崩木十弐 『回帰』

 あの日は仕事だったはずだが、なぜか俺は自宅にいた。
 強い揺れがおさまってから、赤ん坊をおぶった妻が庭のレオをなかに入れた。レオは喜び、脳梗塞で寝たきりの親父のベッドにぴょんと跳びのる。親父が拾った犬なのでいちばん懐いているのだ。
 家のなかの被害はたいしたことなかった。醤油が倒れカーペットに取り返しのつかぬ染みができたくらいだ。おふくろがバケツに水を汲んできて、ありったけの布切れを使い拭きとっている。妻がテレビを点けようとして停電に気づく。背中で赤ん坊が泣いている。
 もうすぐ津波がくるのを、俺は知っている。急いで家族を逃がさねばならない。俺は避難を促すが、誰もまともにとりあってくれない。俺の言葉が通じない。
 ピヨヨ、ピヨヨ、ピィピィ……妻が笑いながら鳥の声でしゃべった。おふくろが手を休めこっちを見る。ピィピィピヨヨ、ピヨピィ……やはりきれいな鳥の声でなにか言ってから掃除にもどる。逃げる気はまったくないようで、俺は途方に暮れた。八メートルの堤防を越える大津波がまさか襲来するとは思いもよらぬのだ。時間がない! 俺は声を荒げるが、返ってくるのはやっぱり鳥の声。ピィピヨ、ピヨヨ、ピィピィ。
 無駄なんだ……さとったそのとき窓が割れ、黒い水の塊がどっと押し寄せてきた。
 ピィピィピヨヨ、ピィピヨ――。
 仮設住宅の簡易ベッドで俺は目ざめる。カーテンの隙間から朝日が射しこみ外では小鳥がさえずっている。目をとじれば、さっきまでいっしょだった家族の顔が脳裏に浮かぶ。みんな揃っている。生後四か月だった結衣と愛犬レオのからだは未だ行方不明だったが。
 ここに移ってから繰りかえし見てしまう夢の結末を、いつか変えられるときが来るのだろうか……そんな想念を弄びながら、今日もまた重い身体をゆっくりと起こす。