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吉田道昌の学舎 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-05-28

[] 旅  旅を含むブックマーク


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旅をしてきた。そこは森の国だった。その地の人、ヘルマン・ヘッセはこんな詩を詠んだ。



        旅の秘術

  

     あてどないさすらいは 青春の喜びだ。

     青春とともに その喜びも色あせた。

     それ以来、目あてと意志とを自覚すると、

     私はその場を去った。


     ただ目的だけをせわしく求める目には、

     さすらいの甘さは ついに味わわれない。

     森も流れも、

     あらゆる途上で待っている一切の壮観も、

     閉ざされたままだ。


     これからは、

     さらに旅を味得しなければならない。

     瞬間の汚れない輝きが、

     あこがれの星の前でも、

     薄れることのないように。

     

     旅の秘術は、

     世界の輪舞のなかに加わって

     ともに動き、

     憩うているときにも、

     愛する暗いかなたへ向かって、

     途上にあることだ。



 同じかの国の詩人ハイネは、「歌の本」の序にこんなことを書いた。

 

  おもえば、人間のいちばん悲しい誤りは、

  自然がこころよく恵んでくれた賜物を、愚かにも見損ない、

  かえって自分の手に届きそうもない財宝を、

  もっとも貴重と思いこむことです。

  大地のふところにしっかり抱かれている宝石や、

  海の底に奥底にかくされている真珠を、

  人間はこのうえもない宝と思うものですが、

  もしも自然が、

  小石や貝殻のように、

  それらを人間の足元に置いたとすれば、

  ほとんど一顧もはらわないでしょう。



 森の国から帰ってきて、ぼくは電話をかけた。電話の向こうの声が答えた。

「五年前からここで校庭管理の仕事をしてきた人たちは、創立当初からこの学校にはビオトープを作るという考えはなかった、今もそれを受け継ぎ、落ち葉を落とさず草もはやさず、きれいな校庭にする、と言うんです。今の段階では教職員のなかでも意見が一致せず植樹はできません」。

 教職員の理解は得られず、子どもたちの生活空間に、命が集う自然空間をつくること、ささやかな植樹もできないと言う。一年前からやってきた活動も、どこかで意志疎通が断絶していたのだ。ビオトープというのはドイツ語で生息場所の意味。小鳥や昆虫がやってくる生命が生まれる循環の場所。

 ただでさえ少ないその学校の何本かの木々のなかの、空高くそびえるはずのケヤキの木々も、電柱のようにばっさり上部の枝すべてを伐り払われれていた。子どもたちの安全のために、葉や枝が落ちないようにするためだという。

 森の国から帰ってきて、これが最初に襲いかかってきた落胆だった。

 ヘッセは詠った。



          短く伐られたカシの木


     カシの樹よ、

     お前はなんと切り詰められたことよ!

     なんとお前は異様に奇妙に立っていることよ!

     お前はなんと度々苦しめられたことだろう!

     とうとうお前の中にあるものは反抗と意志だけになった。

     私もお前と同じように、切り詰められ、

     悩まされても、生活と絶縁せず、

     毎日、むごい仕打ちをさんざんなめながらも、

     光りに向かって額をあげるのだ。

     私の中にあった、やさしいもの、やわらないものを

     世間があざけって、息の根を止めてしまった。

     だが、私というものは金剛不壊だ。

     私は満足し、和解し、

     根気よく新しい葉を枝から出す。

     幾度引き裂かれても。

     そして、どんな悲しみにも逆らい、

     私は狂った世間を愛し続ける。






 

                

        

2016-05-10

[] こうなることが分かっていた道  こうなることが分かっていた道を含むブックマーク


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 土岐善麿の敗戦直後の歌。


    あなたは勝つものとおもってゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ


 老いたる妻が寂しげに言ったその言葉。「あなたは日本が勝つものと思っていましたか」。

 何の疑いもなく信じていたの? それとも疑いもしたの? 

 私は‥‥‥?、負けると思っていましたか。

 妻自身もまた問いにゆらめく。

 こうなってしまった。どうして気づかなかったのか。なぜ信じたのか。  

 「あなたは、日本がこうなると思っていましたか」

 今も問い続ける。

 こうなる道を歩んでこうなった。こうなる道を歩めばこうなることは明らかだった。明らかだったけれど、この道を歩んだ。なぜ?

 70年がたち、新たな問いが生まれる。

 問いはいくつもいくつも時を越えて生まれてくる。

 「あなたは世界がこうなると思っていましたか」

 こうなってしまった70年の巨大な痕跡が、日本を、世界を、覆っている。

 横たわっている巨大な足跡。

 その足跡を見ながら、また巨大な痕跡を残しつつ、懐疑の道を歩いている。



  三人(みたり)の子 国にささげて 哭(な)かざりし 母とふ人の 号泣を聞く

                     二上範子

 我が子三人を国にささげ、子らは戦死した。その時は泣かなかった母が、今声上げて泣く。

 そういう情況に至り、そのときはそういう情況に付き従うよりなかった。それはなんだったのか、なぜそうしたのか、なぜ子どもを失わなければならなかったのか、その死を悲しむことのできなかった自分とはなんだったのか。

 おびただしい悔恨の歴史を、今も歩んでいる。

 

 

2016-05-06

[] うらうらに照れる春日に雲雀あがり  うらうらに照れる春日に雲雀あがりを含むブックマーク


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 めずらしくヒバリを見た。この季節、水田に早苗が植えられ、麦が穂を出している。子どもの頃は、野に出るとヒバリのさえずりが聞こえ、春の野はヒバリの協演だった。ヒバリは麦畑に営巣していた。

 田淵行男が「安曇野挽歌」で、「ヒバリの声も聞こえない」と詠ったのは1980年ごろだが、ぼくが安曇野に来てヒバリの声を聞き、姿を確認したのは3回だけ。家内に聞くと何回もあるよと言う。最近見たヒバリは、粗起こししたままでまだ何も植えられていない、土がもこもことなった畑の中だった。細かくはばたき、畑から上に向かってホバリングしながら少しずつ上がっていくとき、ピーチュル,ピーチュルとさえずる。聞きなしでは、「リートル・リートル・ヒーイチブ・ヒーイチブ(利取る 利取る 日一分 日一分)」とか。なるほどそう聞くとそう聞こえる。ヒバリはお日様に金を貸したらお日様は返さない。そこでヒバリは、利子を一日一分取るよと、お日様に向かって飛びあがっていき催促する。

 ヒバリが少なくなったのは、ヒバリの営巣場所が激減したことと、餌の現象があるだろう。さらにこんな露出した畑に営巣すれば、上からカラストンビにねらわれる。卵を産んでもとられてしまう。ぼくは上空はるかに上っていくヒバリを、首が痛くなるまで見つめていた。いったいどこまで上るのだろう。ケシ粒の黒い点が青空に融けこんで見えなくなるまで見逃さないように見ていた。さえずりの声もかすかになり、風に飛んで聞こえなくなる。と、また黒点が現れ、「ツキニシュ ツキニシュ」(月二朱 月二朱)と叫んで、下りてきた。利息が下がったよ。なんとまあ、すごい下げよう。一朱は一分の四分の一。利息を下げないとお日様返してくれないからね。

 ヒバリが下りたところを野道から観察したが、ヒバリの姿も巣も見えない。ヒバリも考えている。土の塊の間、すきまに見えないように巣があるのだろう。土遁の術というわけか。粗起こしのこの畑、ヒバリ子育てを完了するまで、ヒナが育つまで、そのままにしておいてください。耕運機をかけないでください。土地の持ち主さん、頼みます。

 

   うらうらに照れる春日に雲雀あがり心悲しも一人し思へば

                    (万葉集巻十九)

 春の日がうらうらとして暮れなずみ、ひばりが鳴いている。もの悲しい心持ちは、歌でなければ取り除けない。そこでこの歌を作って、結ぼれた心を晴らしたという。

 大伴家持の歌である。

 5月2日に堀金小学校の校庭に行って、「ビオトープ研究会」として、植樹する予定の樹の位置を決めた。昆虫研究家の中田信好さんと昆虫研究をしている教員の加藤さんと三人で相談しながら杭を打った。ビオトープの近辺に学校林を作る作業の一環である。

 昆虫のやってくる次の樹を植える。

 ◆エノキ 高さ10メートルから20メートルになる。オオムラサキゴマダラチョウ、ヒオドシチョウ、シータテハ、アカボシゴマダラチョウがやってくる。

 ◆コナラ  雑木林の落葉高木。薪炭用に使われた樹。オオムラサキゴマダラチョウ、キタテハ、カブトムシクワガタがやってくる。

 ◆クヌギ  雑木林の落葉高木。薪炭用に使われた樹。オオムラサキゴマダラチョウ、キタテハ、カブトムシクワガタが集まってくる。

 ◆クロツバラ  落葉低木。クロウメモドキの仲間。果実は黒く熟す。ヤマキチョウ、スジボソヤマキチョウ、ミヤマカラスシジミが来る。

 ◆カラタチ  生け垣などにつくられる落葉低木。高さ3~5m。クロアゲハ、シロオビアゲハが来る。

 ◆キハダ  山に生える落葉高木。カラスアゲハが来る。

 ◆コクサギ  谷間の林に生えている落葉低木。高さ3メートル。カラスアゲハが来る。

 ◆サンショウ  低木。アゲハが来る。

2016-04-30

[] 「70年目のきけわだつみのこえ 『自由主義者』上原良司の特攻死をめぐって」  「70年目のきけわだつみのこえ 『自由主義者』上原良司の特攻死をめぐって」を含むブックマーク


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「あの人には二面性がある」とか、「あの人には裏表がある」とか言うときは、よくないという評価の気持ちを込めている。「二面性」のある人はよくない、「裏表」のある人は信用できない、一般的にはそういう見方がある。けれど、「二面性」とか「裏表」とか言うけれど、自分は一貫して同じ考えを持っていて、それを曲げないできたという人でも、何かがきっかけで考えや態度をころっと変えてしまうこともある。あることをきっかっけにして、それまで好感を持っていたのに、拒否感を抱いてしまうこともある。性格で人を見る、思想面で人を見る、感情面で人を見る、行動面で人を見る、人を見る時の見方は多面的だ。ある人の行動を見て腹を立てた。けれどその人の行動もその人の一面にすぎない。相手にも多面性があり、自分にも多面性がある。人間は多面的なもの、いろんな顔があり、いろんな考えや思いが頭の中にある。「君子は豹変す」という言葉のもともとの意味は、豹は、毛が生えかわると鮮やかさが一新するように、君子はあやまちを認めて考えを改めるものであり、そうすると面目を一新して別人のようになるということだった。それが今ではこの言葉は、ころころ態度や行動を変える、堅固な意志をもたない人間を批判する意味に使うようになった。ころころ変わるのも困るが、頑迷固陋な、人の意見に耳を傾けない「石部金吉金兜(いしべきんきちかなかぶと)」も困る。

 「季論21」春号に、「70年目のきけわだつみのこえ 『自由主義者』上原良司の特攻死をめぐって」という論考が掲載された。筆者は松本市在住の手塚英男氏。

 上原良司の遺書は、戦没学徒の遺稿集「きけわだつみのこえ」の冒頭に収められている。安曇野池田町で生まれ穂高町で育った上原良司は、慶応大学進学後、学徒動員で特攻隊員となり、出撃して死んだ。その上原の思想と生き方をたどり、自由主義者としての上原と、国に殉ずる愛国者としての上原の二面性を筆者は考察して、これまでの上原良司像を再検証している。

 戦後、池田町の丘の上には、上原良司を顕彰する石のモニュメントが建てられた。そこには上原の、出撃前に遺した所感の一節が彫られている。

     きけ わだつみのこえ

   自由の勝利は

   明白な事だと思ひます   

   明日は自由主義者

   一人この世から   

   去っていきます

   唯願はくば愛する日本を

   偉大たらしめん事を

   国民の方々に

   お願ひするのみです

 手塚英男氏は、このモニュメントについて、池田町戦没者から見た複雑な思いを述べている。

 池田町は、人口1万人ほどの町だった。そこから戦地へ出ていって死んでいったのは390余人、帰還者は474人。満蒙開拓団員として参加した237人のうち、死者は92人、未帰還・不明9人。では、これらの死者の死はなんだったのか。なぜ上原良司とともに語り継がれてこなかったのか。モニュメントを見ると、顕彰されたものと忘却されていくものとの落差を感じる。

 そして手塚英男氏は、上原良司のなかの裂かれた思いを追っている。

 上原良司は学徒動員で入隊しすすんで幹部候補生となる。英米への戦争の詔勅が下ったとき、上原良司は歓声を上げ、東条首相演説に心を打たれたことを記している。そのような愛国の心情あふれる上原の一面と、学生として学んできたイタリア歴史学者反ファシズム思想家クローチェの自由主義を信奉し、人間の自由と尊厳を主張した一面と、この二面の違いをどう見るか。

 なぜ彼は幹部候補の道を拒み、ファシズムに抵抗し、生き方としての自由主義を貫けなかったのか。貫けなかったのか、それとも自らの意志で貫かなかったのか。

 カッパ・ブックス版「きけわだつみのこえ」のあとがきの文章を紹介して、手塚英男氏は、最高学府の学生たちの戦死とともにもう一つの戦死をとらえてほしいと提起する。

 「こちらだけの死者だけでなく、あちら側の無数の死者に、想像力をめぐらしてほしい。同じ日本兵のなかの農民兵士や一般兵士、非戦闘員でありながら殺された一般住民とのかかわりを想い起してほしい。アジアの人びとへの加害の意識や戦争への抵抗の姿勢が乏しいのはなぜか考えてほしい。」

 そして手塚英男氏は、

「良司が語られるとき、この問題提起がどれだけ共有され深められたのでしょうか。」

と問いかけ、良司の再検証を行なうための論点を述べている。

1、地域の視座からの良司論を。

 たとえば良司の故郷の次の人たち。

 満蒙開拓青少年義勇軍に送りだされて現地召集され、19歳で戦死した矢口亀弥。

 瀕死の病床にある妻と、子ども二人を残して召集され、ソ満国境で戦死した小林幸雄34歳。

 一家あげて満蒙開拓に送りだされて現地召集され、シベリア捕虜収容所で死亡した37歳宮下守男と、栄養失調で死んでいった残された妻と4人の子ども

 地域に忘却されているこの人たちの不条理を明らかにし、地域の戦争史のなかに良司を置くことで、今まで見えなかった本質が見えてくるのではないか。

2、美辞で形容しない良司論を。

 自己犠牲をほめたたえ、美化しロマン化することでなく、良司の死を冷静に語られるべきではないか。

3、自爆死を意味ある死にしない良司論を。

 良司の死を厳格に語ってこそ戦争の不条理を徹底的に告発できるのではないか。

4、「祖国・家族」を問い直す良司論を。

 良司の日記や遺書の中に「祖国」がしばしば登場する。あの時代、祖国や家族はどんな意味を持たされ、特攻兵を呪縛したのだろうか。その再吟味なしに、祖国・家族と良司を結びつけて論じることはできない。

5、特攻兵を相対的にとらえた良司論を。

 抵抗の歴史を併せて語らないと、あの時代を生きた若者を語ることはできない。

 旧制松本高校には、貧困や抑圧や、戦争に反対する学生たちの抵抗の歴史があった。治安維持法弾圧・逮捕された、五次にわたる「松高事件」があった。獄中死した布施杜夫、塩原昇などがいる。布施杜夫、塩原昇の死が伝えられたとき、教室に入ってきたドイツ文学者手塚富雄教授は無言のまま黒板に、

   すくすくとのびしタンポポ折れしいたましき

と書いた。松高出身の作家、辻邦生はひとり孤独に出征を忌避した。

 手塚英男氏はこの論考の最後に、

「強制と呼応」「抵抗と非抵抗」「諦念と受容」、このテーマから良司を読み解いていく必要があるのではないかと提起している。

 なぜ、今?

 それは「呼応するか、しないか」、「抵抗するか、しないか」、「あきらめるか、あきらめないか」、

 この二面の葛藤、対立が激しくなりつつある現代であるからだ。この国、この社会、この世界は、問い続けることを求めている。

 

2016-04-24

[] 光る放射線を浴び続ける  光る放射線を浴び続けるを含むブックマーク



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 海三郎くんから「季論21」春号が送られてきた。新船君、苦労してよくやってるなあ。

 最初のところに写真ページがあるのだが、そこに「光る放射能」と題したフクシマからの映像が載せられている。撮影者は森住卓

 まず1ページ。保育園の庭に落ちていた園児の上履きの光る写真。真っ黒な中に上履きが紫色に浮かび上がっている。足の形をしていて、そのなかに光の粒が点在する。指が当たるところも光っている。2013年2月、浪江町で採取して撮影。

 2ページ。帽子のつば。2013年3月、浪江町での撮影。暗がりの中に緑色に浮かび上がり、小さな異なる大きさの白っぽい光の粒が輝いている。

 3ページ。酪農家の志賀さんが使っていたゴム引きの手袋。これは飯館村で2013年10月採取、とある。真っ黒ななかに白っぽい手形のようなのが浮かび、そのなかにあちこちたくさんの光の粒がある。

 4ページ。道具のヘラとペンチ。ペンチはあちこちに白い光の点がある。ヘラは周辺部分が白く燦然と輝いている。ヘラは浪江町、ペンチは大熊町で採取。 

 5ページ。カエル。両腕両脚を広げた形。頭とお腹のあたりが白っぽく、特に一点、お腹の右側が電気を付けたように明るい。放射性物質を食べた胃袋の辺りだろうか。2014年6月、飯館村で採取して撮影。

 6ページ。コシアブラの幼木と根っこ。飯館村で採取。コシアブラは新芽をてんぷらなどにして食べるとおいしい春の木だ。葉っぱの一点に光の粒。根っこはほとんど全部光っている。

 7ページ。子どもサッカーボール。浪江町保育園の庭で採取。六角形のサッカーボールの模様に、無数の光の粒つぶが光を放っている。

 8ページ。「絆」の文字を彫った石碑。文字がうっすら白く浮かび上がっている。浪江町2014年5月。

 撮影者の森住卓氏が書いている。

 「白くキラキラ光る斑点は放射性物質セシウムなどの微粒子が物体に付着し放射線を出している様子だ。目に見えず、音もなく、臭いもなく、味もなく、五感で感じることのできない放射線」を視覚化した。

 森住氏が、人っ子ひとりいなくなった原発の街、双葉町にたどり着いたのは、2011年3月13日午前だった。持っていた放射線計測機は針が振り切れてしまった。

 「チェルノブイリで、セミパラチンスク核実験場で、プルトニウム生産の核工場で、イラクの砂漠などの核汚染地取材で使っていた放射線計測機の針が振り切れてしまう。これほど高線量を出している土地を歩いたことがなかった。」

 放射線計測機があったから危険が分かった。それがなければ無自覚なままにどれほどの被曝をしたか分からない。身の毛がよだったという。

 福島県内の子ども甲状腺ガンは、疑いも含め160人を越えているが、国も県も公式には原発が原因であるとは言えないという。幼き子どもがそこにいて被曝したとして、そのことを立証しなければ事実はわからないと言われても、どうやってそれが証明できるというのか。

 おかしな世の中になってきた。

 トップがそう言うから、お上が決めたことだから、幹部の指示だから、仕方なくそうする。あっちでも、こっちでも、自分の頭で考え自分の意志で行動することを控える人が増えているのだろうか。不可思議な沈滞が広がっているように思える。ジャーナリズムまでも、政府の意向に沿うようになれば、もう終わり。

2016-04-22

[] 「無着成恭 ぼくの青春時代」<2>  「無着成恭 ぼくの青春時代」<2>を含むブックマーク


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 人生を通して、ぼくは戦後の教育を体験してきた。たくさんの教師たちがぼくの人生を通り過ぎていった。戦後の自由な教育改革の中から生まれてきた創造的献身的な教師たちの数々の実践と情熱に共鳴し、一方で、戦前の体質を温存して生きる権力的教師たちや、自己保身と昇進にこだわり、研究と実践をないがしろにしている教師たちを慨嘆もしながら、遅々として進まないように見える日本の学校教育の真の姿はなんだろうかと、思いはいつも子どもたちの上に飛んだ。もっとも危惧するのは、学校の教員たちに、討議・討論と言えるもの、研究と言えるものが、日常的にどれだけ存在してきたかということだった。

 戦後70年、科学技術・工業技術は大きく進歩した。医学も進歩した。スポーツも次々と記録が更新した。そこには絶えざる研究と実践があり、成果が公になり、響き合い、切磋琢磨がなされてきた。では学校という世界はどうなのかと。

 「山びこ学校」の無着先生は、戦後の学校教育をつくる実践にあたって大切にしたのは、討議だった。そこでまず歴史的人物を研究することにした。教壇に立って間違いのない、自信のある授業をするためには、科学的に正しい人間の発展の歴史を身につける以外に方法はない、と論議され、その結果、歴史をいちばん簡単に身につける方法は、十五人の先生がみんな、足利尊氏なら足利尊氏を研究してきて、みんなで語り合い、足利尊氏という人物がなぜ歴史のうえに生まれてきたか、そのときの社会的な条件はどうだったか、などと吟味すれば面白いということになったのだ。山元中学校のこの教育研究会は、水曜会と名付けられた。

 無着先生は、水曜会で「東西ドイツ青年からの手紙、ぼくらはごめんだ」という本をテーマにして感想を述べた。その発表が、「人間の記録 無着成恭」のなかに収められている。

 「いちばん感じたことは、ヒットラーナチスに対して、徹底的に批判していないことではないかと思う。たしかにアメリカソビエトの現在のやり方に対する批判は痛快であるけれども、私たち日本人にとっては、歴史的な方向を見定めるために、ぜひ東条や軍国主義というものを全日本人が頭の中で洗ってみなければならないと思う。この本の中に、今ごろ、東条の軍閥ヒットラーにたいする批判がゆるされていたって、いったい、そんなもののどこが、言論の自由だというのですか?というところがありますが、このへんが日本とドイツとの決定的な違いではないかと思って読みました。やっぱり日本では、今ごろと言われるかもしれないけれど、東条や軍閥天皇を、批判できるようになったこと、そしてそれを徹底的にしてこそアメリカソビエトに対しても批判ができる、という段階なんではないかと思うのです。ただ、日本でたりないことは、新聞自身が自己批判をさけていることだと思います。新聞の今の調子は、戦争中から民主主義者だったというような顔つきで、東条の軍国主義批判していることです。新聞は頬かぶりしているのです。ここに日本の現在の問題があると思うのです。」

 無着がこう発表したことに対して、賛否の意見が出されたようだ。その本の次の箇所はみんな同感だと言ってくれたと無着が記していることからそれが伺える。ドイツ青年の手記の一部。

「君たちがなんの私心も党派色もなく、ただ人間として本心から平和を叫び、戦争反対をとなえたとしても、君たちは“赤の手先”というレッテルを貼られて、弾圧されてしまうのではないのでしょうか? かれらは、じつは、君たちを“赤の手先”だと思い込んでいるから弾圧するのではなくて、平和を叫ぶ人間や、戦争反対をとなえる人間を弾圧したいから、その口実を作るために、君たちに“赤の手先”などというレッテルを貼るのです。」

 この箇所に、先生たちはみんな「たしかにそうだなあ」と言う。水曜会が終わったのは午後六時半だった。

 水曜会で討議したテーマに、「盗みをなくすことができるかどうか」というのもあった。その討論も活発だったようだ。盗みはなぜ起きるのか、と考えていくと、十分に働くことのできる仕事がないという現実社会に議論が向かう。次に、その仕事に対する目的意識はどうなんだ、ということになった。仕事の価値を認識していなければ、仕事への情熱もわかないではないか。「おれは、この仕事をとおして、貢献しているんだ」という考え方になれば生き甲斐があり、仕事を愛することができる。では、そうなるにはどうすればいい? 議論はこうして延々と続き、発展して、とうとう盗みはなくなるというところまで行った。

 教師たちのこのような情熱が、子どもたちへの教育活動につながって、「山びこ学校」の実践となった。無着成恭はその後、明星学園の教師にもなる。そうしてその実践理論も変化進展し、「続山びこ学校」となって発表された。

 討議する、現実をつかまえる、問題意識を持つ、問題の核心をとらえる、解決を考える、このような話し合いを教師集団のなかに育てていく実践は、戦後の学校現場や民間教育研究会の重要な目的でもあった。教育科学研究会の実践、全国生活指導研究協議会の実践、仮設実験授業研究会の実践、生活綴方教育を継承する日本作文の会の実践、同和教育の実践など、何十何百の教育研究が萌えいずる若葉のごとく生まれ出てきた戦後、その情熱を今の日本の教師たちはどれだけ継承しいるだろうか。

 今の学校で、議論し、意見を出し合い、自分の考えと異なるものであってもまず「よく聴く」ということがどのように行なわれているだろうか。

2016-04-21

[] 「無着成恭 ぼくの青春時代」<1>  「無着成恭 ぼくの青春時代」<1>を含むブックマーク



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 日本図書センターが「人間の記録」というシリーズを出版している。一冊一人、その人の著述・自伝を集めたもので、田中正造から始まり、今で174巻目になるらしい。これはまたすごい。実に多彩な人物像が本人の記録で集大成されている。他者の評論はなく、丸ごとその人の文集になっている。今、ぼくはこのなかの「無着成恭 ぼくの青春時代」を読んでいる。僧侶として晩年を送る無着さんは、この現代をどう見ているか聞きたいものだが、あの戦時下を生き、戦後の日本の教育に大きな影響を与えた彼の思想と実践、生きざまに、今はとりわけ学ぶことがあるように思う。

 70年近くの年月を経て、今の学校教育はどれほどの深化をとげたのだろう。教育とは何だろう。

 1948年(昭和23)、山形県の山元村の中学校に赴任した青年教師、無着はそこで、あの「山びこ学校」の教育実践を行なう。その実践は学校という枠を突破して、村づくり地域づくり、日本の教育の在り方にも発展していった。

 昭和19年、彼は旧制山形中学校の、17歳の生徒だった。そのときの日記がこの本に収められている。中学生たちは、勤労動員で学校から飛行機製造工場へ働きに行っていた。

 昭和19年8月26日

 「今朝もまた予科練の入隊者があり、壮行式。軍人勅諭でなく、海ゆかばの歌と校歌で送ることになった。ゲートルを巻きながら、いやになってきた。何にいやになってきたかというと、その正体が自分でもつかめない。こんな風に働いているのがいやでもあるし、生きているのがいやなようでもあるし、とにかく、ああいやだいやだ、という感じである。それでも工場に行った。‥‥」

 昭和20年3月31日 夜に卒業式。生徒たちは校歌を歌って別れを惜しんだ。

 「夜、警戒警報のカバーをつけた薄暗い電灯の下で卒業式だった。『仰げば尊し』の歌は敵性をふくんでいるので歌わなかった。『君が代』も歌わなかった。歌ったのは校歌だけだった。

    ……

    ああわが紅顔未来の光り

    望みにあふれて日夜に進み

    業なるあした二つの肩に

    国家の運命雄々しくおわん

 ぐっとこみあげてきて歌い続けることができなかった。もう卒業なのだ。俺はダメだ。俺はダメな奴だ。そう思うと、涙がぽろぽろとこぼれてきた。卒業式が終わり暗い外に出たとき、俺が『お前と俺とは同期の桜‥‥』と低い声で歌った。それがみんなに伝わり、ぞろぞろ道を歩きながら大合唱になっていった。

  咲いた花なら散るのは覚悟

  見事散りましょ国のため」

 昭和20年8月15日 無着は山形師範学校に進学するが、そこでも戦争遂行の動員作業で、山に登って松根油を掘っていた。

 「正午に重大放送があるというので、午前中馬力をかけて松の根を掘り、山を下りた。ラジオ社務所にしかなかったので、一里の山道を飛ぶように走っていった。

 みんな静かに聞いたけど、なんのことかわからなかった。あとの説明を聞いているうちに戦争は負けて、終わったんだということがわかった。

 夜、馬鈴薯をゆでてもらって塩をつけて食べた。みんなものも言わずぼそぼそ食べた。海軍下士官が、『貴様ら、日本が負けてうれしいのか。腹を切れ、腹を切れ』と言って泣き喚いた。少しよっぱらっていた。」

 無着成恭山形師範学校二年、弁論大会の演説原稿が載っている。その中に次の文言があった。

 「‥‥ぼくたちの問題は二つになってくるわけです。一つは、日本は正しくなかったという前提に立って、何が正しくなかったのかということを明らかにするという問題です。もうひとつは、何が正しくなかったのかということをはっきりさせまいとしている人がいるということです。その人はいったい誰なのか。なぜ、何が正しくなかったのかということをはっきりさせまいとしているのか、という問題です。‥‥

 つまり、日本が戦争に負けたことによって、はじめて、日本人がほんとの意味で、『敵は幾万ありとても』と歌って戦わなければならない時代に入るのだというのがぼくの意見です。戦争中よりも、敗戦のときよりも、もっともっとつらい、しんぼう強さを要求する戦争が、ぼくたち日本の青年の上におおいかぶさってくるだろう、というのがぼくの意見なんです。」

 昭和23年、師範学校を出た無着は山元村の中学校に赴任した。

 教師としての無着は、生徒とともに生きながら、「なぜ」「どうして」の問いを発し続ける。現実を見ろ、現実はどうなっている、どうしてそうなっているのか、この問いかけが生徒の学びを深化させていった。

 日本が再軍備を始めたころ、無着先生は、村のダンゴ屋に入って、ダンゴ屋のおっかあと語り合う。おっかあの息子は、自衛隊の前身、警察予備隊に入った。仕方なしに入隊を認めた。けれども入ったまま帰ってこない。帰ってこずにアメリカのために死ぬようなことにならないか。おっかあが言う。

 「戦争のためなら、ただ一人だって殺したくない。かたきの子だって殺したくない。あとに残された人ば見てけろず」

 兵隊に行って、若い者たちが死んでいった。戦後の今また、ひとりであっても殺されるような戦争に行かせたくないし、敵をも殺したくない。おっかあの真情だ。

 無着は、村人たちの気持ちを証明する「幹部だけの軍隊」という小論にこんなことを書いている。

 「村には、戦争はコリゴリだという空気がみなぎっている。難儀をして育てた息子をだれのためだかわからないタマのマトにしてたまるもんか、という空気が充ちている。戦争に賛成する奴がまっさきに戦争に行って死ねばよい。戦争に賛成する奴にかぎって、戦争に行かない奴らだ。そんな空気がみなぎっている。それは役場に行って調べてみればまったく無理なことではないと分かるのである。たとえば山元村で大正10年に生まれた男の数は31人で6人の戦死。11年が37人生まれて10人の戦死。12年が23人生まれの9人戦死。割合で言えば、大正10年が2割、11年3割、12年4割、13年1割、14年1割5分、15年1割4分、の戦死となっている。そして、お嫁さんの方は、13年、14年、15年の生まれの娘さんの中に、いわゆる売れ残りというのがいちばん多く、3名、2名、4名、となっている。しかも各年を通じて、2名から4名の亭主戦死のための、出戻りがあるのである。そして今、お嫁さんになるのは、昭和4年から7年にかけて生まれた娘さんたちである。だから、戦争が始まれば、また何割かの娘さんがお嫁にも行けず、家でもじゃまにされ、首でもくくらねばならないということが始まるだろう。」

 

2016-04-15

[] 田淵行男記念館  田淵行男記念館を含むブックマーク


f:id:michimasa1937:20160322211324j:image:w360:left 先週の土曜日は田淵記念館の「百楽まつり」で、桜も満開だし、家内が、「きょうは、入場料もタダだよ。抹茶のおもてなしもあるよ」と言うから二人で行ってきた。去年から田淵さんとは縁ができていたことも行く気になった原因の一つである。田淵さんはもう故人だが、彼の写真は、ぼくが1960年前後のもっとも盛んに山に登っていた時、山岳雑誌「岳人」や「山と渓谷」のグラビアでよく見た。だから過去の写真家というイメージが強くて、安曇野に移住してきて10年になるが、田淵記念館の前の道を車で通ることはあっても中に入ることをしなかった。それが去年、「ビオトープ研究会」を地元で立ち上げてから、田淵行男が近づいてきた。「ビオトープ研究会」を立ち上げるきっかけは、地元の小学校の校庭が、木々の少ない砂漠のような状態であったことが数年前から気になっていたことにある。子どもたちに自然をとりもどしたい、昆虫や小鳥がやってくる学校林とビオトープを作りたい、そう思って研究会を立ち上げると、安曇野の昆虫や野草生態系のことがいろいろ分かってきた。そして田淵行男記念館を拠点にした昆虫研究の会員に出会うことになった。

 ぼくは田淵行男の伝記を読んだり、映像を見たりした。するとかねてからのぼくの危機認識に応えるかのように、日本の環境の激変とその危機をひたすら山野を歩いて観察し、写真にとり、スケッチした彼から教えられたのだった。f:id:michimasa1937:20160322201928j:image:w360:right 彼は昆虫の研究をしながら写真を撮った。特に山岳蝶の研究に大きな業績をあげていた。彼の描いた精密な写生画を見てみたい。それを一つの目的にして、「百楽まつり」に出かけた。

 木造の小さな記念館だった。一段低くなった土地に建てられ、その前面にこれも小さなワサビ田が作られていた。清らかな水が引き入れられ、ワサビの花が咲いていた。アメンボが一匹すいすい水面をすべっている。満開の桜の木の横から記念館まで、短い橋を渡る。

 お客さんが10人ほど、ワサビ畑と桜を眺めながらベンチに座って抹茶の接待を受け、静かに風景を眺めていた。席が空いたときにぼくらもそこに座った。一個の茶菓子とお薄が運ばれてきた。この日のために、準備をしてくれたご婦人だった。ユキヤナギも満開だ。

f:id:michimasa1937:20160322201604j:image:w360:left 田淵行男の愛用した古い写真機などが陳列されていた。念願の山岳蝶のスケッチ絵が掲げられていた。複製画だった。それにしても、よくぞここまでと思うほどの描きだようだった。

 ビデオを見る部屋があり、そこで田淵の人生と業績を見た。写真集「安曇野挽歌」が置いてあり、それはたくさんの人の手にとられたために、表紙はぼろぼろになりかけていた。その最初のページ、冒頭に、例の詩があった。


  雲雀の声も 聞こえてこない

  春肥えの匂いも 流れてこない

  蜜蜂の羽音も ひびいてこない

  春風が 挽歌の野面を吹きぬけていく

  白馬が 挽歌の野末に浮かんでいる


f:id:michimasa1937:20160322211342j:image:w360:right 壁に展示された写真を見ていくと、モノクロのなつかしい写真がいくつもあった。1950年から1960年ごろの、ぼくもかつて見てきた藁ぶき屋根の安曇野の村や田畑、人びと、そして山々。

 1955年、ぼくは大きなキスリングザックを背負い、富山から入って剣岳をめざした。ぼくは高校3年生だった。大学に入り1956年上高地から槍が岳、穂高へと縦走をした。そして同じ夏に、今は白馬駅と名を改めた四ツ谷駅から白馬岳の大雪渓を登り、白馬大池へ縦走した。

 そのころの写真、田淵行男さんもカメラをもち、キスリングザックを背負って山を歩いていたのだ。

 当時、麓の村々には、今ではもうどこにも見られない暮らしがあった。

会津マッチャン会津マッチャン 2016/04/17 21:21 信州を訪う度に、幾度も訪ねた記念館です。
安曇野挽歌は、ときどき広げています。
徐々に失われる安曇野の自然、それを嘆く田淵さんの思いが重なります。
まさに挽歌です。悲しくなります。

michimasa1937michimasa1937 2016/04/19 18:17 「安曇野挽歌」を持っておられるんですか。すごい。1冊、7500円じゃなかったですか。こういう大型写真集は、歴史の記録ですねえ。

会津マッチャン会津マッチャン 2016/04/20 09:13 「安曇野挽歌」は十数年前に古本で、定価より高く求めました。
「日本アルプスは15000円でした。「高山蝶」は古本でも桁違いの高嶺の花です。
山の絵本は「安曇野の蝶」座右に置きスケッチに驚嘆しています。
文庫本の「山の季節は」も名著で、あまりに安く(2003年刊、838円)て驚きでした。
、彼を思いながらいつも癒されています。

michimasa1937michimasa1937 2016/04/21 09:41 すごいですね。やっぱり貴重本になっているんですねえ。そのものが心のよりどころになる人にとっては、高額でも手にいれたくなるでしょうね。7年前、東京神保町の古書店街を歩いていると、一軒の店の前に積んである本の中に、臼井吉見の「安曇野」全巻を見つけました。それが3千円ほどの値段で、掘り出しもんも掘り出しもん、すぐさま購入して宝物を手に入れたようにほくほく持ち帰ったことがあります。以前は田淵行男への特別な想いを持っていなかったから、写真集にも思い入れがありませんでしたが、この頃は、その写真集への親近感や憧憬がぐぐっと近づいたように思います。

2016-04-13

[] パンツァントゥンが手伝ってくれた  パンツァントゥンが手伝ってくれたを含むブックマーク


f:id:michimasa1937:20140412205646j:image:w360

 イワオさんが冬に持ってきてくれた柿の枝を40センチの長さに切っていたら、電話が入った。パンツァントゥンが、今から行くと言って、電動自転車でやってきた。今日は早く仕事が終わった。じゃあ、工房で日本語の勉強をするかい。「イワンのばか」を持って来たか。トルストイの「イワンのばか」の児童書をテキストに少しずつ読んできて、ここ10日ほど、彼は来なかった。そのつづきを読んでいくかい。

「いえ、これします」

 彼は、畑の畝立てを手伝うつもりで来たが、ぼくが木を切っていたから、それをすると言って、ぼくに代わってのこぎりを持ち、木を切りだした。

「これ、なんというか知っている? のこぎりと言うんだよ」

「はい、のこぎり」

「のこぎりを引く、のこぎりで切る」

「引く、切る」

「そう、押して切るのこぎりと、引いて切るのこぎりと、国によってちがうよ」

ベトナムは引く」

「そうですか。ベトナムは引く」

「ここが日本とちがう」

 彼は柄の部分を指した。作業もまた日本語の勉強だ。

「日本ののこぎりは、この刃を見てごらん。刃が手前の方に向いているだろう。だから引くと切れるんだよ。この部分が刃というんだ」

 長い枝は2メートルぐらいある。それを輪切りにした太い切り株の上に横において、一端を足で押え、のこぎりを引く。彼は置き方を枝の形を見て工夫する。

わたし、力ついたよ」

 半袖シャツの彼は、両腕を上げて直角に曲げ、腕や胸の筋肉の盛り上がりを自慢そうに示した。

「おお、すごい、すごい」

「このまえ、公園でサッカーをしました」

 仕事が早く終わった日、実習生でサッカーをした。

 のこぎりは、先日自分でヤスリを使って目立てをしておいたから少しは切れ味が良い。彼は軽そうに切っていった。やっぱり若い力だ。十数本あった枝は、すべて切り終わった。彼は、会社の前に生えていた桜の木のことを残念そう言った。大木2本を、社長は機械ののこごりで伐った。チェーンソーで伐った木を、ぼくにあげてもいいかと社長に頼んだらOKだと言っていた。けれど、近所の人たちが薪ストーブ用にもらいにきて、たちまちなくなったという。

 工房の横に薪置き場がある。そこに積んである薪を見たパンツァントゥンは、これでどれだけ火を焚けるのかと思ったようで、うまく説明できない。それらしい意味を理解したからぼくは応えた。

「一冬で、ここからこれぐらいかなあ」

と、薪の量を位置で示した。

 夕暮れが迫っていたけれど、残り時間で「イワンのばか」を読むことにした。工房に入って電灯をつけ、つづきをまず彼が音読する。読めない言葉を教え、分からない言葉を説明する。彼の持っているアイフォンベトナム語の辞書が入っているからそれを引かせる。2ページ読んで、そこまでのストーリーをつかんだ。悪魔が出てきて、小悪魔に指示をする。イワンのきょうだいを仲たがいさせ、けんかをさせるように仕組むところだ。

 最後に、彼に今日のところを朗読させる。そして、仕上げにぼくが朗読して、耳でしっかり聞いて言葉を彼につかませる。

 6時、勉強は終わり。今晩、ぼくは公民館でコーラスの会だ。

「あした、畑に肥料いれるのを、手伝います」

「ありがとう。野菜ある? あの菜花持って帰る?」

 庭に少し残っている菜花を指差した。

菜花、おいしいよ」

「きのう、小さなキャベツ、スーパーで買ってきたよ」

 そうか、実習生は毎日自炊している。彼はこれから帰って夕食作りだ。

 彼は帰っていった。あした、向こうの畑の菜花をあげよう。

2016-04-11

[] ルアンの送別会  ルアンの送別会を含むブックマーク

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 あと5日すれば、ルアンがベトナムに帰る。堀金日本語教室で送別会をした。集まったのは20人。久しぶりに日本人の妻となったフィリピン人の二人が、差し入れを持って来てくれた。日本人と奥さんのベトナム人がかわいい幼子を連れてきた。二組の中国人のお母さんが、小学生と幼児を連れて、餃子と肉まんを持ってきてくれた。小さい子がいると場がにぎやかになる。

 ベトナム人若者たちは、4人参加した。ルアンはギターをもってきた。例の中古店で買った、ぴかぴかのギターは、彼が独学で演奏できるようになった「翼をください」を弾くために。

 最初にルアンが別れの挨拶をした。3年間の思い出と感謝の言葉と、将来への希望を、うまく表現できない想いをなんとか言葉で表そうと、詰まり詰まりしながらも、最後の言葉、「また日本に来たい、日本が好きです」でしめくくった。拍手がわいた。乾杯をして、食事を始める。まずは全員が一言、贈る言葉を述べる。

 ルアンの席はぼくの左横、右隣はフィリピン人のミゲラさん。ルアンは、ときどき話しかけてきては、右手をぼくの太ももの上に置いた。以前から彼は教室にやってくると、よくぼくの肩をもんだり、体に接触したりした。それが彼の親愛の情だった。

「このまえ、カラオケ行ってきたよ」

 日本語能力検定試験3級に合格した彼は、自信も生まれている。

カラオケで未来という歌と桜の歌を歌ってきたよ」

 日本の歌は、この三年間、インターネットから聞いて覚えた。夜寝るときに、いつも聴く。

「こぶくろの歌を初めて聞いたときは涙が出た」

 彼はそう言った。みんなはその言葉を聞いて胸が詰まった。寮の寝床に入って歌を聞いている彼の姿が思い浮かんだ。何が彼の涙を誘ったのだろう、どんな歌なんだろう、そう思ったら、彼はアイホンを指でぽぽぽと押した。するとその歌が流れた。ぼくは初めて聴く曲だった。歌詞はよく聞き取れなかったが、いい歌だなあと思った。ぼくの知らなかった「こぶくろ」の歌の世界があるように思った。

 ミゲラさんは、今度一人暮らしをしている義母と一緒に住むことになったと言った。日本人の旦那の母親は、ここより北の雪深い村に住んでいる。一人で暮らしてきたが、90歳を過ぎて足が不自由になった。そのお世話をする。フィリピンの気温とは大きな差がある日本の地方暮らし。去年はフィリピンの親もとに一回も帰らなかった。今年は11月に帰る予定になっていると言った。子どもはまだ授からない。その話に及んだ時、彼女は両手をあげて大きな身振りで、子どもがほしいと、顔をしかめて言った。

 いよいよルアンの演奏。ギターを抱えたルアンは、ひっそりと弦をつまびく。そして小さな声で「翼をください」を歌った。それからみんなで歌った。

 指導者の一志さんが準備してきてくれたCDを流して、「桜」をみんなで繰り返し歌った。そして「明日の日はさようなら」を、何回か繰り返し歌った。

 ルアンは、明日は友だちに会って東京見物してくるといった。その次の日は、満開の桜を見に、指導者の平倉さんが案内するという。

 そして15日、彼は故郷へ帰る。

 「お父さん、おかあさん、弟、妹が待っている。またいつの日か日本に来たい。みなさんに会いたい。」

 ルアンの幸せを祈る。

 

2016-04-06

[] 春「世界でいちばん美しい瞬間(とき)」  春「世界でいちばん美しい瞬間(とき)」を含むブックマーク

 

f:id:michimasa1937:20160318164442j:image:left ヒヨドリは、ヒメコブシの花が相当おいしいらしい。つがいでやってきて、パクパク花を食べる。去年は、それで、花がすっかりなくなって、楽しむこともできなかった。今年は、ちょっと遠慮してもらおうと、パクパクやりはじめたころに、ゴーヤグリーンカーテン用に使っていた網を枝の一部に引っ掛けておいた。少し離れると網の糸は見えない。それでも網の危険を感知したヒヨさんは、近づかなくなった。ところが、彼ら知恵者で、網のかかっているところを避けて、またパクパクやりだした。それでもなんとか、ヒメコブシは丸坊主にならずにすんでいる。

f:id:michimasa1937:20160318164333j:image:w360:right 「世界でいちばん美しい瞬間(とき)」というTV番組がある。スイセンの花盛りは、「我が家のいちばん美しい瞬間」だ。いろんな種類が、時間差をつけて咲きだす。ヒヤシンスも咲きはじめた。ニオイスミレもひっそり香りをただよわせ、オドリコソウが地味ないろどりで地面を飾る。オドリコソウの花の蜜を吸いにハナアブが飛んでいる。イワオさんの裏庭のコヒガンザクラが満開になった。今は梅も満開だ。スモモのつぼみがふくらんだ。去年の暮れに、イワオさんが庭の三本の柿の木をチェーンソーで伐り倒して、我が家の薪用に軽トラックで運んできてくれた。薪をいただけたのはありがたかったが、とうとうこれで毎年楽しみだった、イワオさんの柿の実で干し柿はつくれず、この冬は干し柿がゼロだった。

f:id:michimasa1937:20160318164601j:image:w360:left 白樺ナツツバキも、枝一斉に芽吹きだした。白樺は緑の葉っぱがちろりと開きつつある。カラマツも新芽が出ている。窓の外に植えた白樺は、夏の西日を避けるのに役立つだろうと期待している。背丈はもう6メートルほどになった。生長のスピードが速い。幼樹のころの薄い表皮が一枚くるりとむけたあとに白いすがすがしい木肌が現れ、それがぐんぐん伸びている。最初に植えた白樺は、ゴマダラカミキリの生みつけた卵が木の中でかえって、幼虫の活動で枯れてしまった。その親木の子どもが2本、今すくすく育っている。気をつけることは、虫にやられないようにすることと、秋の落ち葉が屋根のトイをつまらせないようにすること。

f:id:michimasa1937:20150401032545j:image:w360:right 毎日脚の筋力トレーニングをして、軟骨のすり減った膝関節を守っている。朝はランを連れて自転車で坂道を含めて走る。小学生が登校している。おはよう、と挨拶したら、小学生の二人の女の子もにっこり笑ってあいさつする。彼女たちはランが大好きだ。「3年生になったの?」と言ったら、「4年生になったの」と答えた。「えー、そうー、はやいねえ。後2年たてば、中学生だねえ」。

 息子夫婦が誕生日プレゼントで贈ってくれたノルディックのストックを両手に持って野道を歩くことも始めた。ずっと使わずにいたが、これからこれを使うことにした。膝を傷めてから、姿勢が悪くなった。家内が、横から見たぼくの姿勢を紙に書いて見せた。

「ほんまあ、こんなに体がまがってきたんか」

 体の軸が前に曲がる。膝が曲がる。

 ノルディックウォークをすると、ストックをつくことによって、体がまっすぐ伸びる感じがする。意識して腰を伸ばし、膝を伸ばさねば。

 5月の旅行までに、ある程度の距離が歩けるようにしておかねばならない。

2016-04-02

[] 風力発電所計画の白紙撤回と原子力発電の継続  風力発電所計画の白紙撤回と原子力発電の継続を含むブックマーク



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 それにしても、ちょっと分からない。どうしてオジロワシオオタカは、風力発電の風車が回っているのを前方に見えるはずなのに、そこを避けないのだろうか。

 齋藤慶輔氏は、鳥たちの飛び方を説明していた。獲物を探しながら飛翔する彼らの眼は、上空から下の大地を観察する。だから下方からやってくる物には気がつくが、上から下りてくる風車の羽根は視界に入りにくいと。

 風車の廻っているところへ入り込めばそうなることは分かる。しかし、入り込む前に、前方に巨大な風車が見えるはずだ。ワシたちが、あえて危険な風車群に飛び込んでくるのはどうしてか。どうも説明が足りない。

 斎藤氏は、自分は風力など自然エネルギーの発電は必要だと思うが、設置する場所や鳥の生態などを研究して、設置場所を選定することだと強調した。設置場所を選定する必要があるという。どういうことだろう。 

 日本野鳥の会から以前に送られてきていた季刊誌「トリーノ」があったからページを繰ってみた。すると、風力発電所建設計画と風車による風車事故の問題が載っていた。北海道東端根室市、その根室半島の付け根のあたりに、今では希少となった広大な原野が残っている。そこに風力発電施設建設計画がもちあがっていた。2011年福島原発爆発後のことである。日本野鳥の会は、自然エネルギーの開発には賛成するが、その場所に風車を建設すれば、希少なワシ類に重大な影響を与えると判断した。そして、北海道知事及び北海道教育長に要望書を提出した。記事は次のように述べている。


 <日本野鳥の会根室支部は、北海道根室市に計画されている風力発電施設根室フレシマ風力発電所」の建設計画に対して、日本野鳥の会が独自に行った調査結果等に基づき、オオワシオジロワシなど希少な鳥類等に及ぼされる重大な影響を懸念し、これら希少種を含む生態系保全観点から、北海道知事および北海道教育長に対して、予定地の変更の検討など、事業計画者に対して適切な指導を行うよう書面をもって要望しました。

 建設予定地は、太平洋に面する北海道根室市フレシマの海岸付近。当該地は、国指定天然記念物絶滅危惧種でもあるオオワシオジロワシ、タンチョウやシマフクロウが利用する重要な地域です。越冬期には多数のオオワシオジロワシが採食地や休息地として利用し、繁殖期にはオジロワシが最大2つがい営巣していると考えられています。

 日本野鳥の会独自の調査結果を元に、ワシ類がブレード(羽根)の回転する高度を飛翔する頻度の予測を行ったところ、計画地内で最も高頻度に飛翔するメッシュは年間約363回、平均でも約79回通過すると予測されました。また、衝突数の予測を行ったところ、平均して年間0.39羽(最大1.01羽)がブレードに衝突すると推定されました。年0.39羽の衝突は、過去にワシ類の衝突事例が知られている北海道内の発電所の衝突数と比較して第3位に匹敵します。

 これらの調査結果から、私共はフレシマにおける風力発電所の建設は周辺の生態系およびオオワシオジロワシなどの希少鳥類に影響を与えると判断し、要望書の提出に踏み切りました。>

 事業者に日本野鳥の会は、「風力発電生物多様性に与える影響を極力回避するために、立地選定段階での生物多様性希少種保全の検討を幅広に行ない、生物多様性に影響を与えない自然エネルギーの導入をめざして活動を継続すること」を求めた。

 「トリーノ」によると、風力発電所建設計画の場所は、根室半島の付け根の太平洋側の海岸であることが分かった。地図で調べると、JR根室本線の初田牛駅の南側になる。その海岸線には高さ40メートルの段丘が続き、海から森に至るなかに小川や池沼湿原が点在している。日本野鳥の会は、その原野の一角を野鳥保護区として保全してきた。絶滅危惧種オジロワシ、タンチョウ、シマフクロウが生息しているからだ。そこには越冬期に多数のオオワシがやってくる。鳥たちの楽園なのだ。

 風車に野鳥が衝突する「バードストライク」は、2014年1月現在で、38例あった。日本野鳥の会では、ワシ類の飛翔調査を14カ月かけて行ない、その科学的解析を基づいて2014年5月に要望書を提出したのだ。

 この計画をやめるように要望書を出したのは、日本野鳥の会だけでなく、国際的自然保護団体であるバードライフ・インターナショナル北海道自然保護協会なども提出している。

 結果は速かった。2014年7月16日、事業者である電源開発株式会社は、計画中止を発表した。事業者は、中止の理由について、経営上の問題と言っているようだが、そのことのなかに、自然保護の問題が含まれていると思う。

 昨夜テレビで、ニューヨークの、移民が人口の半数住んでいる街のコインランドリーを取材し、ドキュメンタリー番組にして報道していた。洗濯物を取りに来たひとりの婦人が、日本人記者に質問してきた。元映画のプロデューサーだと言った。

「日本では、フクシマのことは議論してはいけないことになっているの?」

 日本人記者は「そんなことはないですよ」と応えた。

「私は福島原発のこと気にしているのよ。あの事故は、自然災害なの? それとも人災なの?」

 記者がどう答えたかカットされていて分からない。そして婦人は言った。

原発事故は、どこでも起こるのよ。」

 日本でもアメリカでも、世界のどこでも原発事故は起こりうるのだと言って、彼女は自分の喉に指をもっていき、何かを言ったが音声は入っていなかった。そのそぶりから、福島被爆地では喉に甲状腺ガンができている人が増えていると言っているように思えた。

「言いたいことは、そういうことなの」

 ご婦人は、コインランドリーから洗濯物を持って帰っていった。この一連の会話がぼくの心に残った。編集された映像だからそのときの応答はかなりカットされているのではないか。「言いたいことは、そういうことなの」の前に何か会話があったはずだ。

 あの婦人は、福島で増えている甲状腺ガンのことを言いながら、福島原発事故人災です」と言ったんだと思った。

 これだけの原発大事故を起こしても、安倍首相は、厳重に安全管理しながら今後も原発を運転し続けると言う。そう発言しても、日本の世論は、政府の考えを従順に受け入れている。だから、その不思議を婦人は口にした。

「日本では、フクシマのことは議論してはいけないことになっているの?」

 北海道風力発電のことで分かったことがある。

 風車の高さのこと。支柱は高さ80mある。その先端に、直径80mの風車が付く。三枚羽根だ。一枚の翼が長さ40mある。すると、地面から翼の最先端までは、120m。この風車が海岸の、高さ40mの段丘の上に建設されると、海面から風車の最高地点までが、160mになる。海側から飛翔してきたオジロワシは、段丘の前から気流に乗って上昇する。彼らの飛ぶ高さは、高度40mから120m。そこに風車が待ち受けている。

 160mの高さというと、45階建のビルの高さだ。120メートルなら、34階建のビルの高さ。

 北海道のこの風力発電計画は白紙撤回された。

 しかし日本の原子力発電は稼働し始めている。放射性物質の処分の道がないにもかかわらず。

2016-03-30

[] 齋藤慶輔と上橋菜穂子  齋藤慶輔と上橋菜穂子を含むブックマーク



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 北海道で野生動物専門の獣医師をしている齋藤慶輔と、オーストラリア先住民アボリジニを研究し、『精霊の守り人』で国際アンデルセン賞を受けた作家、上橋菜穂子との対談は、野生生物と人類の行く末を暗示していて、衝撃的だった。

 北海道では、オジロワシイヌワシシマフクロウなど、大型猛禽類が次々と死んでいる。いずれも死因に人間がかかわっていて、オジロワシイヌワシシマフクロウは絶滅の恐れがあるという。死因のひとつが鉛中毒、鉛の入った猟銃弾で撃たれて死んだシカの肉を食べたイヌワシが今もなお死んでいく。もうひとつの死因が感電死。電柱に止まったオジロワシの、開けば2メートルにも及ぶ翼が2本の電線に触れて感電する。紹介された死因の三つ目は、自動車による轢死。夜中に道路を横断するカエルをねらって舞い降りたシマフクロウが、やってきた車のライトに目をくらまされ轢かれる。齋藤慶輔のもとに持ち込まれる重症を負った鳥たち、命を落とした鳥たちの累々と横たわる映像が、あまりにも痛ましかった。最近は、自然エネルギーの開発で建設されていく風力発電の、ぐるぐる回る風車の羽で切り裂かれる猛禽類が増えているという。

 対談は、上橋菜穂子の思想と作品の世界にはいっていき、「この人間の文明とは何か」になっていった。

 強風をついて、自転車図書館へ行ってきた。往復1時間、南からの強風をいかに少なくするか、複雑にはりめぐらされた道を折れ曲がり折れ曲がり、選んでいく。集落に入れば、風は減退する。茫々たる野道は、風上に向かうとペダルがこげず、自転車を降りて前かがみになって歩く。歩けば目に入るものも違ってくる。民家の庭に、この地方では珍しく、沈丁花が咲いていた。

 歩きながら、ふと思った。

 どこからもこのことは話題にならないが、北海道から九州までつながり、大きく報道された北海道新幹線の陰で、ニュースにならない「消えている小さな命」がたぶんあるはずだ。時速数百キロで走る列車にぶつかって命を落とす野鳥がいるのではないか。ぶつかって線路わきに落ちて死んでいる小鳥たちがいるのではないか。調査も研究もなされていないだろう。スピード、格好よさ、称賛される新幹線。日本人よ、そんなに急いでどこへ行く。そこへリニア新幹線が参入する。電力需要はますます大きくなる。そのために原発が必要なのだと、この日本社会の日本文明

 対向車がぎりぎりで通り抜ける狭い道が多い。信州の多くの道には歩道はない。ぼくはランを連れて行く。今日も体の横、1メートルぐらいのところを速度を落とさず車が走り去った。身の危険を感じる。そのうちはねられるかもしれない。この影のような恐怖感は、歩かない者には分からない。

 狭い道に歩行者自転車に乗った人がいても徐行しない車の割合は9割以上だ。ぼくの危機意識は年々防御的になってきた。スピードをゆるめないで走ってくるのを見ると道端に寄って、ドライバーの顔を直視する。

「そのスピード、あぶないではないか」

 思わず叫ぶことがある。

 昨年の長野県内の交通事故状況は、発生件数8,867件、事故死者数69人、負傷者数10,954人。去年までの12年間では173,106人の死傷者だ。17万3千百6人だよ。どえらい人数だと思わないか。スピードが当たり前になって、危険を感じなくなった現代人。今年になってからも小学生、中学生が跳ねられて死んでいる。

 歩行者感覚とドライバー感覚はまったく異なる。車に乗るとドライバー感覚になり、歩行者は道路ぎわによけろという専横的意識になる。歩行者自転車は邪魔な存在にしか見えなくなる。「どけ、どけ、車が優先だ」と。

 風が圃場整備をしている工事現場の土を空高く舞いあげる。耳元を風がごうごうと吹きすぎて行く。背後から来る車のエンジン音は聞こえない。近接していきなり警笛を鳴らされて飛びのく。

 車社会になって、足を地につけてテクテク歩いていく人間の文化が衰退し、人間の感覚も価値観も変わった。この文明の危機を人びとは感じなくなった。

 上橋菜穂子の本を読もう。

2016-03-28

[] 生徒の命を奪った教育  生徒の命を奪った教育を含むブックマーク


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 子どもの頃、あるいは大人になってからでも、「小さな悪」、「小さなズル」をしたことのない人はいるだろうか。あの時のあの行為、大概の人は思い当たることがあるだろう。そして、そのことの「小さな罪」が、自分の心の戒めになっていることに気づくだろう。

 ぼくにもその経験がある。万引きをすればどんな気持ちになるだろうかと、120円の小さなオモチャを万引きした。ばれなかった。けれど、そのときの怖れ、気持ち悪さ、嫌な思いが、二度としないという戒めになった。

 子どもはヤンチャをして、いたずらをして、時にはごまかしやズルもして、そうした体験から感じるものによって、心は育っていく。

 3月17日の声欄に、元高校教員のこんな投書が載っていた。

 <広島県の中学3年生が、万引きしたという誤った非行記録によって志望高校の「専願」受験を認められず自殺してしまった。原因として多方面から指摘されたのは、学内における生徒指導のデータ作成や、情報伝達・共有のずさんな態勢である。死を無駄にしないためには、情報管理について徹底した検討と対策がが必要だ。しかし、再考されなければならないもっと重要なことは、学内の指導システムではないのか。万引きなどの過ちは、生徒にしっかり寄り添って指導を徹底すれば反省させることが十分にできるはずだ。一度でも万引きなどの過ちを犯してしまうと、推薦が必要な専願受験を「できない」とするのは、「指導」というより「脅し」であろう。生徒にとって受験とは自分の人生がかかっていると思うほどの重大事だ。自殺した生徒は、「どうせ言っても先生は聞いてくれない」と保護者に話していたという。この学校において最も大事なことは、教員と生徒の十分な信頼関係にもとづく本来の生徒指導に立ち返ることではないだろうか。>(朝日)

 この投書の続いて、女子高校生の投書が載せられていた。要約すると、

<私は、学校側のミスで高校の推薦入試が受けられなくなり、大きなショックを受けた。そのとき学校のシスターが私を抱き締め、涙して、「起こってはいけないことが起こりました。でも、この試練は、あなたに耐えられる力があるから神様がお与えになったのだと思います。しばらく頑張らなくてもいい。だけど心を強く持ってね」と言ってくれました。この言葉がなければ。私も広島の生徒のように自分を追いこんでいたかもしれません。私は第一志望校に合格しました。苦しみ続けた日々には意味があったと今なら言えます。広島の中学生には支えてくれる人が校内にいなかったのでしょうか。こんな事件が二度と起きないように心から願っています。>

 ぼくの頭に45年前の事件が浮かんだ。

 東京麹町中学校に在学していた男子生徒が、当時高校・大学で火を吹いていた学園闘争の影響を受けて自分の中学校で活動を行った。そのことが高校受験のときに中学校が作成する内申書に書かれ、受験の面接では思想にまつわる質問を集中的に受けた。受験した全日制高校は全て不合格であった。全日制を断たれた彼は定時制高校に進学した。だが、そこも中退した。

 この出来事は裁判闘争に発展した。学生運動経歴が内申書に書かれたために全日制高校に入学できず、学習権が侵害された。被害生徒は千代田区東京都相手どり、損害賠償請求訴訟を起こした。当時大阪の中学校で教員をしていたぼくはこの事件を知り、黙っているわけにはいかないと、その裁判闘争を支援する会に加わった。一審の東京地裁原告の請求を認めた。が、二審・東京高裁は内申書を執筆した教員の裁量を認め、原告敗訴。最高裁は単に経歴を記載したにすぎず「思想、信条そのものを記載したものではない」として上告を棄却した。ぼくは、この判決は欺瞞であると思った。学生運動に参加したことを記せば、高校側がどう判断するか、その記載によって思想・信条を判断し、不合格にすることは自明のことである。進路を閉ざすであろうその記載を、中学校の教師は予想して書いたのだろう。

 

 それから45年。

 今回の事件、万引きをしていないのにしたとされ、進学の夢を断たれて自殺したと報道されている。この痛ましい事件にぼくは、変わらない日本の学校教育と進路指導と内申書の欺瞞を想う。観念の所産がいつも密かに行われている。教師の想いによって、筆一本で、生徒の人生、命が左右される。

 担任教員は、およそ面談にはならない廊下の立ち話を面談とし、そして得た「万引きしたのだろう」という予想を「事実」として、高校進学の決め手に使った。これは教師の人間性の問題であろうか。人間を育てていくことを務めにしていることを自覚している教師であれば、生徒が仮に万引きしていたとしても、その情報を進路指導に使うことはない。

 このような教師のありようがまかり通る学校教育の根源の問題が問われなければならないのだ。

 

 45年前の内申書裁判原告の名は保坂展人。それから月日が流れた。

 ある日、新聞報道政治家の中にその名前があることに気づいた。ああ、彼は、政治の世界に入ったのだ。

 保坂展人宮城県仙台市に生まれた。衆議院議員3期、社会民主党副幹事長、総務省顧問等を歴任、教育ジャーナリストとして活躍。そして2011年4月、東京都世田谷区長になった。

2016-03-24

[]  吉野せいと石牟礼道子 <4>   吉野せいと石牟礼道子 <4>を含むブックマーク



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 この文章の魅力はどこから出てくるのだろうか。ぼくは石牟礼道子の直接の語りをテレビの特別番組で感動しながら聞いたことがあるが、その言葉もまたぼくを引きつけてやまなかった。やはりその人のなかからにじみ出てくる、その人の生き方と人間性だろうと思う。

 作品「神々の村」のなかの、胎児水俣病の子を語る母の語りがある。

 母親に負ぶわれた子は、「母さん」と言えず「ががしゃん」と言い、「桜」を「しゃくら」、「花」を「あな」と呼ぶ。

「ががしゃん、しゃくら、しゃくらの、あっこに、花の」と。


 <死んでゆく子が 親に花ば見せて、かなわぬ指で 花ば教えて、この世の名残りに。

 母しゃん、母しゃん、花見てゆこかと 言いよるが、ああわたしは、この病気のはじまってから、昼も知らず 夜も分からず、ただただ雲をつかむような 夜昼じゃったが、死んでゆく娘に教えられて 目を上げましたら、桜のなかに トヨ子の指の 見え隠れして。ちりぢりふるえとる 桜の雲でございました。

 線路のぐるりには 蓬のなあ、ずうっと生えとります。かがみまして、汽車ば待つ気じゃったろか、ふらふらかがんで、トヨ子、どこにゆこか。花の向こうにゆこかいねえちゅうて、かがみますと ふらふらするもんで、蓬ばつみます。ここらの女ごは みんな蓬が好きで、団子にも餅にも 蓬くろぐろ入れて、トヨ子がひなの祭りにも 蓬餅ば 菱に切って 供えました。まだ指も曲がってはおりませんで、 蓬よろこびましたが、あれが食いおさめで……>

<ああ、しゃくらの花……

しゃくらの花の しゃいた……。

なあ、かかしゃん

しゃくらの花の しゃいたばい、なあ、かかしゃん

うつくしか、なあ……

あん子はなあ、餓鬼のごたる体になってから 桜の見えて、寝床のさきの縁側にほうて出て、餓鬼のごたる手で、ぱたーん、ぱたーんち ほうて出て、死ぬ前の目に 桜の見えて……。さくらぁ言いきれずに、口のもつれてなあ、まわらん舌で、舌はこうやって傾けてなあ、かかしゃぁん、しゃくらの花の、ああ、しゃくらの花の しゃいたなあ……。うつくしか、なあ、かかしゃぁん、ちゅうて、八つじゃったばい……。ああ、しゃくらの……しゃくら……の花の……。>


 石牟礼道子は、被害者の苦しみと怒りと悲嘆をわが身に預って、受難・受苦の物語として語った。作家の池澤夏樹は昔この「苦海浄土」三部作を読んだとき、「苦海浄土」につかまって身動きができなかった、それは読む者をつかんで離さなかったと書いた。彼はその文章が「浄瑠璃口説き、子を失った親がその子の幸せだった日々を思い出して、問わず語りにしみじみと語る、あの詠嘆の口調によく似ている」と感じる。そして石牟礼自身が、「苦海浄土」の「あとがき」で、「誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときものである」と書いていることを知る。ぼくは、そこでなるほどそうだったのかと、合点がいったのだった。

 池澤はまた、「この作品においては方言の力は大きい。ここで語られているのは人の心であり、心を語るのはその人が日々の暮らしで用いている言葉でなければならない。……水俣の人が水俣の言葉で思いを語る。この言葉の響きなくして『苦海浄土』はない。」と書いている。

 浄瑠璃という語り物は、大衆を相手に神仏の本縁を説き、浮かばれぬ霊魂を救うものだった。古浄瑠璃は、東北の「いたこ」の語る「おしら祭文」など巫女の唱える祭文が各地にあるが、江戸時代、歌祭文が隆盛し、祭文語りを専業とする芸人(歌手)もあらわれた。それが義太夫節に取り入れられ、浪花節もつらなり、江州音頭河内音頭、八木節などにもつながっていった。

 浄瑠璃義太夫節は、まさに口承文学であり大衆の芸能であった。生前の苦しみを訴えて口説く、浄瑠璃の節回し、『苦海浄土』は、石牟礼道子の語る、「苦界」を「浄土」にしていく浄瑠璃語りでもあった。

 吉野せいの語り、石牟礼道子の語り、チェルノブイリの語り……、今新たにフクシマの語りが生まれていることだろう。

2016-03-23

[] 吉野せいと石牟礼道子 <3>  吉野せいと石牟礼道子 <3>を含むブックマーク



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 石牟礼道子の文章の魅力にはまったのは『苦海浄土  わが水俣病』を読んだときだった。1970年ごろだった。「水俣病告発する会」の活動が盛んになり、ぼくもそこに参加するようになった。

 国と大企業チッソは結託して水俣病を引き起こし、無辜の民の命を奪い、なおそのうえに犯した罪を隠ぺいして企業を守り抜こうとしていた。石牟礼道子は、水俣病とそれに対する闘いの歴史を詳細に記録し、患者に寄り添い、患者の語りを記録した。石牟礼道子文学は、告発と鎮魂と祈りの文学だった。

 作品の「天の魚」と「神々の村・葦舟」の章を読んだとき、石牟礼の文章の力に引きつけられ、これを教材にできないかと思った。その当時、ぼくは大阪の最も先進的な部落解放運動を行なっていた被差別部落の中学に勤務して、人間や社会を見つめ、差別のない社会をつくろうと、教材の自主編成を仲間と共にとりくんでいた。

 『苦海浄土』を教材にしたいと思ったところは、水俣病患者からの聞き書きの部分だった。不知火の漁民の方言の語りは、ことのほか美しく、言葉が力をはらんでいた。この文章を声に出して読みたい、生徒たちに朗読させたいと思った。生きている日本語の力を朗読で感じとらさせたいと思った。そうして一つの自主教材をつくった。

 文章は、胎児水俣病の子どもを描いていた。杢太郎は九歳の少年だった。だが母のお腹の中での水銀中毒によって、重度の障害をもって生まれた。

 孫の杢太郎と爺の語り。

 

 <杢よい、おまやこの世に母さんちゅうもんを持たんとぞ。かか女の写真な神棚にあげたろが。あそこば拝め。あの石ば拝め。

 杢よい、爺やんば、かんにんしてくれい。五体のかなわぬ体にちなって生まれてきたおまいば残して、爺やんな、まだまだわれひとり、極楽にゆく気はせんとじゃ。

 杢よい、おまや耳と魂は人一倍にほげとる人間に生まれてきたくせ、なんでひとくちもわが胸のうちを、爺やんに語ることがでけんかい。>


 杢太郎は爺のあぐらのなかにいた。爺のあぐらの舟に乗り、杢太郎は爺の寝物語を聞く。杢太郎をゆすりながら爺は語る。


  <ゆこうかい、のう杢よい

  御所の浦までや

  桶(ひ)の島までや

  ん、ん、

  婆さまが島までや

  ん、ゆこうかい、ん

  エンジンばかけて

  ゆこうかい

  漕いでゆこうかい

  帆かけてゆこうかい

  うん、杢

  帆かけてや、うん、

  こんやは、十三夜じゃけん

  帆かけて ゆくか>


 爺さまは舟になって、こっくりしながら帆柱をあげる。白く濁ってもうろうとしてきた目で、いつもあけっぱなしの、縁板のない縁側にむかい、杢を乗せて舟はいざる。舟は揺れる。

 爺さまはふらりと目覚めては、呑み忘れていた焼酎を、一息に呑もうとして、飲みこぼす。


 <爺やんが家の天草の村では、昔は、お米にさらに、“さま”をつけて、お米とさまといいよったもんぞ。よかか、杢。

 人間はお米さまと、魚どもと、草々に、いのちをやしなわれて、人間になるものぞ。そのお米さまを、天草では、天下百姓の衆がどのように、艱難辛苦してつくりよったものか。

 爺やんが小まかときは、お米のひとつぶでも、井戸の端にこぼしたり、飯食うはたにこぼし落せば、百姓の辛苦をば拝みなおせ、ちゅうて、かかさまの割れ木で、地べたをたたいておごりよらいたもんじゃ。>


 爺やんは、杢太郎が13歳のときに死んだ。杢がリハビリ病院に入っているときに死んだ。かなりの間、杢に爺さまの死は知らされなかった。


<三七日が過ぎた日、婆さまが重箱に精進物の煮しめや落雁を入れ、面会にやってきた。

 杢は、転げ寄って、婆さまを見上げ、目つきでたずねる。

 『爺やんな?』

 婆さまは、なんども人形の首のように、かくん、かくんとうなずき、はっきりと教える。

 『ほら、杢、こうしてみろ、ほら、両手ば貸してみろ。ほんにおまいも、骨ばっかりの掌になって、当たり前に、拝みもでけんかい。ほら、こうして合わせて拝め。

 爺やんな、ねえ杢、おまいが爺やんな、仏さまにならいたぞ。まんまんさまにならいた。』

 彼女は、外側にわん曲している孫の手首を、いずれが細いともわからぬわが掌に持ちそえて振ってみたが、『おまいが、この手の』と言ったまま、ほんのしばらく、噛み絞るような声を洩らして哭いた。

 『合わせてみろ、杢よい。合わさるはずがなかねえ。外側に曲がっとるもね。おまいがこういう指しとるけん、爺やんの魂の名残惜しさにして、まだ、ゆくところにも、ゆきつかずにおるわい。毎晩、婆やんが夢見も悪かぞい』

 孫にはそのことはすぐに理解された。けっして合わさらぬ両の掌で拝みつけている孫には。

 耐えられないことを、耐えさせられる生きものの眸(め)になって、少年はなにかを呑み下す。そして、やはりしゃべれない。彼の眸の色を読みとっていた巨(おお)きなひとつの世界が、彼の前から消え果てる。彼をつつみこんでいた爺さまという肉づきのあった世界が消える。見かわしていた相手が。彼はふるえながら沈みこむ。自分自身の眸のいろの奥へ。>


 冷酷な事実を受け入れている爺さま、婆さま、杢太郎の哀しみを描くこの石牟礼道子の文章のなんという力強さ、そしてなんという美しさ。その冷酷な事実は、国家と大資本によって滅ぼされていった、明治足尾銅山鉱毒被害による渡良瀬川沿岸の農民からえんえんと続き、水俣病の悲惨をへて福島原子力発電事故被害へとつながっている。

会津マッチャン会津マッチャン 2016/03/24 07:53 2人の作家のブログで、ふるさとの作家、吉野せいを初めて読みました。
いろいろ考えさせられています。
足尾銅山から水俣、そして福島原発へとの視点を学びました。
ありがとうございます。

2016-03-21

[] 吉野せいと石牟礼道子 <2>  吉野せいと石牟礼道子 <2>を含むブックマーク


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 戦時中、

 「課税よりも酷な食糧供出を完納し、昼間働いて、夜は警防団の一員となって村道を歩きながらも、奇跡を信じられない者にはほとんど無策な戦争にしゃにむにかきたてられながら、地辺をはう者たちの、乾ききった固い結合の足場から予想される廃残の土をかむって、まっさきに起ちあがる者は農民だ。」

 と、貧乏百姓の真実を、せいはつづった。

 吉野せいは晩年、「老いて」という作品を残した。1973年(昭和48)、74歳だった。

 「私も老いた。耳をすませば、周囲の力なく崩れゆく老人たちの足音につづいて、歩調がゆるんでよろめいてゆくのが日に日に分かる。どう胸を張ってもこの事実は否み切れない。抗えない生物の自然というしかあるまい。……」

 そして、彼女は、衰えていく自分の力に比例して、「使い古しの油かすのような労苦、貧困、焦燥、憎悪、汚れた生活」を重ねて紅蓮の火に焼いたような苦悩が遠ざかっていくのを感じる。それはとてもうれしいことだと思う。

 そのときに夫・混沌の一片の詩を見つけるのだ。

 「偶然眼にした、老いさらばえたころの混沌の一つの詩を、全身蒼白の思いで私は読んだ。」

 「全身蒼白の思いで私は読んだ」という表現を読んだとき、ぼくの中にも蒼白の感情が湧いた。


   ぜつぼうのうたを そらにあげた

   そんなあさっぱらから なげくな

   なげけばむすこはほうろく(失うの意)

   ……

   くどくな ばあさん なげくな

   それさえなければ なにをくい なまみそでいきてもいい

   いっせんでも むすこのしゅうにゅうになるなら

   クサをとるというボクを ボクをみていよ

   じゆうは それぞれにあるとしても 

   そうすることはどういうものか

   ふこうは みんなのあたまのうえに おりてくる

   

   なげくな たかぶるな ふそくがたりするな

   じぶんをうらぎるのではないにしても

   それを うったえるな


   ばあさんよ どこへゆく

   そこは みんなで ばらばらになるのみだ

   つつしんでくれ

   はたらいているあいだ いかるな たかぶるな

   いまに よいときがくる

   そのときにいきろ


 「生涯憤ることをつつしんだデクノボウのような彼の詩を、いいおりに私は読んだものだ。」

 とせいは、繰り返してきたくりごとの唇を縫いつけるようにして、心の中の小さな灯だけは消さないようにしようと、

 「歩き続けた昨日までの道を、前方なんぞ気にせずに、おかしな姿でもいい。よろけた足どりでもかまわない。自由野分の風のように、胸だけは悠々としておびえずに歩けるところまで歩いてゆきたい。」

と心に誓う。

 それは、太古の昔から、女がつないできた命の道だと「私は百姓女」、せいは述懐するのだ。

2016-03-19

[] 吉野せいと石牟礼道子 <1>  吉野せいと石牟礼道子 <1>を含むブックマーク

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 吉野せいが今生きていたら、この福島と日本の状況に、どれほど嘆き悲しんだことだろう。

 1974年に出版された吉野せい作品集「洟をたらした神」の巻頭に、串田孫一は強烈な驚きを書いている。

「私はうろたえた。ごまかしの技巧をひそかに大切にしていた私は、張り手を食ったようだった。この文章は、やすり紙などをかけて体裁を整えたものではない。刃こぼれなどどこにもない斧で、一度でずばっと木を割ったような、狂いのない切れ味に圧倒された。私はぼうぜんとした。何度読みかえしてもぼうぜんとした。」

 村にいた時、ぼくは高等部生の教材に、吉野せいの作品「春」を何枚かのプリントにして準備し、進度に合わせ生徒たちに一枚ずつ配って順次一読総合法で読んでいく授業をした。作品の書き出しはこうだった。

 「春ときくだけで、すぐ明るい軽いうす桃色を連想するのは、閉ざされた長い冬の間のくすぶった灰色に飽き飽きして、のどにつまった重い空気をどっと吐き出してほっと目をひらく、すぐにとび込んでほしい反射の色です。」

 作品は、開墾してきた大地の描写がつづき、あひるの話、にわとりの話につらなり、やがてそのにわとりの中から行方不明が出るという展開になる。最後に行方不明になったにわとりの、思いがけない結末がやってくる。21日間行方が分からなかっためんどりが、ヒナをたくさん連れて藪の中から出てきたのだ。ぼろぼろになりながら、めんどりはヒナを温めて孵したのだ。文章を解釈しながら読んできた生徒たちは、その発見をわがことのごとく喜び、命というもののすばらしさと、春の陽光きらめきにひたすら感動するのだった。

 吉野せいは、1899年、福島県小名浜に生まれた。高等小学校を卒業してから、検定で教員資格をとり、1916年から2年間、小学校教員を勤めた。福島詩人山村暮鳥と交流し、感化を受けて文学の道に進む。1921年、阿武隈山系菊竹山麓で開墾しながら詩を書いていた農民・吉野義也(三野混沌)と結婚をした。それから苦闘の開拓生活が始まる。厳しくも豊かな自然と開拓農民の暮らし、さらに6人の子育て。生命をつないだのが不思議だったと彼女が書く酷烈な生活だった。1970年、夫・混沌が死去。そこから、いわき市出身の草野心平に勧められて執筆活動を開始する。70歳を超えて書かれた作品集「洟をたらした神」は田村俊子賞大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。吉野は1977年に、78歳で永眠した。

 ぼくは最近、この福島の吉野せいの作品と、ひたすら水俣に生きた石牟礼道子の作品に、共通する何かを感じている。似ている、似ている。何が似ているのだろう。文体、文章、表現に流れる、共通したものがある。作品は二人の人生から生まれる。この共通点は、人生をいかに生きたか、そこから生まれてくるものではないか。それが文体に現れてくる。文章が息をしている。吉野せいと石牟礼道子の呼吸と心音に通い合うものを文章に感じるのだ。

 吉野せいは、自分の育った子ども時代の、まばゆいばかりに輝いていた渚と白い砂浜の上を歩く浜の猟師たちを、こんな文章で描いた。

 「ぎらぎらした真夏になると、すっぱだかの船方たちは、身につける布切れといえば向こうはちまき一つ。柏の木の皮の煮汁で染めた重い魚網を肩から肩へ、じゅずつなぎにかつぎ分けて、掛け声も高々と一列縦隊、渚沿いに職場の持ち船にかつぎこみます。……

 女房たちが祈るような愛情で結ぶという、“しるし”の先端をワラでしばったたくましく隆々と力のみなぎる足腰、なまじ一糸の覆いのない黒い裸の行列は、真昼の下で、少しもはずかしいとか変だとかには見えない、とても自然なりっぱな姿に見えます。…絶え間ない躍動があるだけに、少しもいやらしい妄想など浮かばせる隙はなく、みにくい邪念などはきれいに洗い去られています。このもみ皮のような赤銅色の厚く強い皮膚に、何か牡牛の胴腹でも見るような、しなやかな力の張りつめるのを無性に頼もしく感じたものです。猛々しく生きてゆく人間の息吹きが海の響きと一つに融けています。」

 「女房たちが祈るような愛情で結ぶ“しるし”の先端をワラでしばった」、なんと愛らしく気高く、男たちのシンボルを表現したことよ。そして一糸まとわない全裸の男たちの美しさ。漁に出ていく夫の無事を祈る妻のけなげな、かわいい行為。一世紀前のこの地の、原初の命のたくましさと美しさをこれほど素朴に表現した吉野せいをぼくは敬愛する。

 吉野せいは、小名浜の浜の子として、海の魅力におぼれ、半ば狂気じみるまで海そのものに身を浸して育った。けれども、その後、その地は、林立する工場の煤煙、石油コンビナートによって見る影もなく打ち壊され、彼女が逝って30数年後、人間の強欲による原発事故が、清浄の海も大地も、とりかえしのつかないほどに破壊し汚染した。 (つづく)

2016-03-17

[] 卒業  卒業を含むブックマーク


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 もうすぐ卒業していく子どもたちへの担任教師の熱い想いがEメールで届いた。

 <卒業ということが、こんなに自分の心を揺り動かすとは思ってもみなかった。

今のわたしは、自分でも驚くような「惜別の情」に悩まされている。自分は、もっとあっさりしたタイプだと思っていたがなあ。

 正直、子どもたちが、かわいくて仕方がない。男子が6年生らしからぬほどのやんちゃを振りまきながら、真剣に鬼ごっこをしてから教室に戻ってくる姿さえ、なにか本当にかわいくてならぬ。この子たちと、ほんのあと何日かでさよならすることを思うと、なんだか、ちょっと目にゴミが入ったかのようで、涙腺が……という感じ。

 一人ひとりが、今までよりも、すごく大きく見える。>

 久しぶりに触れたその想いに、若かりし日の担任教師としての記憶がよみがえった。この記憶は、冷気を含んだ早春の日の光ととともにやってくる。教師になって最初の卒業式は、講堂がまだなかったから運動場の青空卒業式だった。ベートーヴェンの「田園交響曲」で始まった式の終盤、「蛍の光」の斉唱になると思いがけず涙があふれた。ぼくは涙を生徒たちから見えないように顔を上げていたが、空は涙でぼやけた。教室から椅子を持ちだしてグランドの土に並べた生徒席の、一番前に高君が座っていた。歌が終わって生徒席に目をやると、泣きそうな表情をしてぼくをじっと見つめる高君の顔が目に入った。式が終わって最後のホームルーム教室にもどると、黒板いっぱいにクラス全員の別れの言葉がぎっしり書き込まれていた。

 生徒同士が、さらに生徒と教師とが、親しく深い関係性を結んできたクラスであったから、その時の記憶は鮮烈に残っている。

 

 Eメールを読んでからぼくは学校に向かった。

 今勤務している学校の通信制の卒業式は先日の日曜日に行なわれた。その卒業式に出られず、卒業証書の授与を延期された生徒が一人いた。スクーリングの日数が足りず、それを満たすために数日登校しなければならなかった生徒であった。ぼくはその生徒の最後の3時間を一緒に過ごした。午後4時になれば、卒業の条件は完全に整う。それまでぼくは彼と向かい合って話をした。

 家庭の事情で高校を中退して、アルバイトをしてきた。2年ほどして通信教育で高校資格を取ろうと思った。今働いている会社で将来正社員として働きたい。それが夢だ。夢の実現にむけて、英語と中国語で会話できるようにしたい。さらにコンシェルジュになろうと思えば、信州地理、歴史、自然、観光事業などの勉強も必要だ。そしてお客さんに、この人に出会ってよかったと思ってもらうには、心からその人が希望していることをかなえられるようにサービスしなければならない。

 話は広がり、ウエストンの日本アルプス探検記から、旧制松本高校の学生の話、塩の道、松本市内の古本屋から東京神田古書店街の話、徳川幕府の政策から東海道中山道の話……、とどまるところを知らず。

 午後4時、ぼくはまたドイツ学生の出発を讃える歌を歌い、彼の出発にエールを送った。もう会うことはないだろう。彼は感謝のことを述べて、満面の笑顔で帰っていった。

  朝のメール。

 「子どもたちが、かわいくて仕方がない」、これこそ教育の真髄なのだ。親にしても教師にしても、そうであるから子どもの命が育つ。

 「やんちゃを振りまきながら、真剣に鬼ごっこをしてから教室に戻ってくる姿、本当にかわいくてならぬ」、思い切り遊ぶ子どもを見ると感動する、かわいく思う、それこそが教師だ。

 「一人ひとりが、今までよりも、すごく大きく見える」、そう、そう、子どもたちが今生きることに一生懸命であるとき、自分を生き生きと発揮しているとき、子どもは大きく見える。全身で生きる子どもたちは大きく見える。子どもは小さくて大きい。場合によっては、大人より、教師より、大きくエネルギッシュで、聰明な存在だ。


 森 毅(1928年生)がこの頃新聞にもテレビにも出てこないなあと思っていたら、 2010年に亡くなっていた。あー、惜しいことをした。京大の名物教授で変わりものの数学者、評論家、エッセイストだった。

「戦時中、ぼくはというと、自他共に許す非国民少年で、迫害のかぎりを受けた不良優等生やった。要領と度胸だけは抜群の受験名人や。それに極端に運がよくって、すべての入試をチョロマカシでくぐりぬけた」という「おもろい人」で、「エリートは育てるもんやない、勝手に育つもんや」というのが持論。この人は、自分もそうだったから、枠からはずれたやんちゃな子が好きだった。普通ではない変わった個性の子がいたら、そういう子をおもしがるのが教師というもの、子どもはほんまにおもしろい。子どもをおもしろく思わない人は教師失格やと言っていた。

2016-03-15

[] 俘虜収容所で演奏されたベートーヴェン  俘虜収容所で演奏されたベートーヴェンを含むブックマーク


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 ベートーヴェンの「交響曲第九」を、日本で初めて演奏したのは、ドイツ人捕虜であった。

 2004年、中国の青島(チンタオ)でぼくは2カ月暮らした。青島は1897年明治30)にドイツが占領し、ドイツ租借地になったことから、その旧市街の周辺を散策すると、今なおドイツ人の建てた大きな洋風民家が風雪に耐えて残っている。今はそこに中国庶民が住んでいた。

 1914年(大正3)、第一次世界大戦が起きると、日本は日英同盟を結んでいたから、連合国側(英・仏・露)に加わって参戦、青島のドイツ軍をやぶり占領した。第一次世界大戦は、ドイツの敗北となり、日本は勝利国の側にたった。ドイツ軍捕虜約5000人は、日本に送られ、うち1000人は1917年から1920年まで徳島県の板東俘虜収容所に入れられた。

 この収容所ドイツ文化の発信地になった。日本の明治維新では先進国ドイツから多くのことを学んで近代国家建設に取り入れてきた。その歴史関係が捕虜の処遇に大きく影響したのだろう。収容所長の松江豊寿の父は旧会津藩士であった。薩摩長州官軍相手に東北列藩が戦った戊辰戦争に敗れた会津藩士青森の厳しい辺境の地に移住させられた。朝敵とされて滅ぼされた会津の苦難の歴史、そのときの屈辱と悲哀が松江豊寿の心に受け継がれていたのかもしれない。松江収容所所長は捕虜を人間として遇した。捕虜の自主性を尊重し、外出にも寛容で、「森の民」と呼ばれるドイツ人捕虜たちは森を歩き山にも登った。捕虜たちは元が民間人の志願兵だったから、自分たちの持っている仕事の技術を喜々として発揮した。マイスター制度をもつドイツ人はすぐれた技術文化をもっていた。酪農ウイスキー醸造、野菜栽培を行ない、家具や楽器をつくり、時計を修理した。写真を写し、印刷を行ない、新聞までつくった。鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など、自らの技術を生かし作ったものを住民に販売した。ドイツの本場のパンの焼き方やハム・ソーセージの製法、さらにビール醸造法を地元民に伝授した。

 ドイツ人捕虜は、楽器を演奏し音楽を楽しみ、オーケストラをつくって地元住民のためにコンサートを催した。

 そして1918年(大正7)6月1日、捕虜演奏家たちは、ベートーヴェンの「第九交響曲」を演奏したのだった。日本における初めての「第九」であった。

 1918年11月3日、彼らの祖国ドイツで、11月革命と呼ばれる大衆蜂起が起こった。カイザー(皇帝)は廃位ドイツ帝国は倒れた。これをもって第一次世界大戦は終結し、1920年、板東俘虜収容所捕虜たちは、板東収容所の思い出を胸に抱いて祖国に帰っていった。

 1919年、彼らの祖国ドイツでは画期的なワイマール憲法が制定され、議会制民主主義を旨とするワイマール共和国が樹立されていた。

 日本でも大正デモクラシーが花開いていた。1922年(大正11)、日本は青島を中国返還した。

 だが歴史は暗転していく。大正デモクラシーの裏側で、軍部は力を増し、日清・日露、第一次世界大戦の勝利を体験した日本人は、日本は一等国の強国になった、戦えば勝つと信じるようになっていた。

 1923年9月、関東大震災が起こる。災害修羅場の中で、デマが流れ、自警団が結成され、多くの朝鮮人中国人社会主義者が殺された。ここから日本は戦争への道を歩みだす。民主主義弾圧され専制国家、軍国主義の暗い道へ日本ははまりこんでいった。

 それはドイツでも同じだった。1928年ドイツナチス党が台頭する。1933年には、ヒトラー政権が生まれ、ワイマール共和国憲法によって成立した基本的人権のほとんどは停止された。

 1937年(昭和12)日中戦争勃発。

 1939年(昭和14)ドイツ軍ポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まる。

 1941年、米英と全面戦争に入る。


 1998年2月7日、長野オリンピックの開会式においてベートーヴェン「第九」小澤征爾の指揮で演奏された。それは、世界の5大陸・6ヶ国・7か所で連携して、それぞれの国の演奏と一つになり、映像は世界中に中継された。

 板東俘虜収容所の記憶はドイツと日本にいまもなおしっかりととどめられている。

会津マッチャン会津マッチャン 2016/03/15 20:55 松江豊寿は会津では身近な人で、我が家の近くの小田山にお墓があります。
軍を去ったあと、若松市長を勤めました。また、弟の松江春次はシュガーキングで有名です。
10年前に映画「バルトの楽園」を観たことを思い出しました。
拙ブログ http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/9f3a76b4c6a8cc34ba5a24b70657fa57

michimasa1937michimasa1937 2016/03/16 09:46 そうでしたか。思いがけないことです。映画『バルトの楽園』を鑑賞されたときの感想をつづられたブログを読ませていただきました。「自国に戻る事を許されたドイツ人達は、松江所長や地元民に対する語り尽くせぬ感謝の思いを込めて日本で初めて『交響曲第九番 歓喜の歌』を演奏する。演奏をバックに、その時代に生きた人間の心の動きが撮し出された。
後に松江は「板東は私にとってもっとも懐かしい土地であり、そこで私は自分の理念を追うことができたのだ」と語ったという。
板東収容所の閉鎖後、大正11年に豊寿は故郷・会津若松市長に就任、ここで白虎隊の墓地の整備などに力を注いでいる。 この映画を見ながら、今の平和な時代に、自分自身がどう生きればいいのかを思い続けた。多くの先人に支えられ今の日本が、故郷があるのだとあらためて考えた。」
 会津マッチャンの文章を読んで、しみじみ人間の生き方を想います。