救うべきか救わざるべきか?

そんなよくある道徳のジレンマについて。


http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34651
ということで未だに虐殺の続くシリアさんちであります。まぁなんというか例の安保理決議の合意失敗によってすっかり「打つ手無し」の状態に陥ってしまいましたよね。こうなると(それこそアメリカのような)単独行動主義を掲げてでも動く国が出てくるか、あるいは過去のイラクでもあったように反乱側がすり潰されるのをただ黙認するか、というオチになってしまうのでしょうね。いやぁ救えないお話です。

 さらに不愉快な真実は、諸外国の政策立案者は心の奥底で、「死者がどこまで増えると多すぎるのか」と問わねばならないことだ。これがホロコーストだったり、ルワンダの大虐殺(80万人の命が失われた)だったりしたら、介入への義務感は当然、介入の結果に対する不安に勝るはずだ。

感情的な反応が正しいとは限らない

 シリアにおける犠牲者は現在7000人と言われ、間違いなく今後増えていく。これは恐ろしい事態だ。だが、それでもまだ、シリアに対する外国の軍事介入に伴う莫大なリスクを取ることは正当化しない。

 筆者もきっと、コルビン氏や彼女の仲間たちが目撃した恐怖をじかに見ていたら、全く違う気持ちを抱いていたはずだ。しかし時には、物理的な距離と心理的な距離感も求められる。感情的な反応は、必ずしも正しい反応ではないのだ。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34651

国際社会のコンセンサスが得られない現状の認識としては、費用便益分析的に「まだその時ではない」として、結局こういうお話に行き着くのも仕方ないのかなぁと。しかし逆に、上記リンク先に出てくる当事者たる戦場のジャーナリストの皆さまのような人びとにとっては、『権利論の絶対性(無辜の人間が意図的な攻撃にされるなど絶対に許されない)』こそがその行動基準となるのでした。
まぁこれは今回のシリアだけが特別というわけでは勿論なくて、現代世界に生きる私たちが『他国への軍事介入』というテーマにおいて必然的に直面する典型的な二律背反ではあります。この二つの道徳軸が相反するとき、私たちは彼らを救うべきか救わざるべきか?


さて置き、では実際のところ、これまであった数々の軍事介入がそうした二律背反――「正当性があるか?」を乗り越えた上でやってきたのかというと、別にそういうわけでもないんですよね。
よく失敗例の最右翼として挙げられるブッシュさんのイラク戦争にしたって「正当性がなかった」と決定的に断じられるようになったのは最終的に、大量破壊兵器など無かった、と結論付けられてしまったからなわけです。もし本当にそれが存在していれば、結果論として彼らはここまで批判されることもなく、また黙認されてもいたでしょう。決定的だとされている彼らの(単独行動主義的な)手段にしたって、結果的に見つかってさえいれば許容されていたはずなんです。ついでに言えばもう一つの大義名分であるイラク国民の解放という目的も、今のカオスっぷりを見ればとても正当化できませんよね。
まぁつまりそういうことなんですよね。結局、戦争や軍事介入の正当性は決めるのは終わった後にこそ、それが決められるのです。結果さえ備わっていれば正当性は後からついてくるし、逆に幾ら正しい目的と正しい手順を踏んだとしても最終的に失敗してしまえばそれは「正しいものではなかった」と非難の対象となってしまうのです。まぁこんなことは『勝てば官軍』なんて広く経験的にも言われているように、結構誰でも解っているお話ではありますよね。
そして実際に、冷戦から湾岸戦争、旧ユーゴスラビアの介入はそうして「正しいもの」として、事前にではなく事後になってから定義されてきたのです。おそらくこの前のリビアの介入にしても同様のことが行われるでしょう。もしこのまま、失敗国家の仲間入りをしてしまえば、やはりあの介入は何処か間違っていたのだと。
しかし逆説的にこんな理屈がまかり通っているからこそ、ブッシュさんたちはああして無謀な戦争に踏み切ってしまったことの背景にあると言うことはできますよね。最終的にフセインさんが大量破壊兵器を隠していれば国際社会の同意など必要ないと、確かにその通りでした。実際に見つかってさえいればおそらくその通りになったでしょう。しかしそんな勝てば官軍として始めた結果が、まぁ何も見つからずに、彼らは敗北してしまったわけですけど。




翻って本題であるシリアさんちのお話。
ともあれ、まさに私たちがこうして「死者がどこまで増えると多すぎるのか」と安全な場所から自問自答している間にも、しかし状況は単純化していくというよりも、アルカイダなどの武装組織の登場など*1でむしろ益々混沌化していっているわけですよね。他にもトルコやイランなどの周辺国家からの影響によってより複雑化していくということはつまり、「正当化」の為に真に重要だった、最終的な成功の為のハードルは逆に高くなってしまっているんじゃないのかと。
シリアに介入し、大量虐殺を止めさせ、アサドの体制を放逐した後、一体その介入した側の人たちはその後のシリアという国家にどこまで責任を持てばいいのか?
現在のアフガニスタンイラクを見れば解るように、介入した側がそのままただ手を引いてしまえば更にひどくなるのはほとんど目に見えているわけですよね。以前の日記でも少し書きましたけど、現代に生きる私たちの持つ進歩した道徳観において、一旦介入を始めたらそのまま通り過ぎるわけにはいかないのです。


シリアへの介入が(死体の数を数えながら)正当化されるのを待っているように見えて、しかし実は正当化する為のハードル――最終的なシリアという国家の安定――はどんどん高くなっている。そして益々国際社会の人たちはそれに二の足を踏んでしまうと。という辺りが現在の構図が悲劇的な点なのかなぁと。
みなさんはいかがお考えでしょうか?