『しもそ』別冊文藝春秋にて紹介される/『籠の中の15分』の解釈/『オーフェン』のこと/『火の粉』のこと

ひとつめ

別冊 文藝春秋 2008年 07月号 [雑誌]

別冊 文藝春秋 2008年 07月号 [雑誌]


今月の別冊文藝春秋にて、『誰しもそうだけど、俺たちは就職しないとならない』が紹介されていました。秋田のコメント付き。1ページという短いものなんで『しもそ』既読者はあんまり……かも。


しかし、文藝春秋社も桜庭一樹は勿論のこと有川浩橋本紡桜坂洋米澤穂信などなどすっかりその手の人たちがいることが当たり前になってきましたね。

ふたつめ

男に女の意見を、女に男の意見をそれぞれ納得させるためのものでは断じてありません。明らかに、両者の間にある明確な齟齬をこの上なく読み手に自覚させるためのお話です。

http://book.geocities.jp/xisenin/diary/08-05.html#16


野性時代に掲載された秋田禎信の短編について。確かに、意見の端々に頷くところはあったけど、どちらか一方が正しい、とは思わなかったな。キャラクター性を感じなかったのもそのせいか。普遍的なことしか言わない人なんていない、ということ。それが秋田作品なら尚更。

みっつめ

でもまあ、オーフェンのヒットはやっぱそういうカウンター的要素を持つことで「時代と寝た」から成されたんでしょ? ちがうの?

http://d.hatena.ne.jp/quickdead/20080520#1211274072

「ファンタジーなのに○○」というバリエーションは、その権化である神坂一を筆頭に富士見ではみんなやってたので、そこからさらに一歩抜け出すにはまた別の何かがあったんじゃないかなあ、と思ってます。それはそれで大きな要因だとは思いますが。


つまり、誰かそろそろ古橋秀之川上稔辺りの電撃ハード路線や奈須きのこ西尾維新と絡めた記事を書くべきだと思うんだ。

よっつめ

 私の印象論であるが、秋田禎信という作家は間違いなく商業作家である。少なくとも、そうあろうとしている。秋田氏は表現者としての自分よりも商業作家としての自分に挑戦したがっている、しているというきらいがある様に思う。オーフェン、シャンク、エスパーマンなどにその点が顕著に現れているだろう。

http://d.hatena.ne.jp/KZE/20080517/p1


物語、ひいてはその向こうにいる作者と真摯に向き合うということ。こういうのがファンのあるべき姿ってもんだよなあ。いや、皮肉でもなんでもなく。