岩里藁人『てんでんこの糸』

 なんという事だろう、この国は変わってしまった。たった一本の細い糸によって。
 あの大災厄の後、とつぜん私たちの鼻先に糸は現れたのだ。グラスファイバーのようにキラキラ光り、細いが丈夫そうなその糸。見上げれば、先端は雲の上に消えている。皆が芥川の「蜘蛛の糸」を連想した。カンダタと違うのは、糸がひとりに一本与えられている点である。ただし、他人の糸は見えない。自分の糸だけが鼻先にブラリと垂れている。
 この不可解な現象を、専門家やマスコミは様々に解釈しようとした。いわくストレスによる集団幻視、いわく地軸のズレが生んだ光学現象。しかし、もっとも注目されたのは某宗教家が唱えた「救済の糸」説であった。大災厄によって現世が地獄に変わり、そこから逃れるには、目の前の糸にすがるしかないと言うのだ。政府がこの考え方の危険性に気付いた時はすでに遅く、人口の八分の一が消えていた。文字通り「消える」というに相応しく、ある日とつぜん失踪する人が続出したのだ。糸に掴まるとスルスル上空に引き上げられると噂されたが、確認した者はいない。なにしろ自分の糸以外は見えないのだから。企業・流通・教育・娯楽……あらゆる分野で深刻な人材不足がおきた。GDPも税収も減少し、このままでは国そのものが消滅するだろうと、なぜか得意気に予言する学者もいた。
 しかし、やがて人口減少に歯止めがかかった。地獄も救済も、しょせん推測でしかない。消えた人が一人も戻ってこない以上、「どうなるか分からない」という点においては死後の世界と同じである。今までと何が違うのか。いま自分が在るこの世界でやるべき事が残っているのでは、と考える人が増えたのだ。
 今朝も私は勤務先である学校にでかける。同僚も生徒も減った。だが、車が少なくなったせいか空気はおいしくなったし、悪い事ばかりではない。そうつぶやいて自転車にまたがると、鼻先でキラリと糸が光った。