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僕が線を引いて読んだ所 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016年09月18日

[]清々しい詩情 清々しい詩情を含むブックマーク 清々しい詩情のブックマークコメント

 山口蜜柑氏の『風を孕め』は、とても魅力的な句集です。
 作者の繊細な感性と控えめながらも的確な表現が、清々しい詩情を生み出しています。最初のページの二句を読んだだけで、これはいいと感じて引き込まれてしまいました。句会仲間からお借りして読んだのですが、ずっと手元に置いて、繰り返し読みたいと思うほど、僕の好みの句がたくさん並んでいます。自分用に、一冊注文しようと思います。

枝ごしの薄日集めし福寿草
福引にはづれてもらふ花の種
人寄らぬコンドルの檻蔦枯るる
読みかけの栞が分かつ去年今年
朝寝して二度目の夢の哀しかり
冬の日や影重ならぬほどの距離
ぞんざいに剥き君にやる夏蜜柑
曲がるたび道細くなる式部の実
青葦のてつぺん揺れて触れ合はず
サイダーや窓一面に山せまる

菊池邦子菊池邦子 2016/09/23 17:19 先生 早速感想ありがとうございます。 蜜柑さんにも先生のブログ紹介しました。 私も蜜柑さんの句の中に好きな句が沢山あります。

mf-fagottmf-fagott 2016/09/24 09:42 先日の「釘ん句会」の兼題に「流れ」がありましたが、『風を孕め』には
  水草生ふ歩く早さの流れかな
  流れ星待つ屋上に残る熱
がありました。これもいいですね。読み手を心地良くしてくれる優しさや明るさやぬくもりがあります。そしてほのかな愁いを感じさせもするのです。

菊池邦子菊池邦子 2016/09/24 16:03 先生 蜜柑さんの句、きちんと読まれてますね。私も一気に読みましたが、
今度 改めて好きな句を 並べてみようかと思います。
友人のお嬢さんですが、控えめな感じの中にしっかりした芯のある方です。句は人を表す・・・・ということでしょうか。

2016年08月31日

[]つむじ風食堂再訪 つむじ風食堂再訪を含むブックマーク つむじ風食堂再訪のブックマークコメント

 つむじ風食堂の夜を面白く読んだばかりの僕には、一度訪ねたことのある月舟町のつむじ風食堂を再訪するよう楽しさもあり、また、この小説の舞台装置を前回とは違う視点で眺める面白さも感じられたけれど、この本で初めて月舟町を訪れる若い読者は、どう感じるだろうか? 語り手の言う通り、「途中」から始まり「途中」で終わるこの物語に、若い読者は戸惑いと物足りなさを感じるかもしれない。この物語をきっかけに、月舟町を再訪してみようという読者が多ければいいのだけれど…

2016年08月20日

[]一番乗り 一番乗りを含むブックマーク 一番乗りのブックマークコメント

つむじ風食堂の夜 (ちくま文庫)

つむじ風食堂の夜 (ちくま文庫)

 彼はエスプレッソ・マシーンの前に立ち、いくつかのスイッチを押してから、息を止めて慎重にカップを設置した。
「親父が死んだとき、なんとなく取り残されたような気がしたんです。まだいろんなことを教わっている最中だったんで。でも、親父、よく言ってました。もし、乗り遅れて、ひとり駅に取り残されたとしても、まぁ、あわてるなと。黙って待っていれば、次の電車の一番乗りになれるからって」
 マシーンが音をたてて動きはじめ、しばらくすると珈琲豆の香りが湯気をともなって、それこそ雲のようにあたりに満ちあふれた。

 この部分を読んだ時、一つの古い記憶が頭をかすめた。

――僕たちの車が久里浜港に着いたのは、ちょうどフェリーが出てしまった直後だった。次のフェリーが出るまで待合室のベンチでただ座って待っているのも退屈だと思った僕たちは、港のあたりをぶらついて戻ることにした。

 数十分後、港の駐車場に戻ってきた僕たちが見たのは、ちょっとした驚きの光景だった。広い駐車場にとまっているのは、僕の白いホンダシビック1台だけ。唖然としている僕たちに、笑いながら近づいてきた場内整理のおじさんが言った。
「フェリーはもう出ちゃったよ。次の便に乗ってもらうから、車、一番前まで動かしてといて。」
 フェリーの出港時刻表を見間違えていたのか? 運転手のいない白いシビックを迷惑そうによけながらフェリーに乗り込む車の列の映像が、頭をよぎった。

 次の便が着岸し、乗船準備完了のアナウンスが流れた。さっきの場内整理のおじさんの誘導に従い、列の先頭を切ってフェリーの胴体に飲み込まれていくときの、気恥ずかしさと晴れがましさの混ざったような複雑な気持ちが、今でも忘れられない。

 久里浜港から房総半島に渡るフェリーにはその後何度か乗ったが、そのたびに妻との間で必ず話題になるのが、この出来事だ。

2016年08月09日

[]東京周辺名所巡り? 東京周辺名所巡り?を含むブックマーク 東京周辺名所巡り?のブックマークコメント

新宿御苑
慶応大学日吉キャンパス
穴八幡神社
葛西臨海公園
湯島天神
東大駒場キャンパス
東京駅
多摩動物公園
靖国神社
川崎大師

 さて、これは何かというと、エッセイスト岸本葉子が『俳句、はじめました 吟行修行の巻』の中で訪れている吟行地。僕もこの中の半分くらいは行ったことがあるが、吟行目的で行ったことはない。というか、僕は吟行句会の経験がほとんどないといってよい。数年前、「街」羽田空港での句会に参加させてもらったのが唯一の経験と言えるくらいのものだが、あの時は時間ばかり経ってしまって、投句直前まで本当に一句も思い浮かばず、焦ったなあ… 目の前にあるものを素直に575で表現するということがこんなに難しいことなんだ、ということを思い知らされた、貴重な経験でした。(この時のことはここに書いています。)同じ「街」の鍛錬句会で、「肉親への嫌悪感」などという思ってもみなかったテーマを出されて、はい20分後に提出、なんていう方がよっぽど何とかなってしまうのは不思議だ(これはつい先日の話です)。俳句というのは、眼前のものを見て作るよりも、頭の中の既存のイメージを呼び出して作る方が易しいということなのかもしれない。
 岸本葉子は、吟行地に1〜2時間滞在し、とにかく目の前の材料を575に並べてみる。そうしてとりあえず出来た自分の句のどこがダメなのか、何が足りないのかを客観視して、ダメな句はボツにして残り10句を投句する。そのプロセスをつぶさに書き記してあり、また投句した句が他のメンバー(ベテランおよび中堅女性俳人)からどのように評されたかも書いている。だから、これは俳句上達のためにはとても勉強になる本なのだ。(前著『俳句、はじめました』について書いたときも同じようなことを書いてますね。)

2016年08月06日 アクティブラーニングとは… このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 オリンピックが始まった。ということは、次回東京オリンピックまであと4年。…4年しかないんだ。大丈夫なのかなあ。
 そして、その2020年から大学入試が大きく変わるらしい。親としても、教師としても、4年後に大学入試がどうなっていようともう関係ないと言えば、ないんだけど… とはいえ、学校現場にはすでに新しい波が寄せつつあるし、不断に行われるべき授業改善のためには新しい知見への目配りも欠かせない。それで、いろいろ勉強しています。昨日はアクティブラーニングをテーマにした研修会に参加。それから今日はこんな本を読み終わりました。

2020年の大学入試問題 (講談社現代新書)

2020年の大学入試問題 (講談社現代新書)

結局、題材は何であれ、“Who are you?”という自分は何者なのかを、あらゆる局面で問われ、それを表現できる思考力と判断力が、何といっても大切な時代がやってきたのです。2020年の大学入試問題もその例外ではありません。「多角的な思考のスキル」と「確固たる自分軸」を多様な人々と協働する中で活かしていく「知のコード」を身につけること。これこそが2020年の大学入試を乗り越えるカギなのです。

 アクティブラーニングというと、講義一辺倒の授業よりも記憶に残るとか、居眠りさせないためには有効とか、成績が下がることはないから心配はない(入試問題を解く力もちゃんとつく)とか、そんな話題になることがあるが、それでは目指す先にあるものが従来型の学力であって、アクティブラーニングを矮小化しているといわざるを得ない。そもそも従来の物差しで測れない力を生徒につけさせようというのだから、我々の現場は大変革を求められているのであって、アクティブラーニングを授業に取り入れることと、小手先の技術を身につけることとは全然違うのだ。
 …などということを、考えた昨日今日なのでした。

2016年08月05日

[]世の中の進歩とは 世の中の進歩とはを含むブックマーク 世の中の進歩とはのブックマークコメント

 もう15年くらい前のことになるのだが、今でも忘れない。評論文の授業の中で、「世の中が進歩したと言えるのはどういうときか」という問題を生徒に投げかけた。多くの生徒は科学技術や医療技術の進歩について答えた。生活が格段に便利になるとか、癌の治療法が見つかるとか。ところが中に一人、こんな答えを返した生徒がいたのだ。

――話し合いの技術が進歩して、話し合いで問題が解決できるようになったとき

 僕はこの答えにいたく感心してしまった。僕はほかのクラスの授業でも、こういう素晴らしい答えがあったと紹介した。今でも、世の中の進歩ということが話題になるとこの答えを思い出し、生徒にも話している。
 この生徒がどういう生徒であったか、もう忘れてしまった。この生徒は今、何をしているだろう。今でもこの素晴らしい答えを忘れずにいるだろうか。

 加藤静夫の『中略』という句集を読んだ。
 この中の、次の句を詠んだとき、僕は久しぶりに「世の中の進歩」と「話し合い」について考えさせられたのだった。そして少々切ない気持ちになるのであった。

 口を出て言葉痩せたる四葩かな
 秋あざみ私にも言ひ分がある
 暖炉燃ゆ女に言はせれば空論
 短日の総裁なにか思ひつく
 結論が出てから異論杉の花
 しつかりと議論し毛虫焼くことに 
 梅雨菌多数決にて国滅ぶ

中略

中略



 その他、○をつけて読んだ句より、厳選5句。(次に読んだとき、入れ替えちゃうかも…)

 凶と出てうすらひつんつんとつつく
 赤い羽根つけて電車のなか歩く
 先祖代々地球に棲んで時々風邪
 猫の子に加藤の姓を与へたる
 躍らせてみたら割かしいい女

2016年07月09日 歩行のように このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 今日、小池昌代の散文を読んでいて、自分の中に長年わだかまっていたモヤモヤが晴れたような気がした。
 モヤモヤというのは、十代のころから抱いていた、現代詩に惹かれながらも現代詩に拒否されているようなある種の劣等感である。時々、詩を読みたくなって詩集のページを繰ってみる。ところが、散文を読んでいるときのようには、筆者のメッセージが自分に届いてこない。詩集はいつも、どこかよそよそしい表情を僕に見せるのである。「自分は詩が好きだと言いながら、実は詩を理解する能力が決定的に欠けているのではないだろうか…」
 ところが、小池昌代「詩の言葉が孕む『自然』―萩原朔太郎西脇順三郎(『詩についての小さなスケッチ』所収)の次の一節に出会って、自分の中に光が差し込むような、目の前の視界がスッと開けるような思いをしたのだった。

わたし自身、詩を書こうと思うとき、そこには必ず、ぼんやりとしていながらも、形への志向があった。これはなんだろう。詩を書こうとするとき、ある「かたまり」を紙面にあらわそうという欲望が生まれる。それは最初、読まれるものというより、眺められるブツである。実際の作品がどうであるかは置き、わたしのなかに予め存在する詩のイメージは、本を開いたとき、見開きに収まるほどの短いかたまりである。

 そう言われてみると、読者である僕もまた、詩が見せてくれる「見開きに収まるほどの短いかたまり」としての「形」、あるいはその「眺め」に、何よりもまず惹かれていたのではなかったかと気づく。詩人の欲望が、言葉を一目で眺められるほどの「形」に並べて見せたいというものであるならば、読み手の側がその「形」に惹きつけられたとき、両者は詩を挟んで既にほど近い地点に立っているのだと言えるだろう。
 しかしもちろん、言葉の短いかたまりを眺めただけで満足できないのが、詩の読者というものである。次に問題になるのは、いかにその詩の意味内容に入っていけるかだ。その点について、小池昌代西脇順三郎『旅人かえらず』を取り上げて、次のように書いている。

西脇順三郎は頭のなかに、寂しい野原を創った人だ。読んでいると、言葉によってここにあらしめられた植物が頭にじかに生えてくる感じがする。それはみな、言語の操作によってできあがったものだが、詩人はどこまで意識しただろう。言葉の意味は、一応通っている。しかし意味は第一順位では考えられていない。わからない文言がある。だが読者は、わからないということを理由に、そこで立ち止まる必要はない。むしろそのわからないなかを、ずいずい、進んでいくことが要請される。

リズムに意識を移して詩を読むと、言葉の意味は残らない。西脇詩はまさにそうである。言葉の運ばれ方に目的があり、読むことはすなわち、「歩行」に等しいものだ。詩行の「意味」は風景のように脱ぎ捨てられていく。

 詩の言葉の意味を「風景のように脱ぎ捨て」ながら「ずいずい」読み進むというのは、西脇の詩に限らないことだ。これは詩の「改行」とかかわる。小池昌代によれば、詩の改行とは「透明なついたて」。詩の各行の意味はそのついたてによって、前の行とも次の行とも断ち切られている。僕が詩に拒否されていると感じたのは、改行によって断ち切られている言葉と言葉の意味を、散文を読むときのように無理やりつなげようとしていたからではなかったか。詩は音楽、詩はリズムなどと理屈ではわかっていたはずなのに、身にしみついてしまった散文的な読み方からどうしても自由になれずに、詩に対してモヤモヤとした思いを抱き続けていたのではないか。意味を「風景のように」脱ぎ捨てながら歩くようにして読むことによって、今まで何年もの間、僕によそよそしくしていた詩が近づいてきてくれたなら、今日という日は僕にとって記念すべき日ということになる。

2016年07月03日 ブンガク的 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 以前読んだ伊藤礼『こぐこぐ自転車が面白かったので、その続編を買おうとネットで調べているうちに、同じ著者の『耕せど耕せど』という本を見つけて、自転車の本ではなくこちらの方を購入してしまった。僕にとっては自転車だけでなく、野菜作りも人生の大きな楽しみの一つなのだ。と言っても、僕の場合は伊藤礼のように庭に耕耘機で耕すほどの畑があるわけでなく、もっぱらベランダでのプランター栽培だけど。ああ、庭に畑の作れる人がうらやましい!

耕せど耕せど―久我山農場物語

耕せど耕せど―久我山農場物語

 ところで、『耕せど耕せど』の帯には、「ニッポン初の家庭菜園ブンガク誕生!!」と書かれているが、本当なのだろうか? 僕は以前読んだ榊莫山自家菜園の楽しみ』という本を棚から取り出してパラパラとめくってみた。この本は、著者の庭を訪れる小動物や、庭の木や草に咲く花を慈しむ、という内容だったようだ。『耕せど…』の方は、限られた面積の菜園で、いかに効率的に野菜を育てて、たくさん収穫するか、そのための日々の苦労がとてもブンガク的に語られており、なるほどそういう本は今までになかったのかもしれない。
 海外に目を向ければ、家庭菜園をテーマにした本といえば、チャペック園芸家12か月』ヘッセ『庭仕事の愉しみ』を思い浮かべる。『耕せど耕せど』がそれらと肩を並べる「家庭菜園ブンガク」として読み継がれていくのか、それはわからない。

我が家のベランダ菜園は、ミニトマト、シシトウ、枝豆を栽培中。
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2016年06月28日 美についての形而上学 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

美について (講談社現代新書)

美について (講談社現代新書)

 本書は、

美は人生の希望であり、人格の光であると録(しる)さねばならない。(p.235)

と結ばれる。この結びに至る道筋は、極めて知的、論理的に積み上げられた、「美についての形而上学」である。この道筋をたどることは、読者に思考の喜び、哲学することの面白さを味わわせてくれる。
 しかし、筆者の導き出した結論は、読者の誰もが首肯できるものではないのではないか。

美はその至高の姿においては、宗教の聖と繋がる人間における最高の価値であるといわねばなるまい。美は基本的には、精神の犠牲と表裏する人格の姿なのである。(p.234)

などと言われてしまうと、美を身近に感じていたい読者は、美が近づきがたい存在になってしまったような戸惑いを感じはしないだろうか。僕自身、本書の結論に対してはどうしても感覚的なずれのようなものを感じざるを得ない。とは言うものの、強く興味を引き付けられて、何度でも読み返したいと思う個所は随所に見られるのだった。

作品とは、もはや一義的に限定された意味や形態を示すものではなく、鑑賞者の自由な解釈を期待する未定の存在である。換言すれば、作品は、鑑賞されるよりも以前に完成している閉ざされた存在ではなく、それ自身としては未完成の開かれた存在として鑑賞者の前に自己を委託している存在ということになる。(p.88)

作品に対する愛は、その作品の成立する以前の問題としての作家に集結するよりは、むしろ、その作品の将来に向けられ、これを単なる歴史的作品から永遠の傑作に格上げしてゆく努力だとみることができると思う。(p.203)

2016年06月05日

[]言葉を拾いに 言葉を拾いにを含むブックマーク 言葉を拾いにのブックマークコメント

f:id:mf-fagott:20160605232000j:image:left:w200「街」同人の上田貴美子氏より、句集『暦還り』が送られてきました。ありがとうございます。

 以下、丸印を付けた句を紹介し、そのうちの数句については拙い鑑賞文を書かせていただきます。

人増えてをり山の霧すぐ晴れて

 長く苦しい登りもひと段落、誰もが一息入れたくなる尾根上の広場に到着した。霧が濃くてよく見えないが、先についた幾組かのパーティーの談笑する声が聞こえる。立ったまま地図を広げて、コースタイムを確認する。ここから山頂まであと3〜40分、昼飯にちょうどよい頃合いに着きそうだ。よしよし、計画通り。ここでは長居せずに、お茶を一口飲んでからすぐ出発だ。ザックの中のペットボトルを取り出そうとかがみこむと、急にあたりが明るくなる。顔をあげると、立ちこめていた霧が急に晴れて、青空が顔を出し、向かいの稜線の一部がくっきりと見えてきた。後続のパーティーがどんどん登ってくるのだろうか、広場に憩う登山者の数は思っていた以上に多い。さあ、少し先を急ごう。ぐずぐずしていると、山頂の特等席を確保できないぞ。

台風の育ち盛りや旅鞄

 旅行鞄に明日からの旅に必要なもろもろを詰め込んでいる。もちろん、雨具も。南の海上では台風が発生して北上しつつあるという。台風と鉢合わせしてしまうか、或いはうまいことかわすことができるか、運を天に任せるほかない。万が一台風の直撃を受けて、いつぞやのようにまた旅の宿で缶詰を余儀なくされたとしても、それはそれで一興ではないか。出発は明日の朝、6時。

いま見ゆるものを見てをり冬の葬

 作者は、今見えているものを見ているという自分の行為の神秘に思い至った。今自分が見ているということ、すなわち生きているということが、眼前の事物の存在を保証している。死者の前には何も存在しない。死者も何かを見ているだろうというのは、生者の感傷にすぎまい。
 他の人の眼にも自分と同じように見えているだろうというのも、人が陥りやすい錯誤だ。他でもない、自分の眼で見ているという行為のかけがえのなさに気づかせてくれるのが、俳句という文学なのではないか。

ペン執るや言葉ひつこむ十三夜
昂りの欲しくて落ち葉踏みにゆく

 気持を昂らせなければ、言葉は生まれないのである。ペンを握っても、キーボードに手を載せても、それだけでは言葉はなかなか思うようには出てきてくれないのである。そんな時、人は月の光を浴びたり、落ち葉をかさこそと言わせたりしようと、外に出て行くのである。落ち葉を踏みに行くとは、言葉を拾いに行くということなのである。月の光が呼びかければ、人は何かを答えようとするだろう。西行法師も、ベートーヴェンも、宮沢賢治も、きっとそうだったに違いないのだ。

古里の訛日傘に畳み込む
浮草や水に沈めるものの息
涼しくてピアノの蓋を開けてみる
鰯雲待ち呆けのまま晩年に

こくぼこくぼ 2016/06/06 13:01 上田さんはパソコンを開かれないのでプリントアウトしてお送りしますね。すご〜くお喜びになられると思います。またどうぞ街の句会にもいらしてくださいませ。

mf-fagottmf-fagott 2016/06/06 22:18 こくぼ様、コメントありがとうございます。上田様にはお礼状も差し上げず、失礼しております。街の句会に参加できれば、その時にごあいさつしようと思っていますが、だいぶ先の話になってしまうかもしれません。よろしくお伝えください。