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僕が線を引いて読んだ所 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017年01月14日

[] 向きが違う!  向きが違う!を含むブックマーク  向きが違う!のブックマークコメント

 先週の土曜日、葉山の神奈川県立近代美術館で観た「谷川晃一・宮迫千鶴」は期待以上の面白さだったが、中でも宮迫のコラージュ作品が興味をひいた。展示作品は撮影可能だったので、写真もたくさん撮った帰った。これを参考にして、自分でもコラージュにチャレンジしてみようかな、なんて… 
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 帰宅してからすぐに宮迫千鶴の『コラージュ・ブック』という本をネットで注文した。当日美術館の図書室に置いてあったのを見て、ぜひ家でゆっくり見たいと思ったのだ。それが今日届いた。さっそくパラパラとめくってみて、一つ面白いことに気付いた。今回観た中でも特に印象に残った一つ、「熱帯のテーブル」という題の布のコラージュが、本の中では展覧会で見たのと天地が逆になって載っているのだ。
 僕が撮ってきた写真はこれ。
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 さっそく絵葉書にして、こんな風に額に入れて部屋の壁に飾ってしまったくらい、本当に僕のお気に入りだ。
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 ところが、本にはこういう向きで載っているというわけ。
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 これはどういうことだろう。これはどちらを上にしても良い作品なのだろうか。それとも展覧会の展示が間違っていたのだろうか。まさか、美術館の職員が間違えるわけはなかろうけれど…
 改めてじっくり観ているうちに、どうも本の方が正しいような気がしてきたのだが…

絵のある生活 コラージュ・ブック

絵のある生活 コラージュ・ブック

2017年01月09日

[]子規の「写生」 子規の「写生」を含むブックマーク 子規の「写生」のブックマークコメント

f:id:mf-fagott:20170109130944j:image:w170:left 今回、この文章を書き始めるにあたって、これまで僕が正岡子規に関してどんな本を読んで、どんなことを書いているかが気になって、このブログ内を検索してみたら(こういう時、ブログ内の検索機能は本当に便利だ。手書きの読書ノートではこうはいかない)、内田樹の『街場の文体論』を読んだ際に以下のようなことを書いているのが見つかった。

正岡子規が提唱して以来、俳句の基本とされている「写生」ですが、人によってその捉え方が微妙に異なるため、いったい「写生」とは何なのだろうという問題意識が私の中にはあります。……俳句における「写生」も、人によってとらえ方に幅はあるものの、その根本にあるのは「言葉を届かせたい」という思いなのではないだろうか、と考え始めました。そしてこれもまた、技術であり心がけでもあると。すなわち、575という定型の枠の中で何かを伝えるのは至難の業なわけですが、その困難をなんとか乗り越え、感動を伝えるための方法と姿勢が「写生」なのではないか、ということです。

 ここには僕の問題意識と、内田樹の著作を手掛かりに自分なりに導き出した一つの答えが書かれているが、これが、今回読んだ小森陽一の『子規と漱石―友情が育んだ写実の近代』の重要な部分と重なっていることに気付く。

「実際の有のまゝを写す」という言い方は、ヨーロッパにおけるロマン主義に対抗して興った、写実主義としての「近代リアリズム」の典型的な認識を示しており、子規の主張をそうした系譜の中で位置づけることを可能にしてきた。また「写生」という概念が、「画家の語」であると定義されることで、「写生文」における視覚的描写が重視されてきた。
けれども、この『叙事文』による理論化に至るまでに、実際に子規が発表してきた散文の表現改革の軌跡を辿ってみると、視覚に限定することのない、あらゆる身体的知覚感覚による世界把握の経験を、どのようにして言葉による表象に転換してきたか、ということが方法論として強く意識されていたことがわかる。
(p.148-149)

 この本では俳句よりも散文としての「写生文」の分析に重点が置かれており、上の引用部もそうだが、俳句については次のようなことを言っており、当然ながら俳句における写生と散文におけるそれとが大きく異なることはない。

子規が発見したのは、言語表現に基づく、複数の意味作用の回路を同時に作動させることによって生み出される「観るが如く感ぜしむる」読者の意識と知覚への、言葉による働きかけの効果であった。(p.78)
「印象明瞭なる句」の「印象」とは、単なる視覚を中心とした知覚感覚的認知の結果ではなく、言語によって再構築された、俳句に内在する知覚感覚的認知経験のことなのである。(p.81)

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 この本が、子規の唱えた「写生」を俳句も含めて総体的に捉えたものであるとは必ずしも言えないのは、「おわりに」で「『五七五』の世界はそちらにまかせて、私は批評や手紙と『写生文』、散文による子規と漱石の応答をまとめてみよう」とある通りだ。「そちら」というのは坪内稔典の『俳人漱石』(岩波新書)を指している。これをもう一度読み直せば、子規の唱えた「写生」がさらによく見えてくるに違いない。

2016年12月31日

[]モーターアシスト軽自動車俳句 モーターアシスト軽自動車と俳句を含むブックマーク モーターアシスト軽自動車と俳句のブックマークコメント

f:id:mf-fagott:20161231113422j:image:w170:left 今年、軽自動車に乗り換えた。その車はエンジンをアシストするためのモーターを積んでいて、発進時、加速時のエンジンの負荷を軽減する。モーターだけで走るほどパワーはないが、小さなエンジンだけで頑張っている健気な軽自動車の背中を軽く押してあげる、というほどの働きをしてくれる。
 小川軽舟の『俳句と暮らす』を読んでいて、俳句というのは、人にとって、ちょうどこの軽自動車のモーターのような機能を果たしているのかもしれないと思った。
 炊事をしたり、酒を飲んだり、病気になったり、散歩をしたり、という日々の暮らしは俳句に素材を提供してくれる。逆に、俳句は何とかこうして生きている僕たちの背中を軽く押して、前へ(未来の方向へ)進ませてくれる働きがあるのではないか。『俳句と暮らす』を読んでいて考えたのは、そんなことだ。

過去と未来の接点に現在の日常がある。振り返れば過去があり、前を向けば未来があり、見まわせば同じように平凡な日常を重ねる人々がいる。俳句はこの何でもない日常を詩にすることができる文芸である。しかし、日常にべったり両足をつけたままでは詩は生まれない。ちょっと爪先立ってみる。それだけで日常には新しい発見がある。その発見が詩になる。ちょっと爪先立ってみる―それが俳句なのだ。
(「あとがき」より)

 「ちょっと爪先立ってみる」とは、具体的にはどうすることだろう。普段より意識的にものをよく見る、自分自身を客観視する、そして見えてきたものにふさわしい言葉を与える…そんなことだろうか。こうして表現されたものは過去のものとなるが、それを足掛かりに、未来に向かって一歩を踏み出すことができる。そもそも表現とは(とりわけ、日記、自伝、自画像のような自己表現は)、過去の自分を記録するという機能はもちろんのこと、それを足掛かりに未来に進もうという意志を生み出す働きがあるのではないか。俳句にもまた、小さいながらもそんな働きが備わっているのだと思う。
 先ほどの軽自動車のたとえで言えば、俳句は小さなモーター、日常生活がモーターを動かすバッテリーということになりそうだ。

2016年12月24日 目まいのする散文 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

目まいのする散歩 (中公文庫)

目まいのする散歩 (中公文庫)

私たちは、たしかに参拝にきたという証拠に、おさい銭をあげることにしている。女房が勝手につかみだして投げ入れたお金は最低十五円かそこらで、たまに小銭がないときには百円位はいれているだろうと私は判断している。十円玉と五円玉とどっちが私の分で、どっちが彼女の分だかは、私にも彼女自身にも判明しない。

 私(武田泰淳)のものか、彼女(武田百合子)のものか判明しないのは、おさい銭だけではない。表現の主体がどちらなのか、不分明な箇所は何か所も出てくる。たとえば次の箇所。

女房は一人歩きが好きらしい。好きなところに歩いて行き、好きな場所にだけ長くいられることが、性分に合っている。私は、彼女と一緒の方が都合がいい。夕食後、彼女は一人だけ抜けだして、広場を散歩した。昼間でも少なかった人影は、どこかにのみこまれて、残った人々も、今にものみこまれそうに静かにしていた。花壇のそばのベンチに、三、四人ずつ休んでいるロシア人のうち、学生風の青年は、彼女が通りかかると、組んでいた足を揃えて席を空けてくれる。彼女はぼんやりと坐り、快感を味わって、しみじみとしている。

 不思議だ。「彼女」は一人だけで散歩している。「私」はその時刻には「いびきをかいて眠っていた」のだ。しかし、「私」は「彼女」の一人だけの散歩の様子を詳細に記述している。
 この作品は、全編、武田泰淳が口述し、妻の百合子が筆記して出来上がったそうである。しかし、百合子は筆記者の役割にとどまっていただろうか。夫の口述の内容が自分自身の事柄に及んだ時、自らが表現主体となってペンを走らせてしまったのではなかろうか。
 それとも。泰淳は、自らの見聞の及ばない部分を百合子の記録によって補ってもいるようだ。その部分を、いちいち「彼女の日記によると」などと断わらず、あたかも自分自身の経験のように書いてしまった結果、このような文章になってしまったのだろうか。

天山山脈は、見えつづけている。「まばたき一つしても惜しい」と、彼女は思った。

などという書き方も変だ。通常は「彼女は思ったそうだ」「彼女は思ったようだ」とするところだろうが、泰淳は「思った」のがあたかも自分自身であったかのように書く。
 散歩の時は、ほとんど常に夫婦一緒だったようだが、「目まいのする散歩」を読んでいると、その二人の人格を分け隔てているはずの境界線が溶け出し、あいまいになっているかのような思いにとらわれてしまう。
 散歩の途中で目まいを覚えるのは、病がまだ癒えていない筆者だけではない。筆者(とその妻)の散歩に付き合っている読者もまた目まいにおそわれそうになる。この本はまさに、目まいのする散歩、いや、目まいのする散文なのである。

2016年11月30日

[]光の溢れる世界 光の溢れる世界を含むブックマーク 光の溢れる世界のブックマークコメント

 杉山文子氏の『百年のキリム』を楽しく読んだ。

百年のキリム

百年のキリム



窓一面桜や家賃八万円
ハングルの表示加はる春の駅
 
 最初のページに掲げられた二句。次のページは、「バス停の三色の椅子囀れり」「朝方の短き夢やヒヤシンス」と続く。西脇順三郎の『ambarualia』が「(覆された宝石)のやうな朝」で始まるように、この句集も冒頭からいきなり朝の眩しい光が読者の目を射るように差し込む。そしてこの明るい光は、最後までこの句集を支配する。

溢るるほど菫咲きたり会ひたいよ
梅は今綻ぶところ君生れて
追ひかけて言葉補ふ花大根

 何の種類であれ、花は単にその美しさを鑑賞する対象としてのみあるのではない。花は人懐かしさを呼び起こす。と同時に、花は人の世を明るく照らし出すために光を振りまいている。

藤の花三日一人でゐて疲れ

 だれにも会わず、三日間という時間があっという間に過ぎ去ってしまった。しかし、無為な時を過ごしたのではない。重く垂れさがる藤の花が三日間の充実を静かに語っている。

火星見て菜の花畑に猫とゐる
梅雨晴れて卵に地中海の塩

 火星菜の花、猫。梅雨晴れ、卵、地中海の塩。普段、互いに遠くにあると思われているもの同士が一つの画面に収まって、新鮮な調和を奏でている。

長命と占はれたり花の夜
流星やどこの街でも生きられる
老ゆるほど自由になりぬ花筏

 これらの句に見られる向日性を、僕はとても好ましく感じる。著者のポジティブな生き方、ぜひ学びたい。

花通草斜面で結ぶ靴の紐
満月空港までの切符買ふ
道を譲れば踊りに急ぐ母なりき
芒原抜けて乾きし体かな
新聞で肩叩かるる一の酉
木瓜の蕾のやうな嚏かな
家といふびつくり箱に春の雨

2016年11月20日 泡沫候補なんて、いなかった? このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 アメリカでトランプ氏が大統領選に勝利したとき、僕は高橋源一郎の『僕らの民主主義なんだぜ』の次の箇所をちょうど読んだばかりだった。

「立候補」はいわゆる「泡沫候補」たちを扱ったドキュメンタリーだ。彼らは、奇矯な格好で登場し、時には演説や政見放送で、突拍子もないことをいって、失笑されるだけの存在だ。正直にいって、ぼくも、そんな風に思っていた。だが、彼らの選挙運動を追いかけたこの映画を見て、僕の浅はかな考えは打ち砕かれた。彼ら「泡沫候補」の方が、映画の中に出てくる「有力政治家」の橋本徹や安倍晋三よりずっとまともに見えたのだ。登場人物のひとり、マック赤坂はこう書いている。
「『泡沫』候補なんて、選挙にはいない! みんながそれそれ確かな信念と政策を持って、命がけで立候補している」

 トランプ氏も、「泡沫」と言われた一人だった。それが今回のような結果になって、世界中を驚かせた。これからの選挙においては、僕たちは「泡沫候補」を今までと違った目で見ざるを得ないだろう。
 それにしても、トランプ氏の動向を、多くの人は大変な不安を持って注視している。もちろん、僕もその一人だ。先日、安倍晋三氏とトランプ氏の会談が行われた。内容は明らかにされていないが、二人の間に対話が成り立ったことは確かなようだ。高橋源一郎は同書の別の箇所で、次のように書いている。

「インテリジェンス」っていうのは、要するに「対話ができる能力がある」ってことじゃないかな。

 世の中の不穏な動きを食い止めるには、まずは「対話」を成立させなければならないと思う。トランプ氏が真のインテリジェンスの持ち主であることを切に願う。

2016年11月12日 午前零時の佐藤正午 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

f:id:mf-fagott:20161113002349p:image:left:w150 なぜか小説が読みたくなった。この忙しくて余裕のない時に、小説どころではないのに。学生の頃は、試験前になると授業と関係ない本を読みたくなったものだが。現実から逃げたい気持ちが働くのかもしれない。
 佐藤正午の『身の上話』が面白いと誰かが書いていたのを思い出して、古本屋に行ったら、運よく108円で手に入った。夕食が済んで、コーヒーを飲んで、夜10時ころから読み始めて、気づいたらもう日付が変わっている。ちっとも眠くならない。普段だったらとっくにベッドに沈み込んでいる時間だ。調子に乗って夜更かしして、翌日の仕事に差し支えるといけないと思うのだが、どんどん先を読みたくなる。こういう経験は久しぶりだ。佐藤正午の筆力は、大したものだと思う。
 読み終えた後にひとつ、すっきりしない点が残った。登場人物の一人、竹井という男は何がしたかったのだろう。竹井の「身の上話」が聞きたいと思った。

2016年10月20日

[]登らない山 登らない山を含むブックマーク 登らない山のブックマークコメント

f:id:mf-fagott:20161021012839j:image:w200:left 「街」同人森山いほこ氏より、句集『サラダバー』を送っていただきました。

いつも見るだけの頂えごの花

 作者の想像の中では、未踏のその頂にこれまで何度も自分を立たせてきたのである。汗を拭いながら息を整え、山の風に吹かれているのである。しかし、ふと我に返る度に、現実の自分はえごの花咲く里にいて、今年もまた頂上近くに雪を残すその孤峰を見上げているのである。画布に描かれているのは、近景のえごの木と遠景の山だけ。しかしそこにはこれまでその山に惹かれながらも一度も登ることの叶わなかった自分自身、これからもおそらく登ることがないであろう自分自身の思いが映し出されているのである。

苺乗せ子供の居ないケーキかな

 苺一つが必ず乗るように切り分けたケーキを、家族みんなでにぎやかに食べていた過去。子供たちがいなくなった食卓に、かつてと同じように苺を乗せたケーキを並べている現在。俳句が描くのはその現在の方に違いないが、子供の不在という現在が突きつけるのは、過ぎ去った時間への強烈な思いだ。

夕暮のプールの見ゆる根岸線

 「根岸線」で「プール」とくれば、僕の頭にはもうくっきりとした映像が浮かんでしまう。と言っても、それは実際に見た記憶の中の映像であるよりも、この句に喚起された虚構のイメージなのだろう。夕暮時のプールにもうほとんど人気はないが、プールサイドはまだ乾ききっておらず、水面はまだざわざわと揺れている。つまり昼間の賑わいの残像が、夕暮時のプールの侘しさをいっそう際立てるのだ。(そういえば、京浜東北線と呼べばそうでもないけど、根岸線と言うとどこか物寂しさが漂ってくるように感じるのは、僕だけでしょうか?)

夏萩や東慶寺まで傘さして
受験の子八重洲口出て深呼吸

 「根岸線」同様、親しい地名が出てくると、句にも親しみがわく。しかしもし僕が「東慶寺」や「八重洲口」を実際には知らない大阪の人間だったとしても、この句は好きな句のリストに入ったと思う。

朱欒の皮翼広ぐるやうに剥く
石榴剥く吾が指猿に戻りたる

 どちらも果実の皮を剥く句だが、「朱欒」は剥かれる皮に、「石榴」は剥いている自分の指に着目している。日常的な動作の中に、このような面白い発見があるのだと教えられた。

2016年10月15日 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

チェリスト募集中!!
横浜シティ・シンフォニエッタでは、弦楽器奏者(特にチェリスト!!!)を募集中です。詳しくは当団のWebsiteをご覧ください。

http://ykc-sinfonietta.jimdo.com/団員募集/
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2016年10月14日 ボブ・ディランと井上陽水 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 ボブ・ディランノーベル文学賞を受賞した、と言っても、僕はボブ・ディランという名前は知っているが、どんな曲を書いた人か、ほとんど知らない。
 二ユースの中では、ボブディランの影響を受けた日本のミュージシャンとして、井上陽水吉田拓郎の名前を挙げていた。井上陽水なら僕は大好きで、詩集ラインダンス』の中から好きな詩を挙げていたらきりがないくらい。と言っても、陽水の詩の中で僕の好きなのは、80年前後に出たアルバムに集中している。「傘がない」「心もよう」の頃はそれほど好きだとは思っていなかった。
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 陽水の歌詞に注目し始めたのは、『スニーカーダンサー』の中の「なぜか上海」あたりからだったと思う。

 星が見事な夜です
 風はどこへも行きます
 はじけた様な気分で
 ゆれていればそこが上海

『あやしい夜を待って』の中から選ぶとしたら、まずは「ジェラシー」。それからとってもシュールな「Yellow Night」。

 はまゆりが咲いているところをみると
 どうやら 僕等は海に来ているらしい
 ハンドバッグのとめがねが
 はずれて化粧が散らばる
 波がそれを海の底へ引き込む
(ジェラシー)

 俺のあの娘はメロンにレモンをかけてる
 泣けば瞳の奥からルビーが飛び散る
 陽気な面もあって
 あの娘の話はトマト言葉です
(Yellow Night)

「My House」も言葉の選び方が突飛で、面白い。

 恋はマッシュポテト
 恋は電子キャラメル
 街の道に無知な人並
 山羊の耳に森永製菓

『ライオンとペリカン』は作詞作曲家としての陽水の最高峰だと思う。どの曲も妖しい魅力を放っているけれど、歌詞で選ぶなら、「とまどうペリカン」「チャイニーズフード」「ワカンナイ」。

 あなたひとりで走るなら
 私が遠くはぐれたら
 立ち止まらずに振り向いて
 危険は前にもあるから
(とまどうペリカン

 最新の夢
 テレビチャンネル、サイレンのひびき
 ため息だけがフー
 お茶まで熱くてフー
チャイニーズフード)

 『ライオンとペリカン』は、その当時の『音楽の友』誌(もしかしたら『レコード芸術』だったかも)が取り上げて、とても好意的な評を載せていた。クラシックの専門誌がポップスを取り上げるのは異例のことだったのではないだろうか。僕は陽水の絶頂期はやはり『ライオンとペリカン』の頃だったと思う。その後もヒット曲は出しているが、80年前後の作品群に比べると、どうしても物足りなく思ってしまうのだ。
 陽水の作品の中でも、ボブディランの影響の濃いのはどのあたりの作品なのだろうか。ボブ・ディランは78年に来日していて、陽水は「ディラン、よかったですね。武道館で毎日やってたわけだけど、素晴らしいと思いましたね。毎日歌っているのに、歌に対してあれだけいれこめられるのは、すごいですね。」と言っている。
 80年前後の陽水の傑作群にディランの影響があるのだとしたら、ぜひディランも聴いてみなくちゃならないと思う。

 菊池邦子 菊池邦子 2016/10/16 12:35 私はまさにボブディラン世代です。井上陽水も好きです。歌詞が.。でもそれほど深く読み込んではいませんが。私の友人は熱狂的共言えるボブディランファンで、大学時代から下宿の部屋にボブディランが溢れていました。当然先日来日コンサートがあった時にも行ってました。ノーベル 文学賞と言うのがなぜか不思議で、でも嬉しい感じです。欧米人の発想を感じます。

mf-fagottmf-fagott 2016/10/16 23:17 僕の世代でも、バンドなんかをやってた連中は、ボブ・ディランとか言っていたような気がします。僕のように知らないのは、少数派のほうだと思います。