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僕が線を引いて読んだ所 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017年07月15日 直球勝負! このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 古典を読もう、と思って最初に選んだのが『伊勢物語』。とりあえず一通り目を通したので、次に読み始めたのが『徒然草』。教科書や問題集で読んだ記憶のある章段はあまり苦労はないが、初めて読む章段は注釈を頼りにのろのろと読み進む。
 第31段は初めて読む章段ではないが、しばし立ち止まらずにはいられなかった。

 雪のおもしろう降りたりし朝、人のがり言ふべき事ありて、文をやるとて、雪のことなにとも言はざりし返事に、「この雪いかが見ると一筆のたまはせぬほどの、ひがひがしからん人の仰せらるる事、聞きいるべきかは。かへすがへす口をしき御心なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。
 今は亡き人なれば、かばかりのことも忘れがたし。

 以前これを読んだのはいつだったか、ひと昔もふた昔も前のことだったと思うが、その時の読み方と、今の読み方とは明らかに違ってきている。
 「かへすがへす口をしき御心なり」と言われた兼好は素直に、「確かにあなたの言う通り、自分が迂闊であった」と、自らの不明を恥じている、というのが若かりし頃の解釈。
 ところが今は、兼好が雪のことに触れなかったのは、あえてそうしたのだろうとしか思えない。誰もが雪に心をときめかせるような朝、兼好もまたそうであったのに、わざとその気持ちは押し殺して用件だけを書いてやる。さて、相手はどう応じるか?
 「あなたはそんな人だとわかっているから」と敢えて不満は口にせず、淡々と用件だけに応えるという返事も想定できただろう。でも、それでは物足りない。二人はまだそこまで狎れあってはいないのだ。「かへすがへす口をしき」と直球を投げ込まれたことが兼好は嬉しい。「今日の雪、きれいだね」というやり取りを、相手は(そして兼好自身も)望んでいるのだ。
 それにしても、今日は暑いですね。

2017年06月19日

[]文学と生活 文学と生活を含むブックマーク 文学と生活のブックマークコメント

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 文学に興味を持つようになったきっかけは、と聞かれれば、高校の現代国語の教科書に載っていた島尾敏雄の短編(題名を忘れてしまったので、今調べてみたら「いなかぶり」だった)を読んで文学というものの奥深さに触れたからだなどと答えたりしていたのに、その割にはその島尾敏雄の代表作である『死の棘』を読むのは随分遅くなってしまった。
         * * * * *
 先月初めに、佐倉の街を歩いた時、偶然に正岡子規の句碑を見つけて、ここも子規のゆかりの地だったか、どこに行ってもその地にゆかりのある文学というものはあるものだなと思ったが、その時自分が歩いているのが、『死の刺』の夫婦が上り下りしたに違いない坂道であることには気が付かなかった。その時ちょうど肩に下げていた鞄の中には新潮文庫の『死の棘』が入っていたというのに!(読んでいたのはまだ作品の最初の方で、舞台は小岩の街だった。)
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 600ぺージにも及ぶ長編と付き合うことになったこの数週間、壮絶で陰惨な戦いを続ける夫婦の気分がこちらにまで乗り移ってしまうことがあるかとも危惧されたが、振り返ってみるとそんなこともなかったのはどうしてだろう。いきなり最悪の状況から始まるこの小説が、遠くにほのかな希望の光が灯るのを常に感じさせるからだろうか。それとも、「その後」の島尾敏雄島尾ミホと二人の子供がどういう経過をたどったかという「現実」を多少なりとも知っているということが、作品の外から読者の安心を保証してくれているということなのだろうか。いや、読者が陰鬱な泥沼に陥ることなく、読み進むことに快感さえ覚えるのは、筆者の筆力、強靭な文章の力なのだと思う。
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 作品の最終章の中ほどに出てくる、次の一節が心に引っ掛かった。

文学と生活は別のものかしら、と言われても納得させることばを口にすることはできない。

 「納得させる」とは、妻をか、それとも自分自身をか。いずれにしても、妻の問いに作品の中では答えられない「私」だが、作家島尾敏雄としてはその問いに答えが出せたのだろうか。まさに『死の刺』こそ、この重い問いに対する一つの答えなのではないかとも考えてみる。しかし、この大長編小説の最後の一文は、文学の側に急速に傾きかけた作品を、再び生活の方に引きずりおろそうとするかのようだ。作家の中で「文学と生活は別のもの」という答えと「別のものではない」という答えとが戦っている。

2017年06月04日

[]親しい感情 親しい感情を含むブックマーク 親しい感情のブックマークコメント

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 連休前くらいから時間を見つけて読み続けているけど、なかなか終わらない。ようやく4分の3を過ぎたあたりかな。陰鬱な話なのに、不思議と暗い気分にならない。なぜだろう? 主人公の苦痛とそこからの解放という繰り返しが、読者にとって親しい感情になってくるということがあるのかもしれない。

 眠りにはいるしるしの、手足の先に起こす軽い痙攣を妻が私のからだに伝えてよこすと、しばられていた時間がほどけ、拘束のないひとりだけの旅に出かけ行くときのいつもの親しい感情がおとずれ、過ぎ去った出来事の意味のすべてが了解でき、どこまでも受け入れられそうなのがふしぎだ。耐えがたい妻の発作も、あわれが先に立ち、ひたすら眠りこむそのすがたに、愛着の湧きあがるのがおさえられない。

2017年05月06日

[]旅人、正岡子規 旅人、正岡子規を含むブックマーク 旅人、正岡子規のブックマークコメント

f:id:mf-fagott:20170506154742j:image:w300:left 「正岡子規展―病牀六尺の世界」を開催中の神奈川近代文学館復本一郎講演会「子規の芭蕉」を聴いてきた。
 印象的だったのは、次のような話。

…子規は蕪村を称賛し、芭蕉に対しては随分厳しい評価を下しているが、資質的にはむしろ芭蕉の方に近かったのではないか。子規は実地に赴き、実際に見たものしか句にできない。蕪村のように空想で句を作ることができない点で、凡人なのである。もし子規が頑健で芭蕉のように旅を続けることができたら、より芭蕉的な世界に近づいていただろう。病に倒れた子規には、それは叶わなかった。子規の中に蕪村を希求する思いが生じたのはそのためなのだ…

 しかし今日、子規の旅の足跡を図示した展示を見てわかったのは、子規が当時の人としては驚くほど精力的に日本の各地を訪ね歩いていることだ。芭蕉を意識してのことでもあろうが、旺盛な好奇心のなせる業なのだろう。子規とは、実に人生を太く短く生きた人なのだと思う。

 つい先日、佐倉の街を歩いた時に偶然見つけた子規の句碑、二つ。
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霜枯の佐倉見あぐる野道かな
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子規は1894年(明治27年)12月にこの地を訪れたという。
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常盤木や冬ざれまさる城の跡

2017年04月23日

[][]花と港 花と港を含むブックマーク 花と港のブックマークコメント

 近代文学館へ行って、5月6日の講演会のチケットを購入。

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 開催中の展示は講演会当日に見ることにして、港の見える丘公園の花と景色を楽しむ。5月に来るときには、今盛りのチューリップはすっかり消えて、バラの花が咲き始めているだろう。

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 この後、ミューザ川崎で、知人が多く参加しているオケの演奏するマーラー交響曲第6番を聴いた。長大な曲だが、曲想や音色の変化が面白く、最後まで飽きずに聴き通すことができた。

2017年04月19日

[]悪人? シントラー 悪人? シントラーを含むブックマーク 悪人? シントラーのブックマークコメント

 先日の横浜シティ・シンフォニエッタの演奏会では、ベートーヴェンの第5シンフォニーの演奏の前に、指揮者の大貫先生の解説があり、それがなかなか評判が良かったのだが、その中で印象に残っているのが音楽学者アントン・シントラーに触れた部分だ。「シントラーは悪い奴で、ベートーヴェンの伝記をまとめるにあたって、ベートーヴェンが遺した多くの手紙のうち、自分にとって都合の悪いものは処分してしまった…」
 さて、僕の本箱には、そのシントラーの伝記が処分されずに残っている。昭和46年発行の角川文庫。購入したのは中学2年の時にちがいない。なぜなら僕はその頃、埼玉県西川口に住んでおり、本にはその西川口の本屋のカバーがかかっているからだ。カバーをはがすと、中まですっかり日焼けしていい色になっている。
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 僕はこの本にどんなことが書いてあったか、もちろん全く覚えていないが、中に線を引いたり書き込みをしたりしてあるところを見ると、どうやら僕はこの本を一応は最後まで読んだらしい。ちゃんと理解できていたのかはともかく…
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ベートーヴェンは、あらゆる誇張された形式主義に、真っ向から反対し、平凡な、踏み慣らされた大道を避け、自己自身の方向を追っていたから、その視界を見通しえない人たちからは、誤解されずにいるはずはなかった。

なんていうところにくっきりと赤い線を引いてあるということは、当時の僕がそんなベートーヴェンに共感を覚えていたということ? 若いなあ…

2017年04月17日

[]発見! 長谷川利行 発見! 長谷川利行を含むブックマーク 発見! 長谷川利行のブックマークコメント

 企画展常設展を同時開催するような大きな美術館では、企画展のチケットで常設展も観覧可能となっているケースが多いと思う。とはいえ、企画展を見た後ではもう疲れちゃって、常設展の方はおざなりというか、観たとしても駆け足、という感じになってしまうことがほとんどだ。だから常設展は見られなくていいから、企画展の値段、もっと安くならない? などと言いたくもなってしまう。ところが、先日の東京国立近代美術館は違った。
 目的は今も開催中の「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」と「マルセル・ブロイヤーの家具」の二つの企画展。この二つだけで十分お腹一杯、という感じだったので、いつも通り常設展示の方は、ささっと済ませてラーメンでも食って帰ろう、というつもりだったのに、いざ観始めたらあっちこっちで捕まってしまって、常設展示だけでも一日たっぷり楽しめるじゃん、というくらいの充実ぶりにびっくりしてしまった。
 岸田劉生の「道路と土手と塀」とか、佐伯祐三の「モランの寺」とか、古賀春江の「海」とか、いい絵がいっぱいで。そんな中で、作者は初めて聞く名前だけれど、魅了させられた作品群があった。長谷川利行。人物も静物も風景も、温かみがあっていいんだなあ。(展示作品は、一部を除いて撮影可能でした。) 
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 これは、カフェ・パウリスタという題の油彩だが、解説を読むと、ここに展示されるまでの経緯が書いてあって、面白い。
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 下宿屋のご子息が鑑定に出したというテレビ番組は、僕も時々見るなんとか鑑定団というやつだろう。番組の中でいくらの値段が付き、美術館はいくらで購入したんだろう、作品を手放した下宿屋のご子息は生活が一変しただろうか、などと下世話な興味が尽きないのである。
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2017年04月09日

[]コンサートのお知らせ コンサートのお知らせを含むブックマーク コンサートのお知らせのブックマークコメント

今週の土曜日、県立音楽堂です。ご来場をお待ちしております。
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2017年04月07日

[]花をもめでじ 花をもめでじを含むブックマーク 花をもめでじのブックマークコメント

伊勢物語』第八十八段。

むかし、いと若きにはあらぬ、これかれ友だちども集りて、月を見て、それがなかにひとり、
  おほかたは月をもめでじこれぞこの
   つもれば人の老いとなるもの

 この「月」を「花」に置き換えてみると、今の自分の気持ちと重なってきます。

  おほかたは花をもめでじこれぞこの
   つもれば人の老いとなるもの

 (現代語訳)世間では今年もまた、どこそこの桜が咲き始めたとか、満開を迎えたとか騒いでるけど、それにつられてソワソワし始めちゃう自分がなんとかならないもんかと思っちゃうんですよ。若い時は、「今度の土日はせっかく満開になりそうなのに、雨の予報でがっかり」なんてことはなかったのにね。それよりも、咲いては散り、咲いては散りしてるのを惜しんでいるうちに、ほら、自分自身が枯れちゃいそうじゃん。

2017年04月01日 カマイタチ このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 草野球に明け暮れていた小学生の頃の事件の一つである。
 一塁を守っていた、僕より一つ年上のかっちゃんが、内野手からの送球を捕ろうと両手を高く差し出したが、球はそのすぐ上を通過してしまった。その直後である。球を後ろに逸らしたかっちゃんは、球の行方を追うことなく、その場にうずくまった。異変を察して駆け寄った子供たちは、かっちゃんの痛みを訴える箇所をのぞき込み、口々に「カマイタチだ、カマイタチだ」と叫び合った。
 その時、僕自身はどこかの守備についていたのか、それとも攻撃の側だったのか、はっきりとは覚えていない。ただ、かっちゃんのグローブをつけていない方の手の、つまり右手の親指と人差し指の間に、鋭利な刃物で裂かれたような深い傷が口を開けているイメージだけが記憶として鮮明に残っている。球は、親指と人差し指の間の、皮膚に触れるか触れないかのすれすれのところをかすめていったのだろう。
 井上靖詩集北国』の中にある「カマイタチ」を読むたびに、この記憶が蘇ってくる。

ここは日暮時にカマイタチが出るといふのでみなから恐れられてゐた。カマイタチの姿を見たものもない。足音を聞いたものもない。が、そいつは風のやうにやつてきていきなり鋭利な鎌で人間の頬や腿を斬るといふ。私たちは受験の予習でおそくなると、ここを通るのが怖かつた。

ある時、学校で若い先生がカマイタチの話を科学的に説明してくれた。大気中に極限的な真空層が生じた場合、気圧の零位への突然なる転位は鋭い剃刀の刃となって肉体に作用すると。

 その「事件」が起きた当時、僕はカマイタチが局部的な気圧の変化によって生じる現象であるというような知識を持っていただろうか。自分より年長の子供たちが「カマイタチだ」と叫ぶのを聞いて、僕は井上靖の詩に描かれた「私たち」のように、何か得体の知れない生き物を思い描いたというのが事実だったかもしれない。
 「事件」が起きたことは、間違いのない事実である。しかし、今の僕の記憶の中に残る、血も流さずにぱっくりと開いた美しい傷口のイメージは、その後になって得た知識や、井上靖の詩によって修正されて出来上がったもので、記憶とはまた別の種類のものなのかもしれない。

北国―詩集 (1960年) (新潮文庫)

北国―詩集 (1960年) (新潮文庫)