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僕が線を引いて読んだ所 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017年02月06日 よしや? あしや? このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 今年は(というより、残りの人生)古典をもっと読んで人並みの教養を身に着けよう、などと今更ながら思い立って、まずは『伊勢物語』を最初から少しずつ読んでいる。きっかけは、「芥川」を授業で取り上げるにあたって、前後の章段を読んでみたら思いのほか面白かったからなのだが、なにしろ今までに僕が読んだ古文というのは、どの国語の教科書にも載っているような作品ばかりで、『伊勢物語』に関して言えば思い出せるのは「東下り」と「筒井筒」の段くらい。最近は何年も続けて「筒井筒」ばかり教えているので、これでは進歩がないなと思ったわけです。
 さて、ようやく3分の1ほど読み進んだが、ここまでで気になったのが第33段。短いので、全文掲げる。

むかし、男、津の国、菟原(むばら)の郡に通ひける女、このたび行きては、または来じと思へるけしきなれば、男、
  蘆辺よりみち来る潮のいやましに
    君に心を思ひますかな
返し、
  こもり江に思ふ心をいかでかは
    舟さす棹のさして知るべき
田舎人のことにては、よしや、あしや。

(「新潮日本古典集成」より)

 僕は最後のところを読んで、心の中でくすっと笑ってしまった。これは、語り手が言葉で戯れているのではないか。「よしや、あしや」の「あし」は男の歌の「蘆辺より」の「あし」を意識してのもの。しかも、すぐ前の32段には、「いにしへのしづのをだまき繰りかへしむかしを今になすよしもがな」という歌があり、両方の段を続けて読んだ僕には、「よしや、あしや」の「よし」にはその前段の「よしもがな」の「よし」が響いていると感じられてならない。つまり、語り手はここで素朴な言葉遊びを楽しんでいるだけのことであって、田舎人の詠んだ歌の「良し、悪し」などどちらでもよいと思っている。植物としてのアシは、蘆(よし)でもあり、蘆(あし)でもあるわけだし。
 この部分について、「古典集成」の頭注では、次のように書いているが、どうも的を外しているように思えてならない。

最後の「田舎人の」以下は作者の評。『伊勢物語』が田舎を軽んずることはすでに見たとおりだが、この場合の女の「こもり江に」の返歌を、作者はちょっとした出来だと認めているのである。(中略)それを「よしや、あしや」と韜晦の姿勢で言うのは、「田舎人」を賞めることへのこだわりであろうか。

 岩波の「古典体系」など、これまで数冊の注釈本を調べた範囲では、この部分について、語り手のつまらんダジャレにすぎないと断じているものはない。当然すぎることをわざわざ書くのは野暮だということなのだろうか。古文の教養の足りない僕には、どうもよくわからないことだ。

2017年02月04日 活字頼み このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

活字たんけん隊――めざせ、面白本の大海 (岩波新書)

活字たんけん隊――めざせ、面白本の大海 (岩波新書)

 椎名誠を読むのは、ずいぶん久しぶりだ。このブログを始めてからはたぶん初めて。
 椎名誠の本を読むと、行ったことのない世界へと視野が広がる。想像したこともなかった食い物や生き物や建物の存在を教えてくれる。狭い日本しか知らない(いや、日本さえも知らない)ようでは、いかんなあと思う。もっと旅をしなくちゃ… とはいえ、椎名誠みたいにモンゴルだ、ブラジルだ、北極点だ、なんてわけにはいかないから、やはり活字に頼るほかないんだよなあ。

2017年01月25日 左右のモンダイ このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 前回は上下のモンダイについて書きましたが、今回は左右のモンダイです。

 自らを「まちがいなく左派」明言し、「自民党に投票したことは一度もありません」と言う著者だが、若い読者に対して、右が間違っているとか、左が正しいとか、決して言わない。右寄りの人の主張、左寄りの人の考えについて公平に説明したあとで、「さあ、あなただったら、どっちに賛成するでしょう」と問いを投げかける。そう、政治とは自分で決断することなんだからね。

与党と野党、体制反体制、どっちにつくかはあなた次第。

とは言いながらも、次のような言い方からは、なるべく表に出さないように努力していたであろう斎藤美奈子の本音がにじみ出る。

 もしあなたが右派保守)に近い考えなら、迷わず自民党に一票です。いまの自民党は、左右混合チームだったかつての自民党とはちがいます。右へ右へと旋回し、もう少しでウルトラナショナリズムの域に突入しかねない勢いです。憲法を改正していずれは自衛隊を「国防軍」に昇格させ、言論の自由をやんわり制限し、教育に介入し、あなたがお好みの、ニッポン万歳な国にしてくれるでしょう。
 逆にあなたが左派(リベラル)に近いなら、どうあっても自民党にだけは投票してはなりません。どの野党も気に入らない? それでも野党に入れるのです。

 こういう「ほんとう」のことを、学校は教えてあげなくちゃいけないんだろうけどな。
 この本、図書室の目立つところに置いてもらいたい。

●右か左かのモンダイについては、以前も書いてます。→アーサービナード『左右の安全』

2017年01月14日

[] 向きが違う!  向きが違う!を含むブックマーク  向きが違う!のブックマークコメント

 先週の土曜日、葉山の神奈川県立近代美術館で観た「谷川晃一・宮迫千鶴」は期待以上の面白さだったが、中でも宮迫のコラージュ作品が興味をひいた。展示作品は撮影可能だったので、写真もたくさん撮った帰った。これを参考にして、自分でもコラージュにチャレンジしてみようかな、なんて… 
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 帰宅してからすぐに宮迫千鶴の『コラージュ・ブック』という本をネットで注文した。当日美術館の図書室に置いてあったのを見て、ぜひ家でゆっくり見たいと思ったのだ。それが今日届いた。さっそくパラパラとめくってみて、一つ面白いことに気付いた。今回観た中でも特に印象に残った一つ、「熱帯のテーブル」という題の布のコラージュが、本の中では展覧会で見たのと天地が逆になって載っているのだ。
 僕が撮ってきた写真はこれ。
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 さっそく絵葉書にして、こんな風に額に入れて部屋の壁に飾ってしまったくらい、本当に僕のお気に入りだ。
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 ところが、本にはこういう向きで載っているというわけ。
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 これはどういうことだろう。これはどちらを上にしても良い作品なのだろうか。それとも展覧会の展示が間違っていたのだろうか。まさか、美術館の職員が間違えるわけはなかろうけれど…
 改めてじっくり観ているうちに、どうも本の方が正しいような気がしてきたのだが…

絵のある生活 コラージュ・ブック

絵のある生活 コラージュ・ブック

2017年01月09日

[]子規の「写生」 子規の「写生」を含むブックマーク 子規の「写生」のブックマークコメント

f:id:mf-fagott:20170109130944j:image:w170:left 今回、この文章を書き始めるにあたって、これまで僕が正岡子規に関してどんな本を読んで、どんなことを書いているかが気になって、このブログ内を検索してみたら(こういう時、ブログ内の検索機能は本当に便利だ。手書きの読書ノートではこうはいかない)、内田樹の『街場の文体論』を読んだ際に以下のようなことを書いているのが見つかった。

正岡子規が提唱して以来、俳句の基本とされている「写生」ですが、人によってその捉え方が微妙に異なるため、いったい「写生」とは何なのだろうという問題意識が私の中にはあります。……俳句における「写生」も、人によってとらえ方に幅はあるものの、その根本にあるのは「言葉を届かせたい」という思いなのではないだろうか、と考え始めました。そしてこれもまた、技術であり心がけでもあると。すなわち、575という定型の枠の中で何かを伝えるのは至難の業なわけですが、その困難をなんとか乗り越え、感動を伝えるための方法と姿勢が「写生」なのではないか、ということです。

 ここには僕の問題意識と、内田樹著作を手掛かりに自分なりに導き出した一つの答えが書かれているが、これが、今回読んだ小森陽一の『子規と漱石―友情が育んだ写実の近代』の重要な部分と重なっていることに気付く。

「実際の有のまゝを写す」という言い方は、ヨーロッパにおけるロマン主義に対抗して興った、写実主義としての「近代リアリズム」の典型的な認識を示しており、子規の主張をそうした系譜の中で位置づけることを可能にしてきた。また「写生」という概念が、「画家の語」であると定義されることで、「写生文」における視覚的描写が重視されてきた。
けれども、この『叙事文』による理論化に至るまでに、実際に子規が発表してきた散文の表現改革の軌跡を辿ってみると、視覚に限定することのない、あらゆる身体的知覚感覚による世界把握の経験を、どのようにして言葉による表象に転換してきたか、ということが方法論として強く意識されていたことがわかる。
(p.148-149)

 この本では俳句よりも散文としての「写生文」の分析に重点が置かれており、上の引用部もそうだが、俳句については次のようなことを言っており、当然ながら俳句における写生と散文におけるそれとが大きく異なることはない。

子規が発見したのは、言語表現に基づく、複数の意味作用の回路を同時に作動させることによって生み出される「観るが如く感ぜしむる」読者の意識と知覚への、言葉による働きかけの効果であった。(p.78)
「印象明瞭なる句」の「印象」とは、単なる視覚を中心とした知覚感覚的認知の結果ではなく、言語によって再構築された、俳句に内在する知覚感覚的認知経験のことなのである。(p.81)

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 この本が、子規の唱えた「写生」を俳句も含めて総体的に捉えたものであるとは必ずしも言えないのは、「おわりに」で「『五七五』の世界はそちらにまかせて、私は批評や手紙と『写生文』、散文による子規と漱石の応答をまとめてみよう」とある通りだ。「そちら」というのは坪内稔典の『俳人漱石』(岩波新書)を指している。これをもう一度読み直せば、子規の唱えた「写生」がさらによく見えてくるに違いない。

2016年12月31日

[]モーターアシスト軽自動車俳句 モーターアシスト軽自動車と俳句を含むブックマーク モーターアシスト軽自動車と俳句のブックマークコメント

f:id:mf-fagott:20161231113422j:image:w170:left 今年、軽自動車に乗り換えた。その車はエンジンをアシストするためのモーターを積んでいて、発進時、加速時のエンジンの負荷を軽減する。モーターだけで走るほどパワーはないが、小さなエンジンだけで頑張っている健気な軽自動車の背中を軽く押してあげる、というほどの働きをしてくれる。
 小川軽舟の『俳句と暮らす』を読んでいて、俳句というのは、人にとって、ちょうどこの軽自動車のモーターのような機能を果たしているのかもしれないと思った。
 炊事をしたり、酒を飲んだり、病気になったり、散歩をしたり、という日々の暮らしは俳句に素材を提供してくれる。逆に、俳句は何とかこうして生きている僕たちの背中を軽く押して、前へ(未来の方向へ)進ませてくれる働きがあるのではないか。『俳句と暮らす』を読んでいて考えたのは、そんなことだ。

過去と未来の接点に現在の日常がある。振り返れば過去があり、前を向けば未来があり、見まわせば同じように平凡な日常を重ねる人々がいる。俳句はこの何でもない日常を詩にすることができる文芸である。しかし、日常にべったり両足をつけたままでは詩は生まれない。ちょっと爪先立ってみる。それだけで日常には新しい発見がある。その発見が詩になる。ちょっと爪先立ってみる―それが俳句なのだ。
(「あとがき」より)

 「ちょっと爪先立ってみる」とは、具体的にはどうすることだろう。普段より意識的にものをよく見る、自分自身を客観視する、そして見えてきたものにふさわしい言葉を与える…そんなことだろうか。こうして表現されたものは過去のものとなるが、それを足掛かりに、未来に向かって一歩を踏み出すことができる。そもそも表現とは(とりわけ、日記、自伝、自画像のような自己表現は)、過去の自分を記録するという機能はもちろんのこと、それを足掛かりに未来に進もうという意志を生み出す働きがあるのではないか。俳句にもまた、小さいながらもそんな働きが備わっているのだと思う。
 先ほどの軽自動車のたとえで言えば、俳句は小さなモーター、日常生活がモーターを動かすバッテリーということになりそうだ。

2016年12月24日 目まいのする散文 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

目まいのする散歩 (中公文庫)

目まいのする散歩 (中公文庫)

私たちは、たしかに参拝にきたという証拠に、おさい銭をあげることにしている。女房が勝手につかみだして投げ入れたお金は最低十五円かそこらで、たまに小銭がないときには百円位はいれているだろうと私は判断している。十円玉と五円玉とどっちが私の分で、どっちが彼女の分だかは、私にも彼女自身にも判明しない。

 私(武田泰淳)のものか、彼女(武田百合子)のものか判明しないのは、おさい銭だけではない。表現の主体がどちらなのか、不分明な箇所は何か所も出てくる。たとえば次の箇所。

女房は一人歩きが好きらしい。好きなところに歩いて行き、好きな場所にだけ長くいられることが、性分に合っている。私は、彼女と一緒の方が都合がいい。夕食後、彼女は一人だけ抜けだして、広場を散歩した。昼間でも少なかった人影は、どこかにのみこまれて、残った人々も、今にものみこまれそうに静かにしていた。花壇のそばのベンチに、三、四人ずつ休んでいるロシア人のうち、学生風の青年は、彼女が通りかかると、組んでいた足を揃えて席を空けてくれる。彼女はぼんやりと坐り、快感を味わって、しみじみとしている。

 不思議だ。「彼女」は一人だけで散歩している。「私」はその時刻には「いびきをかいて眠っていた」のだ。しかし、「私」は「彼女」の一人だけの散歩の様子を詳細に記述している。
 この作品は、全編、武田泰淳が口述し、妻の百合子が筆記して出来上がったそうである。しかし、百合子は筆記者の役割にとどまっていただろうか。夫の口述の内容が自分自身の事柄に及んだ時、自らが表現主体となってペンを走らせてしまったのではなかろうか。
 それとも。泰淳は、自らの見聞の及ばない部分を百合子の記録によって補ってもいるようだ。その部分を、いちいち「彼女の日記によると」などと断わらず、あたかも自分自身の経験のように書いてしまった結果、このような文章になってしまったのだろうか。

天山山脈は、見えつづけている。「まばたき一つしても惜しい」と、彼女は思った。

などという書き方も変だ。通常は「彼女は思ったそうだ」「彼女は思ったようだ」とするところだろうが、泰淳は「思った」のがあたかも自分自身であったかのように書く。
 散歩の時は、ほとんど常に夫婦一緒だったようだが、「目まいのする散歩」を読んでいると、その二人の人格を分け隔てているはずの境界線が溶け出し、あいまいになっているかのような思いにとらわれてしまう。
 散歩の途中で目まいを覚えるのは、病がまだ癒えていない筆者だけではない。筆者(とその妻)の散歩に付き合っている読者もまた目まいにおそわれそうになる。この本はまさに、目まいのする散歩、いや、目まいのする散文なのである。

2016年11月30日

[]光の溢れる世界 光の溢れる世界を含むブックマーク 光の溢れる世界のブックマークコメント

 杉山文子氏の『百年のキリム』を楽しく読んだ。

百年のキリム

百年のキリム



窓一面桜や家賃八万円
ハングルの表示加はる春の駅
 
 最初のページに掲げられた二句。次のページは、「バス停の三色の椅子囀れり」「朝方の短き夢やヒヤシンス」と続く。西脇順三郎の『ambarualia』が「(覆された宝石)のやうな朝」で始まるように、この句集も冒頭からいきなり朝の眩しい光が読者の目を射るように差し込む。そしてこの明るい光は、最後までこの句集を支配する。

溢るるほど菫咲きたり会ひたいよ
梅は今綻ぶところ君生れて
追ひかけて言葉補ふ花大根

 何の種類であれ、花は単にその美しさを鑑賞する対象としてのみあるのではない。花は人懐かしさを呼び起こす。と同時に、花は人の世を明るく照らし出すために光を振りまいている。

藤の花三日一人でゐて疲れ

 だれにも会わず、三日間という時間があっという間に過ぎ去ってしまった。しかし、無為な時を過ごしたのではない。重く垂れさがる藤の花が三日間の充実を静かに語っている。

火星見て菜の花畑に猫とゐる
梅雨晴れて卵に地中海の塩

 火星菜の花、猫。梅雨晴れ、卵、地中海の塩。普段、互いに遠くにあると思われているもの同士が一つの画面に収まって、新鮮な調和を奏でている。

長命と占はれたり花の夜
流星やどこの街でも生きられる
老ゆるほど自由になりぬ花筏

 これらの句に見られる向日性を、僕はとても好ましく感じる。著者のポジティブな生き方、ぜひ学びたい。

花通草斜面で結ぶ靴の紐
満月空港までの切符買ふ
道を譲れば踊りに急ぐ母なりき
芒原抜けて乾きし体かな
新聞で肩叩かるる一の酉
木瓜の蕾のやうな嚏かな
家といふびつくり箱に春の雨

2016年11月20日 泡沫候補なんて、いなかった? このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 アメリカでトランプ氏が大統領選に勝利したとき、僕は高橋源一郎の『僕らの民主主義なんだぜ』の次の箇所をちょうど読んだばかりだった。

「立候補」はいわゆる「泡沫候補」たちを扱ったドキュメンタリーだ。彼らは、奇矯な格好で登場し、時には演説や政見放送で、突拍子もないことをいって、失笑されるだけの存在だ。正直にいって、ぼくも、そんな風に思っていた。だが、彼らの選挙運動を追いかけたこの映画を見て、僕の浅はかな考えは打ち砕かれた。彼ら「泡沫候補」の方が、映画の中に出てくる「有力政治家」の橋本徹や安倍晋三よりずっとまともに見えたのだ。登場人物のひとり、マック赤坂はこう書いている。
「『泡沫』候補なんて、選挙にはいない! みんながそれそれ確かな信念と政策を持って、命がけで立候補している」

 トランプ氏も、「泡沫」と言われた一人だった。それが今回のような結果になって、世界中を驚かせた。これからの選挙においては、僕たちは「泡沫候補」を今までと違った目で見ざるを得ないだろう。
 それにしても、トランプ氏の動向を、多くの人は大変な不安を持って注視している。もちろん、僕もその一人だ。先日、安倍晋三氏とトランプ氏の会談が行われた。内容は明らかにされていないが、二人の間に対話が成り立ったことは確かなようだ。高橋源一郎は同書の別の箇所で、次のように書いている。

「インテリジェンス」っていうのは、要するに「対話ができる能力がある」ってことじゃないかな。

 世の中の不穏な動きを食い止めるには、まずは「対話」を成立させなければならないと思う。トランプ氏が真のインテリジェンスの持ち主であることを切に願う。

2016年11月12日 午前零時の佐藤正午 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

f:id:mf-fagott:20161113002349p:image:left:w150 なぜか小説が読みたくなった。この忙しくて余裕のない時に、小説どころではないのに。学生の頃は、試験前になると授業と関係ない本を読みたくなったものだが。現実から逃げたい気持ちが働くのかもしれない。
 佐藤正午の『身の上話』が面白いと誰かが書いていたのを思い出して、古本屋に行ったら、運よく108円で手に入った。夕食が済んで、コーヒーを飲んで、夜10時ころから読み始めて、気づいたらもう日付が変わっている。ちっとも眠くならない。普段だったらとっくにベッドに沈み込んでいる時間だ。調子に乗って夜更かしして、翌日の仕事に差し支えるといけないと思うのだが、どんどん先を読みたくなる。こういう経験は久しぶりだ。佐藤正午の筆力は、大したものだと思う。
 読み終えた後にひとつ、すっきりしない点が残った。登場人物の一人、竹井という男は何がしたかったのだろう。竹井の「身の上話」が聞きたいと思った。