.style.fm/as/05_column/itagaki125.shtml
の下の部分の説明が非常にわかりやすい。
(ちなみにこの部分は板垣さん自身も書いてる通り、すでに大塚さんの著書等で語られている事です。)


>メインは、表情の崩しとポーズの崩し!


(中略)


>これは自分が原画を描くようになってからますます分かってきたんですが、画を描く時大半の人が


>測って描く


>――んです。パース線引っぱったり、動画用紙を裏返したり……。でも測って描いた超正確な画って、
>かえって不自然な感じを受けます。だから、計測で終わらせず、


> 意図的に歪め、崩して自然にみせる!


>って事を大塚さんは提唱してたんでしょう。しかし、その不定形の美学(?)を
>まるで呼吸するのと同じくらい自然に表現できた人って、結局大塚さんご本人しかいなかったんじゃないでしょうか?


田中宏紀の原画のメインも大塚康生さんと同じく
「表情の崩しとポーズの崩し」、特にポーズの崩しだと思っています。
上記の板垣コラムの一番下の絵の
「ダラダラ」してる方、田中宏紀さんのポーズに近いですよね。


アニメーターの系譜的に言いますと、
やっぱり田中宏紀さんには木村圭市郎さんの影響が確実にあるだろうと思います。
そして、木村さんと大塚さんは一種の師弟関係だった。
正確には木村さんは大塚さんの数多い弟子の一人だった。


田中さんには確かに大塚康生さんのポージングの血が流れている。
しかも、彼は大塚康生さんと同様
「呼吸をするのと同じ」感覚であのポージングをやっているとしか思えない。
そうでなければ、
いわゆる「手癖」でなければあの作画スピードは説明できないでしょう。



さて、ここまで見てくれば、
田中宏紀」というアニメーターについて語るのに
「パース」を
それもいかにも「測って描いた」図を
使ってしまうのは、
はっきり言って、日本のアニメーションを何も理解していないといわざるおえない。


確かに「正確なパース(≒正確に歪めたパース)」についてはアメリカに一日の長があることは確かだろう。
だが、その一方で日本のアニメーションの父である大塚康生は、
「正確なパース」にこだわらないという選択肢を作ったのだ。
コペルニクス的転回、と言って差し支えないだろう。


そして、日本では小林七郎が、背景美術でも「丁寧さ・正確さ」にこだわらない
という考え方を導入したのも大きいだろう。


「ポニョ」なんてのは究極の形でもなんでもない。
ガンバの海より退化してるし。
日本のアニメの究極はもっと別。



田中宏紀の枚数について
なんか上のブログで


>「枚数が多い」理由が「動かしてないと不安」だからなんじゃないかと感じる


と描いてますが、
むしろ、田中宏紀の作画って「無駄な絵がない」というか
「不必要な絵がない」と思うんですよ。


コマ送りしてくと分かるんですけど、
彼の作画には「ポージングが極まった絵」しかない。
描きたいポージングをどんどん繋げて動きを作っている。


つまり、動かしてないと不安、というよりは
「描きたいポージング」を描きたいだけ描いた結果
あの枚数になっていると考えた方が妥当だろう。


「動かしてないと不安」ならば、わざわざあんなポージングの絵にする必要はない。
シートの点を多くしたり、芝居を多くしたりするだけでいいんですから。