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2016-11-26

[] スペシャル・ミール  スペシャル・ミールを含むブックマーク


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人生の最期の食事に、

「食べたいものは何でも準備するよ、何が食べたい?」

と言われたら、自分なら何を言うだろう。

朝刊で、藤原新也が、死刑囚が明日は死刑執行されるという前日の夜の食事のことを書いている。最後に食べたいものを自分で注文できる。アメリカではそれをスペシャル・ミールと呼ぶのだと。

そうすると死刑囚が注文するのは、

フライドチキンやステーキ、

ホットチーズサンドイッチ、

チーズ、パイ

目玉焼き

など、平凡な庶民のそこらの食べ物ばかり。なかには、ケンタッキーフライドチキンという銘柄まで指定する人がいた。

 そこで藤原が書く。

「人間とはそういうものだ。小さい時から慣れ親しんだ平凡だが思い出にからんだ食べものこそ舌が求める。」

貧困や暴力、疎外や孤独の暮らしの中で生きてきた人は、特別なおいしい食べ物として世に言われているメニューなんて、口にしたことがない。多くの死刑囚が食べたいと言うのは、日本の場合なら何だろう。マクドナルドのバーガーか吉野家の牛丼か、と。

そして藤原が、自分の最期の夕食の注文を許されるなら、と書いたのは、

大根の葉の漬物の千切りに、オカカをまぶし、醤油をかけ、メシに混ぜ込んだもの。

どうしてそういうものを注文するかと言えば、

「幼稚園に上がる前、私は真夜中に母に空腹を訴えた。母は困った顔をしていたが、台所に行き、ありあわせのメシとお茶を運んできた。」

それが、大根の葉の漬物の千切りに、オカカをまぶし、醤油をかけ、メシに混ぜ込んだもの。

子ども心に世の中にこんなにおいしいものはないと感じた。」

食べものとはそういうものだ、高級懐石料理とかフランス料理のフルコースとかではない、と。

子どものころに、親が作ってくれた食事、それをおいしいと思って食べたこと、身体と心が感じた食べもののうまさ。そこにはそれを用意してくれた人の愛情がこもっている。

そして藤原は、自分の兄が最期に、食べたものを書いている。

兄は59歳でガンで亡くなった。流動食しか受け付けない兄が、イカソーメンに箸をつけて食べたという。それは奇跡だった。

「私はその小さな奇跡を横から眺め、目頭が熱くなった。門司港で生まれた私たちはよくイカを釣りに出かけ、その場で千切りにして醤油をかけて、おやつがわりに食べた。最後の食卓で兄の記憶がよみがえったのかもしれない。」

この文章を読んで、二つのことが頭をよぎった。

ぼくが教えていた男子生徒がこんなことをぼくに聞いた。

「先生、今晩何を食べますか。」

「今晩? 何かなあ。奥さんが作ってくれるから分からないなあ。」

どうしてそんな質問をするの? 不思議に思って聞くと、

「母親に食事を作ってもらっていない」と言った。

毎日コンビニで買ってきて食べるのだと言う。そこでぼくは自分で作れば? と言って、肉じゃがとかいくつか作り方を教えた。弟もいるから弟の分も。

彼の子ども時代の「母の味」とは何なのか。結局彼の食べ慣れたものはコンビニの弁当になるのだろうか。

頭によぎった二つ目は、新聞に報道されている大物政治家食事だ。膨大な政治資金。それが彼らの食事代になっている。「交際費」「会議費」の名目で、超有名ホテルで飲み食いしている。麻生が代表を務める政治団体支出はこの二年間で、39850000円。そのうち16700000円を会員制クラブでの飲み食いだ。稲田朋美防衛大臣の場合、ダントツで増えている。

庶民とはあまりにもかけ離れた、大物政治家の豪華な食事。自分の懐とは関係なし、じゃぶじゃぶおいしいものが食える王様暮らし。これが民主主義日本の政治家。

彼らにスペシャル・ミールは? と聞いたらなんと応えるだろう。

お茶漬けだよ」

2016-11-25

[] レタス   レタスを含むブックマーク


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朝食の鉢の上にたっぷり積まれたレタスの葉、

みずみずしい緑葉に、

黄色い針のようなものがくっついている。

今朝は氷点下3度、

昨日の雪が、庭の菜園の畝間に残っている。

レタスキャベツ、白菜、

小松菜、太ネギ、大根

ホウレンソウ

どれもこれもシャキッと、

すがすがしい緑色を誇り、

今朝はそこからワイフがグリーンレタスの葉っぱを摘んできた。

針のようなものは、それにくっついてきた。

ワラくずにしては細すぎる。

レタスの葉っぱから数本見つかった黄色いもの、

なんだい、これ?

ああ、カラマツだ。カラマツの葉っぱだ。

カラマツの黄葉は、風が吹くと、

無数の黄色い光の針になって舞い落ちる。

庭に伸びたカラマツは、小鳥が種を運んで来たのか、

それとも山のカラマツ林から種が風に飛ばされてきたのか、

庭の隅から芽を出し、6メートルほどの高さに育った。

庭のカラマツは、まだ青年の樹だ。

青年の樹が、初冬の太陽に、黄金の葉を撒き散らす。

冬眠に入る前の、華麗な儀式。

グールモンの詩が頭に浮かぶ。


   シモーヌ、木の葉の散った森へ行こう

   落ち葉は苔と石と小径とをおおうている

   シモ―ヌ、お前は好きか、落ち葉ふむ足音を


   落ち葉の色はやさしく、姿はさびしい

   落ち葉ははかなく捨てられて土の上にいる

   シモ―ヌ、お前は好きか、落ち葉ふむ足音を


   寄り添え、われらも いつかは哀れな落ち葉であろう

   寄り添え、もう夜が来た、そうして風が身にしみる

   シモ―ヌ、お前は好きか、落ち葉ふむ足音を

 

2016-11-20

[] 「正露丸 「正露丸」を含むブックマーク


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 太平洋戦争の激戦地だったガダルカナル島で、今も旧日本軍の兵士の遺骨収集をしている人たちがいるという。

 遺骨収集は、日本兵の遺族と、「全国ソロモン会」の人たち、そしてNPO法人「JYMA日本青年遺骨収集団」らが行っている。

 島にはまだ約7000人の遺骨が土に埋もれ、風雨にさらされている。


 収集団の人たちが丈高き草をかき分ける。密林の急斜面で遺骨が次々と見つかった。

 軍服のボタンが見つかり、日本兵であることは間違いない。

 歯が見つかり、頭骨が現れ、その脇にガラスの小瓶があった。

 かすかに「正露丸」のような臭いがした。


 ここまで記事を読んで、しばらくぼくは瞑目した。

 「正露丸」の臭い、あの強烈なクレオソート臭。それが75年の時を経ても残っていた。

 風化はしていなかった。


 日露戦争のときに兵士が持って行った「征露丸」、露西亜を征伐するという名前の腹薬。

 アジア太平洋戦争が終わって平和国家になってから、「征」はよくないと、「正」の字に変えられた。

 ぼくは登山や旅行には「正露丸」を必ずザックの中に入れた。


 土色になった遺骨、その脇に「正露丸」は生きていた。

 75年たって尚、兵士たちの霊魂は故郷に帰ることができないでいる。

 彼らを野ざらしにした母国は、そのことを忘却してしまっているかのようだ。

 我が叔父・茂造さんは、海軍に召集され、サイパン沖で海の藻屑となった。

 叔父の遺骨は還らなかった。

 75年の年月を経れば、遺骨は海流に流され、故国日本の海のどこかに、今も漂っているのではないだろうか。





 

2016-11-19

[] 古代の渡来人  古代の渡来人を含むブックマーク



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 万葉集を読むと、次つぎと興味深い発見をする。大伴(おおとも)坂上郎女(さかのうえいらつめ)が新羅の国の尼の理願の死を悲しんでつくった歌がある。坂上郎女(さかのうえいらつめ)は大伴家持の叔母になる。

 <たくづのの 新羅の国ゆ 人言を よしと聞こして

 問ひさくる うからはらから なき国に 渡り来まして

 大君の しきます国に うち日さす 都しみみに

 里家は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも

 つれもなき 佐保の山辺に 泣く子なす 慕ひ来まして

 しきたへの 家をも造り あらたまの 年の緒長く

 住まひつつ いまししものを 生ける者 死ぬとふことに

 まぬがれぬ ものにしあれば 頼めりし 人のことごと

 草枕 旅にある間に 佐保川を 朝川渡り

 春日野を そがひに見つつ あしひきの 山辺をさして

 くれくれと 隠りましぬれ 言はむすべ せむすべ知らに

 たもとほり ただひとりして 白たへの 衣手干さず

 嘆きつつ 我が泣く涙 有馬山 雲居たなびき

 雨に降りきや>(巻三)


 坂上郎女の深い悲しみがそくそくと伝わってくる。現代語訳すれば、


 <理願さん、あなたは新羅の国から、倭の国は良いところだといううわさを聞かれて、困ったときに相談したりする親兄弟もいないこの国に、天皇の治められるこの国に、渡ってこられて、都には家々はたくさんあるのに、あなたはどう思われたのか、私たちの住んでいるこの寂しい佐保の山辺を慕ってこられ、家を造り、長く住んでおられたものを、生きている者はいつかは死ぬものだから、頼みにしていた人がみんな旅に出ている間に、あなたは佐保川を朝のうちに渡って、春日野を後ろに見て、山の方へとぼとぼとものさびしげに隠れてしまわれましたから、何と言いどうしたらいいか分からず、うろうろして、流れる涙は衣の袖を濡らしますが、それを乾かすことなく、涙はそちらの有馬山に雲となってたなびき、雨となって降っているのではありませんか。>

 大伴坂上郎女は理願の死を嘆き悲しむ。理願は朝鮮新羅の国からやってきて、坂上郎女の父である大伴安麿の家に寄寓し、数十年暮らしていたが、伝染病にかかってあの世へ旅立ってしまった。理願の最期を見届けたのは坂上郎女ひとりだった。坂上郎女の母・石川命婦(みょうぶ)ら、家の人たちは病の治療のために有馬温泉に行っていた。この歌は、理願の死を知らない、有馬温泉で湯治する母に送ったものであった。理願への痛切な思いの深さに感動する。

 飛鳥の時代、さらにそれ以前から奈良時代にかけて、実にたくさんの渡来人が日本にやってきた。渡来人は大陸の文化を日本にもたらした。漢字、仏教などとともに鉄の鋳造技術、須恵器などの陶器の技術、仏像彫刻の技術、建築の技術、医療の技術、馬具をつくる技術、絵を描く技術、織物をつくる技術など、さまざまな文化・技術を伝えた。

 渡来人は、百済新羅高句麗高麗)、任那の国から、ある時は集団で、ある時は家族で、あるいは単身でやってきた。国が滅びる時には難民としてきた人もいた。夢を抱いてきた人も来た人もいただろう。それらの人は近現代の移民に通じるところもある。そうして渡来人は日本に溶け込み、日本のなかで尊敬もされて地域の人となっていった。

 山上憶良が書いた「病気になって自分をいたむ文」(巻五)がある。こんな要旨である。

 <初めて病気になってから長い年月がたった。私は七十四、手足が動かず、節々が痛く、身体はひどく重い。身体は世間の苦労で穴があき、心も世の中の苦労で縛られている。占い者にも巫女にも聞いた。神に供え物をし、祈祷もした。それなのに苦しみは増すばかり。昔はよい医者がたくさんいたという。ユフ、ヘンジャク、カタ、秦のワとカン、カツチセン、トウインゴ、チョウチュウケイ、これらの医師は手術などして治さない病気はなかった。しかしそんなよい医者を今からほしいと思っても、とてもできないことだ。もしすぐれた医者、よい薬に出会えるならば、できたら内臓を割き、いろいろな病気を探し出し、膏肓(こうこう)の奥深いところまで、病気の逃げ込んでいるのを見つけ出したいと思う。ニンチョウクンが言った。病は口から入る、飲み食いを正しくすることだ、人が病気になるのは魔物のせいではないらしい、医者のよい説や、飲食などをつつしむという戒め、知るのはたやすく行なうのは難しいのが人間の情だという教え、そういうことはよく聞き知って分かっているのだが、いかんともしがたい。ホウボクシは言っている。人間は自分の死ぬ日が分からない、だから心配しないだけだ。‥‥>

 ここに出てくる医師の名前は、もちろん漢字で書かれている。トウインゴは陶隠語、チョウチュウケイは張仲景、ニンチョウクンは任徴君と表記されている。この医者たちも渡来人なのだ。この文章を読んで、これが660年〜733年頃に生きた人のものなのかと驚く。医学の発展した現代においても共通したものがあるではないか。山上憶良は唐にも遣唐使船で行って、二年間唐で暮らしたことがあった。

2016-11-18

[] 尾崎豊の歌  尾崎豊の歌を含むブックマーク


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 14年前、日本から郵送した二箱のダンボールはひどい壊れようだったが、中身のたくさんのCDとビデオテープは何とか使えた。その一つ、「北の国から」のドラマを中国武漢大学の学生たちに見せたときのことを思い出す。思春期に成長したジュンが吹雪の夜、小屋のなかで好きな女の子と一緒になるシーンだったと記憶するが‥‥。そのシーンのBGMに尾崎豊の「I love you」が流れた。瞬間、女子学生たちがどよめき、空気がぴんと張り詰めた。学生たちが反応したのは尾崎豊の歌だった。彼らは尾崎豊を知っている。どういう経路をたどって湖北省のこの学生たちの生活に尾崎豊の歌がとどいたのか、よく分からない。だが歌は、中国の学生たちの心に響いているではないか。

 尾崎豊の歌がぼくのなかに残った。

 ぼくは今、通信制の高校の生徒と学びの場でひとときを共有している。生徒たちは自分の来れる時に学校に来て、自由にレポートに取り組み、帰ろうと思う時になれば帰っていく。生徒のほとんどは、ひっそり来てひっそり帰っていくが、とりわけ無口な子がいる。その生徒と向かい合ってレポート学習を支援していたとき、自分はロックンロールストリートミュージシャンをしているのだと言った。ときどき大阪東京へ出かけて、繁華街の通りでミュージシャンとなり、表現活動をやっているのだと。

 一昨日その生徒に尾崎豊のことを話した。教科書を教えるときよりも、こういう会話をするときがおもしろい。会話は生きる。生きている会話はおもしろい。学校での彼は普段無口で、無表情だが、話題が尾崎豊のことになった途端に彼は思いを語りだした。尾崎豊が好きで、彼のお父さんはもっと好きだと言う。

「『北の国から』を中国の学生に見せたとき、尾崎の歌が流れるシーンがあってね。そのとき、彼らがぱっと反応したんだよ。あの歌、『卒業』だったかな、『I love you』だったかな」

「それは『I love you』です」

 彼は即座に答えた。話が弾んだ。

「今の時代、どうにもならない社会状況のなかで、尾崎の歌が再び受け入れられてきているのかな。怒りと悲しみとの叫びが。」

「そうだと思います。社会の行き詰まりのなかで、尾崎の歌は生きはじめています。」

 ちょうどぼくが今読んでいる本のなかに、尾崎豊が話題になっていたから、そこを彼に示すと彼は本を読みだした。

 その文章は三人の意見のぶつかりだった。山折哲雄宗教・思想史)、森岡正博現代思想)、山下悦子(日本思想)が尾崎を語る。会話を要約すると、

森岡「ロックは怒りの爆発で、体制への反抗です。尾崎の怒りには愛と安らぎがあります。尾崎が死ぬ前の曲は、ほとんど宗教音楽に近いところまで行っている。」

山折「怒りを愛に結び付けていますね。愛へのプロセスを悲哀で支えている。悲哀があって愛は安定する。神なき時代の最後の救いは愛です。神なき時代の芸術の最後に残された唯一の形式は愛ですね。」

山下「山折さんは尾崎は救いを望んでいるけれど救われないのではないかとおっしゃった。状況はそれだけ厳しいということを尾崎の歌に感じます。現代社会では安らぎは期待できない。」

山折「宿命・運命論とDNAの発見とは背中合わせになっている感じです。それだけ現代の悲しみは深い。決定されちゃっている。流れているのは深い悲しみです。」

森岡「無常感というものと科学文明が手にしてしまったテクノロジーのパワーとを、どう折り合いをつけるのか。それが解決しない限り、無常感・悲哀では切り札にならないです。」

山折「尾崎における怒りと救いの関係、怒りと愛の関係を考える場合、悲哀についての観念が欠如していることが問題だと思います。」

森岡「尾崎のこだわりの一つは欲望なんです。欲望から発して宗教性へと走っていくとき、その行き先は無常ということではない。」

山下「私は尾崎に『父』を感じました。日本社会には希薄だと言われてきた『父』です。掟としての『父』。」

森岡「私もそう思う。日本社会日本文化のなかにも『父的なもの』を求めるものがある。それは構造的に抑圧してきた何か。」

山下「女性の変容一つとっても、日本社会のありとあらゆるもの、家族、学校、会社などにはびこる旧来の価値観、すべてが変化せざるを得ない時代が始まったのだと思う。国家、会社から自立した個人の確立がこの国には必要です。」

森岡「個人主義に立ちながらも、異質なものとの会話を模索していくスタイルが必要です。日本は今後、人種のルツボ化していくとすれば、尾崎的なスタンスに立つことで、国民という看板を下ろせる。国民という縛り、近代国家という縛り、そういう縛りをようやく下ろせるような歌を、尾崎は歌い始めたのだと、私は思います。」


 本にするために記録される前の実際の会話はこんなものではないだろう。さらに要約すれば事実と隔たり、なお分かりにくくなる。だから内容的にも難しい。

 手渡した本でこの尾崎の部分を読んだ彼は、ぼくの席に本を返しに来て言った。

「ぼくの思っていることと通じます。」

2016-11-12

[] 「思い」と「感じ」だけで大統領は選べない  「思い」と「感じ」だけで大統領は選べないを含むブックマーク


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 「思いがけない」結果が出たと言う。「思っていた」ことと異なる。したがって「意外」、すなわち「意」が「外れる」。「意」と「思い」が「意思」。

 「思い」に人は左右され、動く。一昨日アメリカでは、「思い」が衝撃的な結果を生んだ。

 だが「衝撃的」というのも「思い」だろう。

 「移民排撃」「イスラム攻撃」「アメリカ第一主義」、彼は「思い」を叫んできた。

 人間は意識のあるときは、常に「思い」が湧いてくる。その「思い」を口にする。

 基地反対運動をしている人に向かって機動隊員が、「ボケ、土人、シナ人」と叫んだことについて政府沖縄担当大臣が、「差別とは思わない」と終始抗弁している。すなわち「思い」なのだから、差別でも何でもないというわけ。

 こうも軽薄な「思い」。「思い」は頭をかけめぐる。

 忙しいなあ、なんとかならないかなあ、何を食べようかなあ、気温が下がってきたなあ、山がきれいだなあ、白馬岳はもう雪で真白だなあ、冬タイヤに変えなければならんなあ、医者へ行った方がいいかなあ、明日約束の時間に行かねばならないなあ、あと何年生きられるかなあ、フィシャーディースカウの「冬の旅」を聞こうかなあ、森田さんに電話したいが電話してもいいかなあ、元気かなあ、コウモリを入り込まないようにしなきゃあなあ、干してある黒豆を叩かねばならんなあ、寒いなあ、忙しいなあ、‥‥

 これら全部「思い」。

 「たぶんこの人は、やってくれるだろう」

 「この人は裏表のない率直な人のようだから、任せられるだろう」

 「この人なら、行き詰まりを打開してくれるだろう」

 「あの人よりはましだろう」

 おいおい、その「思い」は確かかい? どうしてそう「思う」の?

 それは、そう「感じる」からさ。「やってくれそうな感じ」がするじゃない。

 「雰囲気がいい感じだよ」

 おいおいおい、「感」とは何だ?

 「感じる」「感心する」「感動する」、「感じ」というのは「印象」だね。その人やその物に触れて心に浮かぶものだね。

 嫌な感じ、冷たい感じ、いい感じ、寂しい感じ、楽しい感じ、苦しい感じ、賢そうな感じ、ずるそうな感じ、勇ましい感じ、危険な感じ、安心できる感じ、不安な感じ、頼りがいある感じ、貧しい感じ、裕福な感じ、不吉な感じ、幸福な感じ、嘘っぽい感じ‥‥

 人間いつも何かを感じて生きている。

 「思い」や「感じ」を頼りに生きている。そしてうまくいくこともあれば、いかないこともある。

 だが、「思い」や「感じ」で、大統領を選んでどうする。

 重要なことは、「考える」こと、「知る」こと、「探究する」ことではないか。

 トランプさん、アメリカの白人の祖先はみんな移民ですよ。あなたも移民の子孫です。先祖の白人は、先住民ネイティブアメリカンにどんなことをしてきましたか。

 沖縄北方大臣殿、土人という言葉は日本の法律にもつい最近まで残っていましたね。北海道土人保護法(明治32年制定)は、平成9年(1997)廃止されました。なんとも遅すぎ、あきれたことです。

 アイヌ民族の歴史と琉球国の歴史をたどると、日本の国が見えてきます。そして中国に対する明治維新以後の歴史を調べれば日本人の意識が明らかになってきます。

 政治家は、歴史を探究することと現実社会を探究することなくして、本当の政治はできません。

 政治家を選ぶ庶民も同じです。歴史を知らずして政治家を選ぶことはできません。

2016-11-08

[] 政治にかかわるみなさんへ!  政治にかかわるみなさんへ!を含むブックマーク


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 自転車の荷台に箱を積んだ人が、自転車を押して歩いていました。年老いた女性でした。その横を、トラックや乗用車がスピードを緩めずに飛ばしていきます。道路の脇には歩道はなく、草が茂り、すとんと下がって田んぼになっていますから、怖くて自転車に乗れないのです。左によろめけば車に跳ねられる。右に足を踏み外せば田んぼに落ちる。明らかに女性はおびえて、足がすくんでいました。大変な所に入ってしまったと悔いているように感じました。安曇野を南北に貫く広域農道を、住吉の交差点から三郷に向かう途中でした。

 どうしてそんなところを通るのか。旧村のなかへ入れば道がある。けれどもその道は途中で途絶えたり曲がったりして、迷ってしまいます。彼女にはほかに道がなかったのです。

 何度かそんな光景を目撃しました。

 これはいったいどういうことだろう。私はこれはこの安曇野市あるいはこの国の、重大な文化の欠落問題ではないかと思いました。

 最近市役所の支所の入口で「交通事故非常事態宣言」と書かれた立て看板を見ました。長野県は交通事故が増えているのです。

 私の家の前から集落に入るので、入り口に、「スピードを落とせ」という標識がカーブミラーの下に付けられています。道路幅が狭く、歩車共用、車の対向が難しいところで、道が曲がりくねっています。けれどもお構いなしに車が突っ走っていきます。これまで数件の事故が起こっています。昨日の朝、自転車に乗ってゴミを集積所に持っていくとき、背後からクラクションを鳴らされてあわてて自転車を止めました。クラクションを鳴らす人に感じるのは、

「どけ! じゃまだ!」

という意識です。車に乗ると、この意識が強くなるのではないかと思います。障害になるものを排除しようとする意識が、歩行者自転車を「妨げになる存在」とみなしてしまう意識です。これには感情が伴っています。「歩行者は当然道を譲ってよけるべきだ」、車に乗ると、この自己優先意識がほとんどのドライバーに生じるのではないか。

 私は毎日野を歩きます。真横を車がスピードをゆるめることなく、走り抜けていきます。女性運転手もへっちゃらです。ブレーキを踏みません。車が優先ですよ、よけない人が悪いのですよ、そんな感じがします。しかし、高齢者はよろめくこともあります。子どもはいきなり飛び出すこともあります。もし私がよろめけば確実にアウトだと、車が通り過ぎた後に何度も思います。ときどき怒りが湧くこともあります。そんな近接したところを傍若無人に通過していくのです。そういうドライバーも、交通規則、マナーはよく知っているのです。知ってはいるが、走れば自己優先になるのです。

 どうしてこういう意識が生じたのか。このことを取り上げないで、「交通規則を守れ」と呼びかけるキャンペーンは、ほとんどの人には馬耳東風です。

 地域を歩いて目に入るのはほとんど車であり、歩く人はきわめて少ない。だから車目線、車意識が支配していく。

 本当の状況をつかむには歩かないと分かりません。歩いて直面しないと分からないのです。警察官は地域を歩いていますか。行政にかかわる人は地域を歩いていますか。私は全く見たことがありません。現場主義と言いながら歩くことのない人たちが、ほんとうの実態がつかまずに、政治を動かす。そうして偏頗な政策が進行するのです。

 日本の文化、人びとの暮らし、環境、教育、福祉農業、それらの根底をつかむには歩かなければできないのです。直接触れないと感じとれないのです。

 市民も歩く人が少ない。歩く文化が育っていない。

 高額の資金を使って、一部の人しか使わないハコモノをつくるよりも、景色を眺めながら安曇野を縦断する「緑の並木が木陰をつくる、歩く人のための道」、自転車に乗って安心して走れる道」をつくる。人びとが外に出て憩い、出会い、笑いさざめく、文化を育む緑なすオアシス道をつくる。それは市民の新たな文化の発祥源になっていくことでしょう。

 私はこの十年ほど、このことを主張してきました。しかし行政に届くことはありません。

2016-11-04

[] リニア中央新幹線の建設が始まった  リニア中央新幹線の建設が始まったを含むブックマーク


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 最高時速500キロで疾走するんだという。

 リニア中央新幹線の建設が始まった。2027年東京品川)―名古屋間が開業し、45年には大阪まで延びる予定だとか。

 政治経済の大勢は建設歓迎。

 磁力で浮いて、ぶっ飛ぶ。そりゃ夢のような話じゃないか、その夢、実現するとすばらしい。

 庶民も賛成。速いことはいいことだ。時間が短縮することはいいことだ。経済に効果のあることは賛成。発展発展、日本は発展。

 こうして歴史は動いていく。新しい何かが生まれ、歴史を刻んだ何かが消えていく。この歴史の流れ、大勢には逆らえない。時代は変わるもの。だから、それに乗るしかない。長いものには巻かれろ。

 巻かれろ?

 巻かれる「国民」なのか。

 「国民」とは何だ。「国の民」とは何を意味する?

 

 ぞくっと寒気がした。

 南アルプスのどてっ腹に長い長いトンネルを掘って貫通させるんだぞ。

 南アルプスって知ってるか? 登ったことがあるか?

 あの巨大な山脈、深い森。多くの生き物が生息するところ。

 腹に穴を開けられ、膨大な土を奪われ、地下水をとられ、山はその痛みで泣くぞ。

 山麓地帯には多くの貴重な伝統文化が残っている。住民たちが守って来た生きる人間の文化だぞ。農民歌舞伎もあるぞ。

 どっちを向いて、日本は走っているんだ。

 どこへ向かって、日本は急いでいるんだ。

 先だって見たドキュメンタリーの映像は、イギリスピーディストリクト国立公園だった。そこは1951年イギリス初の国立公園となったところ、沖縄県と同等の広さを持つという。歩く人のための道であるパブリックフットパスが公園内を縫うように続いている。映像はその道を6日間かけて2人の女性が歩くというもの。

 人間はどこでも歩く権利を持っている。その権利を国は認め、それを行使することのできるようにした小道フットパス、イギリス全土に24万キロに渡って網の目のように張り巡らされている。その道をたくさんの人が歩く。歩くことが大好きなイギリス人だ。

 国立公園のなかに小さな美しい村々がぽつりぽつりとある。農村は牛を飼い羊を飼う。広がる放牧地。田園も村も百花繚乱。ヒースの丘がある。森がある。フットパスを歩く人びとは、坂を登り、下り、うねうねと曲がりながら、遠くの空を見つめ、緑野を堪能する。ナショナルトラストの所有する土地がある。そこはどこを歩こうが自由だ。マナーハウスと庭園がある。領主達の館「マナーハウス」は今は宿泊施設として改装されている。イギリスの貴族階級の旧領地は公園として保存されている。

 住民が語っていた。

 昔々、すべての土地は誰のものでもなかった。どこを歩くのも自由だった。ところが歴史は動き、広大な土地は貴族階級のものになった。貴族の領地には労働者は入れない。イギリス産業革命が起こり、労働者たちはそれを支えた。そして気づいた。何故おれたちは貴族の領地に入れないのか。なぜそこを歩けないのか。おれたちは歩く権利を持っているんだ。歩こう。それがデモになった。

 すべて人は歩く権利を持っている。歩く労働者たちは、歩く権利を取り戻した。

 パブリックフットパスにはこのような物語があったことを、住民が話していた。

 かくしてイギリス原風景を永久に残そうという国民意識が共有されるようになった。

 歩く人のために、歩くことを楽しめる環境を保存する。歩く文化を残すことを第一義に考える。そこに国、行政は多額の予算を投入した。

 歩くことは生きることだ。歩くことは美しい自然を守ることだ。人々が守ってきた自然、文化を未来に向けて残すことだ。

 一人ひとり、生きている、呼吸をしている。

 呼吸のリズム、心臓の鼓動のリズム、それは人類の歴史を刻んでいる。

 山も村もずたずたにして、森を破壊して、

 500キロでぶっ飛ばして、

 そんなに急ぐ必要がどこにある。

 

 リニア中央新幹線東京大阪間に完成した時、日本の人口はどうなっているか。

 日本人はどんな歴史を刻もうとしているのか。

みすずかる信濃みすずかる信濃 2016/11/05 09:20 アメリカに生まれ、日本に住んで、東洋文化を研究してきたアレックス・カーが、山折哲雄との対談で語っていた(「こころの旅」)。山折が質問した。「日本人は自然に触れる、自然を感じる感覚が衰えてきていると見えますか」。カーが応えた。「ぼくはもう本当に無くなってきていると思います。街中の落ち葉はいけないとか、山を一種類の樹で覆ったりとか。杉林では草も生えず、リスやウサギもいない。ここまで自然を嫌っている国はあるのかなあ。タイ、ミャンマー、香港、そこに行ってきて、そこではもっと自然に触れる機会が多くあった。日本に帰ってきて、街そのものが、まるで盆栽なのね。本当の樹が一つも見当たらない。心配になってきた。」これが外国人カ―の目から見た日本の姿。その見方、当っている。街中の貴重な街路樹を伐り倒すという国。自然を味わいながら、何日も安心して歩くことのできる道がなくなってしまった国。機械文明を優先する国。自然を守り育てる文化が、やせ衰えた国。それが日本。

2016-10-30

[] 村の合唱  村の合唱を含むブックマーク


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 田舎の村の合唱クラブ「扇町コーラス」は31年の歴史を刻んでいる。昨日、町の芸能祭で合唱を発表した。総勢19人。

 この春、これまで11年間指揮してきた82歳の平林さんが引退し、代わってコーラスメンバーの大友さんが指揮をすることになった。まったく指揮の技術はなく経験もない。それでも引き受けた以上やらねばならず、やってみてその難しさから、とても自分にはやれそうにないと、我が家に弱音を吐きに来たことがある。

「まあ素人ばかりの集まりだし、みんなで創っていくのだから、皆で意見を出し合い研究しながらやっていきましょうよ。みんなで楽しく歌えばいいじゃないですか。」

 ぼくはそのとき、そう励ました。それから大友さんは、指揮をやっている人からいろいろ教わりながら、試行錯誤でやってきた。

 練習は月に二回、歌はみんなでこれがいいと思う曲を提案し合って、そのなかから、「遥かな友に」、「銀色の道」、「ふるさとは今も変わらず」、「堀金の四季」を選んだ。そうして練習を重ねて、この中の前の三曲を発表した。男性はバス。

 音楽を本格的に学んできた人は誰もいなくても、大昔から人びとは集まって合唱をしてきた。指揮者のいない合唱団もあるし、オーケストラもある。みんなで創り上げていくことに価値がある。権威的な人がいて、みんなは黙ってその人の言うとおりにするということがいいとは思えない。みんなで切磋琢磨していくことに価値がある。そう大友さんを励まし、大友さんもその気になって一生懸命指揮をし、なんとか芸能祭で発表出来た。大友さん、御苦労さま。

 「遥かな友に」は、ぼくにとっては懐かしい曲で、青年時代に山でよく歌った。「ふるさとは今も変わらず」は、東北震災の復興ソングだということを途中で知った。月に二回の練習だけではあいまいなところが残り、インターネットユーチューブで、「ふるさとは今も変わらず」を引っ張り出して、そこに出ている新沼謙治と少女たちの合唱を聞きながら楽譜を目で追い、何度もバスのパートを歌って練習した。かくして東北岩手気仙沼新沼謙治の故郷で、大震災の後彼は故郷・被災地を訪ねて歌い続けてきたことも知った。

 ユーチューブに入っている映像の一つに、夜の被災地での合唱があった。仮設住宅のまえにブルーシートを敷き、そこに被災者たちが座っている。暗がりが辺りを包んでいる。新沼謙治と十人ほどの少女たちはその前に並んで歌っていた。歌を聞いている人びとの顔が、カメラに浮かび上がる。一人ひとりの表情を見ていると、その心の内が伝わってくるようでぼくは胸がむせて涙が出た。「ふるさとは今も変わらず」と、新沼謙治は作詞したが、現実は大きく変わってしまった。「故郷がかわってしまった」ということでは、わが故郷、河内野も大和路も、おおきく変わってしまった。その変わりようは、自然災害ではなく人間による意図的な変え方であり、破壊でもあった。そしてその最たるものに日本は遭遇した、福島原発事故。つくられた神話を信じた結果、いまだ故郷に帰れない人々がいる、半永久的な故郷の喪失が起こっている。

 「ふるさとは今も変わらず」と呼びかける新沼の心は、歌詞のなかに込められている。失われたものへの哀惜、心の中のふるさと

   爽やかな朝もやの中を

   静かに流れる川

   透き通る風は体をすりぬけ

   薫る草の青さよ

   緑豊かなふるさと 花も鳥も歌うよ

   君もぼくも、あなたも、ここで生まれた

   ああ ふるさとは 今も変わらず

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 合唱メンバーであり絵を描く有賀一人さんが、ぼくの顔写真を撮って、それをもとに一枚の絵をしあげられた。芸能祭の展示のコーナーに展示したよ、というから見に行った。うーん、なかなかいい絵だなあ。

 

 

2016-10-25

[] 旅人の夜の歌   旅人の夜の歌を含むブックマーク


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 日野原重明さんが先日書いておられる記事は、安曇野の鳥居山荘での集いの話だった。

 毎年そこで開かれる名古屋聖書研究会の「夏の集い」に、日野原さんは今年も参加しておられた。山荘での集いの夕食に大好きなトウモロコシが出た。日野原さんは塩を少しふって食べようと思い、「ちょっとお塩を」と言うと、そこに小塩節さんがおられた。思わず二人は顔を見合わせて笑ってしまった。小塩節さんはその会で、「モーツァルト 生涯の環」という感銘深い話をなさった。日野原さんはその話にぐんぐん引き込まれた。その話に続いてモーツァルトの「魔笛」のアリアを、神谷徹さんがストロー笛とリコーダーで演奏した。絶妙な連携だった。

 ぼくが驚いたのは、小塩節さんがお元気で、この夏、安曇野に来ておられたということだった。偶然小塩節さん著の「旅人の夜の歌 ゲーテとワイマル」(岩波書店)を読んでいる最中だったから、そこにも「環」のようなものを感じた。

 小塩節さんは1931年生まれだから85歳になられている。日野原さんは100歳を越えておられる。そしてなおも安曇野に来て、研究会に参加しておられる。

 小塩節さんが「旅人の夜の歌 ゲーテとワイマル」を出版されたのは2012年だ。

 ワイマルは、バッハゲーテシラーニーチェなどが育ち活躍し、文学、音楽、哲学、演劇、映画、自然科学の花開く文化都市の公国だった。人が人らしくあるヒューマニティの地だった。そして王政は平和裡に市民の議会制に移行し、当時の世界で最も民主主義的な「ワイマル憲法」を制定する。ところがそのワイマルは、20世紀に入ると民主制を利用したヒトラーが台頭しナチの舞台となった。そして第二次世界大戦に突入、ワイマルにはブーヘンヴァルト強制収容所がつくられ、ユダヤ人をはじめ多くの人びとを抹殺する地獄が始まる。

 ドイツ降伏しナチが滅ぶと、次にソビエト軍が入って、ブーヘンヴァルト強制収容所ソビエト強制収容所となり、ナチス反共主義者収容弾圧する所となって6年間続いた。

 天国から地獄への繰り返し、この変化、人間の転落はなぜ起こるのか。

 ゲーテ(1749〜1832)はその公国で政治の要職につき活躍した。小塩節は、ゲーテがつくった二つの同名の詩「旅人の夜の歌」を元にして、ゲーテとワイマルについて、そしてゲーテ没後のドイツの「さすらい」を考察している。最初の詩は、ゲーテがワイマルに来た26歳の時の作、もうひとつのは4年半経って、ゲーテ行政官として活動していた時の作。詩を小塩節は次のように訳している。

 二つの「旅人の夜の歌」の最初の詩。


       旅人の夜の歌

   おんみ 天より来たり

   すべての痛みと苦しみを鎮めるものよ

   重なる悲しみの深き者を

   慰めを重ねて満たすものよ

   ――ああ われ人世のいとなみに疲れ果てぬ

   痛みも楽しみも すべてそも何――

   甘美なる平安よ

   来たれ ああ来たれ 我が胸に


 二つ目の詩。

        旅人の夜の歌

   峰々に

   憩いあり

   梢を渡る

   そよ風の

   跡もさだかには見えず

   小鳥は森に 黙(もだ)しぬ

   待て しばし

   汝(なれ)もまた 憩わん


 初めの詩には150曲、次のには200曲の調べが付いていると小塩さんは言う。特によく歌われるのはシューベルトの曲である。ユーチューブを検索すると二つ目の歌が聴ける。歌手ハンスホッタ―の「さすらい人の夜の歌」は心にしみる。次のように訳されている歌詞があった。



     さすらい人の夜の歌


   すべての山の頂に

   安らぎがある すべての梢に

   お前はほとんど感じない  その息吹を

   森の小鳥は黙している

   ただ待つのだ ただ待つのだ

   すぐにお前にも 安らぎが訪れる

   ただ待つのだ ただ待つのだ

   すぐにお前にも 安らぎが訪れる

2016-10-21

[] 野村哲也先生  野村哲也先生を含むブックマーク


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 野村哲也の名前を見つけたのはこの夏だった。野村先生はこの二月に逝去されていた。同姓同名の人がいるかもしれないが、たぶん間違いないと思う。大阪教職員互助組合の退職者向けの通信誌が定期的に送られてくる。そこに大阪府の教職員だった人の訃報欄がある。ああ、あの強健な野村先生も逝かれたか、いったい何歳だったのだろう、九十歳に近かったのじゃないか。先生はぼくの高校時代の担任で、社会人山岳会である関西登高会の主要メンバーだった。野村先生に連れられて、高校三年の夏休みに、初めての北アルプス剣岳に登った。大学一回生のとき夏の穂高白馬岳、冬の唐松岳に登った。家へもよく遊びに行った。行くと、グリーグピアノコンチェルトチャイコフスキーコンチェルトが奥の部屋から聞こえてきた。この先生の影響で、ぼくは山を始めたのだった。高校二年生の時、野村先生は関西登高会の冬の遠征で北海道日高山脈のペテガリに登られた。その翌年は冬の前穂高東壁にアタックし、奥又白で隊員が雪崩によって遭難死した。大学二回生になる春、ぼくは関西登高会の御在所岳藤内壁合宿に参加して、岩登りの腕を磨いた。たくさんの若い会員が集まってきていて、野村先生は岩のルートの難易度を勘案しながら、ザイルパートナーを決めて、岩に向かわせた。

 初めての剣岳登山のときに暴風雨に揺れるテントの中でも、野村先生は人生論や恋愛論を語った。授業のなかでも、生き甲斐や生きる目的や、愛することなどについて語った。「好日山荘」や「山の店」のある大阪市中之島の近くにあるクラシック音楽喫茶「日響」を教えてくれたのも野村先生だった。静かな音楽喫茶のなかで、コーヒーをのみながらショパンピアノコンチェルトを聴いた。

 関西登高会の新人会員だった辻君とは、会の御在所合宿と野村先生との雪の唐松岳登攀で親しくなった。その辻君は翌年、関西登高会の穂高奥又白合宿に参加し、前穂東壁に先輩ベテランクライマー二人とザイルを組んで登攀中、ビバークの岩棚で凍死した。岩壁での一夜、吹雪に襲われ、精神状態が不安定になり、着ているものを次々脱いでいって死んだ、とぼくは野村先生から聞いた。先生の最高潮の時は、ヒマラヤ遠征時代だろう。ビッグホワイトピ−クの隊長をつとめられた。

 野村先生からは多くの影響を受けた。なによりも生き方としての影響が大きい。野村先生と最後に会ったのは、1970年だった。それからぼくは教育実践や社会運動に埋没し、気がついて野村先生の消息を尋ねてみたときは2000年になっていた。30年の年月を経て、住居も変わり、教職も大学に勤めておられたことは分かったが、退職以後のことは分からなかった。何とかして会ってみたいと思いながら、月日は流れた。そして目にしたのは、互助組合通信の「お悔やみ申し上げます」という訃報欄だった。今年の2月までは野村先生は確かに生きておられたのだ。

 老いたるドウショウは、老いたる先生に会いたかったです。

2016-10-15

[] 初霜  初霜を含むブックマーク

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 秋休みで孫娘が来て一週間暮らしていった。小学校二年生、いまどき秋休みが一週間もある学校って、珍しいだろう。授業数を増やせ増やせの号令と企業の超過勤務・異常残業と重なるものがある。異常残業で自殺した若い女性社員がいたましい。

 日本はどこか変だ。人を酷使する体制のぎすぎすした精神。


 じじばばと暮らした一週間、孫娘はばあばに、べったり甘えていた。

 一緒に風呂に入り、一緒に寝て、一緒に買い物に行き、午後のランちゃん散歩はばあばと行った。朝一番のランちゃん散歩は、じいじと行った。

 畑の秋ササゲの収穫は、じいじと一緒にやった。ネコカフェへは、ばあばと一緒に行った。食事作りや配膳は、ばあばと一緒にやった。

 モーツアルトベートーヴェンエジソンの漫画伝記を一人で読んでいた。図書館の子どもコーナーで二時間、本を読んでいた。借りてきた本を一人で読んでいた。

 ランの朝ごはんと夕ご飯は、一人でやった。しょっちゅうランの体に触っていた。散歩のときはランのリードをもって、ランを連れ歩いた。

 

 今朝、初霜が降りた。

 朝晩、ストーブが必要になった。

 ハチが陽だまりに群れている。

2016-10-12

[] 大峰高原の大カエデ  大峰高原の大カエデを含むブックマーク

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 有明山のふもとにサワラの巨木の群生林があると聞いて、孫のホノちゃんを連れて家内と馬羅尾(ばろお)高原へ行ってみた。松川村ちひろ美術館から山へ入っていく。この夏に息子や孫たちとキャンプに来たところよりも、もっと奥に入った有明山麓と聞いていたから、高原の登り口の民家に立ち寄って、樹のことを聴いてみたら、そんな樹があったかねえと、頼りない返事だった。この季節あちこちでクマ出没の情報が出ている。今年は山の樹の実が少なく、クマが里へ下りてきているというのだ。巨木のあるところまでは徒歩で行かねばならないということも聴いていたから、巨木をたずねて山中に分け入ることは危険をともなうし、おまけに小学二年の孫娘を同伴となれば、これは冒険になると判断して、我らは方向転換して池田町の大峰高原の大カエデを見に行くことにした。

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 これが二度目の大カエデ詣で。山道をくねくね車で走って登っていった。七色大カエデに到着したら、紅葉のしかけで、まだ緑が多く、すべての葉が色づくまでは日数を要するようだった。それでもカエデも見に来る人がぽつぽつ絶えず、テントを張って地元民の野菜や加工品の店も出ていた。腰の曲がりかけたおばあちゃんが、「まだ暖かいよ」と言いながら、オヤキ、オコワ、オデンミニトマト卵焼き販売していた。お昼までまだ一時間あったが、おばあちゃんが昨夜から作ったものだから買わずにはおれない。

 カエデの周りには半径10メートルほどの範囲にロープが張られていた。一本の大カエデ、この樹のおかげで、この周囲が憩いの広場になり、人びとの訪れる場になり、地元の村の収入源にもなっている。

 保育園児二十人ほどの集団が上がってきた。背中より大きなザックを担いで、それがお尻のあたりまでずれている。ふうふう言いながら歩いてくる姿を見ているだけで、笑いがこみ上げる。先生が数人付いている。子どもたちはザックを一か所に固めて置き、白樺林の林の上まで登ると、そこから先生の合図でいっせいに草地の坂を駆け下りてきた。

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 不思議にワアワア叫んだりしない。幼児が坂を全速力で駆け下りる、これは普通危険なこととして避ける。下りを走るとスピードに脚が追い付かず、前のめりになってこけてしまう危険がある。頭、顔面から転倒。ところがこの子ら、こけない。一人二人、転倒したがまた起きて走り下りた。走り下りてきた子らはまた坂を登って上に行き、先生の合図で走り下りてくる。何回か繰り返した。

 やっぱり山の子だなあ。

「雨が降り テルテル坊主が 泣いても

わたしたちは 泣かないで 山を見つめる

山の子は 山の子は、みんな強いぞ」

という歌が頭に浮かんだ。





  

2016-10-07

[] 大川小学校の、悲劇のなかの謎  大川小学校の、悲劇のなかの謎を含むブックマーク


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 直接その人に会ったわけではない。震災後にときどき放送されたドキュメンタリー映像で知った人だけれど、その人がどういう人か、映像から伝わるものが大きかった。

 その人は中学校の国語の教師だった。あの3.11大津波によって、小学生だった娘を亡くしていた。彼は保護者と教育委員会との話し合いの席で、絞り出すような心の声で語っていた。的を射た論理と誠実な人柄がぼくの心に強く残った。

 宮城県石巻市立大川小学校に、その人の娘さんは通っていた。大地震が起こり、津波が襲ってくることを予知した大川小学校の子どもたちと先生は運動場に出て、避難しようと待機していた。すぐにでも逃げるべきであったのに、教師たちは50分も校庭で子どもたちを避難させずに待っていた。避難を始めたときには、津波は迫っていた。そして子どもたち74人と教師10人が津波に巻き込まれて死んだ。

 50分もの待機。何を? いったい何を待っていた? なぜ動かなかった? なぜ教師たちは動かなかったのか? 

 娘を失ったその中学校の教師は、佐藤敏郎さん。大川小学校の児童の保護者でありPTA会員でもある。その後、佐藤さんはそこに潜む謎を問い続けてきた。

 10月6日の新聞「オピニオン欄」に、佐藤さんへのインタビュー記事が出ていた(朝日)。佐藤さんは中学校の教員を止めて、「小さな命の意味を考える会」の代表になっていた。その人の生き方は大きく変わっていた。

 インタビューのなかで佐藤さんが語っている。

 ――あの子たちはなぜ死ななければならなかったのか。いまだに、わからない。教育委員会は生き残った子どもたちから聞き取りをしたにもかかわらず、記録を廃棄していた。第三者検証委員会は、5700万円もかけて調査したものの、真因に迫ろうとしたようには見えない。

 生き残った子どもたちによると、校庭の裏にある山に逃げさせよう、と何度か口にした先生がいた。でも、その声は教師たちの意思にならなかった。教師たちはいったい何に縛られていたのか。

 生き残った先生が1人だけいた。その人が「山へ」と呼びかけた先生だった。その先生はいまも教壇に立つことはできず、家にこもりがちになっている。

 真相解明をめぐって、市教委は責任逃れの、組織の言葉ばかりで、子どもの命の話にならない。あのとき、子どもたちはどんなに怖かったか。目の前で子どもを亡くした先生たちはどんなに悔しかったか。

 あの日、先生たちは子どもたちを何とか助けたいと思っていた。なのに助けられなかった。もう1人、覚悟をもって「山へ」と言えていれば、みんなで議論できていれば……。でも、できなかった。

 想定外や初めてのことが起きたとき、いろんな意見が出るのは当然だ。ただ、違う意見は批判と取られてしまう。自由に語りづらい。そんな日常の延長に、あの校庭があったのではないか。

 生徒にとって大事なのは何か。学校はいかに必要のないものに囲まれていたか。見た目とか形式とか日程消化とかにとらわれていないか。上の指示やマニュアルに従っていればいい、と思ってはいないか。それで、いざというときに、大切なものを守れるか。

 日本のいろんなところに『大川小の校庭』がある。だからこそ、空白の50分を解き明かすことが大事なのだ。

 校舎は震災遺構として保存されることが決まった。

 残したい、と最初に声を上げたのは、間一髪で生き延びた当時11歳の男の子だった。彼は大川小に通う妹、母親、そして祖父を亡くしている。誰のために残すかといえば、50年、100年先に生きる未来の人のため。

 何か言うと、すぐに「遺族が騒いでる」となって、対話が断たれてしまう。考えが違うだけで、「対立」と報じられる。意見が違うからって敵じゃない。言葉を重ねるうちに何かが見えてくる。市教委も先生も遺族も裁判官も記者も、みんな同じ船の乗組員なんだ。そこには、あの子たちも乗っている。――

 

 「もう1人、覚悟をもって『山へ』と言えていれば、みんなで議論できていれば……。でも、できなかった。」

 なぜそうならなかったか。

 普段から教師たちは、自分の意見を率直に会議の中で出してきたか。異なる見方や判断、考え方を、会議の中で提起し、協議して最良の道を選択できる学校組織にしてきたか。教育行政はどうだったのか。

 意見を出す力、異論を発掘する力、他者の意見を聞く力教育現場はその力を、そして技術を鍛える必要がある。沈黙する職場では、非常時に強い力、子どもを守る力は育たない。非常時の場合は普段以上に上からの指示を待ち、指示が出るまで動かないという状況が生じる。自己の判断を意見として出すことを控えがちな、マニュアルに忠実な人間の多い組織は危機を越えられない。一人の先生が「裏山へ逃げよう」と言ったとき、「そうしよう」と判断して呼応する先生がもう一人そこにいたら、教師たちの意思が形成されただろう、と佐藤さんの言うのはもっともだと思う。

 この教育委員会の使命感を失った無責任体制は、すでに子どもの命をあずかることのできない機関になってしまっている。こういう組織が日本に蔓延しているのではないか。最近顕著なのは東京都庁都議会だ。退廃の根本に、リーダーの薄弱さがある。そういう組織の長が職員の人事権をにぎって、都合のよい人事を行なってきた。上意下達の態勢と、出世手段となった人事の道、それがはびこるところでは、ひそかな統制が進み、異論や対論、新たな発見、創造が影をひそめる。

 「日本のいろんなところに『大川小の校庭』がある。だからこそ、空白の50分を解き明かすことが大事なのだ。」

2016-10-06

[] 小さき命  小さき命を含むブックマーク


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 台風が過ぎた今朝は青空が広がっている。久しぶりに常念山脈の稜線が見えた。

 昨夜、風のいちばん強かった時は、午後10時頃だった。ごうごうと吹き荒れ、家がかすかに揺れた。南風が強く、ドーンドーンと家の外壁に打ち付ける何かの音が聞こえた。風の息切れが長くなって、突如強風が吹いたりしていたが、やがて風は収まっていった。

 今朝、外に出てみると、アサガオグリーンカーテンは倒されていたが、被害らしきものは見当たらない。倒れたまま朝顔の花は咲いていた。

 驚くのは小さな生き物の姿だった。あっちでもこっちでも、クモの巣が風に吹きちぎられず残っており、巣の真ん中にクモがいる。

 おい、おい、おい、お前たち、どのようにしてあの風を避けたんだい。

 トンボが飛んでいる。モンキチョウゴーヤの小さな花の蜜を吸いに来た。シジミチョウも草の上を舞っている。ユスリカが群れている。

 おい、おい、おい、お前たち、どのようにしてあの風を避けたんだい。

 稲刈りのすんだ田の畔にはエノコログサがたくさん、すいすいまっすぐ伸びて、風になびいている。暴風を軽く受け流した。強風の時は地面に伏せて、止まればまた起き上がる。

 エノコロとは、イヌコロのことらしい。その穂が、子犬のしっぽに似ているから付いた名前だそうな。ネコジャラシとも言う。ネコの前で、エノコログサの穂を動かすとネコがじゃれる。

 犬と猫と人間の暮らし。

 小さき者たち、小さき命。

2016-10-03

[] 無知から来る差別  無知から来る差別を含むブックマーク

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 街頭やインターネットで、「朝鮮人ババア」、とののしられた在日朝鮮人のご婦人が訴えた裁判で、大阪地方裁判所は、

差別を助長し、増幅させることを意図したものである。人格権を違法に侵害するものであり、人種差別撤廃条約の趣旨に反した侮辱行為である」

として訴えを認め、裁判に訴えたご婦人に損害賠償金を支払うように命じた。被告は、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)と桜井誠

 在特会ヘイトスピーチは、陰惨で暴力的なもので、このご婦人は、人間としての尊厳を否定する差別の標的にされた。その精神的な傷は、判決の77万円の賠償金で購われるようなものではない。

 白昼公然と、「殺せ」「日本から出ていけ」と、叫びながらデモをする。こんなデモがまかり通っている日本という国。

 最近、古代史研究者の書を数冊読んだ。

 「ヤマトタケル伝説と日本古代国家」(石渡信一郎 三一書房

 「女王卑弥呼の国」(鳥越憲三郎 中公叢書

 上田正昭の書、数冊

 驚嘆した。古代に、おびただしい数の朝鮮からの渡来があったことの実態である。

 「百済人」「新羅人」「高句麗人」「加羅任那)人」‥‥

 古代に日本と交流のあった、最も近い国は朝鮮の国で、渡来人が多いということは知識としては持っていたけれど、驚いたのは、史跡遺跡、文献などから判明してきた渡来人と日本との関係はひじょうに濃厚で、文化の伝来者であると同時に、日本に定住して、政治を援助し、日本の文化を創っていくリーダー的な役割も果たしたということなのだ。渡来人がもたらしたものとして、

 漢字を伝えた。

 仏教を伝えた。

 鉄の技術を伝えた。

 須恵器などの陶器を伝えた。

 彫刻、建築に力を発揮した。

 などなど、いろいろある。当時は中国という先進国があり、朝鮮はその影響も受けて朝鮮文化を育んだ。朝鮮先進国だった。水は高い方から低い方へ流れる。文化も同じく流れた。

 そこで、いま自分は古代に生きていると想像する。するといろんな疑問が湧いてくる。この疑問に対して「想像してみよう」が学校の授業で必要なのだ。

 多くの学校で教える歴史は、

「いつ、どこで、何があったか」

「何が起こったか。だれがしたか」、

 そういう「ことがら」が中心になっている。だから無味乾燥で、断片的知識になってしまう。重要なのは、

「何故そうなったのか? 何故そうしたのか?」

「どのようにして、それをしたのか?」

ということだろう。 

 古代日本には朝鮮からの渡来人が多かった。このことの奥に、なぜ日本に来ようとしたのか、という問題が潜んでいる。それを想像しながら史料をもとに解明しようとする授業が、学問としての授業ではないか。

 人類はこの地球に誕生して、世界に広がっていった。生きのびるために、現在を守りながら、常に別の世界を夢見た。今住んでいるところが安住の地であればそこを故郷とし、そこが住みにくく、安全が脅かされれば、新天地を求める。

 古代の文化の伝播は、情報だけの伝播ではなかったろう。技術は経験者、専門家がやって見せて伝わる。さらにそれを伝えるには、そこに定住して実践しなければできない。原住民とともに暮らす移住民にならなければ、文化は受け入れられず、伝わりもしない。その土地の人になる、その国の人になる、そういう渡来人たちが、日本の古代において大きな役割を果たし、国づくりに貢献した。

 唐と新羅連合軍との戦争で百済が滅んだ。国を失った百済の人たちは何を考えただろうと、授業の中で想像する。百済人は倭国へ行ってみようと考えた。そうして倭国へ来た人たちもいる。その数は正確には分からないが、たぶん相当な数だったのではないか。現在日本の中の渡来を示す遺跡史料を授業で取り上げる。今の世界情勢の難民の状況から想像してみる。生徒たちは何を思うだろう。何に気づくだろう。

 当時の倭国の人口はどれぐらいだったろうか。そして渡来人は、何百人、何千人、何万人……、いったいどれぐらいの人が日本に移住したのか。

 そしてまた、それらに人はどんな船に乗って来たのか。航海の技術は安全を保てたのか。現代のシリア難民は、小さなボートにぎっしりすし詰めで海を渡った。たくさんの人が死んだ。

 「ヤマトタケル伝説と日本古代国家」で石渡信一郎は、こう書いている。

 「弥生時代から古墳時代にかけて、近畿地方朝鮮半島南部から大量渡来があったことは、1960年代から人類学者によって指摘されているが、日本の古代国家が朝鮮渡来人の国家であると唱える古代史学考古学の『権威』は現在一人もいない。古代史学者・考古学者が日本人単一民族論の影響から抜け切れていないからである。古代史学界・考古学界では、弥生人が渡来したことをようやく認めるようになったばかりであり、弥生人中国江南地方や山東半島から渡来したという説を唱える学者さえいる。こうした説は、韓国朝鮮人への差別意識産物である。」

 石渡氏は膨大な史料を分析し、考証し、「応神天皇百済倭国を建設し、その初代大王となった、応神天皇ヤマト王朝の始祖である」という仮説を立てた。

 朝鮮人差別を広言してはばからない人たちがいる。この現実は、現代社会における空洞化した歴史教育産物であろう。近現代の日本の歴史とともに、古代についても学ばねばならないと思う。

2016-09-29

[] 秋、生命  秋、生命を含むブックマーク


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庭の白樺の一本、

葉がまだ色づいてもいないのに、ほろほろ舞い落ちて、

わずかに木に残っている葉ももうすぐ散るだろう。

木が弱っているのか、カミキリムシなのか。

カミキリが幹に穴をあけて卵をうみつけないように注意して、寸前に三匹この夏つかまえた。

では原因は何だろう。

大根ホウレンソウレタスの芽が出ているものの、

日射しが少なくて、生長が遅い。

ニンジンがもうすぐ食べられると思っていたら、土の中を潜ってやってきたネズミに食われた。

今日もまた雨。

稲刈りのすんでいない田んぼはいつになるやら。

今年は蚊が増え、庭にいると小形の薮蚊がたちまち寄ってくる。

大友さんがやってきて、腕をパチンとたたいた。

「蚊が増えて困るね」

「ほんと、増えたよ、増えたよ」

「蚊が増えたからか、トンボふえたね」

「トンボは蚊を食べてくれるの?」

「そうですよ。パクパク飛びながら食べているんですよ」

「じゃあ、家の中にトンボを入れようか」

「ワッハッハ」

「それにしても、蚊はどこから発生しているのかね」

「この二、三年で増えてきたね。今年が最高」

「蚊が増えたということは自然が戻ってきたということでもある」

「そうかねえ」

「だからトンボが増えた」

トンボは、日の照る日には数十匹が庭を舞っている。今までこんなことはなかった。

トンボが増えたからクモも増えたのか、庭にいっぱいクモが巣を張っている。

この秋初めての霧の日、

霧が晴れると、軒先や木々に張られたクモの巣が白く輝き、

クモの糸にくっついた霧の滴が浮かび上がった。

たくさんのクモの巣、あんなところにも巣があるよ。

だがトンボはうまく巣を避けて飛んでいる。

トンボの目玉はお見通し。

家のなかでカマドウマ発見。そっと掌に包んで外に出してやった。

草むらで小さなヒシバッタ発見。

けれどもたったの一匹ずつ。

カマキリは一度見ただけ。カタツムリは増えた。

クロアゲハ、シジミチョウ、モンキチョウは花に舞った。

蛇の姿はない。トカゲもない。ネズミとモグラは多い。

周りは田んぼ。

小さな庭に、それでも虫たちが集まってくる。

蛇よ、トカゲよ、やって来い。

2016-09-26

[] NHKスペシャル「縮小 日本の衝撃」  NHKスペシャル「縮小 日本の衝撃」を含むブックマーク



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 昨夜のNHKスペシャル「縮小 日本の衝撃」は、そのとおり衝撃的だった。百年近い国勢調査史上初めて、今年は日本の総人口が減少に転じた。東京都五輪開催の2020年に減少に転じるという。人口の年齢構成も、これからますます高齢化が加速し、出生率が低下する。この現象は、日本全体に現れてくる。未来を予知し、その未来に向けて行政をつくっていく能力をもっているか。その到来を予知して今、行政を行なっているか。

 報道を見ながら、ぼくは今住んでいる安曇野市実態を考えていた。五か町村の合併によって誕生した安曇野市は、これまで「いけいけどんどん」で、新市庁舎を建て、支所の建物を建て替え改築し、さらに新体育館建設計画を進めている。合併特例債の使える今それを使わなければ損をする、と。しかし、合併特例債も借金に変わりはない。それが未来への道であったのか。

 報道は、すでに地方で始まっている「撤退戦」や東京の思いがけない現実をルポしていて、愕然とした。このまま行けば財政破綻によって自治体が滅ぶと危惧する担当者の声が重かった。地方のみならず、東京でも、五輪開催の2020年から減少に転じると予測されるゆえに、それにむけて行政の質的転換を図ろうと考える自治体もすでに現れている。

 夕張の例が深刻だった。

 2007年に財政破綻をした夕張市東京都職員であったが、その安定した仕事を捨てて夕張市長になった35歳の鈴木市長の苦悩と奮闘。

 国の借金は350億円余りあった。今105億4000万円。繁栄当時に建てられた住宅は空家だらけ、それを今壊している。壊す費用も莫大。子どもたちは地元の夕張高校へ進学しても夢がえがけないと札幌に出ていく。進学希望者が30数%に落ち込み、市長もその対策に走り回る。保育所は築40数年たち、雨漏りや隙間風、市営住宅も雨漏り、共同体は崩壊。市長は月収を手取り16万円弱に減らし、出張費も自費で行なっている。市長の生活もかつかつ、よくやれているものだと思う。

 このような現実がある一方で、他の自治体では、政務活動費をぼかぼか自分の「ふところ」に入れている議員実態がある。使わなければ損だと、合併特例債をどんどこ使う。

 相変わらず、慣れ合い、同調、ボスが牛耳る、異論に耳を傾けない。

 考えればもっと未来に借金を残さない手はあるのに、その市民の声は聞かず、安直に借金をしてハコモノをつくる。

 人口が減るのは仕方がない。減るとすればどうする。貧困問題、就職問題、高齢化問題、教育問題、人口問題、環境問題福祉問題、これらの問題を解決する道は? 本気になって考える市民、本気になって取り組む行政を育成しなければ、ほんとうに破たんする。

2016-09-21

[] 「国際化」から「民際化」へ  「国際化」から「民際化」へを含むブックマーク



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 探検家でもあった文化人類学者の梅棹忠夫歴史学者上田正昭が1999年にこんな対談をしていた。

梅棹 「民族間の紛争というものは、人間の業みたいなものですが、必ずしも歴史全体を通してあったわけではありません。激しくなったのは、ここ数百年のことです。しかし、おそらく二十一世紀の中ごろまでは、人類は民族・宗教紛争に悩まされ続けるであろうと思います。」

上田 「何か解決策はないのでしょうか」

梅棹 「はなはだふがいないことですが、解決策を出すことができないのです。あればとっくに出しています。できることは、たくさんの事実から客観的な学問の立場で、民族紛争がなぜ起こったか、どういう問題があるのかということを的確に指摘するところまでです。その点では、出口王仁三郎師は問題のありかをひじょうに的確に示され、思想的には解決ができているのです。『万教同根』、これだけです。宗教的には『万教同根』で越えられるんです。みなさんが『万教同根』だと納得すれば、越えられるんです。しかし、みなさんそれを納得しません。そこが問題です。人類という一本の木の同じ枝分かれとして、お互い認め合うしか、民族、宗教、文化の違いは越えられない。どうしたらそれを認められるかということです。」

上田 「歴史学の立場から見て、私も民族問題、宗教問題が、二十一世紀に持ち越す大きな宿題になっていると思います。そういう中で人類の平和にとって大切なのは、国や民族を越えた、民衆と民衆の交わりではないかと思います。さらに、民衆相互の理解です。私はそれを『民際化』と呼んでいます。民衆と民衆が、人間として交わっていくのです。……

 宗教学者山折哲雄さんがいみじくも言われました。『行や祈りを通して対話したらどうか』と。神仏に祈る、修行することはあらゆる宗教共通しています。まさに『万教同根』です。祈りと行で対話する時、宗教の連帯が具体化します。」


 この対談は、「古代史から日本を読む」(学生社)のなかにある。

 国家のイデオロギーや利権で争う「国際化」ではなく、国家の枠を外した地球の民として交流する、すなわち民衆による「民際化」が、今の人類の問題を解決する。そうだと思う。

 今世界を見ると、とんでもない方向に進んでいる。自民族の防御のために他民族を排斥し滅ぼそうとする。自分たちの宗教のために異教を攻撃する。それをあおっているのが国家指導者たち、政治家たちで、民衆は翻弄されている。

 排除や独占の思想で外交を行なえば、必ず破綻する。

 「民際化」の実践と広がりが重要なキーだ。

 中村哲さんたちによる、アフガニスタンでの実践、「砂漠に水路を引き、緑野を生みだし、住民の暮らしを稔らせる」プロジェクトは、アフガニスタンの民衆と日本の民衆による「民際化」の活動、まさにこれだと思う。

 歴史を見ても、人類が世界に広がっていった過程には、国家という束縛がなかった。長い旅をしてきた人類が、今になって「俺らの世界」から敵をつくって、さかんに攻撃を開始している。最悪の事態だ。

2016-09-13

[] 「歌集 小さな抵抗  殺戮を拒んだ日本兵」<2>  「歌集 小さな抵抗  殺戮を拒んだ日本兵」<2>を含むブックマーク



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   天皇(すめらぎ)の赤子(せきし)の軍になぶり殺しうくるとも吾(あ)は踏みたがうまじ

 ありとあらゆるリンチをうけて、良三は思う。兵は天皇子どもだと称し、天皇制軍国主義は将兵・軍を鼓舞した。その天皇の軍によって、自分はなぶり殺しにあいつつある。たとえ殺されても自分は道を踏み違えまい。

 捕虜を新兵の訓練に殺すことを拒んだ兵への虐待、そういう状況を中国の村人は見ていた。そして良三の心に応えていくのである。

   柔らかにもえ立つ春の陽だまりの村人の微笑(えみ)に救い覚えつ

 良三は、それ以後「危険思想の持ち主」「軍の余計者」として部隊を転々とした。徐州の部隊に移ったのは1945年春だった。街の中に宋代の詩人の詩碑があった。良三がそれを読んでいると、一人の老人が声をかけてきた。

 幼児が遊んでいた。その子らの耳だれがひどかった。なんとか治療をしてやりたい。良三は子どもと約束する。またやってきて治してやるからね。そうして子どもらと接しているうちに、笑顔で寄ってくる子も出てきた。

   おごりとも愚かというもこの小さき生命の病むを捨ておけぬなり

 ついに敗戦がやってくる。部隊は武装解除され捕虜の立場に転落した。上官は戦犯の嫌疑がかけられ、引かれていくものもあった。


   敗戦を徐州に迎う生命賭けいつわらざりし生きの日ののち

   復員の見込みを問いし士官いま戦犯指名にひかれゆきたり

   戦犯の名指しふえつつ日と共に士官の目見(まみ)の深むおののき

   戦犯指名を恐るるならむ強姦(おか)せしを誇りいし古兵は口を閉ざしつ


 反戦兵の良三にとってはやっと心の休まるときの訪れだった。そして父を想う。父の予言は当たっていた。


   国敗れ始まる世かも漸くに反戦兵の胸ふくらみ来

   父の予言「無条件降伏」的(まと)を射ぬ待ちどおろしも再会の日の


 故国へ帰るのを待つ間、耳だれの子らを治してやった町の郷長がやってくる。日本軍中国人から「日匪(にっぴ)」と呼ばれ、現地人にとっては日本は侵略してこの国を盗ろうとしたものだ。にもかかわらず、一人の日本兵へ謝辞を述べるために郷長はやってきたのだ。その深い心に良三も頭を垂れた。


   客ありて案内(あない)を受けぬ立ちたるは子らをいやせし町の郷長

   敗戦の日匪(にっぴ)おとなう郷長の心ひろきに額(ぬか)深く垂る


 いよいよ復員列車に乗って港へ行くことになった。列車が発車する時だった。耳を治療してくれた良三に感謝しお別れしようと、子らがやってきて、「再見!」「渡部(トウベエ)!」と叫んだのだ。一人の幼児は、この時のために、かわいい服を着てやってきてくれた.


   徐州市ゆ復員列車に乗る日来ぬ子ら走り出で「再見!」「渡部(トウベエ)!」

   幼らは指さしつつ添い走る埃の中に兵の名呼びて

   耳だれを癒しやりたる幼(こ)のひとり今日は愛(め)ぐしき衣まといおり


 日本に帰る良三ら兵たちは、長江左岸にテントをはって、復員船を待った。川のほとりの臨時捕虜収容所である。中国政府から食料は支給されたが、量は少なく、兵たちは川でシジミをとり、魚を釣って不足を補った。

 「日匪」という言葉の意味を天皇や国家の中枢にいるものは知っているのだろうか。日本軍の侵略に抵抗する中国の民衆兵を日本軍は、「匪賊」と呼んだが、「どろぼう」は侵略者の方ではないか。しかるに上官たちはその責任と罪を感じることなく、武装解除され捕虜収容所に入れられてもなお将校として振舞おうとする。その愚かさも感じられない者たちを良三は詠う。


   日匪なる言の意をしるや天皇(すめらぎ)も大臣(おとど)も極むこの蔑みを

   残虐を虚妄の権力(ちから)に楽しみし将等ゆるせずされど術なし

   敗戦の責任(せめ)なきさまの振る舞いの階級章なき将の愚かさ

   北支派遣総大将はとうのはて逃げ帰りしか噂広まる


 良三は故郷に帰った。故郷では、父が思想犯として捕らえられ、家族は村人たちからひどい差別を受けていたことを知る..

 「近郷の町村民はあげてわが一族を『米英のスパイ一家』と名指しし、時の町村長とその家族が先頭に立って、すさまじいまでの差別村八分を行なった。食料と衣料の差別は甚だしかった。ゼロのこともあった。にしんの配給を受けに出向いたところ『スパイの家にはこれだ!』と、にしんの入っていた空き箱を足蹴によって指し示された。」


   生命賭け捕虜虐殺を拒みしがいそのかみ旧(ふ)りしこととなし得ず


 「いそのかみ」は「古」にかかる枕詞であって特に意味はない。わたしは命をかけて捕虜虐殺を拒んだが、それは過ぎ去ったことだ、昔のことだというようなことはできない。このことは今のこと、現代のことであるのだ。

 今、戦がおこり、若者が戦場に送られたとする。そこで「殺せ」と命じられて、拒絶することができるだろうか。圧倒的な力が、戦争へ国を持っていこうとした時、民一人として、「戦うな」と胸張って拒否することができるだろうか。