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僕が線を引いて読んだ所 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018年06月21日

[]大迫、パねえ? 大迫、パねえ?を含むブックマーク 大迫、パねえ?のブックマークコメント

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 「大迫半端ないって!」が流行語になるとか、ならないとか、そんなことどうでもいいけど、次の試合でも誰かが半端ない活躍を見せてくれることを期待しよう。
 で、今日、原田マハの『生きるぼくら』という小説を読んでいたら、こんなセリフが出てきた。

「まじっすか。すげえ。じゃあ、もう引きこもり克服したってことじゃないっすか。すげえ。まじ、パねえ」

 セリフの主は田端純平、東京私立大学の4年生。就職活動にことごとく失敗中。こんな日本語使っているようじゃあねえ…って感じの軽薄人間。(この先、まともな人間に成長していくというお決まりのパターンが予想されるけど…)
 ところで、この作品の単行本が出たのが2012年、ということはそれより前から「パねえ」は使われていたわけだ。「半端ない」は良く耳にするけど、「パねえ」は気づかなかったなあ。僕の周りの生徒たちは使っていそうだけど。アンテナの感度をもっと良くしないといけないな。

 さて、次の試合ではだれがゴール決めてくれるか。

「また大迫パねえ?」
「いや、今度は武藤パねえ?」
「案外、川島ってこともあるパねえ?」

 いやいや、そんな使い方はないだろう。

2018年06月14日

[]プーシキン美術館展 プーシキン美術館展を含むブックマーク プーシキン美術館展のブックマークコメント

 プーシキン美術館展を開催中の東京都美術館は平日だというのに大賑わい。今日からワールドカップ、ロシア大会が始まるからかな?(関係ないか…) 僕の特にお気に入りの作品は、次の3点。

  アルマン・ギヨマンの「廃墟のある風景」
  ジャン・ピュイの「サン=モーリスにある古代ローマの橋」
  オトン・フリエスの「カシスの木々」


 他にもいい作品はたくさんありました。ギヨマンの作品は公式HP内の特設Web Site(http://pushkin2018.jp/)で観ることができます。

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2018年06月03日

[][]「長谷川利行展」のち「釘ん句会」 「長谷川利行展」のち「釘ん句会」を含むブックマーク 「長谷川利行展」のち「釘ん句会」のブックマークコメント

 昨年の今頃、東京近代美術館で観た長谷川利行が良かったという話はこのブログに書いたが、その長谷川利行の展覧会があると知り、プーシキンルーブルも観たいけどまずこっちが先、と思って昨日行ってきた。
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 初めて行く会場の府中市美術館は、爽やかに晴れ上がった府中の森公園の一角に建つ立派な建物。公園内を散策しながら、夕方の句会に備えて、まだ数の足りない俳句をひねり出すというのもいい考えだが、それは後にして、900円のチケットを購入。

f:id:mf-fagott:20180603091501j:image:w160:left 一年ぶりの再会となる長谷川利行、やっぱりいい!!
 書きなぐったような自由な筆の運びと大らかな構図。様々な色をごちゃまぜにしたようでいて、全体として保たれている調和。その中で明るく鮮やかな赤い絵の具がアクセントとなって、目を引き付ける作品が多い。(購入したカタログではその赤が、実物ほど鮮やかに印刷されていないのが残念だが、仕方がない。)
 この展覧会は、前期展示が6月10日まで。後期展示が6月12日から始まる。多くの作品が入れ替わるので、もう一度行きたいと思う。

 展覧会の後は、公園内をちょっと歩いてから、句会の会場、市ヶ谷に向かう。歳時記電子辞書を入れたショルダーバッグが、展覧会のカタログを加えてますます重くなった。毎度のことながら、満足な句が揃っていないので、気持ちも少し重い。

f:id:mf-fagott:20180603091500j:image:w160:left 釘ん句会は、今回で35回目。(良く続いているなあ…)
 今回出した五句のうちの二句。

 アマゾンの大きな箱で来る香水
 節つけて「おはようよのなか」夏始


 「アマゾン…」のような句は、もう誰かが作っているに違いない。
 Kさんからお借りして帰った俳誌「知音」を読むのが楽しみ。

2018年05月10日

[]分け入っても分け入っても… 分け入っても分け入っても…を含むブックマーク 分け入っても分け入っても…のブックマークコメント

 金子兜太の『種田山頭火漂泊の俳人』(講談社現代新書)を読んだ。
 山頭火と言えば、世間では人気のある俳人の一人に数えられているわけだが、僕にとってはどうもよくわからない俳人なのである。

 分け入つても分け入つても青い山

 よく知られた代表句だ。僕もこの句には素直に魅力を感じることができる。漂泊のロマンティシズム。懐深い自然の包容力。日常から解放された行楽の歓び…おそらくは作者の意図を離れたそんな読み方も許してもらうことにしよう。
 しかし、この本の中で、ああ、山頭火はこんな句も作っていたのかと、ここに書き留めておきたくなるような句に出会うことはなかった。
 金子兜太によれば、山頭火とは、求道者(宗教的に自己を律していく者)ではなく、存在者(ありのままの自分を観照する者)であるという。托鉢の僧として生きたが、教義を自らの生の支えとしたわけではないらしい。では山頭火は放浪生活の中で何を極めようとしていたかというと、それは「空」であったという。この「空」が何を意味するかは難しい。「無心」とか「何事にも執着しない心」という意味のようだととりあえず納得してはみるものの、それを作品理解にどうつなげたらよいのかわからない。山頭火の発言が捉えどころがないのか、兜太の文章が難しいのか、自分の読解力が足りないのか? いずれにしても、今のところは、この本を手掛かりに山頭火の作品世界に分け入ることができた、という感想を持てないでいるのである。残念なことである。

2018年04月18日

[]横浜シティ・シンフォニエッタ演奏会のお知らせ 横浜シティ・シンフォニエッタ演奏会のお知らせを含むブックマーク 横浜シティ・シンフォニエッタ演奏会のお知らせのブックマークコメント

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もうすぐです!
詳しくはこちらをご覧ください。
https://ykc-sinfonietta.jimdo.com/

2018年04月17日

[]空白を埋める 空白を埋めるを含むブックマーク 空白を埋めるのブックマークコメント

 僕は途方に暮れてしまう。
 今読み終わった村上春樹の『スプートニクの恋人』について、僕は何を書けばよいのだろう。
 小説の中の、数え上げればきりがないほど散りばめられた謎の中の、一つだけでも解き明かすことができたなら、充実した読書体験だったと納得することができただろうに、残念ながら今はまだそういう読後感を持つことができていない。
 この小説には、書かれなかった部分が多すぎると思う。例えば、すみれの失踪から帰還までの間に、彼女の身の上に何が起きていたのかがわからない。謎を解くには、まずその空白を読者自身の想像力で埋めなければならない。その空白を埋める手がかりは小説の中に書かれているのかもしれない。しかし、それを自分自身で見つけるには、二度、三度と読み直さなければならないだろう。

 ただ一つ、自分なりに考えたことは、この小説は22歳のすみれと、17歳年上の女性ミュウとの間の恋愛を描いた小説ではなく、「ぼく」とすみれのラブストーリーだということだ。(こんなことをあえて書くのは、僕が読んだ文庫本のカバーに「この世のものとは思えないラブ・ストーリー!!」とあるのが、すみれとミュウとの関係を指しているとしか読めないことに違和感を持ったからだ。)

 この小説は「22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。」という書き出しで始まる。すみれが初めて恋愛感情を抱くのがミュウという女性だ。
 一方で、肉体的に結ばれることのない「ぼく」とすみれは、「微妙な友情のような関係」を保ち続ける。しかし、謎の失踪を経て再び「ぼく」の前に現れる(はずの)すみれは以前のすみれとは違う(すみれの失踪中に「ぼく」にも大きな変化が訪れていたのだが)。
 「わたしにはもともと何かが欠けているのかもしれない。小説家になるために持っていなくちゃいけない、何かすごくだいじなものが」とかつて語っていたすみれは、「だいじなもの」を見つけたことによって変貌を遂げて「ぼく」の前に現れようとしている。「ぼく」はすみれとの「恋愛」を確信する。

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

2018年04月09日

[]白い箱 白い箱を含むブックマーク 白い箱のブックマークコメント

「なぜ?」から始める現代アート (NHK出版新書)

「なぜ?」から始める現代アート (NHK出版新書)

 「なぜ?」は大事。理解の深まりは「なぜ?」から始まる。
 ところが次の「なぜ?」は思い浮かんだことがなかった。

なぜ、多くの美術館の展示室は、そろいもそろってこんなに真っ白なのでしょう。

 絵を白いカンヴァスや紙に書くのが当然であるように、絵を白い展示室に飾るのは当然のように感じていた。ところが、白い壁に囲まれた展示空間(=ホワイトキューブ)の始まりは1929年開館のニューヨーク近代美術館からだというから、意外と歴史は浅い。
 ホワイトキューブは、「政治的、社会的、思想的な場の関係と作品の関係を切断して、作品に自立性を与える」という効用を持つ。つまり、そこでは鑑賞者は予備知識がなくても、自分の感覚や思考力を頼りに目の前の作品と向き合うことができる。そこは現実社会から解放され、アートの鑑賞に集中することのできる、非日常の空間である。
 一方では、そのように非日常の空間に閉じ込められたアートを、もう一度外に引っ張り出そうという様々な試みも存在する。現代アートは実に混沌としている。

2018年04月03日

[]絵を描く詩人 絵を描く詩人を含むブックマーク 絵を描く詩人のブックマークコメント

 清宮質文(せいみやなおふみ)の作品に初めて触れたのは昨年、横須賀美術館でのことだった。作品の前で立ち止まらずにいられない不思議な魅力を感じたことが、記憶の片隅に残っていた。その作品展水戸茨城県近代美術館で開催中であると知り、観に行ってきた。
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 絵や写真に「詩情」を感じるという場合、なぜかその作品は決まって静謐さやはかなさを感じさせる。詩は、喜怒哀楽といったあらゆる感情を表すものなのに、喜びにあふれた絵画や怒りに満ちた絵画を「詩を感じる」と評することはないようだ。なぜだろう? 清宮の作品を評するときに使われる言葉は「詩情ゆたかな」や「詩情あふれる」である。清宮自身も、自分を「絵を描く詩人」と呼んだそうだ。そしてその作品が感じさせるのは哀しさであり、静けさである。音のない世界。しかし、観る者に確実に何かを語りかけてくる。
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 館内には、木版画制作を体験できるコーナーが設けられている。写真手前に写っているのが、僕の作品。

2018年03月29日

[]村上春樹漱石と並ぶとき 村上春樹が漱石と並ぶときを含むブックマーク 村上春樹が漱石と並ぶときのブックマークコメント

 読んで、「面白かった」とか「期待外れだった」とかの「感想」で終わらせてしまうことができない何かが、村上春樹の作品にはある。「何か」とは、平たく言えば「わかりにくさ、むずかしさ」ということになるかもしれない。そんな難解な作品が、ノーベル賞候補と取りざたされるだけに、本当にそれほどの評価を与えてしまっていいレベルの作品なのだろうかという疑問が生まれる。新刊が出るたびに起こる社会現象は、かえって彼の作品の娯楽性、通俗性を際立たせるばかりで、村上作品の文学性、芸術性に対する評価に寄与するものではないように思われる。いったい専門家筋にはどう評されているのだろうかということが気になる。それで、こんな本に手が伸びる。

村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

 この本が書かれた意図について、著者はこう語る。

村上に関しては、シンプルに、ただ彼を日本の近現代の文学の伝統のうえに位置づけることが、いまもっともチャレンジングな、時宜に適した批評的企てとなる。村上自身の自己認識はさておき、彼が日本の近現代の純文学としても位置付け可能な広がりをもっていることに目を向け、村上を村上自身が敵視している日本の純文学の枠内に位置づけること。このことがいま、この(村上は日本文学の伝統と対立しているという)定型を打破する批評的な企てなのである。

 日本の純文学の中に位置づけるということは、例えば具体的には、漱石の作品と並べてみるということだ。

彼(村上春樹)は、私の考えでは、つねに自分の無意識の闇に見つかる「小さな主題」を下方に掘って進むことで深く「大きな主題」にいたる、夏目漱石型の小説家である。漱石は生涯、男女の三角関係という「小さな主題」から入り、人間に通有の深く「大きな主題」にいたるという方法を手放さなかった。

 漱石が「三角関係」を掘り下げた先に見出した「大きな主題」は近代人のエゴイズムという問題だった。では、村上春樹にとっての「大きな主題」とは何か。それは3・11の原発事故の後に行われたカタルーニャ国際賞の受賞スピーチの延長上にあるはずだと著者は言う。そのスピーチの一節。

我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。それは広島長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理規範が、そして社会的メッセージが必要だった。

 村上春樹がその作品において、「骨太の倫理規範」「社会的メッセージ」を示すことができたとき、春樹文学は真に日本の近現代の純文学の伝統のうえに位置づけられるであろう。加藤典洋の、村上に対する高い評価は、近い将来書かれるべき本格的な長編小説の存在を前提としたものなのである。

2018年03月21日

[]どうなる? 朝日俳壇 どうなる? 朝日俳壇を含むブックマーク どうなる? 朝日俳壇のブックマークコメント

 金子兜太が亡くなってひと月たった。朝日俳壇の選者はどうなるのだろうか。毎週丁寧に目を通していたわけではないが、兜太の選は気になっていた。兜太選のない朝日俳壇は、寂しい。

悩むことはない

悩むことはない

 古本屋でたまたま見つけて購入。糞尿満タン、放屁奔放な一冊。九十一歳の金子兜太がありのままの自分自身を語り尽くす。
 戦争末期、食糧補給が途絶えたトラック島は食うものがない悲惨な状態にあった。

 トカゲは大小いろんな種類のがおりました。とっつかまえて食ったりしていましたが、私はベッドの下に、全長五十センチぐらいのトカゲを飼っていたんです。こいつが蚊を食ってくれるんだ。

 極限状況に追い込まれた戦場において、階級の上下など関係なく句を出し合った陸海軍合同句会の話は、感銘を受ける。