真理とは「発見」するもの? それとも「創造」するもの?

ということで端から見ると結構どうでもいいけど、(本気な)当事者からすると簡単には妥協できない、よくある対立構図のお話。


http://www.cnn.co.jp/world/30000707.html

(CNN) ローマ法王ベネディクト16世は28日にローマ法王庁科学アカデミーで講演し、理論物理学スティーブン・ホーキング氏の説に間接的な反論を展開、宇宙は神の創造物だと言明した。

ホーキング氏は先月出版した著書「グランドデザイン」で、宇宙誕生に神が必要ないことは物理学の法則に示されていると論じた。

これに対してローマ法王は講演の中で、科学と科学者の功績をたたえたうえで、科学の役割は神の存在を明らかにすることにもあると指摘。「科学者は世界を創造しているわけではなく、それについて学び、まねようとしている」とした。

http://www.cnn.co.jp/world/30000707.html

なんというかホーキング先生本気すぎます。法王の中の人も似たようなものか。私たち一般の人からすればまぁ結構どうでも良い話ではありますよね。でも、上記のような彼らからするとそうではない。それこそ彼らの存在意義・アイデンティティそのものに関わる問題でもあるから。


さて置き、こうした話は昔から議論されてきた話の一つではあるんですよね。
例えば数学の新しい定理などについて、私たちはそれを「発見」したのか? それとも「創造」したのか? という問い。
それは私たち人類がゼロから作り出したものなのだろうか?
それは発見されるべくはじめからそこに用意されていたのだろうか?
それは初めから計算され用意されていたものなのだろうか?
それは聖書に登場する永遠の存在からの贈り物なのだろか?


そのどちらでもない一般の人の日常生活においてこうした問題がどれだけ関心を占めるかというと、お察しください、という感じです。しかしそれは有名どころで言えば地動説の「ガリレオ裁判」の頃からずっとあった話だし、そしてもっと以前からもあったはずの宗教やそれ以外でも多くある、何百年以上も続く「科学的手法」*1と対立するもの。

さらに、科学者の役割は普遍の法則を創造することではなく観察することにあると強調、そこから導き出される結論として「人間ではない全能の知恵が存在し、それが世界を支えていることを認めざるを得ない」と述べた。

http://www.cnn.co.jp/world/30000707.html

まぁこの辺を見ると、そりゃお互いすれ違うよなぁという気持ちにはなります。
それこそ科学者の立場としては、「受動的だったものから積極的なものに」「観測から立証すること」に価値を見出してきたわけで。しかし宗教家の立ち位置からすると、その態度はいつか宗教自体の否定に繋がってしまう物だから認められない。


観測し立証しようとする人びとと、観測し意味を与えようとする人びと。お互いに彼らの主張の究極的に行き着くところは、自分と相手の存在否定に繋がりかねないから、容易には触ることができない。
でもこうして偶に接近遭遇してしまった時の、お互い本気の「ポジショントークしてます」感はすごいですよね。まぁ大抵の人びとは、適当に折り合いをつけて生きているんだけれども、しかし両者の半ば総本山とも呼べる人びとにとってはそうではないと。どっちもがんばれ。