2010-07-27 ある潮目。「中国疲れ」と日本の立場。
■[日本][アメリカ][世界] ある潮目。「中国疲れ」と日本の立場。

軍事や政治の面で、あるいは他の産業やアメリカ全体でもそうなのかどうかはわからない。でも、このところ、ITやネットの世界では、日本をめぐる世界の潮目が少し変わってきているような気がしている。ま、あくまでもシリコンバレーから見た話、でしかないけれど。
相変わらず、「ジャパン・パ(pa)ッシング」ではある。日本が「牙城」と思っていたゲーム業界ですら、日本の存在感の低下が著しいそうだ。いろいろな「中の人」から、その話を聞いている。だいぶ前(2006年)にアニメとマンガの話を書いたときだったか、「ゲームは違う」というコメントをいただいたと記憶しているが、ついにゲームまで国内向け優先のパラダイス鎖国化しているという話をあちこちで聞く。子供・ファミリー向けにはWiiとDSが相変わらず強いが、全体としてはXboxとiPhoneとオンライン・ゲームとソーシャル・ゲームが勢力を伸ばしつつある中で、日本のゲーム・ソフトは相対的に地位が低下しつつあるように見える。先日、日本の若い方々が来て、こちらのティーンが何のゲームで遊んでいるかを聞いて、あまりに日本と違うので呆然としていた。
日本は、うまいこと製造業ベースの経済を作り上げ、製造業の雇用効果が大きいおかげで雇用が安定し、国内市場が大きいおかげで、部分的にはある程度の参入障壁を作って国内からの雇用流出をある程度回避して(完全ではないがアメリカほどではない)、パラダイス鎖国化することでうまく回ってきた。その昔の「輸出は悪」時代の雰囲気を作ることで、アメリカもそれに手を貸してくれた。そういう時代が終わりつつあるんだろう。
それは変わらないのだけど、ちょっとだけ変わっているのは、だんだんみんな「中国疲れ」してきているのを堂々と発言するようになってきて、相対的にアジアのパートナーとして日本がちょっとだけ見直されているような気がする、という点。
「中国疲れ」現象については、衆目の一致するところだろう。当地ではグーグル対中国の対決あたりから、そんな雰囲気が顕著になってきたと思う。もちろん、今でも中国は「潜在大市場」だし、重要な製造基地だし、無視はできないのだが、かつての「日米貿易摩擦」と同じ現象に加え、特に「IP(知的財産権)」が重要な上位レイヤーのIT分野では、中国と付き合うためのコスト(IPや情報を盗まれたり開示を強要されたりするリスク、中立的な裁判制度の不在、政府の恣意的な影響力など)が大きすぎる、と考える向きも多い。
中国批判を控えなくなった「外国の朋友」 JBpress(日本ビジネスプレス)
その点、中国と比べれば、日本は悪く言えば「安全パイ、言う事きいてくれる相手」、よく言えば「契約や法治の概念が整った先進国で話が通じる相手」だろう。「日米」の比較に中国という第三の軸を導入すると、日米はむしろ似ている、という話は拙著「パラダイス鎖国」にも書いたけれど、アメリカでも同じことを考える人がいるようだ。
たとえば、日本でも話題になった、Salesforce.comのMark BenioffがTechCrunchに寄稿した一文。ここではベニオフは中国については触れていないが、やたら日本を持ち上げている。なぜ、ベニオフがこれを書いたのか、なぜ首相に会いに行ったかなどについて私は知らない。しかし、深読みしようと思えばできる。
Why Japan Matters: iPad Mania, Cloud Computing, And Social Intelligence
なぜ日本市場が重要か: iPad騒動, クラウドコンピューティング, そしてソーシャルインテリジェンス
世界の中で一時より存在感の低下したアメリカが、リスクの多い中国とつきあう上で、味方をさがすとしたら、おそらく一番適任なのが日本なのでは・・・あるいは、実は日本のほうが、IP問題の懸念が少なく、リッチなユーザーが多い、より良い市場なのでは・・・(個別の企業に関して、他にも私がこのように感じた例がいくつかあるけれど、申し訳ないがここには書けない。)
モバイルの「ハードウェア」の世界では、欧州が新興国を従えた「旧植民地」構造で、細分化したままの米国を数で圧倒して勝ちを収めた。(このあたりの事情は、WirelessWireの連載コラムを参照)モトローラのインフラ部門をノキア・シーメンスが買収することになり、かつてのノーテルのインフラ部門はエリクソンが買収済み、ルーセントはアルカテルと合併済みで、通信の屋台骨である携帯通信のインフラ・メーカーは、ついに北米から消滅した。(チップは別の話として・・)
にもかかわらず、モバイルの上位レイヤーのパワーは、シリコンバレーに集中しつつある。
IPとクラウドを軸とした、ネットとモバイルの「上位レイヤー」における世界のパワーゲームの中で、日本の企業はどのような立ち位置を取るべきか。「敵失に乗じるだけか」「アメリカの思い通りになるのはイヤよ」などと言っている場合ではなく、製造業にいつまでもこだわっている場合でもなく、この潮目をどううまく利用して、(少なくとも)IT産業においてどのような次世代に向けた戦略をとるのか、考えないといけないように思っている。
2010-07-22 ○☓△と標準化の嫌いなアメリカ人
■[アメリカ] ○☓△と標準化の嫌いなアメリカ人

だいぶ以前、渡辺千賀さんのブログで「日本における○☓△」の起源は?というエントリーがあり、とっても面白かったのだが、今日たまたま息子の数学の勉強を手伝っていて、それを思い出した。
子供の学校で、テストや提出した宿題などを返されて見直すと、いったいどれが合っていて間違っているのか、最初はサッパリわからない。私は日本人なので、○が合っていて☓が間違っているという固定観念から逃れられず、本当に混乱する。間違っているものだけに○をつける先生もあり、合っているものがチェック(✓)で間違っているのが☓という先生もあり、線を引く人もあり、一定しないからますますわからない。
息子に聞いたら「そうなんだよ、先生によっては学年の最初に、自分はこういうふうにつける、と説明する先生もいるけど、しない先生もいる。日本人だと、誰でも○☓△なのに、アメリカ人だから、標準化するのが嫌いなんだよ。ボクもさっぱりわからない。」とのたまう。
アメリカの場合、強力な企業が市場を支配してデファクトスタンダードにするのは得意だけれど、先生の○☓みたいな、市場性のないものは標準化できないものらしい。
ひとやすみ
初めまして。
興味深く読ませていただきました。
○×の解釈についてはこういうものもありますので貼っておきます。
「日英言葉の十字路:○×式」
http://www.jttk.zaq.ne.jp/takasho/abc-093-tick.html
eakas
うーん、そうなんですかね?ボストンの高校のサマースクールでテストを受けた時は普通に分かりやすかった気が・・・。(記号は何だったのか忘れましたw)一部のエリアでの体験が国土全体で同じとはならないと思うのですが、どうでしょう?
Willy
アメリカの数学教員です。合っている場合は、"何もなし"あるいは"チェック"のことが多いですね。私は、「ここまで読んだ」という意味の"」"を付けて、その右側に点数を書いています。間違っている場合は私は×をつけますが、何もつけない人や、抜けている部分に○をつける人も確かに結構います。
合っているの意味の○はアメリカでは通じないですが、間違っている時の×が分からない人はちょっと鈍いんじゃないか、と思ってしまいます。
基準が統一されていないのは、いいかげんな国民性のせいと、人種や出身が多様なせいかなと思います。
2010-07-11 「Investigative Journalism」の行方
■[メディア][ベイエリア] 「Investigative Journalism」の行方

一昨日、JTPAのセミナーにて、ウォール・ストリート・ジャーナル記者ケイン岩谷ゆかりさんと対談させていただいた。いろいろと面白い話が出たのだが、特に印象に残った一点について、ちょっと述べておきたい。(ゆかりさんの経歴や対談アウトラインについては、リンク先を参照)
ウォール・ストリート・ジャーナルは、ウェブ化当初から有料でやっており、それで「成功」している数少ない例。そんな中、2007年に同社を買収したルパート・マードックが、「いずれ紙の新聞はなくなる」として、ウェブ有料版で価値をあげるためにいろいろなことを試行錯誤している、というお話だった。その中で、記者も以前のように、ただ記事を書いていればいいだけでなく、自分でTwitterで発信したりブログを書いたりビデオの制作の携わったり、いろいろとやることが増えて大変、なのだそうだ。まだいろいろと手探りで、例えば記者にとっては常にデスクを通してから表に出してきていて、ツィッターのように誰の目を通さずに外とコミュニケーションを公の形で取るというのは初めてで、むしろひとりで炎上のリスクに立ち向かう百戦錬磨のブロガーのほうが経験があって慣れている、というご意見が面白かった。
私は、前にこのエントリーで書いたように、「広告でかせぐ新聞というビジネスモデル」が縮小した先に、「プロしか書けないような記事を書くためのプロ」をどうやって相当数確保するんだろう、という疑問をずっと持っている。私のイメージの中では、「プロの記者」と「アマチュアのブロガー」との最大の差が、特定の重要事項について、長期にわたってまとまった取材を行い、ウラを取り、一つのストーリーとしてまとめあげ、世に問うといった「investigative journalism」(日本語で何というのか不明ですみません)だと思っている。こういった仕事は、片手間でやっている素人では絶対できない。調べても無駄になるかもしれないリスクを取れなければならず、お金がかかり、普段からの蓄積も、身分の保証も必要だ。しかし一方で、素人ではできないからこそ、読者がお金を払う気にもなり、また政治や産業界における「監視役」としてのメディアの本来的な存在意義でもある。だからこそ、世界中で「記者」は身分を保証され、保護されている。プロのメディアの「付加価値の源泉」だし、だからこそプロのメディアがなくなってしまったら、民主主義社会がきちんと機能しなくなる、と思う。
こんなイメージは、ひょっとして、高校生のころ見て「ジャーナリスト」へのあこがれをかき立てた映画「大統領の陰謀」で、当時のロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンがカッコ良すぎたせいで、そう思い込んでいるだけかも、とも思っていたけれど、どうもそういうことではなさそう、と一昨日思った。ウォール・ストリート・ジャーナルでも、一面の記事となると、こうした手法で長期にわたって取材して書く記事が多いのだそうだ。
しかし、どうやら日本の企業はこういった取材のされ方に慣れていない、つまり日本のメディアはこうした取材方法はしないようだ、というお話だった。こうしたコストのかかる取材方法が、最近のビジネスモデル崩壊によってできなくなってしまったということなのか、以前からできていないのかはなんとも言えない。でも、今やっていないということは、この先ますますできないはず、ということでもある。
アメリカでも、旧型メディアの売上はどんどん減っていて、ウォール・ストリート・ジャーナルはその中で特殊な例だろう。しかし、お話を伺っていて、アメリカはそれでも、なんとかこうしたinvestigative journalismというのが、現在もそれができる人々がきちんと訓練され続けていて、将来的に規模は縮小するかもしれないけれど、社会の中できちんと役割を果たしていけるように思えた。しかし、日本はどうなのだろうか?とますます不安になっている。
メディアのビジネスモデルは、例えば新聞では従来から、購読と広告のコンビネーションだったわけで、ウェブ上でも、「無料+広告」一辺倒から徐々に購読の比重が増していき、最終的には別の形での「購読と広告のコンビネーション」で落ち着くのでは、と私は思っている。ミクロ経済的に言えば、メディア全体の「情報取得と配信の限界コスト」が、ウェブの登場によって「配信」部分が劇的に下がったために、単価も劇的に低下してきたワケだが、その価格がついに「限界コスト(変動費)」に限りなく近づいてきて、価格がついに下げ止まるような気がするのだ。メディアの経営者が、苦境を人のせいにせず、必要な企業統合や規模縮小をきちんとやり、新しいメディアへの対応をきちんとやることで、新しいビジネスモデルへの移行ができるような気が、以前よりもするようになった。
そんな中で、日本でも、メディア産業の給料が高いなら高くてもよいので、それに見合った、他の人ではできない仕事をちゃんとやってほしいな、と改めて思う。
wizardofcrowds
investigative journalismは、日本語では、「調査報道」が一番近いかな、と。対義語ではないですが、「発表報道」という言葉があります。
Speechless in Silicon Valley
いや〜、岩谷さんと海部さんのトークおもしろかったっす!!いろいろ啓発されました。署名入りで記事を書くという米国の伝統は、自分の発言に責任を持つためだというのは、非常に深い言葉ですね。責任を背負って発言するから、どんなに立場がことなっても、議論が建設的になると思います。
新聞社の経営の模索に関してですが、Washington Post (大統領の陰謀のモデル) やReuters などは教育の分野の多角化に乗り出していますね。両社とも 法律の教育の大手として競合しているようです。Washington Postは PMBRというBar Prepを買収していますし、Reuters はもっと大きいBarBri/BarPasserを買収しています。やはり言論の自由とか法治国家というのがジャーナリズムの価値の源泉であるとすれば、新聞社がこちらの方向に進むというのも make sense という気がします。岩谷さんも法律のバックグランドがあるんですよね。
shimattax
新聞を読まない新聞批判者がはびこってますね。それがネットででかい声を出してます。読みもしないで。読売,朝日の紙面をお読みください。専門記者が育ってます。米国の新聞に遜色ないと思いますよ。そういう記者の書いた記事はネットには出ないのが大部分ですが。
slim
揚げ足取り専門の偏向報道ばかりな記者なら、日本にもたくさんいます。Yellow journalism 全盛です。これからバタバタと事業縮小・人員整理へと向かうでしょう。自業自得ですが。
お気づきかと思いますが
日本はどうなのか?っていうのは、どういった対象なのか?にもよるんじゃないですかね?
こと政治に関しては洗脳メディアですよ、日本のメディアは。
経済大国っていう言葉と米国の報道のあり方、海外に出ると分かると思いますが、気持ち悪いほどに偏ってます。
2010-07-08 いまどき、普通の人なら、英語が書ければよろしい
■[生き方] いまどき、普通の人なら、英語が書ければよろしい

私が「英語習得」に関して興味を持つのは、「日本人としての外国語」という意味だけでなく、このエントリーで書いたように、わが子が「国語としての英語」にいろいろ苦労していることも作用している。両方の面から、「コトバを習得する」という普遍的な作業に関して、人の脳の発達や社会においてのコトバの使われ方、といったことをつい考察してしまう。
楽天の「英語公用語化」に端を発した「英語習得」議論が、引き続きTwitterなどで垣間見られる。日本企業の「英語公用語化」については、その企業の戦略方向性や企業体質によるので、そうしたいところはすればいいじゃん、というだけの話で、楽天に関して言えば、相変わらず体育会系のノリで三木谷さんらしいな、と思っている。(体育会テニス部出身の方なら、「三面振り回し〜!」の発想だな、と言えばおわかりいただけるだろうか・・・)「英語できないやつは辞めてよろし」というのが批判されて、「ノルマ○○が達成できないやつは辞めてよろし」が容認されるというのはよく理解できない。おんなじことじゃん。
その議論でよく「英語がしゃべれる」云々という言い方がしばしばされているのがちょっと気になった。大半の人にとっては、人と英語で連絡をとる必要がある場面では、今やほとんどメールで済むから、書けさえすればいいじゃん、と思うからだ。
明治以降、古い時代の英語習得の主眼は、読むことに置かれていたように思う。外国の情報を日本に取り込むことが最重要だったから、外国語の文献を読むために外国語を習っていた。
私が英語を学び始めた1970年代頃には、「英語が読めてもしゃべれない」ということが大きく問題となり、「英会話」の重要性が増して、旧来の「読む」ことを重視した勉強法が「古臭い」と思われるようになった。いつ頃からそうなったのかは定かではないが、少なくともあの頃はそうだった。それは、飛行機が発達して国際間の人の行き来が盛んになり、実際に面と向かって外国人と話をする機会が飛躍的に増えたことが背景にあるだろう。そして、電話屋として我田引水すれば、「テレックス」の時代から「電話」の時代に移行して、「電話で話をする」ということが必要になってきたから、とも思う。テレックスでは伝えられない細かい内容は、旧来どおり手紙を書くか、または電話で話をするしかなかった。
その後ファックスが普及して、今度は「書く」ことによるコミュニケーションの時代への移行が始まる。そして90年代、eメールが通信のデフォルトになり、文書を添付したり、ウェブにアップしてURLを添付するという方法により、大量の情報を文章により相手に伝えられるようになった。旧来の手紙の時代よりもむしろ、文章を書くことの頻度も重要性も、これまた飛躍的に高くなり、「書く」時代への移行は決定的になった。
いつの時代でも、一部の直接海外との取引にたずさわる人々にとっては、外国人と直接話をしたり外国に住んだりする機会も多く、そこで人的関係を築くためにはどうしても「しゃべる」ことは必要だ。それは今でも全く変わらない。しかし、マクロ的に見れば、大多数の人は今や、「英語でメールを書く」ことができれば、だいたいコトは済むのじゃないかと思う。メールを書く機会に比べ、しゃべる機会は圧倒的に少ないので、そんな滅多に無い機会のために英会話を勉強して、発音に苦労するのはバカバカしい気がしてしまうだろう。
なので、なにかといえば発音が云々とかいう、英会話重視の勉強法が、私には時代遅れに思えてしまう。それは、「電話の時代」の発想だ。
そりゃもちろん、きれいな発音で英語が話せればカッコいいに決まっているが、多くの人にとって、そのためにものすごい時間とエネルギーをつぎ込むことは無駄。それより、前回エントリーで書いた、「機械的な文章を書く」訓練をして、英語でそれができるようになるほうが、今や決定的に重要だと思う。学校でそれをやってくれなければ、自分でやればよろしい。
書くことは易しいことではない。まずは読めなければ書けないし、話すときよりもきちんと文章を組み立てられなければいけない。でも、発音に苦労する必要はない。文学を書くのではなく、メールを書けるぐらいが目標ならば、機械的な文章のパターンをいくつも覚えればよい。会話と比べて反応時間が長いので、ゆっくり考えたり、推敲したり、語彙やスペルをウェブで調べたりしながらやればよい。敷居はむしろ低いと思う。
なお、英語至上主義がいけない、というエントリーもどこかで読んだ(Blogosだったと思うが忘れた、見つからない)。それも理想論としてはわかるけれど、これまた「多くの普通の人」にとっては、英語以外の外国語を習得したところで、メシのタネになる確率は極めて低い。英語以外の言語は本当に好きな人だけ、または必要性の高い人だけやればよいと思っている。私は「好き」だったので、高校から大学にかけてかなり激しくフランス語をやり、20代は必要に迫られてスペイン語を勉強したけれど、その後の人生でこれらがメシのタネになったことは一度もない。人生が豊かになったので、それはそれでよかったが、それまでである。今後の世界でおそらく唯一の例外が「中国語」かもしれないと思うが、中国語本位時代はまだ少し先だろう。
人間、それぞれに時間やエネルギーや能力には限界がある。その限られたリソースを外国語の勉強に割り当てるということを考えると、「メールを書ける程度の文章を英語で書く」ということを目標にしてやるのが、今の時代には一番合っている、と私は思う。
石川
人間の脳は、聞き取れるようになると話せるようになり、話せるようになると読めるようになり、読めるようになると書けるようになるって、感じになっているみたいですよ。ようするに、日本語から一切隔絶された空間に3ヶ月たつと聞き取れるように誰でもなっているみたいです。外国人も同じで、外国人が日本にきて、まったく外国人がいない空間に3ヶ月いると聞き取れるようになる。で、そこが関西弁エリアなら、関西弁をしゃべる。笑
たぶん、自閉症や学習障害は、聞き取る能力が低い、もしかすると親も低くて影響しているかもしれませんね。ブログの人は、書き上手な人は多いですけど、聞き上手な人は少ないのは確かですし。ま、実験するとしたら、筆者自身が、いろいろな人の話を聞いてまわって、メモせず、どれだけ記憶できるかやってみるといいかもしれませんね。かなりストレスにはなるでしょうけど。
と、ブログから聞き取って思いつきました。
zm_nouveau
>英語至上主義がいけない、というエントリー
こちらではないでしょうか。
「英語を公用語化」する企業はグローバルを履き違えている。必要なのは多言語化[絵文録ことのは]
http://www.kotono8.com/2010/06/30multilingual.html
石川
ついでに、昔からある方法ですが、今でも演劇でつかっているところもある、「口伝」。書いて、読ませて伝えるのでなく、口でいって、聞かせて、その場で覚えさせていく方法があるんです。調べれば、でてくるでしょう。ま、難点は、多くの人に使えないけど、いいところは、一対一でやると、とても密度が高い伝達になります。
michikaifu
zm nouveauさん、それです。ありがとうございます。
かもかも
企業の公用語を英語にするなど、おかしくもない。どうぞご随意にと言うのが偽らざる感想。所詮、経営者の道楽のようなもので、必要なら、そうすればいいし、要らなければ、要らぬこと。
英語でも、ロシア語でも、必要な部門には必要なことで、必要がなければ、必要がない。
日本人が、英語が出来ないのは、単に、必要がないからと言うだけのことで、必要なれば、どうにでもなる。
其れより問題なのは、凡そ英語などと無縁の生活をしていたのに、突然、海外旅行をするから、英語が出来るようになれば良いだの、英語が必要な部署に配属になったから、明日から英語が出来るようにならなきゃならんとか、何とも虫の良い、都合の良い英語必要論が跋扈して、出来もしないことを出来ないと嘆いている。
英語が必要なら、くそ暗記でも何でも、必要な語彙は取得しなければならないし、英語での疑問文や、否定文の作り方を知らなければ、会話など出来なくて当たり前。
実は、英語が出来なくてとぼやく人の110%は、なんの努力もせずに、突然、英語が出来るようになりたいと夢想する人。出来たらいいのにと願望する人。10年も学校で教えられたのに何も出来ないと他人のせいにしてぼやく人。
英語を、公用語にするなぞ、全く意味のないこと。イヤ、経営者の単なる自己満足。思い込みの所産。ですね。
just a reader
外国人は英語が上手に話せるからって相手を尊敬したり仕事に配慮してくれたりしないです。特に技術系は。技術の話題にきちんとついていけて何度も鋭い指摘をする。何が問題なんだ?という問いに具体的で納得できる答えを持ってる。ごく当り前のことですがこういうことができて外国人と仕事が出来ます。CスーツやVPの前でスピーチをするのが仕事ならそれは英語ができなければ話にならないけれど日本人同士で英語を話しあってもそんな英語は身に付かないし1つでも技術を身に付けた方が時間の節約です。技術を持っている人には向こうから話したいと思うものです。
ap_09
石川さま
>日本語から一切隔絶された空間に3ヶ月たつと聞き取れるように誰でもなっているみたいです。外国人も同じで、外国人が日本にきて、まったく外国人がいない空間に3ヶ月いると聞き取れるようになる。
3ヶ月でそんなに上達できるなんてすごいですね。私は英語の単語がそのまま頭に入りだしたのは1年米国に住んでからです。それでも赤ん坊も言葉を覚え出すのが生後1年ぐらいなので、ひょっとすると脳生理的に、そんなものかな、と。読み書きは“decode a code”的に、暗号解読的、翻訳技術でも、時間さえかければこなせるようになると思います。日本語もそうですが、口語としての話し言葉と、読み書きの言葉は、ちょっと違うような気がします。
米語との対比では、日本語の言語音が母音はたったの5個、また子音の数も少ないので、米語スピーカーは日本語の語音を即座に把握できるのに、米語には日本の言語音にはない音がたくさんあるので、異なる言語音の識別が日本人には大変難しいのだと思います。「あ」だけで「a」「æ」「ə」「˄」「ɔ」みたいな感じでしょうか。私もついに滞米10年を超えましたが、いまだに“r”と“l”の違いがはっきり聞き取れません。
発音は口腔と喉の運動神経と筋肉が日本語用に剪定されてしまうので、大人になってからネイティブのような発音を習得するのは難しいのだと思います。でも別段早口で喋る必要はないので、明確な発音を心がければ、アクセントがあっても別段かまわないのではないかと思います。
外国語を学ぶことの一番大きな点は、言語は文化と固く結びついているので、異文化の人の心、ものの見方、世界観を知るという、その辺が醍醐味なのではないかという気がします。これはグローバル化に伴い、日本人にとって重要な学習要項なのではないでしょうか。自分の経験では英語を学ぶということは、自分の中に、もう一人異なる人格を作り上げる作業のような体験でした。
フランス語とスペイン語
フランスやスペインに住んで仕事をしたい人には十分すぎるほどに飯の種になると思いますよ!
ap_09
>フランス語とスペイン語さま
フランスやスペインというのは、外国人が自国の言葉さえ解せれば、「十分すぎるほどに飯の種」になるほど滞在ビザや就労ビザを発行してくれて、当該国内で就職するのに困らない国なのですか?
すごいですね。夢のような移民天国ですね。
そんな夢のような厚遇を利用せずに、日本で新卒だとかブラック企業だとかいって苦労してる人は、“白痴的バカ”ってことでしょうか?



WEBRONZA編集部
ソフトに関しては10年前は7:3で日本のソフトが世界市場を席巻していました。
当時、ちょうど世界の映画産業の経済規模にゲーム産業が追いついて来たと言われていた時期でもあり、
すかさず当時の上司に「日本市場は、もうすぐ飽和するので世界市場をメインターゲットにしましょう」、
という旨を入社2年目にして生意気に発言していましたが、周囲の誰の琴線にも響きませんでした。
そして10年後、世界のゲームソフト市場のシェアは逆転し、欧米のソフトが7:3で世界市場を魅了しています。
ま、世界のユーザーに対して関心が無い日本人が招いた当然の結果ですけどね。
>こちらのティーンが何のゲームで遊んでいるかを聞いて、あまりに日本と違うので呆然としていた。
↑
これに関しては鈍感な日本の業界人ですら数年前から認識していた事実なんですけどね。
世界にアピールする為の唯一の道筋は自らが世界に関心を持つ、以外に無いんですよね。
でも大半の日本人は本気で純粋に日本人なんですよ。
世界で勝負したいと思っている日本人だけを集めて日本で会社を作って活動したら面白いかも知れませんね。
その点では楽天の三木谷さんの取り組みは、まさに、その号令のような感じですが。
ちなみにハードとソフトの会社別での世界シェアに関しては、ご存知のように任天堂が圧倒しています。
社員1人当たりの純利益が1億円の会社です(^^;
http://www.nintendo.co.jp/ir/library/events/100129/02.html