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僕が線を引いて読んだ所 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016年07月09日 歩行のように このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 今日、小池昌代の散文を読んでいて、自分の中に長年わだかまっていたモヤモヤが晴れたような気がした。
 モヤモヤというのは、十代のころから抱いていた、現代詩に惹かれながらも現代詩に拒否されているようなある種の劣等感である。時々、詩を読みたくなって詩集のページを繰ってみる。ところが、散文を読んでいるときのようには、筆者のメッセージが自分に届いてこない。詩集はいつも、どこかよそよそしい表情を僕に見せるのである。「自分は詩が好きだと言いながら、実は詩を理解する能力が決定的に欠けているのではないだろうか…」
 ところが、小池昌代「詩の言葉が孕む『自然』―萩原朔太郎西脇順三郎(『詩についての小さなスケッチ』所収)の次の一節に出会って、自分の中に光が差し込むような、目の前の視界がスッと開けるような思いをしたのだった。

わたし自身、詩を書こうと思うとき、そこには必ず、ぼんやりとしていながらも、形への志向があった。これはなんだろう。詩を書こうとするとき、ある「かたまり」を紙面にあらわそうという欲望が生まれる。それは最初、読まれるものというより、眺められるブツである。実際の作品がどうであるかは置き、わたしのなかに予め存在する詩のイメージは、本を開いたとき、見開きに収まるほどの短いかたまりである。

 そう言われてみると、読者である僕もまた、詩が見せてくれる「見開きに収まるほどの短いかたまり」としての「形」、あるいはその「眺め」に、何よりもまず惹かれていたのではなかったかと気づく。詩人の欲望が、言葉を一目で眺められるほどの「形」に並べて見せたいというものであるならば、読み手の側がその「形」に惹きつけられたとき、両者は詩を挟んで既にほど近い地点に立っているのだと言えるだろう。
 しかしもちろん、言葉の短いかたまりを眺めただけで満足できないのが、詩の読者というものである。次に問題になるのは、いかにその詩の意味内容に入っていけるかだ。その点について、小池昌代西脇順三郎『旅人かえらず』を取り上げて、次のように書いている。

西脇順三郎は頭のなかに、寂しい野原を創った人だ。読んでいると、言葉によってここにあらしめられた植物が頭にじかに生えてくる感じがする。それはみな、言語の操作によってできあがったものだが、詩人はどこまで意識しただろう。言葉の意味は、一応通っている。しかし意味は第一順位では考えられていない。わからない文言がある。だが読者は、わからないということを理由に、そこで立ち止まる必要はない。むしろそのわからないなかを、ずいずい、進んでいくことが要請される。

リズムに意識を移して詩を読むと、言葉の意味は残らない。西脇詩はまさにそうである。言葉の運ばれ方に目的があり、読むことはすなわち、「歩行」に等しいものだ。詩行の「意味」は風景のように脱ぎ捨てられていく。

 詩の言葉の意味を「風景のように脱ぎ捨て」ながら「ずいずい」読み進むというのは、西脇の詩に限らないことだ。これは詩の「改行」とかかわる。小池昌代によれば、詩の改行とは「透明なついたて」。詩の各行の意味はそのついたてによって、前の行とも次の行とも断ち切られている。僕が詩に拒否されていると感じたのは、改行によって断ち切られている言葉と言葉の意味を、散文を読むときのように無理やりつなげようとしていたからではなかったか。詩は音楽、詩はリズムなどと理屈ではわかっていたはずなのに、身にしみついてしまった散文的な読み方からどうしても自由になれずに、詩に対してモヤモヤとした思いを抱き続けていたのではないか。意味を「風景のように」脱ぎ捨てながら歩くようにして読むことによって、今まで何年もの間、僕によそよそしくしていた詩が近づいてきてくれたなら、今日という日は僕にとって記念すべき日ということになる。

2016年07月03日 ブンガク的 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 以前読んだ伊藤礼『こぐこぐ自転車が面白かったので、その続編を買おうとネットで調べているうちに、同じ著者の『耕せど耕せど』という本を見つけて、自転車の本ではなくこちらの方を購入してしまった。僕にとっては自転車だけでなく、野菜作りも人生の大きな楽しみの一つなのだ。と言っても、僕の場合は伊藤礼のように庭に耕耘機で耕すほどの畑があるわけでなく、もっぱらベランダでのプランター栽培だけど。ああ、庭に畑の作れる人がうらやましい!

耕せど耕せど―久我山農場物語

耕せど耕せど―久我山農場物語

 ところで、『耕せど耕せど』の帯には、「ニッポン初の家庭菜園ブンガク誕生!!」と書かれているが、本当なのだろうか? 僕は以前読んだ榊莫山自家菜園の楽しみ』という本を棚から取り出してパラパラとめくってみた。この本は、著者の庭を訪れる小動物や、庭の木や草に咲く花を慈しむ、という内容だったようだ。『耕せど…』の方は、限られた面積の菜園で、いかに効率的に野菜を育てて、たくさん収穫するか、そのための日々の苦労がとてもブンガク的に語られており、なるほどそういう本は今までになかったのかもしれない。
 海外に目を向ければ、家庭菜園をテーマにした本といえば、チャペック園芸家12か月』ヘッセ『庭仕事の愉しみ』を思い浮かべる。『耕せど耕せど』がそれらと肩を並べる「家庭菜園ブンガク」として読み継がれていくのか、それはわからない。

我が家のベランダ菜園は、ミニトマト、シシトウ、枝豆を栽培中。
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2016年06月28日 美についての形而上学 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

美について (講談社現代新書)

美について (講談社現代新書)

 本書は、

美は人生の希望であり、人格の光であると録(しる)さねばならない。(p.235)

と結ばれる。この結びに至る道筋は、極めて知的、論理的に積み上げられた、「美についての形而上学」である。この道筋をたどることは、読者に思考の喜び、哲学することの面白さを味わわせてくれる。
 しかし、筆者の導き出した結論は、読者の誰もが首肯できるものではないのではないか。

美はその至高の姿においては、宗教の聖と繋がる人間における最高の価値であるといわねばなるまい。美は基本的には、精神の犠牲と表裏する人格の姿なのである。(p.234)

などと言われてしまうと、美を身近に感じていたい読者は、美が近づきがたい存在になってしまったような戸惑いを感じはしないだろうか。僕自身、本書の結論に対してはどうしても感覚的なずれのようなものを感じざるを得ない。とは言うものの、強く興味を引き付けられて、何度でも読み返したいと思う個所は随所に見られるのだった。

作品とは、もはや一義的に限定された意味や形態を示すものではなく、鑑賞者の自由な解釈を期待する未定の存在である。換言すれば、作品は、鑑賞されるよりも以前に完成している閉ざされた存在ではなく、それ自身としては未完成の開かれた存在として鑑賞者の前に自己を委託している存在ということになる。(p.88)

作品に対する愛は、その作品の成立する以前の問題としての作家に集結するよりは、むしろ、その作品の将来に向けられ、これを単なる歴史的作品から永遠の傑作に格上げしてゆく努力だとみることができると思う。(p.203)

2016年06月05日

[]言葉を拾いに 言葉を拾いにを含むブックマーク 言葉を拾いにのブックマークコメント

f:id:mf-fagott:20160605232000j:image:left:w200「街」同人の上田貴美子氏より、句集『暦還り』が送られてきました。ありがとうございます。

 以下、丸印を付けた句を紹介し、そのうちの数句については拙い鑑賞文を書かせていただきます。

人増えてをり山の霧すぐ晴れて

 長く苦しい登りもひと段落、誰もが一息入れたくなる尾根上の広場に到着した。霧が濃くてよく見えないが、先についた幾組かのパーティーの談笑する声が聞こえる。立ったまま地図を広げて、コースタイムを確認する。ここから山頂まであと3〜40分、昼飯にちょうどよい頃合いに着きそうだ。よしよし、計画通り。ここでは長居せずに、お茶を一口飲んでからすぐ出発だ。ザックの中のペットボトルを取り出そうとかがみこむと、急にあたりが明るくなる。顔をあげると、立ちこめていた霧が急に晴れて、青空が顔を出し、向かいの稜線の一部がくっきりと見えてきた。後続のパーティーがどんどん登ってくるのだろうか、広場に憩う登山者の数は思っていた以上に多い。さあ、少し先を急ごう。ぐずぐずしていると、山頂の特等席を確保できないぞ。

台風の育ち盛りや旅鞄

 旅行鞄に明日からの旅に必要なもろもろを詰め込んでいる。もちろん、雨具も。南の海上では台風が発生して北上しつつあるという。台風と鉢合わせしてしまうか、或いはうまいことかわすことができるか、運を天に任せるほかない。万が一台風の直撃を受けて、いつぞやのようにまた旅の宿で缶詰を余儀なくされたとしても、それはそれで一興ではないか。出発は明日の朝、6時。

いま見ゆるものを見てをり冬の葬

 作者は、今見えているものを見ているという自分の行為の神秘に思い至った。今自分が見ているということ、すなわち生きているということが、眼前の事物の存在を保証している。死者の前には何も存在しない。死者も何かを見ているだろうというのは、生者の感傷にすぎまい。
 他の人の眼にも自分と同じように見えているだろうというのも、人が陥りやすい錯誤だ。他でもない、自分の眼で見ているという行為のかけがえのなさに気づかせてくれるのが、俳句という文学なのではないか。

ペン執るや言葉ひつこむ十三夜
昂りの欲しくて落ち葉踏みにゆく

 気持を昂らせなければ、言葉は生まれないのである。ペンを握っても、キーボードに手を載せても、それだけでは言葉はなかなか思うようには出てきてくれないのである。そんな時、人は月の光を浴びたり、落ち葉をかさこそと言わせたりしようと、外に出て行くのである。落ち葉を踏みに行くとは、言葉を拾いに行くということなのである。月の光が呼びかければ、人は何かを答えようとするだろう。西行法師も、ベートーヴェンも、宮沢賢治も、きっとそうだったに違いないのだ。

古里の訛日傘に畳み込む
浮草や水に沈めるものの息
涼しくてピアノの蓋を開けてみる
鰯雲待ち呆けのまま晩年に

こくぼこくぼ 2016/06/06 13:01 上田さんはパソコンを開かれないのでプリントアウトしてお送りしますね。すご〜くお喜びになられると思います。またどうぞ街の句会にもいらしてくださいませ。

mf-fagottmf-fagott 2016/06/06 22:18 こくぼ様、コメントありがとうございます。上田様にはお礼状も差し上げず、失礼しております。街の句会に参加できれば、その時にごあいさつしようと思っていますが、だいぶ先の話になってしまうかもしれません。よろしくお伝えください。

2016年06月04日 素敵な「母ちゃんたち」 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

f:id:mf-fagott:20160604214344j:image:left 俳句の会でお付き合いいただいている方から、ぜひ観てもらいたいからとチケットを頂き、映画『飯館村の母ちゃんたち〜土とともに』を観てきました。
 題名から想像がつくでしょうが、この映画は東日本大震災による原発事故で仮設住宅生活を余儀なくされている女性の日常を追いかけたドキュメンタリー映画です。
 カメラが追う「母ちゃん」は菅野栄子さんと菅野芳子さん。今日は関内での初日ということで、監督の古居みずえさんと、菅野栄子さんのあいさつがありました。栄子さんは、映画の中でもそうなのですが、ご自分の気持ちや考えを明晰に、かつユーモラスに語れる聡明な女性。今日のあいさつも心にしみこむ内容で、聞き入ってしまいました。古居監督が福島の取材でたまたま栄子さんの存在を知り、この人を撮りたいと思ったという気持ちはとてもよくわかります。
 震災以来大変な苦労をされているにも関わらず、あくまでも前向きに明るく生きる「母ちゃん」の姿はとても魅力的で、とても大切なことを教えられたように思いました。
 この映画を多くの人に観てもらいたいと、地道な活動をしている人たちがいます。(チケットをくださったKさんも、その一人です。)僕も少しでも力になれたらと思い、帰宅してからこうしてパソコンに向かってキーボードを叩いているというわけです。
 興味のおありの方はこちらをどうぞ→http://www.iitate-mother.com/

2016年05月22日 愚劣な現実と芸術 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

美学入門 (中公文庫)

美学入門 (中公文庫)

 戦後間もないころ書かれたこの著作が21世紀になって改めて文庫化されるに至ったという事実は、この本が現代においてもその価値を失っていない、すなわち古典としての価値を持っていることを意味するのだろう。そういう本から我々が得ることができるものは、小さくはない。僕も、あっちこっち線を引きながら読んだ。心に引っかかったところを、何度も何度も繰り返し読んだ。
 特に印象に残ったのは次の箇所だ。芸術がなぜ生まれねばならなかったのか、その一つの答えが具体的なイメージを伴って迫ってくるようだ。

 私も、戦争に反対したというので、特高に引っ張られて、なぐられたり、なぐられるよりもっとひどい目に合ったとき、この世界に、論理の通らない世界のあること、この人民を守る国家機関の中に、論理がなく、かつ人民を苦しめることが、公然とゆるされていることに直面したとき、突然、私には、この現実が巨大というか「現実とはそんなものだったのか」そうだったのかと、自分の前にそそり立ったのを憶えている。それは巨大な現実とでもいうべき世界が、眼前に現われた思いであった。そして突然、古代の微笑の数々が、例えば、中宮寺の観音のような、古代の彫刻に彫られているほほえみが、自分の眼の前を横切ったように思ったのであった。
 中国のあの平原を前にして、数十尺の姿をして、微笑んでいる、大同の石仏だって、幾万の人間が、数十年かかって、あの巨大なものを彫らねばならなかったのは、やはりこんな気持ではなかったであろうか。あれが、何十尺の巨大な岩壁に彫ったということ、それが巨大でなければならなかった理由は、恐らく、彼らにとって、その現実の愚劣さもまた、巨大であったからかもしれない。

 それから、もう一か所。これは俳句の「季」を考えるときに、示唆を与えてくれると思う。(引用文中の「山本さんの場合」というのは、女優山本安英氷柱から滴る水滴が音と光の交響楽を奏でているのを見て夢のようだと感じたという経験を指している。)

 まことに、ワイルドの言葉のように、
「今、見ていることが、一等神秘だ」
 と思われる瞬間がある。神秘と思えるほどあざやかな現実が突如眼前にあらわれることがある。山本さんの場合も自然を通して認識の達しない深みにおいて、自分自身にめぐりあっているのではあるまいか。
 それは、逆説的にいえば、また同時に、そのめぐりあったとは、その自分に袂別し、自分と手をわかち、新しい未来の中に、または永遠の中によろけ込む自分の中に見い出す新鮮さに身ぶるいを感触したことなのかもしれない。
 自然はときどき、自分に、そんな飛躍をあたえてくれるスプリング・ボードとなってくれることがある。
「袂別する時に、はじめて、ほんとうに遭えたのだ。」といえるような弁証法的な自分への対決を、自分に強いるときがある。
「美のもろさ」はそれである。美は、飛んでゆく鳥が、目をかすめるほど、たまゆらを閃くものであるというのはそれである。そこにはじめて、ほんとうの「今」があるのではあるまいか。
 逆にいうならば、この「今」がなければ、美はないのではあるまいか。私は俳句で、「季」が大切にされるのは、この「今」を大切にすることであると信じている。

2016年05月10日

[]祝「田中裕明賞」受賞 祝「田中裕明賞」受賞を含むブックマーク 祝「田中裕明賞」受賞のブックマークコメント

 久しぶりに清水哲男の『増殖する俳句歳時記』を開いたら、北大路翼

交番に肘ついて待つ春ショール

の句が目に飛び込んできた。大写しになった横向きの人物の表情からやるせなさが伝わって来る、いい句だなあ…
 と思った数日後、今度は同氏の句集『天使の涎』が「田中裕明賞」を受賞したとの情報を目にした。そういえば、『天使の涎』は昨年購入して一度目を通したが、ブログで取り上げるのはもう一度ゆっくり読んでからにしようと思い、そのままになっていた。これを機に、もう一度最初から読みなおして駄文を綴ってみようと思い立った次第…

天使の涎

天使の涎

 『天使の涎』を開いてまず驚くのは、収録句の多さ。1ページ当たりぎっしり13句が詰め込まれている。普通の句集は行間を広く取って、1ページに2〜3句。さながら一句ずつが額縁に収められた絵画のようなもので、読者は一枚一枚の絵の前で立ち止まるようにして、味わいながらゆっくりと歩を進める。ところが、この句集はそんな読み方を許さない。一句ずつ立ち止まっていたら、全部読み終わらないうちにへばってしまう。それに、この句集は句と句の連続性に意味がある。たとえば、

客引きの皮手袋が背後より
電柱に嘔吐三寒四温かな
キャバクラの自動延長寒昴
春が来るすなはち春の歌舞伎町
啓蟄のなかなか始まらない喧嘩
太陽にぶん殴られてあつたけえ


のような一連の句を読むとき、作者の暮らしぶりをのぞき見するような面白さとある種の爽快さを感じることができる。この句集を読むには、スピード感が求められるのだ。次の野菜シリーズも、テンポよく読んでください。

隙間まで緑色なるブロッコリー
殴られたやうな折れ方してセロリ
リーだけは伸ばして欲しいブロッコリ
ありさうでどの芽キャベツも顔がない
白菜の重さは頭痛なのだろらう
折られてもいい長葱の青いとこ

とは言うものの、いつものように、一句ずつ吟味してお気に入りの句に○を付けながら読みたいという欲望を抑えることも難しい。だって、最初に挙げた「交番」の句のような名句が見つかれば儲けものだから。というわけで、僕が丸を付けて読んだ句より。

つつかけで出て春泥に舌打ちす

浅春の早番遅番すれ違ふ

雪解けと言へば失禁美しく

千鳥起きる準備の準備して

目の汗を汗かいてゐる手で拭ふ

顔洗ふやうに西瓜にかぶりつく

虫籠に葉が敷き詰めてあるばかり

切り出せぬ話題湯豆腐揺れてをり
              

2016年04月28日

[]やわらかな感受性 やわらかな感受性を含むブックマーク やわらかな感受性のブックマークコメント

 さあ、連休。どこへ行こうかと考えたとき、真っ先に思いつくのが、どこか美術館へ行ってじっくり絵と対話して来よう、ということ。かといって、都心のメジャーな美術館の企画展は超混雑するのが目に見えているので、この時期は避けたい。地方の美術館の常設展をじっくり眺めるというのもシブくていいかもしれないな。
日本にある世界の名画入門 美術館がもっと楽しくなる (知恵の森文庫)
 赤瀬川原平のこの本は、やわらかな感受性を全開にして絵の前に立ち、細部にまで目を凝らした時に初めて見えてくるものがある、ということを教えてくれる。もっともそれが、易しいようで実はなかなかできないことなんだけどね。

2016年04月03日

[]モランディ展 モランディ展を含むブックマーク モランディ展のブックマークコメント

f:id:mf-fagott:20160404004344j:image:left:w260 東京ステーションギャラリーで行われている「ジョルジョ・モランディ〜終わりなき変奏」を観てきた。
 年譜によれば、モランディという人は昨日取り上げた3人の作家たちのような起伏に富んだ人生を送った人ではない。53歳の時、ファシスト体制に反対する運動家との交友関係を理由に逮捕された一件を除けば、平穏な生涯を送った人と言えるだろう。しかし、波乱にとんだ人生のみが、偉大な芸術を生み出すわけではない。モランディは、その人生同様、穏やかな作風ながら、揺らぎない信念のもとで作品を生み出し続けたことで、20世紀最高の静物画家との評価を得るに至った。
 会場には、同じ器類を同じように並べ、同じような色調で描いた作品がいくつも並ぶが、それらが与える印象は、決して退屈さなどではなく、むしろ深い安らぎのようなものだ。どうしてこのような同じ主題を繰り返し描いたかという知的な興味をそそられることも確かだが、理屈抜きで作品の一つ一つが観る者に絵を見ることの心地よさを感じさせる。落ち着きのある色と形、そして絵の質感が、目を楽しませるのだ。これらの作品群には、もっとも純粋な意味での絵画というものの存在価値が凝縮されているような気がする。
 東京ステーション・ギャラリーは、モランディの作品を並べるのにこれほどふさわしい場が他にあるだろうかと思わせるくらい、今回の展覧会にはうってつけの会場だ。古びた煉瓦の赤黒い壁面がモランディの渋い画面と調和して、魅惑的な空間を生み出していた。

2016年04月02日

[]3ページの人生、3行の人生 3ページの人生、3行の人生を含むブックマーク 3ページの人生、3行の人生のブックマークコメント

泪 (百年文庫)

泪 (百年文庫)

 深沢七郎島尾ミホ色川武大
 なんて波乱に富んだ人生を送った人たちなんだろう。それぞれ3ページほどにまとめられた巻末の「人と作品」には、さまざまな出来事がぎっしりと詰め込まれている。つまびらかに書き記せば、一冊の本にも納まりきれないほどの人生だっただろう。それと比べると、自分の人生がいかに平坦でスカスカであることか。3ページどころか、3行もあれば書くことは尽きてしまいそうだ。
 色川武大の「連笑」は、作者自身の経験を素材にして書かれたようだ。すなわち、僕自身の経験とはほとんど重なることのない話が展開するが、なぜか主人公「私」に妙に感情移入してしまう。深いところで相通じるものがあるということだろうか。