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吉田道昌の学舎 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-06-23

[] あの子は無事だったろうか、ひとつの葛藤  あの子は無事だったろうか、ひとつの葛藤を含むブックマーク



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 夕方5時過ぎ、勤務を終えての帰り道、ぼくは時速40キロほどでミニカを走らせていた。道路に沿って幅の狭い歩道がある。そこを小さな自転車が走ってくる。全速力でペダルをこぐのは、小さな男の子だ。幼児が幼児用の自転車に乗って、懸命に走ってくる。一生懸命だなあ、急いでいるんだなあ、幼児のこのひたむきさ、かわいいなあ、と思っている間にその子は、ぼくの車の横を後ろへと走り過ぎていった。その子の姿を追って、ぼくは車の左のバックミラーをちらっと見た。すると、その子が自転車ごと転倒する瞬間が目に入った。わあ、倒れたぞ。自転車は横転し、子どもは前に投げ出され、ヘルメットか何かが前方に飛び散った。男の子は上向きになって倒れている。すぐ起き上がると思っていたが、起き上がらない。意識を失ったか、頭を打ったか。

 ぼくは運転中だ。その現場から車は離れて、すぐにもう何も見えなくなった。まったく瞬間の目撃だったが、ぼくの頭にはいろんなことがひらめいた。車を止めて、子どもを助けに行くか、いや後続車が後に何台か続いている、それはできない、けれど子どもが怪我をしていたらどうする、たぶん大丈夫だ、子ども自転車を全力を挙げてこいではいたが速度はたかがしれている、もう起き上がっているだろう。思いはひらめくが、ぼくは運転は続けた。男の子の倒れたところは、一軒の民家が横にあり、歩道の幅は1.5mほどしかない。そのすぐ前方に進入路があり、一台の車らしきものが止まっている。ずんずん離れていく車からかすかに目に入った。あの車のドライバーが目の前で子どもが倒れたのを目撃したとしたら、その人が助けているだろう。さらに後続でその地点に来ていた車がハザードランプを付けたようにも見えた。確かかどうかは分からないが。そのドライバーも、もし子どもが倒れたままだったら、救急車を呼んだりしているかもしれない。たぶん誰かが助けているだろう。その人たちに子どものことは任せよう。

 そうしてぼくは走行を続けた。あれやこれやと思考が変転したが、ほんのわずかな時間だった。

 それからしばらく空白時間があって、運転中のぼくの頭がまたぐるぐる想いをめぐらせだした。後続の車の誰かが、子どもを気づかって停車し、対応してくれただろうなんて、それはどうだかわからない楽観だ。その楽観視は何だ。傍観者的思考ではないか。あえて楽観して、なすべきことから逃避しているだけではないか。後続車もそうして、みんな傍観して通り過ぎていたらどうなる。

 もし他に車がなく、ぼくの車が一台だけだったら、たぶん引き返しただろう。後続車が続く状態だったから、流れにまかしてしまった。結果として見捨てた。だれかがそれをするだろうと他者に依存した。あてのない、確証のない依存だ。後続車が何台あろうとも、子どもの命にかかわることだったら、車を左に止めてでも、脇道に入ってでも、子どものところに駆けつけるべきだった。倒れた原因は、歩道のきわにある道路標識の支柱にぶつかったからか。怪我は下手をすると大きいかもしれない。

 多数の動きが同方向にあるとき、結局それに流され、同調してしまう。そして言い訳的な理屈を持ちだしてしまう。そういうことを、これまでも繰り返してきたのではなかったか。

 あの子、無事だったろうか。

 翌日、出勤の道中でその現場の横を通った。気になったがやはり通り過ぎて、ことは過去へと流れていってしまった。

2016-06-21

[] 人びとの中の「古層」  人びとの中の「古層」を含むブックマーク



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 ドイツを指すジャーマン・GERMANをドイツ語発音するとゲルマン

 原始ゲルマン人は土地共有性を実施し、自給自足的村落を形成したそうだ。霊魂崇拝、自然崇拝が行なわれ、彼らの神は森の中に住んでいた。だから今もドイツ人は森の民。霊魂崇拝、自然崇拝、これは日本に似ている。日本はアニミズムで、山にも森にも川にも木々にも神がいた。

 原始ゲルマン人の現住地はスカンジナビアからバルト海沿岸の地だった。やがてゲルマン人はいろんな民族との相克・融合、支配・被支配を繰り返し、EUの国々をつくり現代にいたっている。

 ヨーロッパ歴史学樺山紘一は、「歴史の古層」「歴史的な基層」という言葉を使って、記録にも遺跡にも残ってはいないが、現代にいたるまで人間のなかに潜んでいる「記憶」があると、こんなことを述べている。

 「人間の中の記憶というものは100年、200年の長期波動で築かれていったもので、これが人間社会をつくりあげる決定的な力を果たしたに違いない。こうしてでき上がってきた記憶体系というものが、どうやって共有されて、どうやってそれ以後に導入されたものとの間に関係を取り結ぶのか、こういうことを考えるのが、本来の歴史学だと思う。」

 記録に残っていない先史の時代の人びとの生活、社会を結んだ人びとの知られざる歴史があり、そこには自然と人間、異民族同士の交流、融合があって、そこから生み出されてきた記憶がある。それが「歴史の古層」「歴史的な基層」であり、今も隠れて存在している。ところが、19世紀になって、ナショナリズムが政治と結びつくと、民族の純粋性とかいうファンタジーがつくられ、「歴史の古層」「歴史的な基層」がないがしろにされて、純粋なゲルマン民族というような誤解体系がつくりあげられてしまった。そして純粋なドイツ人とか純粋な日本人とか唱導されて、ドイツではユダヤ人への迫害になった。歴史を考えれば、「純粋」なんていうものは考えられない。

 樺山氏と対談している生命誌研究家の中村桂子氏は、「純粋なドイツ人とか純粋な日本人とかは存在しないということは、ゲノムの研究からも言える。ゲノムには記憶には残っていないものも、そのことが記録されている」(「ゲノムの見る夢」青土社)と言う。

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 「ゲルマン人やローマ人が来る前に、ヨーロッパには人が住んでいた。だからストーンヘンジみたいなものができた。クロマニヨン人は5万年前にいて、そのときからヨーロッパ人がおり、ヨーロッパの自然と付き合っていたはずで、今のヨーロッパ人はその子孫だ。5万年も8万年もかかっているから生物学的には子孫としての要素はきわめて薄いかもしれないが、ヨーロッパの自然の中で生命を営むという生活体系に関して言えば、戦争があろうが疾病があろうが何らかの形で記憶として受け継がれているにちがいない。」

 人間が支配するようになって、多くの生物の種が滅んだ。日本ではオオカミが絶滅し、ヨーロッパの森にはサルがいない。

 「200年前まで、ヨーロッパはかなりの部分、森林だった。人間の中に深い森があった。魔女とか妖精とかが棲んでいた。今でもヨーロッパの人の心には妖精が棲んでいる。イギリス人は特にそうで、窓の桟とか、鴨居とかに必ず妖精がいるから、窓はまたいではいけないと子どもに教える。」

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 日本がヨーロッパを知らないのは、日本がヨーロッパ文化を取り入れたのが20世紀につくられたものだったからで、「ヨーロッパの古層」が入ってこなかった。

 「日本人はアニミズムだと言うけれど、ヨーロッパ人もきわめて長い間、アニミスティックな世界に生きている。ヨーロッパ人は、古層の上にヘレニズムを接合した。イスラムもそうした。ビザンチン、東ヨーロッパ世界もそれぞれのやり方でそうした。」

 人間の古層をたずねるという学問はおもしろそうだ。旅をしながら、空想をたくましくし、妖精の世界にも遊んでみたい。

 ドイツでもオーストリアでも、お店に行くと、妖精の人形が売られている。家内は、魔法使いのおばあさんの人形をインスブルッグで買って日本に持って帰ってきた。部屋の壁にかかって、いつもぼくらを見ている。

2016-06-17

[] 日本の景観美を想う  日本の景観美を想うを含むブックマーク


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 最近見た映像だが、木曽路馬篭から妻籠まで歩いて旅籠(はたご)に泊った外国人たちが、その美を「こここそが歴史的日本の美であり、日本一だ」とほめ讃えていた。ぼくが初めて妻籠を訪れたのは、人の気の絶えた1970年一月末だった。志賀高原に行き、帰りの道中、スキー道具を駅に預けてぶらりと寄って、飛び込んだ宿が「藤乙」という屋号だった。他に客のない宿の夜、老いた女将は、囲炉裏の傍で、新婚のぼくらを温かく迎え、宿近くに墓地のある島崎藤村の詩「初恋」に詠われたおゆうさまの話や、小説「夜明け前」の話をしてくれた。翌日、峠を越えて馬篭宿で泊った。宿は、藤村の四男、楠雄さんの経営する「四方木屋」だった。

 それから子どもが生まれ、毎年家族で妻籠を訪れるようになった。民宿「大高取」は妻籠の集落から離れていたが、あららぎ川のほとりにある歴史的な古民家で、そこが30年に及ぶぼくらの妻籠の郷になった。一家は、牛を飼っていた。御主人は妻籠宿を伝統的建造物群、歴史的遺産として保存する運動の担い手でもあった。復元活動は、街道筋の電柱撤去し、看板類を全部とり払い、建物をできるかぎり江戸時代様式に復元して、すっきりとした屋並みの、江戸時代を彷彿させる景観に戻した。中山道宿場妻籠は、山間の谷間にあり、わずかな農地しかなかった。この宿場を維持して未来を描くにも困難な経済状況だったが、完璧な復元という村おこしは、人を呼んだ。時代祭盆踊りが行われ、時代祭の日には、村人たちは刀を差し、江戸時代の人びとに扮装した。宿のおばあちゃんは、囲炉裏で五平餅を焼いてくれた。幼い子どもらは、長火ばしをもって、ほだ木を燃やした。

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 妻籠に続いて次々と木曽路中山道宿場の伝統的建造物群が、復元されるようになった。薮原宿、奈良井宿、観光客が木曽路にやってきた。しかし、江戸時代大名行列も盛んだった街道はほとんど昔の姿を消していた。木曽路宿場は点でしかない。地域を面として、江戸時代中山道として復元されていない。宿場宿場をつなぐ、歩く人のための街道が復元されていない。

 写真家石川文洋氏が木曽路を歩いて痛感した。「歩く道がない」。それは、実際にぼくも体験したことであった。薮原と奈良井の間だったか、ひとりの外国の若者が、ザックを背にしてテクテク歩いていた。車が疾駆する国道19号線だった。19号線には歩道はない。排気ガスを吸いながら、身の危険を感じて歩いている彼に、「こっちの脇道を歩いてくださいよ」、と声をかけたかったが、こっちの脇道も次の宿場に通じているのかどうかも分からない。結局声をかけられずじまいだった。

 「歩く人のための街道」をつくる、美濃路から出発して、宿場をつなぎ、馬篭妻籠、須原、上松、福島宮ノ越、薮原、奈良井贄川、本山、洗馬、そして松本平を通過し、安曇野、大町、白馬、小谷、さらに糸魚川へと、「中山道」を「塩の道」につなぐ長大な歩く人のための街道。そのような壮大な街道計画がなぜ生まれてこないのか。日本人は歩く文化を喪失したのか。つくづくそう思った。経済発展至上主義にとらえられて、やせ細った発想しか浮かばないのだろう。

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 日本はいまだ人間復興として自然と文化の調和した環境文化が面として生み出されていない。日本では街並みが「醜い」といわれる。「醜い」と感じられるのは、街並みだけではなく人工の建設物群全体に言えるのだが、それが多くの人たちに「醜い」とは感じられていない。人間の感覚の問題だろうか。だから面的な調和の整った環境が生まれない。

 妻籠という小さな宿場づくりで取り組まれたことは、電柱をどうする、看板・のぼりはどうする、自動販売機はどうする、郵便局の店構えやポストはどうする、休憩所・オアシスはどうする、建造物と自然との調和はどうする、これらを具体的に解決するように、宿場全体を「面的」にとらえ、実践に移されたのだった。


 ドイツ景観は、面として保護されている。全国に多種多様な街道を通し、街、樹木、森・草地を保護・復元し、たくさんの種類の生物が住める環境を生みだしている。

 1986年に改正されたドイツ連邦自然保護法はこう規定する。

 第1章・第1条。

 「自然と景観は、その固有の価値に基づいて、人の生活基盤として、また将来の世代に対する責任において、人の住んでいない地域と同様に人の住んでいる地域においても、自然と景観の多様さ、特色、美しさと観光的価値が長く保証されるように、保護され、保存され、開発され、必要のある場合は復元されなければならない。」

 第1章・第4条。

 「各人は自然保護及び景観保存の目的と原則を実現するために自らの可能性に基づいて寄与しなければならず、自然と景観が不可避的な状況によって損われる以上には損なわれないように行動しなければならない。」

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 ドイツ環境政策の三原則。

 1、「予防原則環境負荷は基本的に減少させなければならない。国は、自然に対するリスクを認識した場合は介入する義務を負う。国の指示と禁令は環境負荷を最小限に制限するものでなければならない。

 2、「自己責任原則:産業は自己のもたらす環境負荷の費用を負担しなければならない。産業はできるだけエコロジー的に、またそれによって長期に渡って低コストで生産することを推進しなければならない。

 3、「協力原則:国は、法律と罰則によってではなく自発的な基盤に基づいて産業と協力し合わなければならない。」

 ドイツ連邦建設法典は、建築物と周辺との調和を規定した。ビオトープの概念は、1986年の自然保護法において、初めて使用されている。

ドイツ連邦自然保護法の2009年改正法では、さらに生物多様性が重視され、種及びビオトープの保護に関する規定が拡充された。景観計画では、自然・景観保護の目的を具体化し、それを実現する手段としての景観計画の策定を決めている。

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 かくしてドイツでは、「Land」 をより美しくするという考えが全的に実践されている。川があれば、川が美の要素になる。村があれば、村のたたずまいが美の要素となる。教会の塔があれば、塔は景観を引き立てる。道はなつかしい心の風景をかきたてる。

 ぼくは空想する。日本の江戸時代景観はどんなだったろうと。すべて徒歩で旅した江戸時代。桜の季節、新緑の季節、紅葉の錦の季節、木枯らし吹く季節、雪の季節、街道をゆく人たちの見た風景を想像する。そしてまた西行等が旅した平安時代はどうだったろうと。どちらの時代も長い年月にわたって戦争がなく、平和がつづいた。ニホンオオカミエゾオオカミも日本の生態系に役立っていた。

 貧富の差、身分の差はあったけれども、それでもそのなかで、美はどのように人の心に根ざして、人間を育んでいただろうかと想像する。日本の芸術文化はその風土の中から生まれた。

 

2016-06-13

[] 動物園へ行った  動物園へ行ったを含むブックマーク



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 朝からトラムに乗って家内と二人動物園へ出かけた。どこの停留場で降りたらいいか、乗り場にいた市民に聞いて路面電車に乗った。駅には駅名が書いてある。それを見逃さないようにドア近くに立つ。

「この駅だ」

 駅名を見て、近くにいた若者に確かめると、ZOOならここで降りて、向こうの通りを右へ歩いて10分ぐらいと言った。電車はその間、停車したまま待ってくれていた。若者が、運転手に発車させないように措置をしてくれていたらしい。

 朝のフランクフルト動物園は静かだった。人も少ない。入ってすぐに左手がインドライオンテリトリーだ。へえー、インドにライオンがいたとは知らなかった。濠に囲まれたかなり広い台地にインドの自然がつくられ、二頭のインドライオンは、遠くを見ながら伏せていた。アフリカライオンに比べてたてがみの色が濃く、風格があった。

 背丈ほどの草がぼうぼうと生えているところがある。オオカミの暮らす草原だった。飼育員のおばさんが中に入って何かしている。オオカミはそれを知っていて、おばさんを観察しながら距離を取り、おばさんが動くと後をつけていた。おばさんもそれを知って、ときどき後ろを振りかえりながら出口から出ていった。このオオカミも風格があった。群れの動物のオオカミだが、いったい何頭ここにいるのだろう。ライオンの園もオオカミの園も、木立が取り囲んでおり、人間は木立の合間から中をのぞくという感じだ。ライオンオオカミの側から周りがどう見えているか想像する。たぶん木立の外に人間がちらちらする程度で、気にならない、という感じなんじゃないか。

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 柵やネットのない自由な鳥スペースで、ヒナを連れて歩いている鳥がいる。フラミンゴが群れている。野生のフラミンゴの群れの数にはとても及ばずさびしい。

 爬虫類館と水族館を合わせた「エキゾタリウム」ではガラス越しに珍しい動物を見る。アザラシペンギンが泳ぐ。小動物がおもしろい。自分の住む穴の中から小石を口にくわえて一生懸命外に運び出している魚が、クリクリ目玉でかわいい。ハキリアリもせっせと木の葉を切り取って運んでいた。地下室に入っていくと、暗がりの中に夜行性動物を観察できるところもあった。ネズミの仲間が木登りをしている。

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 午前10時に、近くの教会の鐘が鳴った。鐘の音はとても大きく感じられ、10分以上も鳴り響く。鐘の音に動物たちは驚かないかと思ったが、彼らはそれには慣れて、この街の住民同様にへっちゃらのようだ。この国の鐘の音は人間にとっては重要な文化、生きる環境でもある。

 動物園の動物は捕らわれの身ではある。が、できるかぎりふるさとの環境に近い棲み家を用意され、人とともに生きている。このことの是非は動物側と人間側とは意見が食い違うだろう。ここに4500の動物が生きる。その生命空間をつくることは、人間自身のあるべき環境をつくることでもある。動物たちの住む自然環境、すなわち土、空気、水、食べもの、音、植生、それらはここに住む彼らにとって適切なものか、好ましいものか。それらが吟味されながら、ここに生きる暮らしの場が用意されているはずである。それは、人間の生きる環境を考えることでもある。チェルノブイリ原発事故が起きたとき、放射性物質ヨーロッパ全土に流れ汚染した。そのとき、この動物園にも放射性ストロンチウムは落下しただろう。人間が開発した化学物質もまた、日ごと環境に影響を与えている。オゾン層の破壊、地球温暖化による気候変動、戦争による環境破壊、とめどもなく続く生命・生態系への攻撃。

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 一方、野生動物たちのふるさとを見れば、アフリカサバンナも、熱帯雨林も、人間によって攻撃され粉砕され、野生動物の安全な居住区も激減した。彼らの安住の地はありや。

 ZOOを考えるということは、地球環境から生物の環境、人間の環境を考えることに通じる。

 アムジー(クロウタドリ)が樹の枝にとまってさえずっている。お昼にまた教会の鐘が鳴り渡った。動物園の入口には長蛇の列ができていた。子どもたちを連れた家族連れが多い。鋭敏な感性を持ち、好奇心の塊である子どもたちが、ここで楽しみ、発見するものは数限りない。

 「沈黙の春」を著し、地球・人類の危機を訴えたレイチェル・カーソンが遺した文章がある。要約すると、

 「子どもたちの世界は新鮮で美しく、驚異と感激にあふれている。子どもたちが、生来の驚異の感覚を生き生きと保ち続けるためには、その感覚をわかちあえるような大人が少なくとも一人、子どものかたわらにいて、われわれの住んでいる世界の歓喜、感激、神秘などをその子どもと一緒に再発見する必要がある。

 私は、子どもにとっても、子どもを教育しようと努力する親にとっても、『知る』ことは、『感じる』ことの半分の重要性さえももっていないと信じている。もしも、もろもろの事実が、将来、知識や知恵を生みだす種子であるとするならば、情緒や感覚は、この種子を育む肥沃な土壌である。幼年期は、この土壌をたくわえるときである。美的な感覚、新しい未知なものへの感激、思いやり、あわれみ、感嘆、愛情といった感情、このような情念がひとたび喚起されれば、その対象となるものについて知識を求めるようになるはずである。それは永続的な意義を持っている。消化する能力がまだ備わっていない子どもに、もろもろの事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるようになるための道を切り開いてやることの方がはるかに大切である。」(ポール・ブルックスレイチェル・カーソン」上遠恵子訳)

 

2016-06-12

[] ストリートミュージシャン  ストリートミュージシャンを含むブックマーク



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 何人かの辻音楽師に出会った。

 今の呼び名はストリートミュージシャン

 街かどに立って曲を演奏する。

 フランクフルトの街で、

 老いたバイオリン弾きに出会った。

 四角い小さなスピーカーを路上に置いて、

 スピーカーから流れるオーケストラの音色に合わせ、

 彼はバイオリンを弾いていた。

 朝は街中にいたが、午後は川の橋のたもとにいた。

 彼の前を人は静かに通り過ぎていき、

 前に置かれた箱には、何枚かのコインが入っていた。

 街の広場に行くと、

 男がホルンを吹き、

 女がアコーデオンを弾いていた。

 ひげ面の男は無口だが、女は陽気だった。

 演奏しながら踊りを踊った。

 東欧かどこかの国の、十人ほどの旅の人たちが、二人の前に立って、ニコニコ演奏を聞いた。

 ご婦人の一人が出てきて、曲に合わせて踊りを始めた。

 アコーディオン弾きの女は、もっと陽気に踊りながら演奏した。

 十人ほどの旅の人たちは愉快そうに笑った。

 一人二人と出ていって、帽子にコインを投げ入れた。

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 ローテンブルグの公園はマロニエの花が咲いていた。

 箱にCDのケースが数枚あり、「ドイツ民謡」と書かれ、

 民族衣装の男は木の前に立ってギターを弾いていた。

 「菩提樹の曲、あるよ。ローレライ、あるよ。」

 なつかしい歌があった。

 なんとも素朴な演奏だった。

 おじさんの演奏を録音したCDは一枚12ユーロ、旅の記念に一枚買った。

 おじさんの演奏が聴こえる範囲に座って、木立の緑と景色を眺めていると、

 おじさんは、途中でコーヒーを飲みに行った。

 楽器も道具もそこにそのまま置いて。

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 ミュンヘンの広場と通りがにぎやかな歩行者天国になっていて、

 どこからかチロル民謡が聞こえてきた。

 歩道に木の箱を台に置き、チロルの民族衣装を着けた男がアコーデオンを弾きながら歌っていた。

 なつかしいチロルの歌だった。

 人びとは聞くともなく、男の横を通りすぎた。

 一人のご婦人がつつっと近づくと、男に向かい合った。

 ご婦人もチロルの歌を歌いだした。

 二人はそこでしばらく二人だけの演奏会をした。

 婦人もチロルの人だったのか。

 彼のためにいくらかのお金が入ったのかどうか分からない。

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 歩道の端に座って、リコーダーを吹いている男がいた。

 その向こうにも、リコーダーを吹く男がいた。

 日本の小学生も吹く簡素なリコーダー

 いかにも困窮者の風の男たちは、うつむき加減に細々と笛を吹く。

 道行く人はだれも男に関心を示す様子がなく、

 前に置かれた小さな紙の器に、いくらもお金が入っていなかった。


 白鳥城に向かう森の道に、小さな手回しオルガンを弾く人がいた。

 珍しい楽器に興味を抱いて話しかける人が何人もいた。

 ぼくも腰をおろして聴きたかったが、そのままそこを通り過ぎた。

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 昔、オスロの通りで出会ったギター弾きは、ビートルズの「イマジン」を熱唱していた。

 「想像してごらん、国なんかないんだと。

 難しいことではないでしょう?

 殺す理由も死ぬ理由も無く、宗教も無い。

 想像してごらん。みんなが平和に生きていると。」

 「想像してごらん、天国なんかないんだと。

 簡単なことでしょう?

 この地下に地獄なんて無く、

 僕たちの上には ただ空があるだけ。

 想像してごらん みんながただ今を生きているって。」 

 そこはメイン通りだったが、人通りが少なかった。

 誰もその前で聴く人はいなかった。

 そのときも、ぼくは彼の前に立ち止まって彼の演奏を聴くことをしなかった。

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  ドイツリード、シューベルト歌曲集「冬の旅」の最後は、「辻音楽師 Der Leiermann」。  

 村はずれで一人の年老いた辻音楽師と出会う。

 虚ろな眼で、凍える指で、手回しオルガン、ライアーを弾いている。

 聴く人もなく、銭を入れる人もなし。

 若者は自分と同じ孤独な辻音楽師にたずねる。

 「老人よ、お前についていこうか。僕の歌に合わせてライアーを回してくれないか?」

 

2016-06-10

[] 幼稚園、学校の教育と自然  幼稚園、学校の教育と自然を含むブックマーク


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 フランクフルトの住宅街を歩いていると、大きな樹が葉を茂らせているところがあった。足を止めて観察する。ほう、幼稚園かあ。興味深々でのぞいた。したたる緑のなか木漏れ日が映っている。目の前に遊具がある。子どもの大好きな、冒険心をくすぐる遊具。アスレチック風に、ほとんど木で作られている。よじのぼる、渡る、くぐり抜ける、ぶらさがる、子どもたちが全身で遊ぶものだ。あいにく日曜日だったから子どもたちを見ることができず残念。

 別の日に小学校にも行きあった。正門を入ると緑のトンネルの向こうに校舎があるが、その手前にやはり木製のアスレチック風の遊具が見える。

 古城の街ではモンテッソーリ子どもの家もあった。ここは公園のような木の茂りしか見えない。たっぷり時間があればいろいろ参観したいのだが、それはかなわなかった。

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 昔のぼくの小学時代、竹のぼり、雲梯(うんてい)、ジャングルジム、ブランコ、鉄棒が、運動場の片側にあった。竹のぼりは、二十本ほどの真直ぐな竹棒が上をはずれないようにして、ずらりと並んで垂直に立てられていた。子どもたちは両足で竹をはさみ、両手で体を支え、よじのぼる。いちばん上までよじのぼると目的達成、するすると下りてくる。ほとんど鉄製の遊具の中で、これだけが自然素材だった。鉄は頑丈で長持ちするが、冷たく、固い。子どもたちが直接手に触れ、肌に温かみを感じ、心に感じるものは、やはり自然の産物、木材がいちばんいい。しかし安全面やメンテナンス面で、今なお遊具は鉄製が大部分を占めている。戦後日本にフィールドアスレチックが入ってきたとき、それは子どもを引き付けた。木材をふんだんに使った大規模なフィールドアスレチック場は、遊びの場の雰囲気をがらりと変えた。爆発的な人気が出て、フィールドアスレチック場は各地に誕生した。中学校教員をしていた時、遠足でそこへ生徒たちを連れて行って、一日遊ばせたことがあった。

 学校の校庭に、できるかぎり木製の遊具やベンチなどを置くという発想は、日本にはいまだ浸透していない。

 幼稚園は、ドイツの幼児教育者、フリードリヒ・フレーベルが世界で最初に設立した。彼は幼稚園の教育内容は、遊びや作業を中心にすべきものと考え、そのために遊具を考案し、花壇や菜園や果樹園からなる庭を幼稚園に必ず設置すべきであると主張した。1837年、世界初の幼稚園として「一般ドイツ幼稚園」が開設される。

「森の幼稚園」はデンマークで誕生した。1950年代デンマークで一人のお母さんが森の中で保育をしたのが始まりとされている。やがて「森の幼稚園」はドイツにも広がり、現在ドイツ全土で300以上になるそうだ。日本では2005年から毎年「森のようちえん全国フォーラム」が開催され、「森のようちえん全国ネットワーク」が設立されている。

 ところで、日本の小中学校の教育の実態は常に気がかりな状態が続いている。「ゆとり教育」を廃止し、全国学力テストなどを実施しているが、ドイツでは自然体験をさらに重視しているようだ。連邦環境省は、自然でのハイキングを学校プログラムに取り入れるプロジェクトを新しく始めた。「学校ハイキング」と呼ばれるもので、生徒たちは一週間のうちの一日を野外で過ごす。このプロジェクトは2014年から、小学校3校において3年間の計画で実験的に行なわれている。生物多様性への関心を高めることが目的で、自然を子どもたちが五感を使って体感し、環境を守ることの大切さを学ぶ。環境教育の先進国ドイツならではの試みだ。

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 ミュンヘン日本人国際学校の教諭を体験してきた栃木県の小学校教諭、橋本和美さんの小論文を読んだ。ドイツの環境教育についてこんなことが記されている。(概要)

「(1)環境に配慮した学校づくり

 校舎づくり

 ドイツでは自然を大切にした学校づくりが行われている。天然木を利用した校舎,森の中の学校など,自然と調和した学校が数多く見られる。

 校庭づくり

 ドイツにおける環境教育の概念はビオトープである。現地の小学校では、泥遊び場や生け垣を使った迷路、畑などを校庭に作っている。子どもたちは切り株に座り、土を掘り返し、落ち葉に寝転がる。大木が生い茂り、鳥のさえずりが絶えない空間がある。自然を肌で学び感じる。

 屋上緑化

 建物の屋根部分に植物を植えている。緑化された屋根は,雨水を保持し、周辺の気候を改善し、小動物の大切な庭や休息の場となっている。また、断熱性を補ったり、屋根の気密性を守ったり、利点も多い。ミュンヘン日本人国際学校体育館の屋根部分にも土が盛ってあり、草が植えてある。春になれば花が咲き、ちょうや小鳥たちがたくさんやってくる。

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 (2)自然体験

 ドイツの森林にはさまざまな形の自然体験道がある。ドイツでは一年を通して散歩やハイキングを楽しむ人たちを見かけるが、「森の音に耳を澄ます」「植物に触れて匂いを確かめる」「自然の中にある物を使って音楽を楽しむ」「木登りをする」など、思い思いに自然に触れ、楽しんでいる。

 (3)環境教育の実践

 学校入学前の実践

 ドイツ各地には「森の学校」と呼ばれる地域の自然保護や環境教育を行うエコセンターがある。そこでは自然観察の魅力的なイベントが随時開かれ、五感を使った自然体感を行い、豊かな感性を育てている。博物館動物園などでも環境学習プログラムを随時行っている。子ども自身が体験を通じ、考えながら環境を守ることの大切さを学ぶ。小学校に入ると、環境教育プロジェクトに参加し、五感から得た知識をさらに深め、一人一人が環境大使となって、環境保全活動に携わるようになる。

 学校内での実践

 ミュンヘンギムナジウム学校(小学校終了後に進学する、大学進学を目的とした学校)では、自然界のプロセス生態系における相互依存についての学習が、「教科の枠を越えた授業」の時間に設定して数ヶ月単位で行なわれている。複数の教科の共通テーマとして環境を扱い、様々な視点から知識を深める。例えば「エネルギー」をテーマに、化学と政治の授業を組合せて実施。化学の授業では,様々なエネルギー源について自然科学を元に調べ、政治の授業では脱原発エネルギー転換についてディスカッションを行う。

 一方,短期間で学年・学校を挙げて一つのテーマに取り組む「プロジェクト」もあり、実践的な環境学習プロジェクトを実施するため、自然学校(機関)や環境学習センターに講師を依頼し、アドバイスをしてもらっている。」

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 最後に、橋本和美さんはこんなふうにまとめている。

 「ドイツ人の環境意識は大変高い。ドイツの人々は健康で人間らしく生きるために環境を守り,動植物の世界を乱獲から守り、破壊や損失を除去するために行動している。ミュンヘン市内の公園などでは子どもたちが里親になった樹木や小川なども見られる。木には小鳥の巣箱がかけられ、近くにはえさ台が置かれている。自分たちの手で自然を大切に育てることで、自然と環境に対する責任感を身につけている。」

 ドイツの小学校教育は地域を重視する伝統があるという。1919年から「郷土科」という教科が設定されている。こんな調査がある。

 「1998年に連邦自然保護庁が作成したドイツ国内の生物に関するレッド・リストによれば、調査した16,000の動物種のうち3%が絶滅し、36%が絶滅危惧種であった。また、ドイツ在来のシダ・種子植物3,000種のうち1.6%が絶滅し、26.8%が絶滅危惧種であった 。」

 「ビオトープ」はドイツで生まれた概念で、生物の生息環境を意味する生物学の用語だ。「ビオ」は「バイオ」のことであり、ドイツ連邦自然保護局では「ビオトープ」を、「有機的に結びついた生物群の生息空間」と位置づけている。日本でもこの概念が導入され、学校や地域で、生命が生まれ循環する環境づくりが目指された。しかし日本の現実は、教科書オンリーの、教師が教え生徒が受け身の授業がほとんどだ。社会や自然、生活体験から学び発見し、創造する実践とは遠く隔たってしまっている。子どもたちが野外に出て自然を観察し、自然と対話するような授業や「ビオトープ」をつくって活用する教育実践はほとんど空洞化している。

 最も重要な『生命を知り、生命から学び、感じ、考える教育』に手が回らず、子どもたちと野山・森に入ってたっぷりと遊び、自然を体験する実践が少なくなっている日本で、どんな人間が育つか。

未来はどうなる。

2016-06-08

[] 子どもの休暇、大人の休暇  子どもの休暇、大人の休暇を含むブックマーク



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 夏休み、冬休みは、子どもにとってもっとも楽しいときだ。ぼくの子ども時代は野性的文化時代と言えるような日々で、家の手伝いもあるが、何より近所の仲間とあるいはクラスの友と思う存分遊ぶ、遊びを創造する、冒険、探検の日々だった。自由を謳歌し、自分たちの発想にしたがって、世界を遊泳した。

 夏休みは降りそそぐセミの声とともにやってくる。7月20日、一学期終了、わくわく胸躍らせて家に帰る。明日から8月31日まで夏休みだ。まるまる42日間、6週間の休み。

 家の前の大池にはヒシが繁茂していた。ぼくは小学3年生、水泳がまだできないのに、バケツを水に浮かせ、それを両手で持って浮きにし、バタ足で池の真ん中に浮かぶヒシの実を採った。ツチガエルをつかまえてきて釣り針にひっかけ、ボウボウと鳴く食用ガエルと呼ばれていた大きなウシガエルを釣る。それを売ってお金を得るためだ。ウサギ、アヒル、鶏も飼った。

 草野球の道具は全部手作りした。古布と綿でグローブとミット、棒杭でバットを作った。木も草も、ムギワラも、瓦のかけらや小石も、五寸釘も、遊び道具になった。ツバキの実は笛になり、スギの実は杉玉鉄砲に、竹は弓矢になった。土の中に巣を作る地グモをつかまえて、闘牛ならぬ闘グモの対決をした。めくるめく陶酔の日々、干天の猛暑も遊びの楽しさを妨げることはできなかった。

 しかし今の時代、事情は大きく変わった。まるまる自由な休みというのは激減した。長野県では地域によって違いもあるが、夏休みは8月の3週間余りで、その休み中も部活や塾、習い事が入り、実質自由な日は少ない。

 ところでドイツの学校の長期休暇はどうなっているだろう。州によって異なり、また年によって期間は異なるが、全州共通して日本よりも期間ははるかに長い。そして宿題はまったくなし。

 年間の休暇は、夏休み、冬休み、クリスマス休暇、復活祭・春休み、昇天祭・聖霊降臨祭、秋休みなどがある。たとえばベルリンの学校の2013〜2014年の場合、

夏休みは、7月9日〜8月22日の45日間、

冬休みは、2月3日〜2月8日の6日間、

クリスマス休暇は、12月23日〜1月3日の12日間、

復活祭・春休みは、4月14日〜4月26日の13日間、

昇天祭・聖霊降臨祭は、5月2日〜5月30日の29日間、

秋休みは10月20日〜11月1日の12日間。

合計117日という長さだ。

 子どもたちの夏休みは学業のプレッシャーから解放される貴重な時間でもある。親もバカンスをとって、長期の家族旅行に出かける。1週間から2週間、保養地へ出かけてそこで滞在し、自然のなかで過ごす。南ドイツの山岳地帯はヨーロッパアルプスの一部だ。峠を越えていけば、オーストリアからイタリアまで行ける。

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 一日、白鳥城へ行ってきた。アルプスには雪の峰が残っていた。日本の北アルプス白馬岳あたりの風景に近く感じた。岸壁を背後に、山の上に建てられたこの城の美しさから、日本でも世界でも人気がある。観光客の多さから人数を区切って入城させるので、あらかじめ知らされている時刻まで待っているとき、二人の日本人と話をした。二人は同じ会社の同僚で、一人は以前にもドイツに来たことがあり、今回いまだ海外を知らない若い同僚が行きたいと言うから一緒に来たとのことだった。

「二日の休暇をとってきたんですよ。二日しか会社が認めなかったんです」

「えっ、たったの二日でどうやって?」

 要するに、木曜日、金曜日と二日休暇を取り、土日は休みだから、合わせて4日の休み、それを使って飛行機の中で寝てこの国に来た。

「どうして休暇を認めないんですかねえ。私の息子もそうですねえ。毎日帰宅するのが午前様ですよ」

「私たちも同じですよ」

「日本の企業は、まったくひどいものですねえ」

「日本はだめですよ」

 年長の彼は慨嘆する。

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 経済協力開発機構OECD)の統計では、日本では1人当たりの1年間の平均労働時間が1745時間(2012年当時)。ドイツは1393時間と約20%も短く、日本人より年間で352時間も短い。OECDによると、ドイツの1時間当たりの労働生産性は日本よりも高い。その理由の1つに労働時間が日本よりも短いことが挙げられる。ドイツでは、政府法律によって労働時間を厳しく規制し、違反がないかどうか監視しているという。企業で働く社員の労働時間は、労働時間法によって規制されている。法律によると、平日1日当たりの労働時間は8時間を超えてはならない。1日当たりの労働時間は、最長10時間まで延長することができるが、その場合にも6カ月間の1日当たりの平均労働時間は8時間を超えてはならない。日本でも労働基準法によって、1週間の労働時間の上限は40時間、1日8時間と決まっている。けれどもそれはほとんどザルになっている。ドイツでは、企業が組織的に毎日10時間以上の労働を社員に強いていたり、週末に働かせていたりすると、経営者は最高1万5000ユーロ(210万円)の罰金を科されるのだという。悪質なケースでは、経営者が最高1年間の禁固刑を科される。

 ぼくらが、二人と話していると、もう一人の日本人旅行者が加わった。彼は会社を定年退職した後、自由な一人旅をしている。

「いやあ、家内は孫のお世話ですよ。そのほうがいいというわけでね。私はもう4週間旅しています。1月ごろから、ネットでホテルや列車パス、航空機など調べて、いちばん安い方法で旅しているんですよ。食事も朝自分で作って昼に食べて」

 彼の行動は実に身軽で神出鬼没。どこかへ出かけて情報を仕入れてくると、ひょこっと目の前に現れる。会社務めから解放されて、彼は青年のように自由を謳歌していた。

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 ところで、日曜日にスーパーへ行ったら店が閉まっていた。話に聞いてはいたものの、詳しい訳を知らず、レストランも閉まっていたから、日本では稼ぎ時なのにどうして?と思った。ぼくは「閉店法」という法律のことを知らなかったのだ。

 「閉店法」は1900年ドイツ帝国で施行された。小売店営業は平日の5時から21時までとする。戦後は1957年に、旧西ドイツで「閉店法」が施行された。原則として、平日は7時から18時30分まで、土曜日は7時から14時までの営業を認める。日曜は例外を除き営業が許可されない。1989年法改定、木曜日の営業が20時30分まで可能となり、1996年には営業時間が平日は20時まで、土曜は16時までとなった。2003年の改正では、土曜日も20時まで営業が可能となった。

 なぜ「閉店法」が生まれたのか。一つは、日曜日はキリスト教安息日であり、その慣習を保護するためである。二つ目は労働者長時間労働を強いる可能性があるからである。2003年に改正された「閉店法」の条文にも、「労働者の特別な保護」という章を設けられ、労働者長時間労働を防ぐ条項を設定している。三つ目は、小規模小売店を保護するためである。営業時間が法定されていないと、資本力のある大規模小売店営業時間を延長することで、小規模小売店の客を奪い、小規模小売店が生き残れなくなる可能性がある。

 かくしてドイツではこの法律が生きてきた。だが、実際には、「閉店法」は数々の例外規定を設けている。薬局、ガソリンスタンド、空港や駅、観光地の店舗などに特例を認めている。

 白鳥城を見てきてミュンヘンに戻ったぼくらは、駅に入っている店で食事をした。おじさんが、デーンとビールのジョッキを運んできてくれた。

2016-06-06

[] 農業政策とエネルギー政策  農業政策とエネルギー政策を含むブックマーク



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 宿は、小さな質素なホテルだった。朝食で特においしいと思ったのは、パン、ヨーグルト、チーズ、ハム。堅い歯ごたえのあるパンをちぎりながら食べる幸せ、幾種類もあるチーズとハムも食欲をそそった。ヨーグルトと温かいコーヒーのおかわりができることは、なんとも言えない喜びだった。

 この国は牧畜の国でもある。世界4大農産物輸出国のひとつで、農業・食品産業は国における第5位の輸出産業に成長している。有機農業の生産物では輸出企業が10万種以上の製品を世界に供給している。自然農法による農産物を提唱したのはルドルフ・シュタイナーで、シュタイナーはまた教育において大きな影響を世界にもたらしてきた。

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 ドイツでは農業が有力な産業になっていて、農業生産・加工分野で働く人の数は、産業の9番目になる。農村地帯には国民の40%が住み、農業が就業の場を創りだし、農業従事者は質的に高い生活ができている。有機農業については、その割合を近年中に20%に向上させることを目標にしている。このような農村の価値は、文化、環境、農村の風景にも現れている。農村風景が美しく、自然と調和しているということのベースに、農業者の豊かさが存在しているということなのだ。

 しかし一方、次のような状況もある。

「バーデン・ヴェルデン州における伝統的な農村風景。それは色とりどりの花が咲き、多様な生き物が集まる草地に、在来種のリンゴの古木が点在する風景である。リンゴの古木には野鳥が巣をかけ、その下では農家が草を刈り、牛が放牧される。リンゴは在来種が300種以上もあり、人びとはリンゴジュース、モスト(リンゴワイン)、シュナップス(リンゴ焼酎)をつくり、楽しむ。しかし、専用果樹園で大量生産されるジュースの方が安いからと、在来種リンゴの木は放棄され、かつてどこの農家にもいた牛もいなくなり、草を刈ることもなくなった。農家の戸数も三分の二に減った。同州の動物の三分の一が絶滅の危機にあるように、このような景観が失われることは、多くの草花や生きものの棲み家が奪われることなのである。」(農文協「地域の再生」)

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 そこで草地を守るドイツ農業政策が重要課題として取り上げられてきているという。比べて考えれば、日本では草地の状況や植生はさらに悲惨な段階に来ていると思う。質的に劣る安価な物の大量生産が環境を劣化させ、破壊する。ドイツでも日本でも、このことに対抗する価値観を人びとが共有する必要があるのだ。

 列車に乗って窓から見ていると、放牧場の一角に、太陽光発電のパネルがずらりと並んでいる光景を何度か見た。家の屋根にパネルを敷いている家も見た。この風景は日本でもなじみになっている。

 途中で、あれっと思った光景がある。何十枚かパネルがずらりと斜めに設置されている。その下に羊たちが草を食んでいるではないか。小さな太陽光発電所であって、同時に羊の育つ牧場である。なるほど、このアイデアからは三つの得が生まれる。一つ、電力が得られる、二つ、羊が育つ、三つ、草刈りがいらず、草地が守られる。

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 田園地帯のなかに、風車が回っているのに気づく。風力発電所だ。数基の風車がゆっくり回っている。風車の数は多くはない。小規模な風力発電所だ。一基だけ回っていたり、四基、五基が回っているところもあった。

 ドイツは、福島第一原発事故後、脱原発政策を早めることにした。メルケル首相倫理委員会を発足させ、出来るだけ早く完全に原発を全部停止すべきだという結論をだした。それをもとに、政府2020年までに完全に原発を停止する新しい法律をつくった。「脱原発」政策によって、再生可能エネルギーも順調にのびている。政府エネルギー企業を支援し、小さなエネルギー企業が町や村にもできて、新エネルギーの普及を進めているのだ。

 日本ではどうか。

 森の民の森の国、ドイツと日本は今後どのような道を歩むだろうか。

2016-06-04

[] 古城の街からサイクリングに行く  古城の街からサイクリングに行くを含むブックマーク


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 ICE(新幹線)に乗って、途中で乗り換え、古い中世の地方城壁都市に行った。駅から展望すると、小高い丘の上に街があり、教会の尖った塔がいくつか空に伸びている。街の周囲は城壁が取り囲む。千年の時を経た歴史遺産都市だ。

 駅から城内まで30分ばかりだけれど、重い荷物を痛む足でゴロゴロ引いていくよりもと、タクシーを頼んだ。城門を入ると長い年月で擦り減った石畳の道が縦横に走っている。一辺が10センチ余りの石の立方体、さいころみたいな石だな、それを敷き詰めた道だからでこぼこしている。石の民家や木組みの家、教会の塔、店、公園、路地、古い歴史が降り積もっている。宿は城壁内にあった。完璧なまでの美しさというのが第一印象だった。現代に生きる中世都市も戦時中に連合国軍の爆撃を受け、城壁の一部や市街地は空爆によって破壊された。被害が完全破壊に至らなかったのは、歴史的重要遺跡の価値に造詣の深かったアメリカ軍司令官の想いがあったからだという。戦後この珠玉のような街は、多くの人びとの願望によって、街まるごと歴史的遺産と自然環境の復元がなされた。

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 歩けば歩くほど心に感じられてくるものがある。この美しさは何だろうか。「絵のように美しい」という常套的な表現は論外だ。絵よりも美しい風景は世界中に無限にある。この街の美しさは何だろう。千年の歴史、長い過去に生きた人たちの痕跡、破壊と創造、今を生きる人たちの暮らし、周囲を取り巻く森の木々、いろんな要素が集積して生まれたもの、それがこの美ではないかと思う。点ではなく面を、さらに言うなら、人が立つその場所を基点にした小宇宙がどこであってもそこが味わうべき美しさをたたえているところにしようという意志が創りだすもの、それが環境の美ではないか。

 ぼくらは旧市街のなかの古い宿に泊って歩き回った。どこからかパイプオルガンの音色が聞こえてきた。それに誘われて入ったところは教会だった。数人の観光客がいた。頭上高くにステンドグラスがある。オルガンの演奏は堂内の右上から聞こえてくる。二階に演奏者がいた。ぼくらは床に並んでいるたくさんの木の長椅子の一角に座って、演奏を聴いた。背後からのオルガンの曲を聴きながら前方上を見ると、キリスト像があった。音楽を聴きながらキリスト像を見つめていると、ふと頭に問いが浮かんだ。この国は今たくさんの難民を受け入れている。難民は更に今もヨーロッパをめざしている。世界中で戦火は絶えず、この今も人は死んでいる。

「主よ、なぜあなたはこのような世界になさったのですか」

 問いは、ぼくの戯れのつぶやきでもあった。返答が浮かんだ。

「それは、あなたがた人間が行なっていることです。その問いはあなた方人間自身への問いです」

 戯れの自問自答、人類はいつまで憎悪、戦乱、殺戮、飢餓の世をつづけるのか。

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 この街に来て二日目、ぼくは城壁の外の渓谷沿いにサイクリングしてみたいと思った。宿のパンフレットの地図にタウバー渓谷のハイキング道がぼくを引き付けた。廊下の掃除をしていた若者に貸自転車屋の場所を聞いて、一人でそこを訪ねることにした。ノルディックストックをつき、城門の外へ出る。城壁の周りは緑地帯の公園なっている。30分ほど歩くと、自動車道沿いに「Rad&Tat」の標識が見えた。店に入ると、自転車の調整をしている兄ちゃんがいた。4時間ほど借りたいと言うと、10ユーロだと言う。現金を払うと兄ちゃんが手招きするから後に付いて行った。裏庭の自転車置き場にはたくさんの自転車が並んでいた。兄ちゃんはぼくの身長を見て、選んだ一台をもってきた。大丈夫かねえ、ぼくはサドルにまたがってみた。が、サドルが高くて足が地面に着かない。

「デンジャラス‥‥」

 自転車ごと横に倒れて、走ってきた車が頭がい骨を粉砕する光景が脳裏をよぎった。何年か前、自転車を止めたときに足を下ろすと、そこが低くなっていたために足が地面に届かず、横転した経験がある。恐ろしい。

「もっとサドルの低いのがいい」

 ところが彼は「ない」という。

「チャイルド用は?」

 そう言うと、かれはまた並んでいる自転車の列を見に行って、一台を取り出してきた。またがるとこれはちょうど足も地面に着く。OK、これがいい。まずは試し乗り。ペダルをこいで走ってみた。すると、ペダルに乗せた足を逆回転気味にしたとたんにブレーキがかかった。

「あれ、これはどういうこっちゃ。」

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 これでは脚を静止したままの走行ができないではないか。

 「日本では、足をストップする、足をペダルに乗せたままスーイと走るよ」

 身ぶり手ぶりで説明すると、兄ちゃんは、

「いや、この自転車も、足を乗せたままスーイと走る」

と言う。どうも「足を逆回転させるとブレーキがかかる、両手でもブレーキをかけられる、足を乗せたままならスウと進む」、という意味のことを言ってるらしい。そこでもう一度広場を乗って一周してみた。ああ、なるほど、がってん。ペダルを少しでも逆回転させるとブレーキがかかるが、足を静止していればブレーキはかからない。日本でいつも乗っているママチャリ同様に、すいすいと走る。

 ぼくはにっこり笑って、OK、これで行くよと、地図をお兄ちゃんに見せて、このコースを走るよと言うと、一生懸命コースを教えてくれた。言葉はよく分からないが、最高の景色らしい。なんとなくコースの状態も理解できた。急なカーブ、急な下り、石橋がある、まあ行ってみるずら。手を振って出発した。お兄ちゃんは、「元気な日本人のじいさんだ」と思っているに違いない。

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 右に城壁を見ながら樹林の中を西に進む。道が細くなり、やがて明るい斜面のブドウ畑に入った。ワイン用のブドウは背丈が低い。手前に下りの道が見えたが、ここは判断のしどころ、どうするか迷っていると、後ろから一人のおばあさんがやってきた。おばあちゃん、教えて! 地図を見せて石橋はどこ? と聞くと、

「うしろのあの坂道を下りまっしょ」

 ありがとう、ニッコリ笑って少し戻り、急な坂を下る。両手のブレーキ足ブレーキをかけて、下って行ったら石橋があった。そこから展開する風景はなんともはや、美の極致、心の深呼吸をして体の深呼吸をして、すいすいサイクリングだ。ひざの痛みはどこかへ飛んでしまった。もう足ブレーキは気にならない。自由自在だ。川沿いに進む。小川は樹木におおわれ小鳥が鳴く。数軒の瀟洒な農家が現れ、窓辺に花が咲く。また進んでいくと牧草地が現れた。そこには色とりどりの無数の花が咲く。クロウタドリも鳴いている。ちょっと座りたいなと思っていると木のベンチがあった。川をのぞくとマスらしき魚影が見える。ところどころ川に石橋がかかっている。誰もいないから、ちょっと木立の下で用を足した。街の中なら探さなければならないが、それは無用。また農家が現れ、水車が回っている。直径2メートルほどの水車は粉ひきに今も使っているのだろうか、苔が生えているが回転している。馬のいる牧場もあった。牛のいる牧場もあった。羊のいる牧場、アルパカのいる牧場もあった。コースの標識は小さな札で、分岐点にある。お花畑の花はいろいろ変化する。右手奥の方に城壁と塔が見える。小川の水を浄化しているのか、水の処理場があった。この小川にも下水が流入しているのだろうか。数軒の集落のなかに緑したたる美しい村の墓地があった。新緑の木に囲まれ、墓石の間にも木や花がある。こんもり新しい土盛りがあり、その上に花束が置かれている。最近亡くなられた人の墓だろう。今も土葬が行なわれている。

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 どんどん一本道を行った。道が分岐するとそこの標識に従った。けれどとうとう標識が見られなくなった。どこかで道を間違えたか。もうこの辺りから、方向転換しようと地図を見ていると、農家から自転車に乗って出てきたおじさんが、声をかけてきた。おじさんは、この道を行くといいといろいろ話してくれるが、よく分からない。「私に付いてきなさい」と言ったけど、大丈夫ですよ、わたしは土地勘がありますから、ミツバチマーヤですよ、と心に呟きながら、出発していったおじさんの後からゆっくり行った。おじさんは、たちまち森の道のはるか向こうを走って消えていった。

 12時半ごろ、サイクリングを終えて自転車屋へ戻ってきた。兄ちゃんに、「グーッド」というと、ニッコリ笑い、自転車の鍵はそこの台に置いといてと言って、作業を続けていた。

2016-06-02

[] 歩く文化と街道の国  歩く文化と街道の国を含むブックマーク



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 未知への旅は、先入観・固定観念をどんでん返しにする。元来旅というものはそういうものだろう。

 敗戦後ヨーロッパ随一の経済発展をとげた工業国という頭の中のこの国の姿と、今目の前に広がる事実とは、まったく違った。そこは森の国、古い歴史を刻む街道の国だった。

 昔から続いてきた歴史的遺産の街や森、美しい風景をつないだ長距離にわたる帯が「街道」と名付けられ、この国を覆っている。自然と歴史遺産を守り復元してきた人びとの、我が祖国の美を讃える愛の結晶でもある。他国の観光客にも有名なのは、

 ゲーテ街道、全長400キロ。

 古城街道、全長300キロ。

 アルペン街道、全長450キロ。

 メルヘン街道、全長600キロ。

 ファンタスティック街道、全長400キロ。

 エリカ街道、全長300キロ。

 ロマンチック街道、全長350キロ。

  これらの距離、相当なものである。実際にこの街道を徒歩で歩くことは困難をきわめる。ちなみに日本での都市間で言えば、東京大阪間は、約500キロである。

 上記の街道は、ドイツ政府や自治体が設定した「休暇街道」と呼ばれている総数150ルート以上ある街道の一部である。中には「アスパラガス街道」「バーデンワイン街道」「ドイツおもちゃ街道」というのもある。個人旅行者向けにガイドを整えた「個人の休暇を楽しむ」ために設定されたこれらの街道は、「家の中に引っ込んでいないで太陽の下に出て行こう」「街や森を歩き、自然の中に溶け込もう」という文化から生まれた。そういう願い、意志を人びとが共有しているということだ。ドイツ平原にはいたるところに森があり、南部ヨーロッパアルプスにつらなる。今も、アルプスには雪が積もっている。

 この国では、土日休日は多くの店が休業する。会社員も金曜日の午後4時になるとビールを飲み始め、さっさと帰宅する。5月になると、街のビアガーデンは大入り満員だ。7月になると、学校は夏休みになる。長い長い夏休みだ。子どもたちも、学生たちも、山や森へワンダラーの旅に出る。

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 「ワンダーフォーゲル」運動、すなわち「渡り鳥」運動はドイツが発祥の地だ。中世ドイツの学生たちがすぐれた先生を求めて、あちこちの大学を渡り歩いたことからこの言葉が生まれたという。学生たちは背中に大きな籠を背負い、必要なもの一式を入れて、野宿しながら徒歩旅行をした。それにヒントを得て、1895年ギムナジウム(中等学校)の生徒たちは、ギムナジウム無味乾燥な授業に抗議し、血の通った生きた学びを求めて徒歩旅行運動を始める。旅をしながら各地の歴史遺産や文化遺産をめぐり、生物や鉱物、地質を勉強し、産業を学び、民謡を歌い、フォークダンスをして、事実・現物・現地の人に触れて若き情熱を燃やした。1897年、「ワンダーフォーゲル」と名付けられた運動は国の全土に広がり、学生たちは森を歩き、野営をし、山に登った。広がる運動は教育思想の内実を変えていった。ユースホステルはそこから生まれた。この運動が日本に入ってきたのは1930年代、そして第二次世界大戦に突入し、日本でもドイツでも運動はその間断絶した。戦後、運動は復活し日本の大学で活発に行なわれるようになった。

 1960年ごろ、ワンゲル部も山岳部と同じように山を登攀した。山岳部とワンダーフォーゲル部の違いを、ひとりのワンゲル部の男に聞くと、彼はこう説明した。

「山岳部はより高く険しく、点をめざし線を行く。ワンゲル部は、高きも低きも含め、より広く面を行く」

 そしてどちらも、より困難な、未知なる自然にチャレンジし、より美しき憧憬を追求した。

 ドイツには、高等職業能力資格認定制度のマイスター制度がある。マイスター資格は1年以上の実務経験を経て、ファッハシューレ(高等職業学校)で学び、修了資格を得る。修了年数はフルタイムの場合は2年間。

 以前、ドイツの若者が大工マイスター資格を得る過程を取材したドキュメンタリーをTVで見たことがある。大工マイスターを目指す若者が、2年間の実務経験を積む徒歩の旅に出る。定められた最小限の持ち物だけを背にし、たった一人野を歩き森を抜け、村から村へと渡り歩き、「何か仕事させていただけませんか」と家々を訪ねる。「家のここを修繕してくれ」「小屋を建ててくれ」など、何らかの大工の仕事を得ると彼はそれを完成させ、施主の実習証明といくらかの賃金をもらって次の村に向かう。こうして二年間の旅で必要な力をつけた若者は、マイスターとして資格を得る。この「武者修行」は、技術の修練であり、社会人として人間としての学びでもあった。社会が若者を一人前のマイスター、社会人に育てていくこの仕組みは、教育の重要な一つの姿を示して、感動的な映像だった。

 「ワンダーフォーゲル」運動の原点精神と通じている。

2016-05-31

[] アップルワインの酒場  アップルワインの酒場を含むブックマーク


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 日曜日の住宅街は、ことのほか静かだ。マイカーは歩道にくっつくように一列に整然と駐車している。そのなかにおいしい田舎料理が食べられる店があるらしい。リンゴワインソーセージがおいしい店は、どこかいな。店の看板というものはなく、小さな標識があって、ここが店だと、家内が先に入っていった。庭を突っ切ってドアを開けてみると、どひゃあ、百人ほどの客がテーブルを囲んでいる。日中から、アップルワインビールを飲んで、ワイワイガヤガヤにぎやかだ。家族みんなで囲むテーブル、友人たちで談論するテーブル。見渡しても空席はない。部屋を通り抜け裏庭に出ると、簡易の屋根をふいたところがあり、そこにも十数のテーブルがある。座れるテーブルが一つあった。手作りのような素朴な板の長テーブルだ。一抱えもあるようなプラタナスが、どかんと二つのテーブルの間に生えていて、屋根を突き抜けて空に枝を広げている。枝から噴き出た新芽、幹の途中からも芽が出ている。何十年かここに生えて幹を太らせてきたから、幹がテーブルの板に食い込んでいる。それでもテーブルを動かさず、木を切らなかった。店の歴史がここにも潜んでいる。

 ぼくら夫婦の前の席に、ひげづらの老人が一人座った。ぼくらはリンゴワインソーセージジャガイモの料理を頼んだ。注文を取りに来た店のおじさんは、大忙しだ。それでもニコニコ顔で威勢がいい。老人も何かを注文した。彼は白いあごひげに、眼鏡をかけ、どーんと太っている。待つことしばし、老人のところへ先に料理が運ばれてきた。

「ウォー、ビッグ」

 思わずぼくは叫んだ。皿に大きな肉の塊だ。そしてジョッキに入ったアップルワイン。ぼくの声に彼はこちらを見て、

「ビーッグ」

 両手を広げて、わたしの体はビッグだと言ってニコッと笑った。

「ワハハハ」

 家内と二人大笑いすると、彼はドッジボールよりも大きな肉塊にフォークを入れて、

「ビッグボーン」

と言った。またもや

「ワッハッハ」

 彼は肉の中の骨が大きいのだと言う。なるほど骨らしいものが見える。彼は肉を食べ、酢漬け野菜を食べ、アップルワインをぐいっとやる。そこへわれわれの注文したのがやってきた。ジョッキに入ったアップルワイン、ほんのり甘く軽くておいしい。ソーセージの国のソーセージもうまい。彼は肉を一人でもくもく食べている。一人暮らしなのか、家族はいないのか。この国にも日本のような高齢化社会が進んでいるのか。疑問が湧く。

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 彼の背後に大きな壁画がある。牧場の柵にもたれて、読書をしている太った老人、伸ばした足の爪先に小鳥が止まっている。老人は眼鏡をかけ、白いあごひげをはやしている。この絵、じいちゃんそっくりだよ。ぼくは彼にそう言おうと、「ダス イスト ジイ」と、口にしかけて、言い淀み、口をつぐんだ。

 ぼくらもアップルワインをクイクイ飲んで、ソーセージを食べる。

ワインおいしい。ソーセージ、おいしい」

 彼に言うと、うなずいた。

「あんたも相当いい年だな、わしより年いってるな」

 彼はそう思っているかも、そんな気がした。彼はこの店に来るのは日曜日の楽しみなのかもしれない。

 ぼくらはほろ酔い加減でいい気分になった。両手にぼくはノルディックストックをついて、電車に乗らず、新緑の風に吹かれ川を渡って、一時間ぐらいかけてホテルまで歩いて帰った。クロウタドリが、川沿いに作られた豊かな緑地帯の木のてっぺんで鳴いている。

 2016年のこの国の人口は8,270 万で、2011年より漸次増えている。高齢化率は2014年で21.25%、日本は25.78%。平均寿命は男性78.7 歳、女性83.4 歳(2015)。2030年にはこの国の高齢化率は29%に達すると見込まれている。その年、日本の高齢化率の推計値は31.8%。

 少子高齢化に対する危機感はこの国の社会全体の問題意識として国民の間で広く共有されているという。シリア難民を百万人近く受け入れたこの国。この国に定住する移民が、これから果たす役割が重要になってくるだろう。今の移民受け入れ方針を変えなければ、2060年には移民の占める割合は人口の9%となるという。

2016-05-30

[]  森の国の春   森の国の春を含むブックマーク


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SPRING、

北の国の

春、五月、

長い冬の眠りから覚めて、

大地から湧きあがる泉(SPRING)、

バネ(SPRING)のごとく跳ねあがり、

木々は芽吹き、花咲く。

 まったく予想イメージをはるかに超えた。この壮大な平原の森、聞きしに勝るここは森の民の森の国だ。

 機は果てしなく広がる森のなかの空港に着陸した。昔、青年時代、モスクワ空港に着いた時は、シラカバ林が滑走路を取り巻いていて、北アルプスで親しんできた白い幹のお出迎えに胸の高鳴る思いがしたものだが、今降り立ったこの大地は、濃緑の針葉樹と浅黄を交えた新緑の広葉樹が深々とあふれんばかりの森だった。都市に通じる高速道路も森の道だった。タクシーのドライバーが、途中の森の中に人や車が集まっているところを指さして、「フォレストのフェスティバルが開かれているよ。店も出ているよ」と言った。三十年戦争(1618~1648)や第一次・第二次世界大戦などの森林破壊は過酷だったが、樹木を愛するこの国の人々は営々と森を再生してきた。森なくしては生きられないゲルマンの民族は大平原のいたるところに森をつくり、森を歩き、都会も村も家々も樹林のマントに包んだ。木々は梢高く、自由に天を目指しうっそうと茂る。ほとんど広葉樹で、奥の方にモミやトウヒなどの針葉樹も見えた。木の種類の比率は広葉樹が7割ぐらいに感じられた。

 街に入ると、植える空間のあるところには樹が優先して植えられ、街路樹は誇らかに茂り花が咲く。ライラック、マロニエが咲き、木と花は街を柔らかく豊かに包んでいた。長い冬が過ぎて待っていた春、五月よ、五月。

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 ハイネはこんな詩もつくった。


   つぼみ ひらく

   妙なる五月

   こころにも

   恋ほころびぬ


   鳥歌う

   妙なる五月

   よき人に

   思い語りぬ

       (井上正蔵訳)



 長くこの森の国に暮らした小塩節は書いていた。

「木々の花がいっせいに咲く。リンゴ、、アンズ、桃、チェリー、スモモ、洋ナシの花が、全国土でいちどきに咲く。ありとあらゆる花が、大地いっぱいにそろって咲き匂う。ぼだい樹の白い花には、蜜蜂が飛び交う。木々の枝がしなうほどに咲く花が、どの一輪も明確で、さわやかな存在なのだ。ああ、これは日本の信州と同じだ、と私はいつも心に叫ぶ。それは木や草だけではない。そこに住み育ち働いて死んでいく人びとの、生全体のあり方にも通じているのではないか。人間一人ひとりの自立した個性、意志、自己表現。欧州アルプスの北の国々で求められるこういう人間性の価値は、日本人一般にはなかなか求めがたい。それが日本でもいつの日か自然に育つ時が来るだろうか。」

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 街の広場にマイバウム(五月の樹、メイポール)と呼ばれる樹の柱が、高々と立てられ飾られていた。それはヨーロッパ五月祭古代ローマの祭に由来する、豊穣を祈り春の訪れを祝う祭りだという。青空の下、マイバウムを囲むように、野外のビヤガーデンがにぎわっていた。昼の日中、春を喜び讃えて、人びとはビールを傾ける。

マイバウムは、信州諏訪の御柱を連想させた。八が岳からモミの大木を伐り出して、神社に立てる、御柱祭も春の祭りだった。

まさとまさと 2016/06/06 20:35 なんと素晴らしい旅行記でしょう。その場に身を置いて味わえるその感覚、読んでいて感動します。
体調は大丈夫ですか。また新しい活動が生まれそうですね。

michimasa1937michimasa1937 2016/06/07 08:39 往復の飛行機がたいへん疲れますが、やはり旅はいいですね。旅の途中で一人の日本人に会ったのですが、その人はたぶん60代、仕事から解放されて、そのときすでにドイツで4週間、気ままな旅をしていました。宿はいちばん安い方法でとり、食事もお弁当を食べて、列車はどれだけ乗ってもどこで降りてもいいというパスを使って、時間に制約されずに旅をしていました。自由に行きたい所へ足を向ける、そういう旅をマートさんぜひ……。

2016-05-28

[] 人間のいちばん悲しい誤り  人間のいちばん悲しい誤りを含むブックマーク



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旅をしてきた。そこは森の国だった。その地の人、ヘルマン・ヘッセはこんな詩を詠んだ。



        旅の秘術

  

     あてどないさすらいは 青春の喜びだ。

     青春とともに その喜びも色あせた。

     それ以来、目あてと意志とを自覚すると、

     私はその場を去った。


     ただ目的だけをせわしく求める目には、

     さすらいの甘さは ついに味わわれない。

     森も流れも、

     あらゆる途上で待っている一切の壮観も、

     閉ざされたままだ。


     これからは、

     さらに旅を味得しなければならない。

     瞬間の汚れない輝きが、

     あこがれの星の前でも、

     薄れることのないように。

     

     旅の秘術は、

     世界の輪舞のなかに加わって

     ともに動き、

     憩うているときにも、

     愛する暗いかなたへ向かって、

     途上にあることだ。



 同じかの国の詩人ハイネは、「歌の本」の序にこんなことを書いた。

 

  おもえば、人間のいちばん悲しい誤りは、

  自然がこころよく恵んでくれた賜物を、愚かにも見損ない、

  かえって自分の手に届きそうもない財宝を、

  もっとも貴重と思いこむことです。

  大地のふところにしっかり抱かれている宝石や、

  海の底に奥底にかくされている真珠を、

  人間はこのうえもない宝と思うものですが、

  もしも自然が、

  小石や貝殻のように、

  それらを人間の足元に置いたとすれば、

  ほとんど一顧もはらわないでしょう。



 森の国から帰ってくると、一本の電話がかかってきた。電話の向こうの声が答えた。

「五年前からこの学校で校庭管理の仕事をしてきた人たちは、『創立当初からこの学校にはビオトープを作るという考えはなかった、今もそれを受け継ぎ、落ち葉を落とさず草もはやさず、きれいな校庭にする、ビオトープはつくれない』と言うんです。今の段階では教職員のなかでも意見が一致せず植樹もできません」。

 学校林、ビオトープをつくろうと市民が動いてきた。しかし教職員の理解は得られず、子どもたちの生活空間に、命が集う自然空間をつくること、ささやかな植樹もできないと言う。一年前からやってきた活動であったが、出発点から教職員の共通認識を得るための協議が欠落し、意志疎通が断絶していたのだ。学校管理職のリーダーシップが働いていなかった。

 ビオトープというのはドイツ語で生息場所の意味。小鳥や昆虫がやってくる生命が生まれる循環の場所。ぼくが以前「学校砂漠」だと言ったその校庭に、今年は昆虫の集まってくる小さな林が誕生する予定だった。それがうまく進まず、逆に、ただでさえ少ないその学校の何本かの空高くそびえるはずのケヤキの木々も、電柱のようにばっさり上部の枝すべてを伐り払われれていた。子どもたちの「安全」のために、葉や枝が落ちないようにするためだという。「安全」と「管理」の名目が優先する学校。

 森の国から帰ってきて、これが最初に襲いかかってきた落胆だった。

 ヘッセは詠った。



          短く伐られたカシの木


     カシの樹よ、

     お前はなんと切り詰められたことよ!

     なんとお前は異様に奇妙に立っていることよ!

     お前はなんと度々苦しめられたことだろう!

     とうとうお前の中にあるものは反抗と意志だけになった。

     私もお前と同じように、切り詰められ、

     悩まされても、生活と絶縁せず、

     毎日、むごい仕打ちをさんざんなめながらも、

     光りに向かって額をあげるのだ。

     私の中にあった、やさしいもの、やわらないものを

     世間があざけって、息の根を止めてしまった。

     だが、私というものは金剛不壊だ。

     私は満足し、和解し、

     根気よく新しい葉を枝から出す。

     幾度引き裂かれても。

     そして、どんな悲しみにも逆らい、

     私は狂った世間を愛し続ける。






 

                

        

2016-05-10

[] こうなることが分かっていた道  こうなることが分かっていた道を含むブックマーク


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 土岐善麿の敗戦直後の歌。


    あなたは勝つものとおもってゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ


 老いたる妻が寂しげに言ったその言葉。「あなたは日本が勝つものと思っていましたか」。

 何の疑いもなく信じていたの? それとも疑いもしたの? 

 私は‥‥‥?、負けると思っていましたか。

 妻自身もまた問いにゆらめく。

 こうなってしまった。どうして気づかなかったのか。なぜ信じたのか。  

 「あなたは、日本がこうなると思っていましたか」

 今も問い続ける。

 こうなる道を歩んでこうなった。こうなる道を歩めばこうなることは明らかだった。明らかだったけれど、この道を歩んだ。なぜ?

 70年がたち、新たな問いが生まれる。

 問いはいくつもいくつも時を越えて生まれてくる。

 「あなたは世界がこうなると思っていましたか」

 こうなってしまった70年の巨大な痕跡が、日本を、世界を、覆っている。

 横たわっている巨大な足跡。

 その足跡を見ながら、また巨大な痕跡を残しつつ、懐疑の道を歩いている。



  三人(みたり)の子 国にささげて 哭(な)かざりし 母とふ人の 号泣を聞く

                     二上範子

 我が子三人を国にささげ、子らは戦死した。その時は泣かなかった母が、今声上げて泣く。

 そういう情況に至り、そのときはそういう情況に付き従うよりなかった。それはなんだったのか、なぜそうしたのか、なぜ子どもを失わなければならなかったのか、その死を悲しむことのできなかった自分とはなんだったのか。

 おびただしい悔恨の歴史を、今も歩んでいる。

 

 

2016-05-06

[] うらうらに照れる春日に雲雀あがり  うらうらに照れる春日に雲雀あがりを含むブックマーク


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 めずらしくヒバリを見た。この季節、水田に早苗が植えられ、麦が穂を出している。子どもの頃は、野に出るとヒバリのさえずりが聞こえ、春の野はヒバリの協演だった。ヒバリは麦畑に営巣していた。

 田淵行男が「安曇野挽歌」で、「ヒバリの声も聞こえない」と詠ったのは1980年ごろだが、ぼくが安曇野に来てヒバリの声を聞き、姿を確認したのは3回だけ。家内に聞くと何回もあるよと言う。最近見たヒバリは、粗起こししたままでまだ何も植えられていない、土がもこもことなった畑の中だった。細かくはばたき、畑から上に向かってホバリングしながら少しずつ上がっていくとき、ピーチュル,ピーチュルとさえずる。聞きなしでは、「リートル・リートル・ヒーイチブ・ヒーイチブ(利取る 利取る 日一分 日一分)」とか。なるほどそう聞くとそう聞こえる。ヒバリはお日様に金を貸したらお日様は返さない。そこでヒバリは、利子を一日一分取るよと、お日様に向かって飛びあがっていき催促する。

 ヒバリが少なくなったのは、ヒバリの営巣場所が激減したことと、餌の現象があるだろう。さらにこんな露出した畑に営巣すれば、上からカラストンビにねらわれる。卵を産んでもとられてしまう。ぼくは上空はるかに上っていくヒバリを、首が痛くなるまで見つめていた。いったいどこまで上るのだろう。ケシ粒の黒い点が青空に融けこんで見えなくなるまで見逃さないように見ていた。さえずりの声もかすかになり、風に飛んで聞こえなくなる。と、また黒点が現れ、「ツキニシュ ツキニシュ」(月二朱 月二朱)と叫んで、下りてきた。利息が下がったよ。なんとまあ、すごい下げよう。一朱は一分の四分の一。利息を下げないとお日様返してくれないからね。

 ヒバリが下りたところを野道から観察したが、ヒバリの姿も巣も見えない。ヒバリも考えている。土の塊の間、すきまに見えないように巣があるのだろう。土遁の術というわけか。粗起こしのこの畑、ヒバリ子育てを完了するまで、ヒナが育つまで、そのままにしておいてください。耕運機をかけないでください。土地の持ち主さん、頼みます。

 

   うらうらに照れる春日に雲雀あがり心悲しも一人し思へば

                    (万葉集巻十九)

 春の日がうらうらとして暮れなずみ、ひばりが鳴いている。もの悲しい心持ちは、歌でなければ取り除けない。そこでこの歌を作って、結ぼれた心を晴らしたという。

 大伴家持の歌である。

 5月2日に堀金小学校の校庭に行って、「ビオトープ研究会」として、植樹する予定の樹の位置を決めた。昆虫研究家の中田信好さんと昆虫研究をしている教員の加藤さんと三人で相談しながら杭を打った。ビオトープの近辺に学校林を作る作業の一環である。

 昆虫のやってくる次の樹を植える。

 ◆エノキ 高さ10メートルから20メートルになる。オオムラサキゴマダラチョウ、ヒオドシチョウ、シータテハ、アカボシゴマダラチョウがやってくる。

 ◆コナラ  雑木林の落葉高木。薪炭用に使われた樹。オオムラサキゴマダラチョウ、キタテハ、カブトムシクワガタがやってくる。

 ◆クヌギ  雑木林の落葉高木。薪炭用に使われた樹。オオムラサキゴマダラチョウ、キタテハ、カブトムシクワガタが集まってくる。

 ◆クロツバラ  落葉低木。クロウメモドキの仲間。果実は黒く熟す。ヤマキチョウ、スジボソヤマキチョウ、ミヤマカラスシジミが来る。

 ◆カラタチ  生け垣などにつくられる落葉低木。高さ3~5m。クロアゲハ、シロオビアゲハが来る。

 ◆キハダ  山に生える落葉高木。カラスアゲハが来る。

 ◆コクサギ  谷間の林に生えている落葉低木。高さ3メートル。カラスアゲハが来る。

 ◆サンショウ  低木。アゲハが来る。

2016-04-30

[] 「70年目のきけわだつみのこえ 『自由主義者』上原良司の特攻死をめぐって」  「70年目のきけわだつみのこえ 『自由主義者』上原良司の特攻死をめぐって」を含むブックマーク


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「あの人には二面性がある」とか、「あの人には裏表がある」とか言うときは、よくないという評価の気持ちを込めている。「二面性」のある人はよくない、「裏表」のある人は信用できない、一般的にはそういう見方がある。けれど、「二面性」とか「裏表」とか言うけれど、自分は一貫して同じ考えを持っていて、それを曲げないできたという人でも、何かがきっかけで考えや態度をころっと変えてしまうこともある。あることをきっかっけにして、それまで好感を持っていたのに、拒否感を抱いてしまうこともある。性格で人を見る、思想面で人を見る、感情面で人を見る、行動面で人を見る、人を見る時の見方は多面的だ。ある人の行動を見て腹を立てた。けれどその人の行動もその人の一面にすぎない。相手にも多面性があり、自分にも多面性がある。人間は多面的なもの、いろんな顔があり、いろんな考えや思いが頭の中にある。「君子は豹変す」という言葉のもともとの意味は、豹は、毛が生えかわると鮮やかさが一新するように、君子はあやまちを認めて考えを改めるものであり、そうすると面目を一新して別人のようになるということだった。それが今ではこの言葉は、ころころ態度や行動を変える、堅固な意志をもたない人間を批判する意味に使うようになった。ころころ変わるのも困るが、頑迷固陋な、人の意見に耳を傾けない「石部金吉金兜(いしべきんきちかなかぶと)」も困る。

 「季論21」春号に、「70年目のきけわだつみのこえ 『自由主義者』上原良司の特攻死をめぐって」という論考が掲載された。筆者は松本市在住の手塚英男氏。

 上原良司の遺書は、戦没学徒の遺稿集「きけわだつみのこえ」の冒頭に収められている。安曇野池田町で生まれ穂高町で育った上原良司は、慶応大学進学後、学徒動員で特攻隊員となり、出撃して死んだ。その上原の思想と生き方をたどり、自由主義者としての上原と、国に殉ずる愛国者としての上原の二面性を筆者は考察して、これまでの上原良司像を再検証している。

 戦後、池田町の丘の上には、上原良司を顕彰する石のモニュメントが建てられた。そこには上原の、出撃前に遺した所感の一節が彫られている。

     きけ わだつみのこえ

   自由の勝利は

   明白な事だと思ひます   

   明日は自由主義者

   一人この世から   

   去っていきます

   唯願はくば愛する日本を

   偉大たらしめん事を

   国民の方々に

   お願ひするのみです

 手塚英男氏は、このモニュメントについて、池田町戦没者から見た複雑な思いを述べている。

 池田町は、人口1万人ほどの町だった。そこから戦地へ出ていって死んでいったのは390余人、帰還者は474人。満蒙開拓団員として参加した237人のうち、死者は92人、未帰還・不明9人。では、これらの死者の死はなんだったのか。なぜ上原良司とともに語り継がれてこなかったのか。モニュメントを見ると、顕彰されたものと忘却されていくものとの落差を感じる。

 そして手塚英男氏は、上原良司のなかの裂かれた思いを追っている。

 上原良司は学徒動員で入隊しすすんで幹部候補生となる。英米への戦争の詔勅が下ったとき、上原良司は歓声を上げ、東条首相演説に心を打たれたことを記している。そのような愛国の心情あふれる上原の一面と、学生として学んできたイタリア歴史学者反ファシズム思想家クローチェの自由主義を信奉し、人間の自由と尊厳を主張した一面と、この二面の違いをどう見るか。

 なぜ彼は幹部候補の道を拒み、ファシズムに抵抗し、生き方としての自由主義を貫けなかったのか。貫けなかったのか、それとも自らの意志で貫かなかったのか。

 カッパ・ブックス版「きけわだつみのこえ」のあとがきの文章を紹介して、手塚英男氏は、最高学府の学生たちの戦死とともにもう一つの戦死をとらえてほしいと提起する。

 「こちらだけの死者だけでなく、あちら側の無数の死者に、想像力をめぐらしてほしい。同じ日本兵のなかの農民兵士や一般兵士、非戦闘員でありながら殺された一般住民とのかかわりを想い起してほしい。アジアの人びとへの加害の意識や戦争への抵抗の姿勢が乏しいのはなぜか考えてほしい。」

 そして手塚英男氏は、

「良司が語られるとき、この問題提起がどれだけ共有され深められたのでしょうか。」

と問いかけ、良司の再検証を行なうための論点を述べている。

1、地域の視座からの良司論を。

 たとえば良司の故郷の次の人たち。

 満蒙開拓青少年義勇軍に送りだされて現地召集され、19歳で戦死した矢口亀弥。

 瀕死の病床にある妻と、子ども二人を残して召集され、ソ満国境で戦死した小林幸雄34歳。

 一家あげて満蒙開拓に送りだされて現地召集され、シベリア捕虜収容所で死亡した37歳宮下守男と、栄養失調で死んでいった残された妻と4人の子ども

 地域に忘却されているこの人たちの不条理を明らかにし、地域の戦争史のなかに良司を置くことで、今まで見えなかった本質が見えてくるのではないか。

2、美辞で形容しない良司論を。

 自己犠牲をほめたたえ、美化しロマン化することでなく、良司の死を冷静に語られるべきではないか。

3、自爆死を意味ある死にしない良司論を。

 良司の死を厳格に語ってこそ戦争の不条理を徹底的に告発できるのではないか。

4、「祖国・家族」を問い直す良司論を。

 良司の日記や遺書の中に「祖国」がしばしば登場する。あの時代、祖国や家族はどんな意味を持たされ、特攻兵を呪縛したのだろうか。その再吟味なしに、祖国・家族と良司を結びつけて論じることはできない。

5、特攻兵を相対的にとらえた良司論を。

 抵抗の歴史を併せて語らないと、あの時代を生きた若者を語ることはできない。

 旧制松本高校には、貧困や抑圧や、戦争に反対する学生たちの抵抗の歴史があった。治安維持法弾圧・逮捕された、五次にわたる「松高事件」があった。獄中死した布施杜夫、塩原昇などがいる。布施杜夫、塩原昇の死が伝えられたとき、教室に入ってきたドイツ文学者手塚富雄教授は無言のまま黒板に、

   すくすくとのびしタンポポ折れしいたましき

と書いた。松高出身の作家、辻邦生はひとり孤独に出征を忌避した。

 手塚英男氏はこの論考の最後に、

「強制と呼応」「抵抗と非抵抗」「諦念と受容」、このテーマから良司を読み解いていく必要があるのではないかと提起している。

 なぜ、今?

 それは「呼応するか、しないか」、「抵抗するか、しないか」、「あきらめるか、あきらめないか」、

 この二面の葛藤、対立が激しくなりつつある現代であるからだ。この国、この社会、この世界は、問い続けることを求めている。

 

2016-04-24

[] 光る放射線を浴び続ける  光る放射線を浴び続けるを含むブックマーク



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 海三郎くんから「季論21」春号が送られてきた。新船君、苦労してよくやってるなあ。

 最初のところに写真ページがあるのだが、そこに「光る放射能」と題したフクシマからの映像が載せられている。撮影者は森住卓

 まず1ページ。保育園の庭に落ちていた園児の上履きの光る写真。真っ黒な中に上履きが紫色に浮かび上がっている。足の形をしていて、そのなかに光の粒が点在する。指が当たるところも光っている。2013年2月、浪江町で採取して撮影。

 2ページ。帽子のつば。2013年3月、浪江町での撮影。暗がりの中に緑色に浮かび上がり、小さな異なる大きさの白っぽい光の粒が輝いている。

 3ページ。酪農家の志賀さんが使っていたゴム引きの手袋。これは飯館村で2013年10月採取、とある。真っ黒ななかに白っぽい手形のようなのが浮かび、そのなかにあちこちたくさんの光の粒がある。

 4ページ。道具のヘラとペンチ。ペンチはあちこちに白い光の点がある。ヘラは周辺部分が白く燦然と輝いている。ヘラは浪江町、ペンチは大熊町で採取。 

 5ページ。カエル。両腕両脚を広げた形。頭とお腹のあたりが白っぽく、特に一点、お腹の右側が電気を付けたように明るい。放射性物質を食べた胃袋の辺りだろうか。2014年6月、飯館村で採取して撮影。

 6ページ。コシアブラの幼木と根っこ。飯館村で採取。コシアブラは新芽をてんぷらなどにして食べるとおいしい春の木だ。葉っぱの一点に光の粒。根っこはほとんど全部光っている。

 7ページ。子どもサッカーボール。浪江町保育園の庭で採取。六角形のサッカーボールの模様に、無数の光の粒つぶが光を放っている。

 8ページ。「絆」の文字を彫った石碑。文字がうっすら白く浮かび上がっている。浪江町2014年5月。

 撮影者の森住卓氏が書いている。

 「白くキラキラ光る斑点は放射性物質セシウムなどの微粒子が物体に付着し放射線を出している様子だ。目に見えず、音もなく、臭いもなく、味もなく、五感で感じることのできない放射線」を視覚化した。

 森住氏が、人っ子ひとりいなくなった原発の街、双葉町にたどり着いたのは、2011年3月13日午前だった。持っていた放射線計測機は針が振り切れてしまった。

 「チェルノブイリで、セミパラチンスク核実験場で、プルトニウム生産の核工場で、イラクの砂漠などの核汚染地取材で使っていた放射線計測機の針が振り切れてしまう。これほど高線量を出している土地を歩いたことがなかった。」

 放射線計測機があったから危険が分かった。それがなければ無自覚なままにどれほどの被曝をしたか分からない。身の毛がよだったという。

 福島県内の子ども甲状腺ガンは、疑いも含め160人を越えているが、国も県も公式には原発が原因であるとは言えないという。幼き子どもがそこにいて被曝したとして、そのことを立証しなければ事実はわからないと言われても、どうやってそれが証明できるというのか。

 おかしな世の中になってきた。

 トップがそう言うから、お上が決めたことだから、幹部の指示だから、仕方なくそうする。あっちでも、こっちでも、自分の頭で考え自分の意志で行動することを控える人が増えているのだろうか。不可思議な沈滞が広がっているように思える。ジャーナリズムまでも、政府の意向に沿うようになれば、もう終わり。

2016-04-22

[] 「無着成恭 ぼくの青春時代」<2>  「無着成恭 ぼくの青春時代」<2>を含むブックマーク


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 人生を通して、ぼくは戦後の教育を体験してきた。たくさんの教師たちがぼくの人生を通り過ぎていった。戦後の自由な教育改革の中から生まれてきた創造的献身的な教師たちの数々の実践と情熱に共鳴し、一方で、戦前の体質を温存して生きる権力的教師たちや、自己保身と昇進にこだわり、研究と実践をないがしろにしている教師たちを慨嘆もしながら、遅々として進まないように見える日本の学校教育の真の姿はなんだろうかと、思いはいつも子どもたちの上に飛んだ。もっとも危惧するのは、学校の教員たちに、討議・討論と言えるもの、研究と言えるものが、日常的にどれだけ存在してきたかということだった。

 戦後70年、科学技術・工業技術は大きく進歩した。医学も進歩した。スポーツも次々と記録が更新した。そこには絶えざる研究と実践があり、成果が公になり、響き合い、切磋琢磨がなされてきた。では学校という世界はどうなのかと。

 「山びこ学校」の無着先生は、戦後の学校教育をつくる実践にあたって大切にしたのは、討議だった。そこでまず歴史的人物を研究することにした。教壇に立って間違いのない、自信のある授業をするためには、科学的に正しい人間の発展の歴史を身につける以外に方法はない、と論議され、その結果、歴史をいちばん簡単に身につける方法は、十五人の先生がみんな、足利尊氏なら足利尊氏を研究してきて、みんなで語り合い、足利尊氏という人物がなぜ歴史のうえに生まれてきたか、そのときの社会的な条件はどうだったか、などと吟味すれば面白いということになったのだ。山元中学校のこの教育研究会は、水曜会と名付けられた。

 無着先生は、水曜会で「東西ドイツ青年からの手紙、ぼくらはごめんだ」という本をテーマにして感想を述べた。その発表が、「人間の記録 無着成恭」のなかに収められている。

 「いちばん感じたことは、ヒットラーナチスに対して、徹底的に批判していないことではないかと思う。たしかにアメリカソビエトの現在のやり方に対する批判は痛快であるけれども、私たち日本人にとっては、歴史的な方向を見定めるために、ぜひ東条や軍国主義というものを全日本人が頭の中で洗ってみなければならないと思う。この本の中に、今ごろ、東条の軍閥ヒットラーにたいする批判がゆるされていたって、いったい、そんなもののどこが、言論の自由だというのですか?というところがありますが、このへんが日本とドイツとの決定的な違いではないかと思って読みました。やっぱり日本では、今ごろと言われるかもしれないけれど、東条や軍閥天皇を、批判できるようになったこと、そしてそれを徹底的にしてこそアメリカソビエトに対しても批判ができる、という段階なんではないかと思うのです。ただ、日本でたりないことは、新聞自身が自己批判をさけていることだと思います。新聞の今の調子は、戦争中から民主主義者だったというような顔つきで、東条の軍国主義批判していることです。新聞は頬かぶりしているのです。ここに日本の現在の問題があると思うのです。」

 無着がこう発表したことに対して、賛否の意見が出されたようだ。その本の次の箇所はみんな同感だと言ってくれたと無着が記していることからそれが伺える。ドイツ青年の手記の一部。

「君たちがなんの私心も党派色もなく、ただ人間として本心から平和を叫び、戦争反対をとなえたとしても、君たちは“赤の手先”というレッテルを貼られて、弾圧されてしまうのではないのでしょうか? かれらは、じつは、君たちを“赤の手先”だと思い込んでいるから弾圧するのではなくて、平和を叫ぶ人間や、戦争反対をとなえる人間を弾圧したいから、その口実を作るために、君たちに“赤の手先”などというレッテルを貼るのです。」

 この箇所に、先生たちはみんな「たしかにそうだなあ」と言う。水曜会が終わったのは午後六時半だった。

 水曜会で討議したテーマに、「盗みをなくすことができるかどうか」というのもあった。その討論も活発だったようだ。盗みはなぜ起きるのか、と考えていくと、十分に働くことのできる仕事がないという現実社会に議論が向かう。次に、その仕事に対する目的意識はどうなんだ、ということになった。仕事の価値を認識していなければ、仕事への情熱もわかないではないか。「おれは、この仕事をとおして、貢献しているんだ」という考え方になれば生き甲斐があり、仕事を愛することができる。では、そうなるにはどうすればいい? 議論はこうして延々と続き、発展して、とうとう盗みはなくなるというところまで行った。

 教師たちのこのような情熱が、子どもたちへの教育活動につながって、「山びこ学校」の実践となった。無着成恭はその後、明星学園の教師にもなる。そうしてその実践理論も変化進展し、「続山びこ学校」となって発表された。

 討議する、現実をつかまえる、問題意識を持つ、問題の核心をとらえる、解決を考える、このような話し合いを教師集団のなかに育てていく実践は、戦後の学校現場や民間教育研究会の重要な目的でもあった。教育科学研究会の実践、全国生活指導研究協議会の実践、仮設実験授業研究会の実践、生活綴方教育を継承する日本作文の会の実践、同和教育の実践など、何十何百の教育研究が萌えいずる若葉のごとく生まれ出てきた戦後、その情熱を今の日本の教師たちはどれだけ継承しいるだろうか。

 今の学校で、議論し、意見を出し合い、自分の考えと異なるものであってもまず「よく聴く」ということがどのように行なわれているだろうか。

2016-04-21

[] 「無着成恭 ぼくの青春時代」<1>  「無着成恭 ぼくの青春時代」<1>を含むブックマーク



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 日本図書センターが「人間の記録」というシリーズを出版している。一冊一人、その人の著述・自伝を集めたもので、田中正造から始まり、今で174巻目になるらしい。これはまたすごい。実に多彩な人物像が本人の記録で集大成されている。他者の評論はなく、丸ごとその人の文集になっている。今、ぼくはこのなかの「無着成恭 ぼくの青春時代」を読んでいる。僧侶として晩年を送る無着さんは、この現代をどう見ているか聞きたいものだが、あの戦時下を生き、戦後の日本の教育に大きな影響を与えた彼の思想と実践、生きざまに、今はとりわけ学ぶことがあるように思う。

 70年近くの年月を経て、今の学校教育はどれほどの深化をとげたのだろう。教育とは何だろう。

 1948年(昭和23)、山形県の山元村の中学校に赴任した青年教師、無着はそこで、あの「山びこ学校」の教育実践を行なう。その実践は学校という枠を突破して、村づくり地域づくり、日本の教育の在り方にも発展していった。

 昭和19年、彼は旧制山形中学校の、17歳の生徒だった。そのときの日記がこの本に収められている。中学生たちは、勤労動員で学校から飛行機製造工場へ働きに行っていた。

 昭和19年8月26日

 「今朝もまた予科練の入隊者があり、壮行式。軍人勅諭でなく、海ゆかばの歌と校歌で送ることになった。ゲートルを巻きながら、いやになってきた。何にいやになってきたかというと、その正体が自分でもつかめない。こんな風に働いているのがいやでもあるし、生きているのがいやなようでもあるし、とにかく、ああいやだいやだ、という感じである。それでも工場に行った。‥‥」

 昭和20年3月31日 夜に卒業式。生徒たちは校歌を歌って別れを惜しんだ。

 「夜、警戒警報のカバーをつけた薄暗い電灯の下で卒業式だった。『仰げば尊し』の歌は敵性をふくんでいるので歌わなかった。『君が代』も歌わなかった。歌ったのは校歌だけだった。

    ……

    ああわが紅顔未来の光り

    望みにあふれて日夜に進み

    業なるあした二つの肩に

    国家の運命雄々しくおわん

 ぐっとこみあげてきて歌い続けることができなかった。もう卒業なのだ。俺はダメだ。俺はダメな奴だ。そう思うと、涙がぽろぽろとこぼれてきた。卒業式が終わり暗い外に出たとき、俺が『お前と俺とは同期の桜‥‥』と低い声で歌った。それがみんなに伝わり、ぞろぞろ道を歩きながら大合唱になっていった。

  咲いた花なら散るのは覚悟

  見事散りましょ国のため」

 昭和20年8月15日 無着は山形師範学校に進学するが、そこでも戦争遂行の動員作業で、山に登って松根油を掘っていた。

 「正午に重大放送があるというので、午前中馬力をかけて松の根を掘り、山を下りた。ラジオ社務所にしかなかったので、一里の山道を飛ぶように走っていった。

 みんな静かに聞いたけど、なんのことかわからなかった。あとの説明を聞いているうちに戦争は負けて、終わったんだということがわかった。

 夜、馬鈴薯をゆでてもらって塩をつけて食べた。みんなものも言わずぼそぼそ食べた。海軍下士官が、『貴様ら、日本が負けてうれしいのか。腹を切れ、腹を切れ』と言って泣き喚いた。少しよっぱらっていた。」

 無着成恭山形師範学校二年、弁論大会の演説原稿が載っている。その中に次の文言があった。

 「‥‥ぼくたちの問題は二つになってくるわけです。一つは、日本は正しくなかったという前提に立って、何が正しくなかったのかということを明らかにするという問題です。もうひとつは、何が正しくなかったのかということをはっきりさせまいとしている人がいるということです。その人はいったい誰なのか。なぜ、何が正しくなかったのかということをはっきりさせまいとしているのか、という問題です。‥‥

 つまり、日本が戦争に負けたことによって、はじめて、日本人がほんとの意味で、『敵は幾万ありとても』と歌って戦わなければならない時代に入るのだというのがぼくの意見です。戦争中よりも、敗戦のときよりも、もっともっとつらい、しんぼう強さを要求する戦争が、ぼくたち日本の青年の上におおいかぶさってくるだろう、というのがぼくの意見なんです。」

 昭和23年、師範学校を出た無着は山元村の中学校に赴任した。

 教師としての無着は、生徒とともに生きながら、「なぜ」「どうして」の問いを発し続ける。現実を見ろ、現実はどうなっている、どうしてそうなっているのか、この問いかけが生徒の学びを深化させていった。

 日本が再軍備を始めたころ、無着先生は、村のダンゴ屋に入って、ダンゴ屋のおっかあと語り合う。おっかあの息子は、自衛隊の前身、警察予備隊に入った。仕方なしに入隊を認めた。けれども入ったまま帰ってこない。帰ってこずにアメリカのために死ぬようなことにならないか。おっかあが言う。

 「戦争のためなら、ただ一人だって殺したくない。かたきの子だって殺したくない。あとに残された人ば見てけろず」

 兵隊に行って、若い者たちが死んでいった。戦後の今また、ひとりであっても殺されるような戦争に行かせたくないし、敵をも殺したくない。おっかあの真情だ。

 無着は、村人たちの気持ちを証明する「幹部だけの軍隊」という小論にこんなことを書いている。

 「村には、戦争はコリゴリだという空気がみなぎっている。難儀をして育てた息子をだれのためだかわからないタマのマトにしてたまるもんか、という空気が充ちている。戦争に賛成する奴がまっさきに戦争に行って死ねばよい。戦争に賛成する奴にかぎって、戦争に行かない奴らだ。そんな空気がみなぎっている。それは役場に行って調べてみればまったく無理なことではないと分かるのである。たとえば山元村で大正10年に生まれた男の数は31人で6人の戦死。11年が37人生まれて10人の戦死。12年が23人生まれの9人戦死。割合で言えば、大正10年が2割、11年3割、12年4割、13年1割、14年1割5分、15年1割4分、の戦死となっている。そして、お嫁さんの方は、13年、14年、15年の生まれの娘さんの中に、いわゆる売れ残りというのがいちばん多く、3名、2名、4名、となっている。しかも各年を通じて、2名から4名の亭主戦死のための、出戻りがあるのである。そして今、お嫁さんになるのは、昭和4年から7年にかけて生まれた娘さんたちである。だから、戦争が始まれば、また何割かの娘さんがお嫁にも行けず、家でもじゃまにされ、首でもくくらねばならないということが始まるだろう。」

 

2016-04-15

[] 田淵行男記念館  田淵行男記念館を含むブックマーク


f:id:michimasa1937:20160322211324j:image:w360:left 先週の土曜日は田淵記念館の「百楽まつり」で、桜も満開だし、家内が、「きょうは、入場料もタダだよ。抹茶のおもてなしもあるよ」と言うから二人で行ってきた。去年から田淵さんとは縁ができていたことも行く気になった原因の一つである。田淵さんはもう故人だが、彼の写真は、ぼくが1960年前後のもっとも盛んに山に登っていた時、山岳雑誌「岳人」や「山と渓谷」のグラビアでよく見た。だから過去の写真家というイメージが強くて、安曇野に移住してきて10年になるが、田淵記念館の前の道を車で通ることはあっても中に入ることをしなかった。それが去年、「ビオトープ研究会」を地元で立ち上げてから、田淵行男が近づいてきた。「ビオトープ研究会」を立ち上げるきっかけは、地元の小学校の校庭が、木々の少ない砂漠のような状態であったことが数年前から気になっていたことにある。子どもたちに自然をとりもどしたい、昆虫や小鳥がやってくる学校林とビオトープを作りたい、そう思って研究会を立ち上げると、安曇野の昆虫や野草生態系のことがいろいろ分かってきた。そして田淵行男記念館を拠点にした昆虫研究の会員に出会うことになった。

 ぼくは田淵行男の伝記を読んだり、映像を見たりした。するとかねてからのぼくの危機認識に応えるかのように、日本の環境の激変とその危機をひたすら山野を歩いて観察し、写真にとり、スケッチした彼から教えられたのだった。f:id:michimasa1937:20160322201928j:image:w360:right 彼は昆虫の研究をしながら写真を撮った。特に山岳蝶の研究に大きな業績をあげていた。彼の描いた精密な写生画を見てみたい。それを一つの目的にして、「百楽まつり」に出かけた。

 木造の小さな記念館だった。一段低くなった土地に建てられ、その前面にこれも小さなワサビ田が作られていた。清らかな水が引き入れられ、ワサビの花が咲いていた。アメンボが一匹すいすい水面をすべっている。満開の桜の木の横から記念館まで、短い橋を渡る。

 お客さんが10人ほど、ワサビ畑と桜を眺めながらベンチに座って抹茶の接待を受け、静かに風景を眺めていた。席が空いたときにぼくらもそこに座った。一個の茶菓子とお薄が運ばれてきた。この日のために、準備をしてくれたご婦人だった。ユキヤナギも満開だ。

f:id:michimasa1937:20160322201604j:image:w360:left 田淵行男の愛用した古い写真機などが陳列されていた。念願の山岳蝶のスケッチ絵が掲げられていた。複製画だった。それにしても、よくぞここまでと思うほどの描きだようだった。

 ビデオを見る部屋があり、そこで田淵の人生と業績を見た。写真集「安曇野挽歌」が置いてあり、それはたくさんの人の手にとられたために、表紙はぼろぼろになりかけていた。その最初のページ、冒頭に、例の詩があった。


  雲雀の声も 聞こえてこない

  春肥えの匂いも 流れてこない

  蜜蜂の羽音も ひびいてこない

  春風が 挽歌の野面を吹きぬけていく

  白馬が 挽歌の野末に浮かんでいる


f:id:michimasa1937:20160322211342j:image:w360:right 壁に展示された写真を見ていくと、モノクロのなつかしい写真がいくつもあった。1950年から1960年ごろの、ぼくもかつて見てきた藁ぶき屋根の安曇野の村や田畑、人びと、そして山々。

 1955年、ぼくは大きなキスリングザックを背負い、富山から入って剣岳をめざした。ぼくは高校3年生だった。大学に入り1956年上高地から槍が岳、穂高へと縦走をした。そして同じ夏に、今は白馬駅と名を改めた四ツ谷駅から白馬岳の大雪渓を登り、白馬大池へ縦走した。

 そのころの写真、田淵行男さんもカメラをもち、キスリングザックを背負って山を歩いていたのだ。

 当時、麓の村々には、今ではもうどこにも見られない暮らしがあった。

会津マッチャン会津マッチャン 2016/04/17 21:21 信州を訪う度に、幾度も訪ねた記念館です。
安曇野挽歌は、ときどき広げています。
徐々に失われる安曇野の自然、それを嘆く田淵さんの思いが重なります。
まさに挽歌です。悲しくなります。

michimasa1937michimasa1937 2016/04/19 18:17 「安曇野挽歌」を持っておられるんですか。すごい。1冊、7500円じゃなかったですか。こういう大型写真集は、歴史の記録ですねえ。

会津マッチャン会津マッチャン 2016/04/20 09:13 「安曇野挽歌」は十数年前に古本で、定価より高く求めました。
「日本アルプスは15000円でした。「高山蝶」は古本でも桁違いの高嶺の花です。
山の絵本は「安曇野の蝶」座右に置きスケッチに驚嘆しています。
文庫本の「山の季節は」も名著で、あまりに安く(2003年刊、838円)て驚きでした。
、彼を思いながらいつも癒されています。

michimasa1937michimasa1937 2016/04/21 09:41 すごいですね。やっぱり貴重本になっているんですねえ。そのものが心のよりどころになる人にとっては、高額でも手にいれたくなるでしょうね。7年前、東京神保町の古書店街を歩いていると、一軒の店の前に積んである本の中に、臼井吉見の「安曇野」全巻を見つけました。それが3千円ほどの値段で、掘り出しもんも掘り出しもん、すぐさま購入して宝物を手に入れたようにほくほく持ち帰ったことがあります。以前は田淵行男への特別な想いを持っていなかったから、写真集にも思い入れがありませんでしたが、この頃は、その写真集への親近感や憧憬がぐぐっと近づいたように思います。