2012-02-07 猥雑にして…

図書館に百冊揃った「百年文庫」の中から今度はどれを選ぶか、心ときめくひとときである。
今回は、中を吟味せず、ただタイトルの「街」の一語でこれに決定。百年文庫にハズレはなかろうという思いからこんな選び方をしたのだが、これが正解。中を見ていたら、かえってこれは僕好みの作品ではあるまいと、本を棚に戻してしまい、谷譲次などという名前さえ聞いたことのない作家とはこの先も永久に無縁だったかもしれない。その「感傷の靴」という作品はこんな風に始まる。
「ヘロウ、君(ユウ)は今日靴(シユウス)を買ったろう――なに、買うところを見ていたんだから、隠したって駄目(ウオン・ドウ)さ。出したまえ。」
ヘンリイは部屋へ這入って来ると、いきなり卓(テーブル)へ腰を掛けて斯う言い出した。
英語交じりの一見軽薄な日本語に最初は違和感を覚えるが、慣れてくると心地良ささえ感じられてクセになりそう。
「これは」と私は覗いてみて眉を顰めた。
「これは紙製じゃないか。」憤然として爺は少し上等のを取り出して来た。
「駄目、駄目」と私は言った。そして「お前の店には安物しかないじゃないか、フランク。」
で先ず斯んなような具合に、今度は私の方から爺を摑まえてフランクと呼び捨てにしながら、散々出させた揚句、三十弗近い靴を――莫迦々々しいことをしたもんだ、今あの金があればなあ――極く無造作に買って、百弗紙幣を投げ出して、勿論釣りを貰って、出来るだけ堂々と引上げたのだった。スミス爺さんは額に汗をかいて残念がっていたが、何と言っても立派なお客だから仕方がない。それからは倶楽部へ来ても、私の名前には特別の注意を払っていたか何うか、兎も角爾来フランクとだけは呼ばなかった事は事実である。
こんな具合に、勢いのある独特な文体は不思議と魅力的である。
富士正晴の「一夜の宿・恋の傍杖」というこれといって内容もない痴話喧嘩の実況中継のような作品を、最後まで一気に読ませてしまうのも、文体の力だ。猥雑にしてエネルギッシュ。軽薄さと紙一重のテンポの良さは、「感傷の靴」と相通ずるところがある。
面白い作品と出会えたものだと思う。「街」の一語が縁の出会いである。
2012-02-05
■[俳句]枯葉と大衆性

『街』No.93届きました。
ありがとうございます。
隅から隅まで、楽しませていただきました。
まずは主宰による「友岡子郷論――即物・抒情・リアリズム」、面白いと思って線を引いた所が数か所ありました。
尖鋭な若さというのはむしろ老成を気取るものなのだ。
小説家にも、そういうことはありそうな気がします(たとえば太宰治)。いや、これは小説とか文学とかに限った事じゃないような気もしますね。
教師である俳人が詠んだ職場の句は多いが、多くは教師らしい倫理観や自己犠牲で生徒を思う内容で、結果的には自己肯定となる作品が多い。
(これは僕も気をつけなきゃ…)
古いロマンや倫理観など意図せず眼前のものを写すことで写す側の自分の眼、すなわち「生」が浮き彫りになるというのが子規の「写生」の根幹。
しかし、そうすると「生」は浮き彫りになっても類型的共感的な「感動」が示されないため、作品は多くの確率で平板に見えてしまう。只事と秀句との境目が判然としないのである。平板に見えてしまってもいいではないか、その代わり少ない確率かもしれないが成功するとその句は類型的な情緒を脱した「只事」の中に作者の生が見事に刻印される。それが「写生」の本意だ。と僕など思うのだが。
虚子はそれを嫌った。出来た「絵」はどんな陳腐な情緒しか盛っていなくても盛りさえすればそれなりの格好のついた贋物になる。そこに大衆性が存すると踏んだのだ。
「街宣言」に高らかに謳われている主宰の俳句観が、ここではまた別の表現をとりつつ開陳されています。これは、同人の作品欄「自由区」中の次の句と見事に響き合っています。
掻き集む枯葉どいつもみな模倣 石田義風
「街俳句研究会レポート」は、小原啄葉という俳人にこんな魅力的な句があることを教えてくれました。
海鼠切りもとの形に寄せてある
葱さげて改札口に土こぼす
掃除機が冬至南瓜へよく当る
水のせて水を流るる薄氷
次は、昨年お母様を亡くされたという晶氏による「後記」。
日常のふとした瞬間に母がいたシーンを思い出します。感情が揺れる前に蓋をしてやり過ごすのですが、するとシーンだけが残り、句の姿になります。揺れた感情は沈黙の中できっと修復されていくのでしょう。…私の場合、揺れた感情が修復されずに蓄積され、爆発すると、詩になります。
ここには俳句と詩の、生まれ落ちるまでの道筋の違いが簡明に示されていて、とても興味深く読みました。
最後に、同人・会員の句の中から僕が「いいなあ!」と思ったものをいくつか。
騎馬戦の全員靴を脱ぎはじむ 金丸和代
掻き寄する所作して熊手選びけり 浅野糸江
夏燕町で最初に開くシャッター 田中圭
茨の実含むや記憶すり替はる 中江智子
秋澄めり牙もつものの目は静か 同
億年の瞳の記憶海に雪 同
柿吊しそこより楽の湧いてきし 中田ミチコ
またいつか「街」の句会にお邪魔してしまおうと企んでおります。その節はよろしくお願いします。
2012-01-27 文学→珈琲→酒?

「文学散歩〜三鷹編、太宰のゆかりの地を訪ねる」のもう一つの目的地は、ブックカフェ「フォスフォレッセンス*1」。この店についてネットで調べていたら、こんな雑誌と遭遇した。
面白そうなのですぐに注文。それが今日届いたのだが、本が好きで、珈琲が好きで、山が好きで、最近は陶器にも興味が湧いてきた僕には、隅から隅まで無駄なく楽しめる雑誌だ。
最近増えてきたブックカフェを紹介する特集の中では、「フォスフォレッセンス」も取り上げられている。この店に行ったらぜひ「太宰ラテ」とやらを飲んでみたい。(でも、小さい店のようなので、席に座れるかどうかはビミョーなところ…)太宰の師である井伏鱒二関係の本も置いてあるようなので、それも楽しみ。そういえば、先日のセンター試験の問題に使われていた井伏の小説、何という題だったか忘れたけど、いい作品だったな。
■追記
ブックカフェ「フォスフォレッセンス」、行ってきました。
椅子を出してもらい、狭い店内に8人が無理やり座ってティータイム。しかし、狭い所で本に囲まれて小さくなっているのも妙に落ち着いて居心地がよかった。
そして、「太宰ラテ」とは、こういうもの。
一杯ずつ顔が違うところが面白い。
2012-01-26 新潮文庫の白黒の太宰

今度の週末は、前の職場の仲間たちと三鷹に、太宰治のゆかりの地を訪ねることになっている。
目的地の一つである太宰治文学サロンでは、「三鷹時代の短篇傑作『ヴィヨンの妻』」という企画展をやっている。それで、今日はその予習というわけで、「ヴィヨンの妻」を読んでみた。
これを読むの何十年振りだろう、いや、僕はこれを読んだことあるんだろうか、どんな話だったか全く思い出せない。でも、読み始めて、これは確かに読んだことがあると思った。
坊やは、今年は四つになるのですが、栄養不足のせいか、または夫の酒毒のせいか、病毒のせいか、よその二つの子供よりも小さいくらいで、歩く足許さえおぼつかなく、ことばもウマウマとか、イヤイヤとかを言えるくらいが関の山で、脳が悪いのではないことも思われ、私はこの子を銭湯に連れて行きはだかにして抱き上げて、あんまり小さく醜くやせているので、凄(さび)しくなって、おおぜいの人の前で泣いてしまった事さえございました。
という部分は、なぜか覚えがある。
僕が我が家の文庫本の棚から出して読んだのはこれ。
僕が持っている太宰治は『晩年』も『人間失格』も、すべて新潮文庫のこの表紙。だから、太宰といえばこの白黒の表紙カバーのイメージと切り離すことができない。
それにしても、さすが太宰、文章家の面目躍如といったところ。ぐいぐい読ませる。天才だ、太宰は。
2012-01-21
■[短歌]歌の効用

『伊勢物語』の「筒井筒」の段は、古文の入門教材として最適だと思う。古人にとって和歌は求愛のツールだったという話を生徒は興味深く聴いてくれる。
「王朝貴族の男女は、歌のやり取りによってお互いの気持ちを確かめ、愛を深めていったんだよ。」
「じゃあ、歌が下手だったら結婚できないじゃん。」
「そうだね。」(実は代作という手もあった、という話は次の時間にする予定。)
さて、河野裕子・永田和宏の『たとへば君―四十年の恋歌』は、短歌というものが男女を引き合わせる求愛の手段であるばかりでなく、夫婦となった二人の相互理解を深め、絆を強める働きを持ちうることを教えてくれる。
たとえば、河野が
自意識に苦しみゐし頃わが歩幅考へず君は足早なりき
と詠めば、永田はそれに応えるように
君が歩幅を考えず歩きいたる頃せっぱつまりしように恋いいし
と歌う。相手の「歩幅」を慮ることのできなかった自分の至らなさへの自覚が相手への思いやりを生む。
河野の乳がんを知らされたとき、永田は自分では妻を心配させないように「平静を演じきった」と思っていたが、のちに河野の
何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢゃない
を読んで、自分のほうこそショックを受けてそれを全く隠せないでいたことを知る。この一首を永田は「もっとも辛い一首」と言っているのだが、永田にとって妻の歌は妻の心を理解するよすがであるばかりでなく、自分自身を映し出す鏡のようでもあったろう。一方で、永田の歌も河野にとってはそのようなものであったはずだ。そんな歌を互いに詠み続けることで、互いに理解を深め、信頼を深めていく。
この本は、二人の短歌とエッセイにより構成されている。
抗がん剤治療が始まる前、河野を京都御所に連れ出して、永田と二人の子供たちとで河野の写真を撮るシーンなど、たまらなく切なく美しい。映画だったらこんな絵になるだろうかと、頭の中に映像が浮かんでくる。ラストシーンにいたると、いよいよ涙を抑えることはできないが、後味はさわやかである。
『伊勢物語』の授業の中で、ちょっと寄り道して、この本の話もしてみようかと思う。
2012-01-16 (続)『雑文集』抜き書き

村上春樹『雑文集』より
僕の小説が語ろうとしていることは、ある程度簡単に要約できると思います。それは「あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めているが、それを見つけることのできる人は多くない。そしてもし運良くそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている。にもかかわらず、我々はそれそ探し求め続けなくてはならない。そうしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから」ということです。
「遠くまで旅する部屋」
この一節は、昨年末に読んだ村上春樹の『国境の南、太陽の西』にぴったりと当てはまるように思う。この小説の主人公「僕」は生涯における大事な何かを探し求めて得られないでいる。ひとたびはそれを得たと感じるのだが、それは実は「致命的に損なわれてしまって」いたことを知る。「僕」の満たされなさは、いわゆる「自分探し」の虚しさと同質のものかもしれない。
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筆者は文学について言っているけど、これは音楽にもあてはまるなあ、とか、これは小説についての話だけど、絵についても同じことが言えそうだなあという部分を見つけると、面白く感じて線をひいたり抜き出したりしたくなる。次の一節もそう。
読んでいただければわかることだが、カーヴァーはいわゆる「うまい小説」を書こうとはしていない。彼が書こうとしているのは、ただひとつレイモンド・カーヴァーの物語である。レイモンド・カーヴァーにしか切り取れない世界の風景を、レイモンド・カーヴァーにしか語れない話法で、フィクションとして語ることである。レイモンド・カーヴァーがレイモンド・カーヴァーであることは、ときとして辛く、恥ずかしく、罪深いことである。ひとことで言えば、切ないことである。しかし、レイモンド・カーヴァーは、レイモンド・カーヴァーという語り手を得ることによって、そのような「切なさ」を、たとえ一時的にせよ、離れることができる。それをフィクションとして相対化することによって、ひとつ上の世界に自らをひっぱりあげることができる。簡単に言えば、自らを少しだけ救済することができる。
「たった一度の出会いが残してくれたもの」
僕は上の「小説」「フィクション」を「俳句」に入れ替えて、次のように読み替えることができると思った。
僕はいわゆる「うまい俳句」を作ろうとしてはいない。僕が作るべきなのは、ただひとつ僕自身の物語である。僕にしか切り取れない世界の風景を、僕にしか語れない話法で、俳句として語ることである。僕が僕であることは、ときとして辛く、恥ずかしく、罪深いことである。ひとことで言えば、切ないことである。しかし、僕は、僕という語り手を得ることによって、そのような「切なさ」を、たとえ一時的にせよ、離れることができる。それを俳句として相対化することによって、ひとつ上の世界に自らをひっぱりあげることができる。簡単に言えば、自らを少しだけ救済することができる。
俳句は自分自身を「相対化」することで、自分を少しだけ救済することができると思う。
2012-01-15 読む絵

映画『ブリューゲルの動く絵』を観てきた。
ブリューゲルの絵が次々に動き出して、目を喜ばせてくれる映画、などと勝手に想像していたのは、全く僕の見当違いな思い込みで、実際はシリアスなテーマを扱っていて気軽に楽しめるような内容ではなかった。画像が美しく魅力的なのは確かだが、目を背けたくなるシーンも度々出てくる。聖書や西洋史に関する知識が乏しい僕のような人間にとって、わかりやすい映画ではない。
映画を観た後で、パンフレットを買って読んだり、ネット上のいろいろな書き込みを読んで、なるほどそうだったかとわかってきた。観る前に下準備をしておけば(せめて公式サイトだけでもちゃんと見ておけば)、もっと楽しめただろうにと悔やまれる。
今回の収穫は、ブリューゲルの「ゴルゴタへの丘への行進」のように多くの情報が詰め込まれた大作は、「見る」というより「読む」という態度で向き合わなければならないのだということを、改めて教えられたことだ。僕は今までブリューゲルを好きな画家だと思っていたが、実はほんの表面的な印象だけでそう判断していたかもしれない。
2012-01-09 紙の本、紙のジャケット

東京の印刷博物館で開催中の「世界のブックデザイン2010‐11」を観てきた。2011年の「世界で最も美しい本コンクール」の入選図書を中心に、各国のデザインの優れた本が展示してある。観るだけではなくて、手にとって中を開いてみることもできる。丹念に観ていたら、1時間ぐらいすぐにたってしまった。
ほれぼれするような素敵なデザインの本を観ていると、どんなに便利な電子書籍が普及しても、紙の本が廃れることはないだろうと思ってしまう。昨日は古レコード屋を覗いていて、LPレコードは紙のジャケットがいいんだなあと改めて感じた。言葉のわからない外国の本でも、ノイズがひどいかもしれないLPレコードでも、モノとしてデザインに魅力があれば自分の手元に置きたくなる。
ミュージアムショップでは、「酒」の象形文字が底に描いてあるぐい飲みを見つけて買ってしまった。
2012-01-03
■[俳句]俳句は枯れ木?

外山滋比古の『俳句的』を読んでいたら、こんな一節に出会った。
いかなる大工も生木で家を建てることはしない。かならず枯らした木材を使う。生木はかならずヒズミが来る。マナな感情や主観を詩にするのはいわば生木の家を建てるようなもので、時の試練に耐えられないのは明らかである。枯れるまで待つ心のゆとりが必要になる。年をとってものが見据えられるようになり、解脱の境涯に達したとき、枯淡の建物が寸分のくるいもなく建てられる。俳人に老作家が多いことは当然であり、むしろ、誇るべき伝統であるとしてよい。(「枯れ」より)
俳句では生の感情をあらわす言葉は使わない方がいいということならその通りだと思うが、俳句は人間が枯れてこなければ作れない(つまり老人の文学)というのなら、話は別だ。上の文章では本来別物であるはずのことが混同されているように読める。
僕がこの部分を面白いと感じたのは、2年ほど前から建築家の方たちと続けている句会(題して「釘ん句会」)のことを思い浮かべたからだ。ストレートな感情表現が気になったら、「生木で家を建てたみたいなもんですよ」と言えば、建築家の皆さんなら「やや、それは大失敗!」と納得してくれるだろう。もっとも、僕自身そういう句を作ってしまうことがないわけじゃないけど…
ところで、木材を乾燥させることを「枯らす」と表現するのは適当なのだろうか。乾燥させた木と、枯れた木は同じだろうか。立ち枯れた木は材木として使うことができるのだろうか。どうもそうじゃないような気がする。
2012-01-02 新春のお慶び申し上げます

昨年末、こんなものを作りました。
せっかくのウッドデッキをもっと有効活用するには、どうしても椅子かベンチが必要だと思いつつも、なかなか実行できなかったのです。実際にこうして出来上がってみると、ウッドデッキ上にいい感じの空間が出現しました。もっと早く作っていればよかった…
材料は2×4材、1×4材で、木ねじ代などを入れても総費用は3,000円程度。外材がこんなに安いのは助かるけど、この安さが日本の林業を圧迫しているのかと考えると、ちょっと複雑な思いです。
さて、作ったのはいいけれど、この寒さの中、ここでのんびりする気にはなれません。暖かくなったらここでコーヒーでも飲みながら読書を、などと考えると春が来るのが今から待ち遠しくなります。でも、本はやっぱり家の中の方が落ち着いて読めるかな。


![珈琲時間 2011年 11月号 [雑誌] 珈琲時間 2011年 11月号 [雑誌]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51oWVReYWoL._SL160_.jpg)













参加するたびに皆さんからとても刺激され、いい勉強になります。
次回は演奏会の案内をさせていただくかもしれません。
よろしくお願いします。