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吉田道昌の学舎 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-08-27

[] 汝、殺すなかれ …「戦争は殺すことから始まった 日本文学と加害の諸相」(新船海三郎著)  汝、殺すなかれ …「戦争は殺すことから始まった 日本文学と加害の諸相」(新船海三郎著)を含むブックマーク



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 「冬の夜」という童謡がある。子どもの頃から好きな歌だった。

     「ともしび近く きぬ縫う母は

     春の遊びの 楽しさ語る

     居並ぶ子どもは 指を折りつつ

     日数かぞえて 喜び勇む」

 続く歌詞は、一番、二番とも、

     「いろり火は とろとろ 外は吹雪」。

  美しい曲で、何とも懐かしくなる。この歌は、明治45年3月、尋常小学校唱歌に採用され、歌い継がれて、1999年8刷発行の「野ばら社」の「愛唱名歌」にも載っている。作詞者作曲者は不詳となっている。

 この歌の二番は、

     「いろりの端に 縄なう父は

     過ぎしいくさの 手柄を語る」

 そして、それを聞く子どもたちは、

    「眠さを忘れて こぶしを握る」。

 「父」の「いくさ」とは、日清か日露の戦争だろう。「父」は「手柄」を立てた。その「手柄」とは。

 敵陣地を攻撃して、そこを占領した。

 敵との戦闘で勝利を得た。

 敵兵をたくさん殺した。

 ここでの「手柄」はそういうことだろう。子どもたちが「こぶしを握って」聞くということから、どきどきはらはらする武勇伝に違いない。「手柄」を立てたお父さんは、子どもたちにとっては英雄だ。

 こうして明治、大正、昭和の初期の子どもたちは育った。成人すると、

   勝ってくるぞと 勇ましく

   誓って故郷(くに)を 出たからは

   手柄立てずに 死なりょうか

   進軍ラッパ  聞くたびに

   まぶたに浮かぶ  旗の波」

          (露営の歌 1937年9月)

 歌いながら兵士たちは戦地へ向かった。

 子どもは英雄が好きだ。武勇にあこがれる。「祖国を守るのだ」「正義はわれらにあるのだ」という「大義名分」が加わり、戦争の美化、正当化が生まれた。兵士たちは「正義の戦争」を信じて戦地へ行った。しかし軍隊と戦場はとてつもない凄惨な世界だった。

 明治から1945年の敗戦まで、生まれ育った子どもたちは、学校で教えられ、幻を信じ、戦争の「ありのまま」を知ることはなかった。兵士は「殺すもの」であり、「殺されるもの」であるという実態を認識することがなかった。想像することがなかった。「敵」は「殺すべきもの」であり、「殺されて仕方のないもの」であった。

 1945年以前に戦地から帰還した兵士が、武勇伝として「百人切りをした」と誇らしげに語った。その当時は何もとがめられず、当事者は罪の意識も感じないようだった。殺した数が多ければ多いほど英雄になる。そういう社会になっていた。

 敗戦後、復員兵士はこのような武勇伝を語らなくなった。戦争犯罪者として裁かれる恐れがあり、彼らは口をつぐんだ。軍の組織的残虐行為も隠ぺいされた。

 新船海三郎君から「戦争は殺すことから始まった 日本文学と加害の諸相」(本の泉社)という新著が送られてきた。一気に読了した。あらためて凄惨を極める日本の加害の実態がぎりぎりと胸に迫った。膨大な資料、文学作品を読み込み、そこから日本の戦争と兵士の実態を浮かび上がらせたこの労作にかけた執念はすさまじい。日本軍が何をしたか、人間とは何なのか、多くの文学作品を通じて、問題を提示してくれたことに感謝する。たくさんの人に読んでほしい貴重な書だ。

 著作の中にこんな事実が紹介されている。「殺すこと」を当然としている軍のなかで、上官の「殺せ」という命令に従わなかった兵士の記録である。(「歌集 小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵岩波現代文庫

 銃剣で中国共産党八路軍捕虜を突き殺せと命令された。新兵たちはそれを実行し渡部良三の番が来た。彼はキリスト者であった。どうしたらいいのか、彼は神に祈った。その時の状況を、次のように語っている。

 「黄塵来襲前に聞く大地の深処でとどろく重くこもったような音と、自分の体全体が巨大な剣山ではさみつけらたと思うような激痛とともに、神のみ声を聞いた。

 『汝、キリストをみよ。すべてキリストに依らざるは罪なり。虐殺を拒め。生命をかけよ』

 そうだ、この道しかない! 拒否以外に選択肢はない。殺すものか。」

 彼は実行する。渡部は戦場で短歌を詠んでいた。それを紙に書き留めたのは便所の中だった。

      刺し殺す捕虜の数など案ずるな言葉みじかし「ましくらに突け」

 「刺し殺す捕虜の数など案ずるな」「ましくらに突け」、上官の非情な命令だ。

 渡部は捕虜の様子を詠う。

      憎しみもいかりも見せず穏やかに生命も乞わず八路死なむとす

      生命乞う母ごの叫び消えしとき凛と響きぬ捕虜の「没有法子!」

 処刑の様子を中国の民衆は見ていたのだろう。殺される捕虜の母がその中にいた。母は、日本兵に「殺さないで、助けて」と命ごいの叫び声をあげたのだ。それを聞いた捕虜は、「没有法子!」と叫んだ。新船は、この中国語を、

「よんどころない、仕方がないという意味だが、この場合はどうであったか。いやそれよりも、その言葉を渡部はどう聞いたのか、渡部の胸中も『没有法子!』ではなかったか。」

 渡部はその瞬間を詠っている。

     

      殺されし八路とともにこの穴に果つるともよし殺すものかや

 殺された八路軍の兵士と一緒に、自分も死体を落とす穴に果ててもよい、殺すものか。

 命令拒否の結果は毎日毎夜の凄惨なリンチであった。死以外のすべてのリンチが加えられた。

 その捕虜処刑の様子を村びとたちが見ていた。「渡部」という新兵が捕虜を殺すことを拒んだというニュースは村のなかに電撃のように伝わっていった。そのとき村人のなかから、「渡部」と呼ぶ声が次第に増えていったというのだ。「渡部」は中国語で「トゥプゥ」と呼ぶ。

      むごき殺し拒める新兵(へい)の知れたるや「渡部」を呼ぶ声のふえつつ

 

      小さき村の辻をし行けばもの言わず梨さしいだす老にめぐりぬ


 そして渡部がどんな仕打ちを受けるかも、村人たちは察していた。村のなかから「渡部(トゥプゥ)」と呼ぶ声が起こった。リンチを受け続けた渡部が村を行くと、渡部に無言で梨を差し出す老人がいた。渡部を見て、ほほえむ村人がいた。

 新船君のこの著書において、この話はもっとも胸に迫った。「歌集 小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵」を読まねばならないと思う。

2016-08-24

[] 人類への予言  人類への予言を含むブックマーク



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 「いつか森の中で」(草薙渉作 読売新聞社)という小説を読んだ。1995年に出版されたものだが、最初の部分を読んだだけで放置したため、長く書棚に眠っていた。それを何の気なしに手に取り読んでいくうちに、これは人類への予言のように思えてきて、ストーリイが大転換するところから一気に読んだ。

 物語の最初にこんな文章がある。

「1951〜60年に、米国コロンビア大学のR・S。ソレッキー教授によって、北部イラククルド地方のシャニダール洞窟で八体のネアンデルタール人の人骨が発掘された。遺体は屈葬の状態で埋葬されており、その中には明らかに障害者とわかる人骨も含まれていた。とりわけその第四号人骨からは八種類の化石化した花粉がかたまって検出され、彼らが死者に花をたむけ、集団内に弱者を扶養する穏やかな人類であったことが検証された。

 解剖学的にも、現代人のわれわれと同等か、それ以上の脳容積を所有していたネアンデルタール人‥‥。彼らは、その発達した大脳にすでに豊穣な形而上学的世界をもって、旺盛な潜在意識での交信術を進化させながら、おおよそ六万年のあいだをこの地上で平穏に暮らしていた。が、ウュルム氷期(第四氷期)の、今から三万五千年ほど前に、その彼らが突然絶滅した。

 そんな彼らと入れ替わるようにして、大脳前頭葉を極端に発達させた、下等だけれど闘争意識の強いクロマニヨン人が、この地上に急激に蔓延しはじめた。そしてこのクロマニヨン人こそが、現在のわれわれの直接の祖先となった。」

 小説は、この文章から始まり、仲間たちが協力して狩りをする場面に入っていく。彼らはネアンデルタール人と思われ、森の洞窟に住む。「旺盛な潜在意識での交信術」と作者が書いているように、フィクションでも今の言語とは異質な、遠い人とも交信できる能力を発揮して、彼らは狩りをし、助け合い、分かち合いながら生きている。

 この小説の「途中、ストーリイが大転換するところ」というのは、クロマニヨン人と思われる人間の出現である。突然現れた彼らは弓矢という武器をもって、この穏やかな人間たちを発見するや、殺し、奪い、犯し、そして絶滅に追い込んでいく。あげくのはてに彼らは、集団・部族の違いで殺し合いを始め、戦争をする。

 滅びゆく最後の場面に、マヒルノリュウセイという名の男の思いがつづられる。

 「≪われわれの種族は絶滅するけれど≫と伝えたアメアガリノカゼの声が聴こえた気がした。

 ≪われわれは、決して淘汰するわけではない≫」

 アメアガリノカゼは既に殺されていた。マヒルノリュウセイは思う。

 「アメアガリノカゼは、生命は空からと来た言っていた。人や獣や昆虫や、鳥や魚や木や草や花のように、さまざまな種に繁茂したけれど、その生命を継続していこうとする意志こそがすべての種に共通しているのだ。」

 物語には、侵略してきた新人の乙女に恋をし、結ばれる話も出てくる。その後は書かれていないけれど、彼らの生命は受け継がれていくことを暗示する。

 物語を読み進めていくにつれ、三万五千年ほど前のできごとが現代の世界で今も行なわれていると感じられてくる。「下等だけれど闘争意識の強いクロマニヨン人」の子孫が現代の人間だとすれば、人間は進化してきたのか、という問いが浮かぶ。


 人類の遠い歴史を研究する学者たちの学説では、旧人ネアンデルタール人は、新人ホモサピエンスクロマニヨン人を含む)と競う能力が無かった。2つのグループが対立した場合、より発達した文明を持つグループが相手を侵略し征服した。狩猟技術やコミュニケーション能力、環境適応能力を持っているものが勝った。ホモサピエンスの出現が、ネアンデルタール人の絶滅につながったのだが、ネアンデルタール人遺伝子は受け継がれた。先祖がアフリカ以外の起源を持つ人たちは、ほんの少しではあるネアンデルタール人DNAを持っている。ホモ・サピエンスは、約6万年前にアフリカ大陸から移動を開始して世界各地に広がって行く過程で、当時まだ生存していたネアンデルタール人と交配を繰り返した。現代のヒトが持つゲノムの中には、ネアンデルタール人に由来するDNAが1%から4%の割合で含まれている。

2016-08-21

[] 福島の親子キャンプ  福島の親子キャンプを含むブックマーク


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 福島に帰る朝、エイトちゃんがひとり、地球宿の庭で小さなポリ袋を開いていた。4歳のエイトちゃんは、「どあい冒険くらぶ」のキャンプ場で、自分の指の爪ほどの虫を2匹つかまえ、土といっしょにポリ袋に入れて地球宿に持ち帰った。今日、家に帰るからこの虫は逃がしてあげよう、お母さんにそう言われたのか、自分の判断なのか。このままポリ袋に入れて持ち帰っても虫は死んでしまうかもしれない。エイトちゃんは庭の草むらの前にしゃがんで、ポリ袋を開けてひっくり返した。オサムシだろうか、ゴミムシだろうか、土と一緒に出てきた。カブトムシクワガタ以外の虫は、ほとんどの子どもたちは関心を示さない、エイトちゃんは、名前の知らない小さな黒い虫を2匹、大切に持ちかえっていたのだった。

「エイトは帰るからね。虫さんも、草の中に帰っていったね。よかったね」

 そう話しかけると、エイトちゃんは草むらに消えた虫に満足そうだった。

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 キャンプ中にこんなことがあった。キャンプ場の下にある自然公園に、二人の小学生とお母さんがやってきた。そこにはクヌギの木が数本ある。カブトムシクワガタを探しに来たんだなと思って、ぼくはベンチに座って見ていた。

「虫とりですか」

 たずねると、お母さんが応えた。

「いえ、虫を逃がしに来ました。お盆ですから」

 思いがけない返事だったからぼくは感心した。小学2、3年生ぐらいのお兄ちゃんは、カブトムシクヌギの木の幹につかまらせた。カブトムシは幹をゆっくり上に上っていく。

「いいですねえ。今この上で福島の子らがキャンプをしてるんです」

「ああー、そうですか。どあい冒険くらぶですね。この子も冒険くらぶに入っていて、先日までキャンプしていたんですよ」

 そうか、カブトムシはそのときに獲ったのか。

 「お盆だから」と聞いて、ショウちゃんを思いだした。

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 ぼくが安曇野ウォーキングしていて穂高地区で出会ったショウちゃんは、当時3歳だった。家は、野の中の一軒家で、ショウちゃんは家の前で一人で遊んでいた。ショウちゃんの友だちは飼っているネコだった。ショウちゃんが外に出てくるとネコも後ろから付いて歩いた。ショウちゃんはそれからぐんぐん大きくたくましくなり、今はもう小学6年生になった。3年前、ショウちゃんはカブトムシ獲りの名人だと知った。獲ってきたカブトムシクワガタは50匹ほどいると言うから見せてもらうと、大きな箱に入れて飼育していた。

「よくまあ、これだけ獲ったね。安曇野のどこにこんなにカブトがいるの?」

 今ではカブトムシクワガタの獲れる木なんかどこにも見当たらなかったから、50匹なんて考えられなかった。ショウちゃんは、どこによく獲れる木があるか知っていて、山の方まで出かけるんだと言う。それからしばらくしてショウちゃんにたずねると、

お盆だから逃がしてやった」

と言った。

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 この夏も我が家に息子や孫たちが帰ってきた。お盆のときに孫たちを連れて散歩していて、ショウちゃんの家に立ち寄ってみた。

「ショウちゃん、今年もカブトムシいる?」

 カブトムシを見せてほしいと言うと、ショウちゃんは、

お盆だから、昨日みんな逃がしてやった」

と言った。

「あれー、そうかあ、残念」

「一日早かったらよかったね」

 ショウちゃんの口ぶりは、もう中学生が近づいていることを示していた。

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 「安曇野ひかりプロジェクト」が行なっている福島の親子キャンプ、今年も地球宿とどあい冒険くらぶキャンプ場で行なった。火を焚き、食事をつくり、ドラム缶の風呂に入り、川で遊び、木にのぼり、ヤギの乳を搾り、虫とりをし、魚釣りをし、テントで寝た。

 小学6年生のお姉ちゃんスタッフ、高校生のお兄ちゃんスタッフ、大学生と青年のお兄ちゃんお姉ちゃんスタッフが、愉快なキャンプを創ってくれた。

2016-08-16

[] 「あるく ウォーキングのすすめ」(宮下充正著 協力 暮らしの手帖編集部)という本  「あるく ウォーキングのすすめ」(宮下充正著 協力 暮らしの手帖編集部)という本を含むブックマーク


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 ストックを右手について歩く、ランと一緒に痛むひざを引きづりぎみに、朝の道を。

 NHKテレビの朝の人気ドラマは、花森安治編集長の雑誌「暮らしの手帖」が舞台になっている。蔵書を整理していたら、ひょいと暮らしの手帖社の本が現れた。「あるく ウォーキングのすすめ」(宮下充正著 暮らしの手帖編集部協力)という本で、平成4年(1993年)の出版になっている。やはり丁寧な写真に挿絵や図がたくさん入っていて、雑誌「暮らしの手帖」の特集も加えられ、暮らしの手帖社の本そのものだ。そのころ、僕は健脚を誇っていたから、この本の内容に関心をもった記憶がなく、「あるく ウォーキングのすすめ」という内容の記憶も残っていない。

 1970年ごろから「暮らしの手帖」の購読は20年ほどしていた。「商品試験」がこの雑誌の目玉で、広告は一切なしだったから、内容に権威と信頼があった。テレビドラマでも市井の人々の暮らしを見つめてどんな記事を載せるかと、編集者が苦心する場面が登場する。

 「あるく ウォーキングのすすめ」を手にしてぱらぱらと読んでみた。「暮らしの手帖」編集部は、人びとは何を求めているかと、社会を観察し、考察、実験・研究を重ねて、記事内容を創っていたが、やはり「あるく ウォーキングのすすめ」も同じだった。

 その扉にこんな文章がある。


この<あるく>は

あなあたが、健康で明るく元気に

すごすための本です

いつまでも、美しく、さっそうと歩く‥‥

それは

若さと心の豊かさをささえ

あなたの人生を

生き生きさせてくれます

そのためには、今日から

どんなふうに歩いたらいいか

この本は、それをわかっていただくために作りました

<あるく>ことが

もっとたのしくなるでしょう


 そしてこの本の「はじめに」のところに書かれている内容は、今も色あせていない。色あせていないということは、あれから23年が経って、日本社会は相変わらず、いやその頃以上に、<車社会>が進行し、<歩く文化>がやせ細っているということなのだ。まず次の文章で始まる。


「人間は、立って<歩く>ことを身につけたにもかかわらず、歩かなくてもすむ世の中になってしまいました。そして、現代人は、歩き方や歩く楽しさを忘れてしまった、といっても過言ではないでしょう。

 ところが、<歩く>という、人間にとって、もっとも基本的な活動が少なければ、からだのいろいろな機能を正常に維持することはできません

 あらゆることが機械化され、マイカーが普及して、はなはだしい運動不足におちいったアメリカ中流階級の人たちは、むかしからのスポーツに加えて、ランニング、ウォーキングサイクリングエアロビックダンス、ウェィトトレーニングと、自分一人でできる運動を、日常生活の中にとりこんできました。

 最近知り合いになったオレゴン州に住むオシェアさんは60歳で、とても運動好きの人です。ある日、家に招待してくれましたが、居間にオレゴン州の形を描いた板が掛けてありました。そこには、パシフィック・クレスト・トレイル、太平洋沿岸山脈縦断遊歩道とでも訳せばよいのでしょうか。オレゴン州の南から北に向かって赤い線が引かれていました。このトレイルは、640キロメートルあります。オシェアさんは夏休みを利用して奥さんと、あるときは娘さんもいっしょに歩き続け、4年かけて縦断した証書だそうです。標高2000メートルから3000メートルの峰の間の、森と湖をたどる夏休みを楽しみに、家族みんなが、日ごろから運動して体調を整えていたのでしょう。うらやましい限りでした。

 ちなみに、このトレイルは、カリフォルニア州メキシコとの国境からはじまり、オレゴン州を抜けて、ワシントン州カナダとの国境までの全長約4000キロメートルだそうです。‥‥」


 以上は「はじめに」の一部。

 ぼくはこのトレイルの距離を日本の鉄道距離と比べてみる。

 東海道本線東京神戸  590キロメートル

 東北本線東京青森   739キロメートル

 山陽本線神戸門司   535キロメートル

 計・青森門司      1864キロメートル 

 オシェアさんは60歳で、山岳地帯を640キロメートル、家族で歩いたというわけである。東京から岡山までぐらいの距離だろうか。

 この本は、今も新鮮な、歩く科学の本になっている。

2016-08-15

[] 孫たちとキャンプ  孫たちとキャンプを含むブックマーク


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 今年もキャンプに行きたいという。どこかいいところがないかと探した。去年は、近くの烏川渓谷のキャンプ場に行った。小学生と幼稚園の孫たちを含めた二人の息子の家族7人。テントを張るサイトが区割りされていて、テントが林立していた。キャンプ施設は整っていて便利だったが、自然キャンプとしては魅力が少ない。場所のゆとりもなかった。

 今年はもっといいところを見つけたい。ひとまずお盆の烏川キャンプ地の状態を問い合わせてみると、予約超満員で、これ以上受け入れられないという。ここはだめ、他はどうだろう。もっと自然なキャンプ地はないか。あちこち探してみて、隣村の有明山ふところのキャンプ地が、子どもが水遊びできる“せせらぎ”もある。下見に行ったら、川が膨大な巨石と倒木でおおわれていた。流れがあることはあるが、石ごろごろだった。ひと月ほど前の集中豪雨の爪後だ。さらにキャンプ地の周辺のウォーキング道を見ると、ブッシュにおおわれて、手入れも充分ではないく、道を歩く人もいない。しかし他の市町村を探したが、適当な所がない。

 この山の国の、自然豊富な信州で、自然の中で野性的キャンプのできる施設がきわめて少ない。そのことが判明した。なぜ行政はその整備に力を入れないのだろうか、子どもの育ちに必要な自然体験の場づくりが後回しになっているのではないか、とつくづく思う。

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 しかたなく豪雨の傷がなまなましく、川は荒れているけれど、隣村のキャンプ地を使わせてもらうことにした。電話で予約し、新しいテントを購入して、8人で出かけた。

 ここは特に管理者もいない。使用したら、キャンプ地に設置されたポストにサイト整備のための協力金を入れることになっている。クマ出没の危険はある。キャンプ地の標高は850メートル、気温は涼しい。アカマツ広葉樹の混交林だ。すでに10数組のテントが張られていた。林の中の適地を探して、ササの下生えのあるところにテントを二張り設営した。テントの横に、以前のキャンパーが使った火床が残っていた。

 林の中だから日射しは抑えられている。クロアゲハが飛んでいく。孫たちと夜の食事の準備をした。ホノちゃんとアーちゃんが、包丁で野菜を切って野菜カレーの準備をした。夕方、日が落ち、

 「火を焚こうか、久しぶりのキャンプファイアを」

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 ということになって、セイちゃんたち孫たちと一緒にマツボックリと松葉を集める。河原の流木を加えて、火を燃やすと、火はよく燃えた。

 ぼくは、長く使わなかったハーモニカを持ってきていたから、童謡や山の歌、ドイツスイス民謡を吹いた。

 少し寒くなってきたから長袖を着た。

 テントのなかの夜、子どもたちは寝袋の中に入って寝た。ぼくのテントは地面が斜めになっていたから、寝袋に寝ていたらずりずりと下がっていって、朝目覚めると足がテントからはみ出ていた。

 朝起きて、また火を焚いた。

 16日から20日は、黒沢川福島子どもたちを招きキャンプだ。

2016-08-08

[] NHKスペシャル「決断なき原爆投下〜米大統領 71年目の真実〜」を観た  NHKスペシャル「決断なき原爆投下〜米大統領 71年目の真実〜」を観たを含むブックマーク



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 思いこんでいたことは事実ではなかった。奈良京都空襲から免れたのは、アメリカ日本の歴史古都を破壊しないようにしたからだと、聞いたことがあり、ぼくはそれを事実だと信じてきた。先日のドイツの旅の記録でも、ぼくはこう書いた。

 「この中世都市(ローテンブルグ)も戦時中に連合国軍の爆撃を受け、城壁の一部や市街地は空爆によって破壊された。被害が完全破壊に至らなかったのは、歴史的重要遺跡の価値を認識していたアメリカ軍司令官の想いがあったからだという。歴史的遺産の日本の京都奈良空爆から免れたのと同じ計らいが完全破壊を防いだ。」

 ところが京都空襲を受けていて人が亡くなっていたという。けれども大規模でなく被害は少なかった。

 8月6日に放送されたNHKスペシャル「決断なき原爆投下〜米大統領 71年目の真実〜」を観て、実は、原爆投下計画第一目標は京都だったということを知った。京都は、周りを山で囲まれていて、8月時点ではあまり空襲被害を受けていない。そこに原爆を落とせば効果がどれだけあるか分かる。一方、奈良については、こんな記事を見つけた。(「南都の匠 仏像再見」徳間書店

 <1945年奈良のお寺と仏像がいつ爆撃に会うか分からない状況が迫ってきて、ひっそりした山の隠れ寺へ疎開させることが行なわれた。三月堂の仏像を牛車に寝かせて南の正暦寺まで運んでいると艦載機が飛んで来て銃撃された。仏像疎開吉野山へも行なわれた。>

 NHKスペシャル取材班はアメリカにある膨大な記録を調査し、学者からも取材している。トルーマンの日記も読みこんでいた。その結果、いくつも隠されていたことが判明した。トルーマン大統領は、原爆を投下することを自ら決断せず、軍部はそのあいまいさの上に立って「大統領は認知した」として実行に移し、大統領はそれを追認していたのだった。第一目標の京都爆撃については、大統領は認めなかった。そこで広島長崎への原爆投下となった。後に惨状を知ったトルーマン原爆を投下したことを後悔し、その気持ちを日記にしたためていた。

 無差別爆撃の極致ともいうべき原爆の使用は、後にアメリカの行為をナチスヒトラーをしのぐものとして国際的非難を受けるであろうことを恐れ、「原爆投下は戦争を早く終わらせ、本土決戦での日本人の命や数百万の米兵の命を救った」という弁明をつくった。それは後から作られた「物語」であった。

 原爆投下のまえに、すでに戦略爆撃機による甚大な被害を日本の全国の都市が受けている。東京は九か月間で4900機の爆撃機によって四十万発の爆弾を投下され、十万人が死んでいる。日本の戦争遂行能力は既に実質喪失していた。結局原爆投下の目的は、作った以上はそれを使って能力と効果をみようということにあり、そして参戦寸前のソビエトへの対策と戦後世界への計算と備え、さらにアメリカ国内の世論への計算などがあったのだろう。

 原爆投下は、大統領が明確な意思のもとに決断した“意義ある作戦だった”というのは、作られた目的だった。

 戦争の陰には隠された秘密が今も残っている。それを白日のもとにさらけ出すジャーナリストの地道な気の遠くなるような仕事を見る思いがした。

不来方史郎不来方史郎 2016/08/15 23:22 その番組、決断なき原爆投下〜米大統領 71年目の真実〜」は、間違ってます。
証拠は、その番組中で紹介された、1945年8月9日にトルーマンが書いた手紙。
番組中では、『日本の女性やこどもたちへの慈悲の思いは私にもある。人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している』とされてました。けれども、その原文がこちらにあります↓
http://nuclearfiles.org/menu/library/correspondence/truman-harry/corr_truman_1945-08-09.htm
読んで分かるとおり、真逆の意味。トルーマンが明確な決意のもとに原爆投下を決断したことを示す史料です。

そして、これは私の意見ですが、原爆は戦争を終わらせたという通説は正しいです。
これは非常に複雑なので、簡単な説明は無理なんですけど。

michimasa1937michimasa1937 2016/08/18 09:28 戦争を早く終わらせたい、本土決戦による自米軍兵士の命を守りたい、真珠湾攻撃や特攻、中国侵略などでの日本軍のやり方への報復したい、ソ連の参戦前に日本を占領し、戦後の主導権を握りたい、原爆を開発したマンハッタン計画を実戦で試したい、いろいろな考えがあって、原爆投下に至ったのでしょう。その過程で大統領と軍部の関係では、軍部が積極的に働きかけたということもあったのでしょう。トルーマン日記でトルーマンが後悔の気持ちを書いていたというのも、逆にまた原爆投下を正当化したのも人間としての苦悩だったと思います。過去の歴史を仮定で考えてもしかたがないですが、もし原爆が投下されなかったら、戦争はどういうことになっただろうか、と考えることも、あの戦争と日本、日本人を知ることになると思います。

2016-08-05

[] 巣を去ったキツネ、焼かれたイチョウ  巣を去ったキツネ、焼かれたイチョウを含むブックマーク



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 一枚の田んぼを大きくして、畔や農道を整える圃場整備が地元で行なわれている。我が家の東側はこの春完了し、秋から西側が始まる。ところが、すでに整備された稲田の中に、長年耕作放棄されて草がぼうぼうと生え、古タイヤや古ドラム缶が捨てられている2000平方メートルほどの土地がある。周囲がみんなきれいに整備され、新しい道もつけられたけれど、土地の所有者は圃場整備の企画に加わらなかったから、ここだけが荒れ地のままに残された。

 これまでススキなどの背丈を越える草が茂っていたそこは、周りが整備されて新たな農道もついけられたから、荒れ地が露出してしまった。そうなると所有者も荒れ地のまま放置するわけにいかず、最近草を刈り、枯れ草を焼き払った。

 すると今まで人目につかず、隠れていたものが現れた。古タイヤや古ドラム缶だけではない。荒れ地の南の端に、土がこんもり高くなっているところがある。ランと毎朝歩いていて、そのことには気がつかず、見れども見えずだったのだが、それは、大きな土盛りの箇所にいくつも大きな穴が開いているのだ。

キツネの巣穴だ」

 土盛りの周囲に五つほど、あっちの穴も、こっちの穴も、キツネがもぐりこめる大きさの穴は野生の気を放っている。それらは土中のトンネルでつながっているらしい。

キツネの家族はここに住んでいたのか」

 草が生い茂っていたときは、巣はカモフラージュされていた。ここには人も近よらず、だからキツネは安心してねぐらにし、子どもを育てた。

 以前から、この辺りに巣があるということは知っていた。朝、山からキツネがこの辺り目指して矢のように走るのを何度も見ている。草むらから出てきた子ギツネたちが遊んでいるのを遠くから見たこともある。キツネは夜中に、この辺りをテリトリーにして餌を探しまわっていた。我が家の前の草むらにキジが巣をつくり、卵を産んで温めていたとき、夜中に親ギツネが襲って親鳥を餌食にしてしまったこともあった。キジの巣をのぞいたら、親鳥の羽根が散らかり、卵だけが残されていた。キジがこんな人家の近くに巣をつくったのは、キツネから身を守るためではなかったかと思う。親鳥が巣をはなれている間に、ぼくは巣の周りに草を積んで防護してやろうと工夫したが、キツネにとってはそんな浅知恵は効き目がなかった。

 近所に住んでいる画家の佐々木さんは、その卵を持ちかえり、ダンボールに入れて温め、卵を孵した。雛たちはキジを保護する関係機関に引き取られた。雛は大きくなってから野に放たれただろう。

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 キツネはこの冬も、餌を探して我が家の庭にやってきていた。庭にはたくさんのネズミ穴があり、モグラの穴をねぐらにしていた。

 耕作放棄地のこのキツネの巣穴は丸裸にされ、キツネは巣を放棄して去っていった。

 荒れ地の草が焼かれた後、もう一つ発見があった。

 北側の端に、木の半分が焼け残った木が1本、ひょろひょろと立っている。木の南面の葉が梢から根元まで焼けて茶色になり、残りの北側の葉は緑のままに生き残っている。ランと散歩していて、この樹は何だろうと近づいてみると、イチョウの葉っぱをしていた。

「こんなところにイチョウの木があったのか」

 イチョウの木があるなんて、ススキが原の茂みに隠れていたからよく分からないでいた。体の半分を焼かれたイチョウ、それを見ると自分の体に痛みを感じた。

 この地区の公民館に付随した公園に、ぼくは3年前イチョウの苗木を植えた。それは我が家の庭で芽を出して、すくすく伸びてきた三本のイチョウだった。十数年前、公民館と公園がつくられたとき、植えられた広葉樹のうち三本が途中で枯れてしまい、株の跡が三箇所残っていた。そこに我が家のイチョウの苗木三本を持っていって植えた。

 我が家の庭にそのイチョウが芽を出したのは、ギンナンの実を土に埋めていたからだった。穂高地区の八幡神社のある集落に大きなイチョウ古木があり、秋にたくさんのギンナンを道に落とす。それを拾ってきて庭の土に埋めたのだった。すっかり忘れていたが、三本の芽がひょこっと出ていて思いだした。

 イチョウの芽は元気に育ちはじめた。この木は我が家で大きくしようかなと思いもした。が、イチョウが大木になったら家の軒にぶつかってしまう、どうしよう、公園なら思う存分大きく育つことができるだろう、それが公園移植になったのだった。今は人の背丈ほどに育っている。最近も剪定に行って、周りの草を刈ってきた。三本のうち一本は枯死していた。

 公園の二本のイチョウは健やかだが、この荒れ地のイチョウは火に焼かれた。いずれ切り倒されるだろう。切り倒されるまでに、このイチョウを救いたい。半分緑の葉が残っているから、元気を取り戻すことはまちがいない。

 野に立つ一本の

 大イチョウになれよ。

 田んぼのなかに立つ、

 一本のイチョウ

 一つの美しい風景よ、

 生まれよ。

 土地の所有者にそのことを話して、お願いしよう。そう決めて早速動いた。朝、秀武さんに会う。イチョウの話をして土地の持ち主を教えてもらった。持ち主はぼくも知っているTさんだった。

「古タイヤやドラム缶やら、こういうのを放置すると不法投棄を招く恐れがありますよ」

「そう、夜中に持ってきて捨てていくのがいるからね」

「私、奈良に住んでいた時、あんな歴史的な場所でも、山のなかへ不法投棄しに来るんですよ。金剛山の谷間に、冷蔵庫やテレビや、いろんなものを捨てに来るんです。ゴミを捨てるとゴミを呼ぶ」

「ここも同じだね。常念岳のほうへ上がっていけば不法投棄してあるね」

 日が高くなってから、カンカン照りのなか自転車をこいで行く。今日は早くもすごい暑さだ。ちょうど荒れ地の隣りを草刈りしているNさんが、小屋の日陰で休んでいた。いきさつを話をしたら、荒れ地になったわけを話してくれた。

 Tさんの家に行くと、奥さんがトマトの選別をしていた。いきさつを話し、

イチョウを救ってください」

 と頼めば、奥さん、

「いいよ」

 笑顔で快くイチョウを救うことを受けてくれた。

「半分、燃えたけれどね。生きると思うよ」

2016-08-03

[] 昭和15年の冬、最後の登攀  昭和15年の冬、最後の登攀を含むブックマーク


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高須茂が木村殖とおもしろい話をしている。昔のことだが、「日本山河誌」(角川選書)のなかにある話。

高須:「昔話だが、上高地の小梨平事件というのがあったね。昭和6年だったろう? ぼくが学校卒業する前の年だ。」

 「小梨平事件」というのは、上高地の小梨平キャンプ場で、キャンプをしている若い連中が、ジャズレコードをかけたり、ダンスをしたり、派手な服装で騒ぎまくっていたところ、大学山岳部の連中が「けしからん」と襲撃したという事件だそうだ。

木村:「あぶなく警察沙汰になるところだったが(笑)」

高須:「あのころの山男は、みんなカントでも読むようなつもりで山へ登っていたんだから、ジャズなんか不倶戴天の敵だったんだ。テントを川へ投げ込んだり、だいぶ暴れたようだが。もっとも昭和6、7年というと、不況のドン底で、上高地の宿も閑古鳥が鳴いていたんだから、宿屋にとってもキャンパーは敵だったろうね。テントに泊って、宿へ泊らない。暴れた学生が一人も捕まらなかったのは、宿でかくまったからだという説もあったようだ。」

木村:「そんなことだっつらい。(笑)」

高須:「今の7月、8月の上高地のことを考えると、別の国のことのようだな。五千尺ホテルに水車があったし、清水屋には大きな囲炉裏があった。慶応早稲田、甲南、東大、……東大は小川登喜男の時代だ。大島亮吉が前穂高で墜死(昭和3年3月)した年の夏、前穂高の上に、大きな星が光っていて“大島星”なんて言ったことがあるが。」

木村:「それは知らねえ。」

高須:「学生の間だけの言葉だったんだな。学習院パーティと立教パーティが、積雪期の槍穂高初縦走を争ったのは、たしか昭和7年の1月だったろう。」

 この対談、実に興味深々。高須は雑誌「岳人」の編集者であり登山家。木村は「上高地の大将」。初めて兵隊靴にそりをしばりつけてのスキーを滑った話、手製のザイルが切れて穂高の岩場から落ちた話などが出てきて、昭和10年、京大白頭山遠征、昭和11年、立教大学パーティがナンダコット遠征と展開、そして冬の岩登りが始まり、早稲田滝谷、商大の前穂高東壁、松高の四峰正面登攀が行なわれ、……

 だが、昭和12年、日中戦争勃発、日本は社会も人も時代も大崩壊へと暗転していった。それでも登攀はつづけられ、昭和15年の冬、早稲田大明神東稜、法政大の槍ヶ岳北鎌尾根、松本高校の前穂高東壁の登攀が行われ、それが最後の登攀となった。

木村:「この戦争で、ずいぶん山の人が死んだわな。」

高須:「山男は誰も優秀な兵隊だったからな。津布久の山靴をはいて、日本刀をぶら下げて征ったものもおった。昔のアルバムを見ると、山男10人戦死した。」

2016-08-02

[] 雷雨激し  雷雨激しを含むブックマーク


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 午後、雷鳴とどろき、篠突く雨となった。昼過ぎまで蒸し暑い日照りだったが、三時ごろにわかに雲がわき出た。それでも、

 「いや、これぐらいじゃ、雨は大丈夫。あの雲は松川村池田町辺りだな」

と高をくくっていたところが、ぽつりぽつりと降り出したかとみるや、急激に雲が低く押し寄せ、稲妻が走り雷が鳴り出した。

 視界が消えて、辺りが暗くなり、それから土砂降りとなった。

 雷鳴は一発一発異なる。「ゴロゴロ」は遠い。「ドドドン」というのや「ドカドカドン」、大砲のような「ズドーン」というのもある。次第に近づいてきた雷は、光ったと思うと、「バリン」と来た。これが怖い。この音は落ちる。

 窓を閉め、雨の入らないようにして、暗くなった部屋に電灯を付けた。が、ピカッと光った瞬間に電気が消えた。危険信号だ。すぐにブレーカーを落とす。

 それから部屋は蒸し風呂の暗がり、窓の外の雨を凝視する。

 ここの田舎道を行く車は一台もない。小鳥たちが消えた。この豪雨では車のワイパーも効き目がなく、前方が見えないだろう。道路で停止して雨やみを待っている車がある。

 一時間余り、雷は暴れまわって5時ごろに消えた。お向かいのミヨ子さんの愛犬、マミちゃんの犬小屋前が浸水して池になっている。

 ひさしぶりの頭上の雷だった。

 これまで出会った頭上の雷を思いだす。

 北アルプスの稜線上で遭遇した雷雨の恐怖。

 学生の時は、5人で縦走中だった。背中のザックに付けたピッケルがジージーと音をたてた。

 「急げ、急げ」

 鞍部に駆け降り、はい松のなかにもぐりこんで難を避けた。

 30代、教員のぼくは二人の教え子と薬師岳の太郎平に登っていた。稜線に出たら、雷雨が襲来した。平坦な尾根の上で、避けるところがない。他の登山者も歩いている。

 「山のかみなりの恐ろしさ知らんのか、逃げろ、走れ」

と大声で叫びながら、ぼくらもザックを背負ったまま走り、他の登山者を急かす。コルまで全速力で走って助かった。

 その数年後、松本深志高校西穂高岳・独標の遭難があった。学校行事の登山で西穂高を目指して登っていた生徒たちに落雷し、岩場を攀じていた生徒たちは跳ね跳んだ。12人が命を落とす大事故だった。

 

 今日午後は、長野県大雨警報が出ていた。大雨に続いて、土砂災害警報が出た。警報をテレビで知って、烏川の水のことをまったく考えていなかったことに気づいた。今住んでいる地域は、北アルプス常念山脈に源流を発する烏川の扇状地だ。何百年、何千年前から、烏川は洪水のたびに流れを変えて、犀川に注いだ。我が家の位置も昔、烏川の流れたところだったと、ご近所の地質学を研究してきた大池さんに聞いたことがあった。

 犀川は今は大丈夫だと思いはする。しかし自然の力は予測できない。信じすぎないことだ。

2016-07-29

[] ハチ  ハチを含むブックマーク

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 ハチさんは友だち、とか言っていたら、ここ二日、草取りをしていて刺された。コアシナガバチで、ハチの体も巣も小さく、ぼくが顔を数十センチほど巣に近づけても、巣の上で巣作りと巣の防御をしているハチたちは攻撃してこない。コアシナガバチは、普通よく見かけるアシナガバチよりも小さい。11ミリから17ミリほどの大きさだ。

 工房の板壁と窓枠に巣を作っているのは、分かっていた。だから、こっちと彼らとはコミュニケーションもとれていた。刺されたのは、まったくそこに巣があることに気づいていたなかったときだ。ハチからすれば、いきなり暴漢がやってきて巣を攻撃してきたということになる。

 一回目刺されたのは、庭木にからみ付いているヘクソカズラヤブガラシを取っているときで、腕を木の茂みの中に入れて、蔓を引っ張り出していると、いきなりブーンと飛びたったハチに刺された。飛び退いて観察すると、コデマリの茂みのなかに小さな巣があった。急いで、刺された右手の甲の刺し穴にアンモニア水を一滴落した。アンモニア水の刺激臭がぷんと鼻をついた。

 その二日後、今度はコノテヒバの木を剪定していて、これまた木のなかに剪定ばさみを入れて切っていたとき、突如舞い立ったハチの一匹にチクリと左腕をやられた。これもハチの巣が木のなかにあって、見えなかった。急いでアンモニア水を付けたが、一回目よりも二回目が大きく赤くはれた。

 もう一か所、庭用の水道栓のすぐ横に置いてあった大型の植木鉢のプラスチック側面に巣がつくられており、それに気付かず周りの木をハサミで切っていて巣に触れ、飛びたった数匹の羽音の威嚇音で瞬時に身を避けた。このときは刺されずに済んだ。それからこの巣を意識して水をくんでいると、ハチたちもじっと体を動かさずにこちらを見ているようで、手との距離が20センチほどであっても攻撃してこない。そうは言っても、他の誰かがここに水汲みに来て、知らずに刺されることがあってはよくない。どうしようかと思案した。お盆には孫たちも帰ってくる。思案した結果、この巣は梅の木の下に移動してもらうことにした。移動するには暗くなってからがよい。夜の9時、懐中電灯をもって巣に近づき、植木鉢を抱えて梅の木の下に持っていった。ハチたちはうんともすんとも言わなかった。なんだかユラユラ揺れるようだなと思っていたことだろう。翌日、夜が明ければ、巣の位置が変わっていて、彼らはそれをどう認識して、どうするだろうか。興味深い。

 巣は他にも見つかっている。しかし、巣を取るのは最小限にしたい。結局、工房の窓枠に作られた巣と、もう一つの水道栓の横の工房壁に作られたのとは、ハチたちに申し訳ないが、巣を落した。ハチたちは別のところでまた巣作りするかどうか。

 その翌日、巣を落したところにモズが二羽下りて餌を探していた。落された巣に残っているハチたちは、モズの朝食になったかもしれない。

2016-07-24

[] 記事改稿まとめ エッセイ『ドイツの環境、森を愛する人びと』  記事改稿まとめ エッセイ『ドイツの環境、森を愛する人びと』を含むブックマーク



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  五月の旅

 五月に、森の民の森の国を旅をしてきた。

 旧制松本高校出身のドイツ文学者・小塩節を育てたドイツ語教授の望月市恵は穂高に住んでいた。望月市恵は、北杜夫、辻邦生、小塩節ら学生たちを育て、トーマス・マンの著作を翻訳し、人生の最後に小塩節と共同訳もした。

 第二次世界大戦が起こると、トーマス・マンドイツを逃れナチスに抵抗する。戦後、小塩節はドイツに留学し、ドイツに住んで日本の文化大使を長年務め、マン没後も、晩年のマン夫人と交流を続けた。

 小塩節はドイツについて、こんな文章を書いている。

 「どんな町はずれにも、噴泉のそばに大きな菩提樹が茂っていて、五月ごろには花が蜜を生み、ミツバチがブンブンいっている。木陰には小川が流れ、青い流れのなかにはマスが矢のような速さで走っている。ドイツ人は森の民族だ。町々村々は必ず森に包み囲まれ、大都会でさえ、市街地の中に面積の五十パーセント近い森を茂らせている。森を間近にし、森のなかにいないと息ができず、生きていけない。彼らの食事は本質的に森の住民のものだ。ほんとうのドイツの料理は、ノロ鹿や野ウサギ、ハトの料理、堅い黒パンと銀モミや菩提樹の蜜と森のさまざまなベリー類のジャム、森に放牧してドングリを食べさせた豚のハムやソーセージだ。ドイツの森は、行けども行けども行きつくせない。シュヴァルツヴァルトの森は長さが百二十キロ、横の幅が六十キロの大森林である。私の住んでいた町も、一歩街を出れば、深い森と畑とがどこまでも続いている。ラインハルトの森は太古のままの千古不伐の自然である。」

  ヘルマン・ヘッセはこんな詩を詠んだ。

    短く伐られたカシの木

               ヘッセ

  カシの樹よ、

  お前はなんと切り詰められたことよ!

  なんとお前は異様に奇妙に立っていることよ!

  お前はなんと度々苦しめられたことだろう!

  とうとうお前の中にあるものは

  反抗と意志だけになった。

  私もお前と同じように、切り詰められ、

  悩まされても、生活と絶縁せず、

  毎日、むごい仕打ちをさんざんなめながらも、

  光りに向かって額をあげるのだ。

  私の中にあった、やさしいもの、

  やわらかなものを、

  世間があざけって、息の根を止めてしまった。

  だが、私というものは金剛不壊だ。

  私は満足し、和解し、

  根気よく新しい葉を枝から出す。

  幾度引き裂かれても。

  そして、どんな悲しみにも逆らい、

  私は狂った世間を愛し続ける。

    

    

    森の国の春

 ドイツの春(SPRING)は、人びとの喜びとともに湧きあがる。

 長い冬の眠りから覚めて、

 大地から湧きあがる泉SPRING、

 バネSPRINGのごとく跳ねあがり、

 木々は一斉に芽吹き、花咲く。

 まったく予想をはるかに超えたこの壮大な聞きしに勝る森の国。飛行機は果てしなく広がる森のなかの空港に着陸した。濃緑の針葉樹と浅黄を交えた新緑の広葉樹は、深々とあふれんばかりだ。都市に通じる高速道路も森の道だ。タクシーのドライバーが、途中の森を指さして、

「フォレストのフェスティバルが開かれているよ。店も出ているよ」

と言った。第一次・第二次世界大戦による破壊は過酷だったが、森を愛するこの国の人々は営々と森を再生してきた。森を歩き、都会も村も家々も樹林のマントに包んだ。木々は梢高く、自由に天を目指しうっそうと茂る。ほとんど広葉樹で、奥の方にモミやトウヒなどの針葉樹も見えた。木の種類の比率は広葉樹が7割ぐらいに感じられた。

 街に入ると、樹が優先して植えられ、街路樹は誇らかに茂り花が咲き、木と花は街を柔らかく豊かに包んでいた。川のほとりも、緑樹帯が包み込む。

 ハイネはこんな詩もつくった。

   つぼみ ひらく

   妙なる五月

   こころにも

   恋ほころびぬ

   鳥歌う

   妙なる五月

   よき人に

   思い語りぬ

       (井上正蔵訳)

 小塩節が讃える。

 「木々の花がいっせいに咲く。リンゴ、、アンズ、桃、チェリー、スモモ、洋ナシの花が、全国土でいちどきに咲く。ありとあらゆる花が、大地いっぱいにそろって咲き匂う。菩提樹の白い花には、蜜蜂が飛び交う。木々の枝がしなうほどに咲く花が、どの一輪も明確で、さわやかな存在なのだ。ああ、これは日本の信州と同じだ、と私はいつも心に叫ぶ。それは木や草だけではない。そこに住み育ち働いて死んでいく人びとの、生全体のあり方にも通じているのではないか。人間一人ひとりの自立した個性、意志、自己表現。欧州アルプスの北の国々で求められるこういう人間性の価値は、日本人一般にはなかなか求めがたい。それが日本でもいつの日か自然に育つ時が来るだろうか。」

     

 街の広場にマイバウムと呼ばれる五月の樹の柱が、高々と立てられ飾られていた。それは豊穣を祈り春の訪れを祝う五月祭だ。青空の下、マイバウムを囲むように、野外のビヤガーデンがにぎわっていた。春を喜び讃えて、人びとはビールを傾ける。

 マイバウムは、日本の信州諏訪神社の御柱祭を連想させた。八が岳からモミの大木を伐り出して、神社に立てる、御柱祭も春の祭りだ。ぼくはそこに、縄文人の祭りを見る思いがする。日本の昔、縄文人は森の民だった。

 

  アップルワインの酒場

 日曜日の住宅街は、ことのほか静かだ。そのなかにおいしい田舎料理が食べられる店があるらしい。リンゴ酒にソーセージがおいしいレストランはどこだろう。店の看板というものはなく、小さな標識があって、ここが店だと分かる。ドイツには、日本のようなけばけばしく派手で大きな看板やのぼりはない。猥雑な看板類がないから街がすっきりと美しい。

 木の茂る庭を突っ切ってドアを開けてみると、百人ほどの客がテーブルを囲んでいた。日中から、アップル酒やビールを飲んで、ワイワイガヤガヤにぎやかだ。家族みんなで囲むテーブル、友人たちで談論するテーブル。見渡しても空席はない。裏庭に出ると、簡易の屋根をふいたところがあり、そこにもテーブルがある。座れるテーブルが一つ。手作りのような素朴な板の長テーブルだ。一抱えもあるプラタナスが、どかんと二つのテーブルの間に生えていて、ポリの屋根を突き抜けて空に枝を広げている。枝からも幹からも新芽が出ている。何十年間かここに生えて、幹がテーブルの天板に食い込んでいる。それでも木を切らなかった。店の歴史がここにも潜んでいる。

 ぼくら夫婦はリンゴ酒にソーセージジャガイモの料理を頼んだ。テーブルの対面にひげづらの老人が一人座った。注文を取りに来た店のおじさんは、大忙しだ。それでもニコニコ顔で威勢がいい。老人も何かを注文した。彼は白いあごひげに、眼鏡をかけ、どーんと太鼓腹。待つことしばし、老人のところへ先に料理が運ばれてきた。

「ウォー、ビッグ」

 思わずぼくは叫んだ。大きな肉の塊だ。そしてジョッキに入ったアップル酒。ぼくの声に彼はこちらを見て、

「ビーッグ」

 両手を広げてニコッと笑った。

「わたしの体はビッグだ」。

「ワハハハ」

 家内と二人大笑いすると、彼はソフトボールよりも大きな肉塊にフォークを入れて、

「ビッグボーン」

「ワッハッハ」

 ぼくらも大笑い。なるほど大きな骨らしいものが見える。彼は肉を食べ、酢漬け野菜を食べ、アップル酒をぐいっとやる。

 ぼくらの注文したのがやってきた。アップル酒、ほんのり甘く軽くておいしい。ソーセージも格別うまい。

 彼は肉を一人でもくもく食べている。一人暮らしなのか、家族はいないのか。この国にも日本のような高齢化社会が進んでいるのか。

「おいしい。おいしい」

 彼に言うと、うなずいた。

 あんたも相当いい年だな、わしより年いってるな、と彼は思っているだろうな、そんな気がした。

 ぼくらはほろ酔い気分になった。両手にノルディックストックをついて、電車に乗らず、新緑の風に吹かれ川を渡って、一時間ぐらいかけてホテルまで歩いて帰った。クロウタドリが、川沿いの豊かな緑地帯の、木のてっぺんで鳴いている。

 2016年のこの国の人口は8,270 万で、2011年より漸次増えている。高齢化率は2014年で21.25%、日本は25.78%。平均寿命は男性78.7 歳、女性83.4 歳(2015)。2030年にはこの国の高齢化率は29%に達すると見込まれている。その年、日本の高齢化率の推計値は31.8%になる。

   

 少子高齢化に対する危機感はこの国の社会全体の問題意識として国民の間で広く共有されている。シリア難民を八十万人近く受け入れたこの国。それによって移民排斥の勢力も生まれ、意見の対立も強くなっている。

 未来を透かし見れば、定住する移民は重要になってくるだろう。移民受け入れ方針を変えなければ、2060年には移民の占める割合は人口の9%となるという。移民がドイツ社会の構成員になれば、社会を創っていく重要なメンバーになる。

 日本では、これから超高齢化社会を迎えるが、「2025年問題」は、もうそこに来ているにもかかわらず、政治の緊迫感はまったく感じられない。要介護者が急増し、社会を支える若手が足りなくなる危機に対して、どうするか。


   歩く文化と街道の国

 

 未知への旅は、先入観・固定観念をどんでん返しにする。

 敗戦後ヨーロッパ随一の経済発展をとげた工業国というイメージと、今目の前に広がる事実とは、まったく違った。そこは古い歴史を刻む街道の国、森の国だった。

 昔から続いてきた歴史的遺産の街や森、美しい風景をつないだ長距離にわたる帯が「街道」と名付けられ、この国の全土にめぐらされている。自然と歴史遺産を守り復元してきた人びとの、祖国の美を讃える愛の結晶でもある。有名なのは、

 ゲーテ街道、全長400キロ。

 古城街道、全長300キロ。

 アルペン街道、全長450キロ。

 メルヘン街道、全長600キロ。

 ファンタスティック街道、全長400キロ。

 エリカ街道、全長300キロ。

 ロマンチック街道、全長350キロ。

 これらの距離、相当なものである。実際にこの街道を徒歩で歩くことは困難をきわめる。ちなみに日本での都市間で言えば、東京・大阪間は、約500キロである。

 これらの街道は、ドイツ政府や自治体が設定した「休暇街道」と呼ばれている総数150ルート以上ある街道の一部である。中には「アスパラガス街道」「バーデンワイン街道」「ドイツおもちゃ街道」というのもある。個人旅行者向けにガイドを整えた「個人の休暇を楽しむ」ために設定されたこれらの街道は、「家の中に引っ込んでいないで太陽の下に出て行こう」「街や森を歩き、自然の中に溶け込もう」という文化から生まれた。そういう願い、自然志向を人びとが共有している。ドイツ平原にはいたるところに森があり、南部はヨーロッパアルプスにつらなる。今も、アルプスには雪が積もっている。

 この国では、土日休日は多くの店、スーパーマーケットまでもが休業する。会社員も金曜日の午後4時になるとビールを飲み始め、さっさと帰宅する。5月になると、街のビアガーデンは大入り満員だ。7月になると、学校は長い長い夏休みに入る。子どもたちも、学生たちも、教師たちも、山や森、自然のなかへワンダラーの旅に出る。

  

 「ワンダーフォーゲル」運動、すなわち「渡り鳥」運動はドイツが発祥の地だ。中世のドイツの学生たちが優れた先生を求めて、あちこちの大学を渡り歩いたことからこの言葉が生まれた。学生たちは背中に大きな籠を背負い、必要なもの一式を入れて、野宿しながら徒歩旅行をした。それにヒントを得て、1895年、ギムナジウム(中等学校)の生徒たちは、ギムナジウム無味乾燥な授業に抗議し、血の通った生きた学びを求めて徒歩旅行運動を始める。旅をしながら各地の歴史遺産や文化遺産をめぐり、生物や鉱物、地質を勉強し、産業を学び、民謡を歌い、フォークダンスをして、事実・現物・現地の人に触れて若き情熱を燃やした。1897年、「ワンダーフォーゲル」と名付けられた運動は国の全土に広がり、学生たちは森を歩き、野営をし、山に登った。広がる運動は教育思想の内実を変えていった。ユースホステルはそこから生まれた。この運動が日本に入ってきたのは1930年代、そして第二次世界大戦に突入し、日本でもドイツでも運動はその間断絶した。戦後、運動は復活し日本の大学で活発に行なわれるようになった。

 1960年ごろ、日本のワンゲル部も山岳部と同じように山を登攀した。その頃、山岳部とワンダーフォーゲル部の違いを、ひとりのワンゲル部の男に聞いたことがある。彼はこう説明した。

「山岳部はより高く険しく、点をめざし線を行く。ワンゲル部は、高きも低きも含め、より広く面を行く」

 そしてどちらも、より困難な、未知なる自然にチャレンジし、より美しき憧憬を追求した。

 ドイツには、高等職業能力資格認定制度のマイスター制度がある。マイスター資格は1年以上の実務経験を経て、ファッハシューレ(高等職業学校)で学び、修了資格を得る。修了年数はフルタイムの場合は2年間。

 以前、ドイツの若者が大工のマイスター資格を得る過程を取材したドキュメンタリーをTVで見たことがある。大工のマイスターを目指す若者が、2年間の実務経験を積む徒歩の旅に出る。定められた最小限の持ち物だけを背にし、たった一人野を歩き森を抜け、村から村へと渡り歩き、「何か仕事させていただけませんか」と家々を訪ねる。「家のここを修繕してくれ」「小屋を建ててくれ」など、何らかの大工の仕事を得ると彼はそれを完成させ、施主の実習証明といくらかの賃金をもらって旅費にし、次の村に向かう。こうして二年間の旅で必要な力をつけた若者は、マイスターとして資格を得る。この「武者修行」は、技術の修練であり、社会人として人間としての学びでもあった。社会が若者を一人前のマイスター、社会人に育てていくこの仕組みは、教育の重要な一つの姿を示して、感動的な映像だった。

 「ワンダーフォーゲル」運動の原点精神と通じている。


   サイクリングに行

 ICE(新幹線)に乗って、ビュルツブルグからローテンブルグへ行った。

 ローテンブルグは古い中世の地方城壁都市。駅から展望すると、小高い丘の上に街があり、教会の尖った塔がいくつか空に伸びている。街の周囲は城壁が取り囲む。千年の時を経た歴史遺産都市だ。

 城門を入ると長い年月で擦り減った石畳の道が縦横に走っている。一片20センチほどの石を敷き詰めた道だからいささかでこぼこしている。石の民家や木組みの家、教会の塔、店、公園、路地、古い歴史が降り積もっている。どこも完璧なまでの美しさというのが第一印象だ。宿は城壁内にとった。中世から続いている小さなホテルだった。

 この中世都市も戦時中に連合国軍の爆撃を受け、城壁の一部や市街地は空爆によって破壊された。被害が完全破壊に至らなかったのは、歴史的重要遺跡の価値を認識していたアメリカ軍司令官の想いがあったからだという。戦後多くの人びとの願望によって、街はまるごと復元がなされ、珠玉のような街になった。

     

 歩けば歩くほど心に感じられてくるものがある。この美しさは何だろうか。長い歴史と文化、今を生きる人たちの古都への愛、取り巻く森、いろんな要素が集積し、人びとの意志が創りだす環境の美だと思う。

 どこからかパイプオルガンの音色が聞こえてきた。誘われて入ったところは大きな教会だった。数人の観光客がいた。頭上高くにステンドグラスがある。オルガンの演奏は堂内の右上から聞こえてくる。二階に演奏者がいた。ぼくは床に並んでいる木の長椅子に座って、演奏を聴いた。オルガンの曲を聴きながら前方上を見ると、キリスト像があった。キリスト像を見つめていると、ふと頭に問いが浮かんだ。この国は今たくさんの難民を受け入れている。難民は更に今もヨーロッパをめざしている。世界中で戦火は絶えず、この今も人は死んでいる。

「なぜあなたはこのような世界になさったのですか」

 答えが心に生じた。

「それは、あなたがた人間が行なっていることです。その問いはあなた方人間自身への問いです」

 戯れの自問自答、人類はいつまで憎悪、戦乱、殺戮、飢餓の世をつづけるのか。

 ぼくは街の外の渓谷沿いにサイクリングしてみたいと思った。宿の廊下の掃除をしていた若者に貸自転車屋の場所を聞いて訪ねた。ストックをつき、城門の外へ出る。城壁の周りは緑地帯の公園なっている。30分ほど歩くと、自動車道沿いに店があり、自転車の調整をしている兄ちゃんがいた。借りたいと言うと、10ユーロだと言う。現金を払うと兄ちゃんが手招きするから後に付いて行った。裏庭の自転車置き場にはたくさんの自転車が並んでいた。兄ちゃんはぼくの身長を見て、選んだ一台をもってきた。大丈夫かねえ、ぼくはサドルにまたがってみた。が、サドルが高くて足が地面に着かない。

「デンジャラス‥‥」

 自転車ごと横に倒れて、走ってきた車が頭がい骨を粉砕する光景が脳裏をよぎった。何年か前、自転車を止めたときに足を下ろすと、そこが低くなっていたために足が地面に届かず、横転した経験がある。恐ろしい。

「もっとサドルの低いのがいい」

 ところが彼は「ない」という。

「チャイルド用は?」

 そう言うと、かれはまた並んでいる自転車の列を見に行って、一台を取り出してきた。またがるとこれはちょうど足も地面に着く。OK、これがいい。まずは試し乗り。ペダルをこいで走ってみた。すると、ペダルに乗せた足を逆回転気味にしたとたんにブレーキがかかった。あれ、これはどういうこと?。これでは脚を静止したままの走行ができないではないか。

 「日本では、足をペダルに乗せたままストップしてもスーイと走るよ」

 身ぶり手ぶりで説明すると、兄ちゃんは、

 「いや、この自転車は、少しでも足を逆回転させるとブレーキがかかる、両手でもハンドブレーキをかけられる、こがなければ足を乗せたままスウと進む」

 そういう意味のことを言った。そこでもう一度広場を乗って一周してみた。なるほど、がってん。ペダルに少しでも逆回転の力を加えるとブレーキがかかるが、足を静止していればブレーキはかからない。日本でいつも乗っているママチャリ同様に、すいすいと走る。ぼくはにっこり笑って、

「これで行くよ」

と、地図をお兄ちゃんに見せ、

「このコースを走る」

と示すと、一生懸命コースを説明してくれた。言葉はよく分からないが、最高の景色らしい。なんとなくコースの状態も理解できた。急なカーブ、急な下り、石橋がある、まあ行ってみるずら。手を振って出発した。お兄ちゃんは、「元気な日本人のじいさんだ」と思っているに違いない。

 右に城壁を見ながら樹林の中を西に進む。道が細くなり、やがて明るい斜面のブドウ畑に入った。ワイン用のブドウは背丈が低い。手前に下りの道が見えたが、ここは判断のしどころ、どうするか迷っていると、後ろから一人のおばあさんがやってきた。おばあちゃん、教えて! 地図を見せて石橋はどこ? と聞くと、

 「うしろのあの坂道を下りまっしょ」

 ありがとう、ニッコリ笑って少し戻り、急な坂を下る。両手のブレーキ足ブレーキをかけて、下って行ったら石橋があった。そこから展開する風景はなんともはや、美の極致、心の深呼吸をして、すいすいサイクリングだ。もう足ブレーキは気にならない。自由自在だ。川沿いに進む。小川は樹木におおわれ小鳥が鳴く。数軒の瀟洒な農家が現れ、窓辺に花が咲く。また進んでいくと牧草地には色とりどりの無数の花が咲く。クロウタドリも鳴いている。木のベンチがあった。川をのぞくとマスらしき魚影が見える。石橋がかかっている。また農家が現れ、水車が回っている。直径2メートルほどの水車は粉ひきに今も使っているのだろうか、苔が生えているが回転している。

 馬のいる牧場、牛のいる牧場、羊のいる牧場、アルパカのいる牧場もあった。コースの標識は小さな札だけだ。お花畑の花はいろいろ変化する。小川の水を浄化しているのか、水の処理場があった。この小川にも下水が流入しているのだろう。数軒の集落のなかに緑したたる美しい村の墓地があった。新緑の木に囲まれ、墓石の間にも木や花がある。こんもり新しい土盛りがあり、その上に花束が置かれている。最近亡くなられた人の墓だろう。今も土葬が行なわれている。

 どんどん一本道を行った。道が分岐するとそこの標識に従った。けれどとうとう標識が見られなくなった。どこかで道を間違えたか。もうこの辺りから、方向転換しようと地図を見ていると、農家から自転車に乗って出てきたおじさんが、声をかけてきた。おじさんは、この道を行くといいといろいろ話してくれるが、よく分からない。「私に付いてきなさい」と言ったけ

ど、大丈夫ですよ、わたしは土地勘がありますから、ミツバチマーヤですよ、と呟きながら、出発していったおじさんの後からゆっくり行った。おじさんは、たちまち森の道のはるか向こうを走って消えていった。

 12時半ごろ、サイクリングを終えて自転車屋へ戻ってきた。兄ちゃんに、「グーッド」というと、ニッコリ笑い、自転車の鍵はそこの台に置いといてと言って、作業を続けていた。

 

  農業政策とエネルギー政策

 旅の宿は、小さな質素なホテルだった。朝食で特においしいと思ったのは、パン、ヨーグルト、チーズ、ハム。堅い歯ごたえのあるパンをちぎりながら食べる幸せ、幾種類もあるチーズとハムも食欲をそそった。ヨーグルトと温かいコーヒーのおかわりができることは、なんとも言えない満ち足りた喜びだった。

 この国は牧畜の国でもある。世界4大農産物輸出国のひとつで、農業・食品産業は国における第5位の輸出産業に成長している。有機農業の生産物では輸出企業が10万種以上の製品を世界に供給している。自然農法による農産物を提唱したのはルドルフ・シュタイナーで、シュタイナーはまた教育において大きな影響を世界にもたらしてきた。遅まきながら日本でもシュタイナー学校がいくつかできている。

 ドイツでは農業が有力な産業になっていて、農業生産・加工分野で働く人の数は、産業の9番目になる。農村地帯には国民の40%が住み、農業が就業の場を創りだし、農業従事者は質的に高い生活ができている。有機農業については、その割合を近年中に20%に向上させることを目標にしている。このような農村の価値は、文化、環境、農村の風景にも現れている。農村風景が自然と調和して美しいということのベースに、農業者の暮らしの豊かさがあるということなのだ 一方、次のような状況もある。

 「バーデン・ヴェルデン州における伝統的な農村風景。それは色とりどりの花が咲き、多様な生き物が集まる草地に、在来種のリンゴの古木が点在する風景である。リンゴの古木には野鳥が巣をかけ、その下では農家が草を刈り、牛が放牧される。リンゴは在来種が300種以上もあり、人びとはリンゴジュース、モスト(リンゴワイン)、シュナップス(リンゴ焼酎)をつくり、楽しむ。しかし、専用果樹園で大量生産されるジュースの方が安いからと、在来種リンゴの木は放棄され、かつてどこの農家にもいた牛もいなくなり、草を刈ることもなくなった。農家の戸数も三分の二に減った。同州の動物の三分の一が絶滅の危機にあるように、このような景観が失われることは、多くの草花や生きものの棲み家が奪われることなのである。」(農文協「地域の再生」)

 そこで草地を守るドイツの農業政策が重要課題として取り上げられてきているという。比べて考えれば、日本では草地の状況や植生はさらに悲惨な段階に来ていると思う。質的に劣る安価な物の大量生産が環境を劣化させ、破壊する。ドイツでも日本でも、このことに対抗する価値観を人びとが共有する必要があるのだ。

 列車に乗って窓から見ていると、放牧場の一角に、太陽光発電のパネルがずらりと並んでいる光景を何度か見た。家の屋根にパネルを敷いている家も見た。この風景は日本でもなじみになっている。途中で、あれっと思った光景がある。何十枚かパネルがずらりと斜めに設置されている。その下に羊たちが草を食んでいるではないか。小さな太陽光発電所であって、同時に羊の牧場である。なるほど、このアイデアからは三つの得だ。

 一つ、電力が得られる、二つ、羊が育つ、三つ、草刈りがいらず、草地が守られる。

  

 田園地帯のなかに、風車が回っているのに気づく。風力発電所だ。数基の風車がゆっくり回っている。小規模な風力発電所だ。一基だけ回っていたり、四基、五基が回っているところもあった。ドイツは、福島第一原発事故後、脱原発政策を早めることにした。メルケル首相は倫理委員会を発足させ、出来るだけ早く完全に原発を全部停止すべきだという結論をだした。それをもとに、政府は2020年までに完全に原発を停止する新しい法律をつくった。

 「脱原発」政策によって、再生可能エネルギーも順調にのびている。政府はエネルギー企業を支援し、小さなエネルギー企業が町や村にもできて、新エネルギーの普及を進めているのだ。


子どもの休暇、大人の休暇

 夏休み、冬休みは、子どもにとってもっとも楽しいときだ。60年前のぼくの子ども時代は野性的文化時代と言えるような日々で、家の手伝いとともに、友だちと思う存分遊びを創造し、冒険、探検をする日々だった。

 夏休みは降りそそぐセミの声とともにやってくる。7月20日、一学期終了、翌日から8月31日まで、まるまる42日間、6週間の休みだ。

 家の前の大池にはヒシが繁茂していた。ぼくは小学3年生、水泳がまだできないのに、バケツを水に浮かせ、それを両手で持って浮きにし、バタ足で池の真ん中に浮かぶヒシの実を採った。ボウボウと鳴く大きなウシガエルは食用ガエルと呼ばれ、それを兄とぼくは何十匹も釣って売りに行った。ウサギ、アヒル、鶏も飼い、家計の足しにした。

 草野球の道具は全部手作りした。古布と綿でグローブとミット、棒杭でバットを作った。木も草も、ムギワラも、瓦のかけらや小石も、五寸釘も、遊び道具になった。ツバキの実は笛に、スギの実は杉玉鉄砲に、竹は弓矢になった。土の中に巣を作るクモをつかまえて闘わせた。金剛連山から流れる清流はカッパ天国。めくるめく陶酔の、自由な日々。

 しかし今の時代、事情は大きく変わった。日本の子どもたちの夏休みから、友だちとの自由な野外遊びの謳歌は消えた。

 ドイツの学校の長期休暇は州によって異なり、また年によって期間は異なるが、全州共通して日本よりも期間ははるかに長い。そして宿題はまったくなし。

 年間の休暇は、夏休み、冬休み、クリスマス休暇、復活祭・春休み、昇天祭・聖霊降臨祭、秋休みなどがある。たとえばベルリンの学校の2013〜2014年の場合、

夏休みは、7月9日〜8月22日の45日間、

冬休みは、2月3日〜2月8日の6日間、

クリスマス休暇は、12月23日〜1月3日の12日間、

復活祭・春休みは、4月14日〜4月26日の13日間、

昇天祭・聖霊降臨祭は、5月2日〜5月30日の29日間、

秋休みは10月20日〜11月1日の12日間。

合計117日という長さだ。

 子どもたちの夏休みは学業のプレッシャーから解放される貴重な時間でもある。親もバカンスをとって、長期の家族旅行に出かける。1週間から2週間、保養地へ出かけてそこで滞在し、自然のなかで過ごす。

    

 南ドイツの山岳地帯はヨーロッパアルプスの一部だ。峠を越えていけば、オーストリアからイタリアまで行ける。

 ドイツ南部のバイエルン州バイエルンシュヴァーベン地方で一日遊んだ。アルプスの峰には雪が残っていた。

 その眺めは日本アルプス白馬岳あたりの風景に近く感じた。山の上に建てられた白鳥城に行った。この城の美しさから、日本でも世界でも人気がある。観光客の多さから人数を区切って入城させるので待っていると、二人の日本人に出会った。二人は同じ会社の同僚で、一人は以前にもドイツに来たことがあり、今回若い同僚が行きたいと言うから一緒に来たとのことだった。

「二日の休暇をとってきたんですよ。二日しか会社が休みを認めなかったんです」

「えっ、たったの二日でどうやって?」

 要するに、木曜日、金曜日と二日休暇を取り、土日を合わせて四日の休み、飛行機の中で寝てこの国に来た。

「どうして会社は休暇を認めないんですかねえ。私の息子も毎日帰宅するのが午前様ですよ」

 ぼくがそう言うと、

「私たちも同じですよ。日本の企業は、まったくひどいものです。日本はだめですよ」

 彼らは慨嘆する。

 経済協力開発機構(OECD)の統計では、日本では1人当たりの1年間の平均労働時間が1745時間(2012年当時)。ドイツは1393時間と約20%も短く、日本人より年間で352時間も短い。

   

 OECDによると、ドイツの1時間当たりの労働生産性は日本よりも高い。その理由の1つに労働時間が日本よりも短いことが挙げられる。ドイツでは、政府が法律によって労働時間を厳しく規制し、違反がないかどうか監視しているという。企業で働く社員の労働時間は、労働時間法によって規制されている。法律によると、平日1日当たりの労働時間は8時間を超えてはならない。1日当たりの労働時間は、最長10時間まで延長することができるが、その場合にも6カ月間の1日当たりの平均労働時間は8時間を超えてはならない。日本でも労働基準法によって、1週間の労働時間の上限は40時間、1日8時間と決まっている。けれどもそれはほとんどザルになっている。ドイツでは、企業が組織的に毎日10時間以上の労働を社員に強いていたり、週末に働かせていたりすると、経営者は最高1万5000ユーロ(210万円)の罰金を科されるのだという。悪質なケースでは、経営者が最高1年間の禁固刑を科される。

 ぼくらが、二人と話していると、もう一人の日本人旅行者が加わった。会社を定年退職した後、自由な一人旅をしているという。

「いやあ、家内は孫のお世話ですよ。そのほうがいいというわけでね。私はもう4週間旅しています。1月ごろから、ネットでホテルや列車パス、航空機など調べて予約を取り、いちばん安い方法で旅しているんですよ。食事も朝自分で作って昼に食べてね。」

 彼の行動は実に身軽。どこかへ出かけて情報を仕入れてくると、ひょこっと目の前に現れる。会社務めから解放されて、彼は青年のように自由を楽しんでいた。

 ところで、日曜日にスーパーへ行ったら店が閉まっていた。話に聞いてはいたものの、ぼくは「閉店法」という法律のことを知らなかったのだ。

 「閉店法」は1900年にドイツ帝国で施行された。小売店の営業は平日の5時から21時までとする。戦後は1957年に、旧西ドイツで「閉店法」が施行された。原則として、平日は7時から18時30分まで、土曜日は7時から14時までの営業を認める。日曜は例外を除き営業が許可されない。1989年法改定、木曜日の営業が20時30分まで可能となり、1996年には営業時間が平日は20時まで、土曜は16時までとなった。2003年の改正では、土曜日も20時まで営業が可能となった。

 なぜ「閉店法」が生まれたのか。

 一つは、日曜日はキリスト教の安息日であり、その慣習を保護するため。二つ目は労働者に長時間労働を強いる可能性があるからである。2003年に改正された「閉店法」の条文にも、「労働者の特別な保護」という章を設けられ、労働者の長時間労働を防ぐ条項を設定している。三つ目は、小規模小売店を保護するためである。営業時間が法定されていないと、資本力のある大規模小売店が営業時間を延長することで、小規模小売店の客を奪い、小規模小売店が生き残れなくなる可能性がある。

 かくしてドイツではこの法律が生きてきた。だが、実際には、「閉店法」は数々の例外規定を設けている。薬局、ガソリンスタンド、空港や駅、観光地の店舗などに特例を認めている。

 日曜日、駅の店で食事をした。ドイツの鉄道には改札がない。店の目の前にホームがあり、乗客が列車に乗り降りしているのを見ながら、ぼくらはビールのジョッキを傾けた。


   学校の教育と自然

フランクフルトの住宅街を歩いていると、大きな樹が葉を茂らせているところがあり、幼稚園だった。したたる緑のなか、遊具がある。子どもの大好きな、冒険心をくすぐるアスレチック風の遊具で、ほとんど木で作られている。よじのぼる、渡る、くぐり抜ける、ぶらさがる、子どもたちが全身で遊ぶもの。

 別の日に小学校に行きあった。正門を入ると緑のトンネルの向こうに校舎があり、手前にやはり木製のアスレチック風の遊具が見える。

   

 昔の小学時代、竹のぼり、雲梯(うんてい)、ジャングルジム、ブランコ、鉄棒が、運動場にあった。竹のぼりは、二十本ほどの真直ぐな竹棒が、はずれないように固定されて、ずらりと並んで垂直に立てられていた。子どもたちは両足で竹をはさみ、両手で体を支え、よじのぼる。いちばん上までよじのぼると目的達成、するすると下りてくる。これは腕や足の筋力を養うのに役立った。ほとんど鉄製の遊具の中で、竹だけが自然素材だった。子どもたちが直接手に触れ、肌に温かみを感じ、心に感じるものは、やはり自然素材がいい。しかし安全面やメンテナンス面で、今なお遊具は鉄製が大部分を占めている。戦後日本にフィールドアスレチックが入ってきたとき、それは子どもを引き付け、木材をふんだんに使った大規模なフィールドアスレチック場ができた。爆発的な人気のゆえに、学校行事の遠足でそこへ生徒たちを連れて行って、たっぷり自由に遊ばせたこともあった。

 幼稚園、保育園、学校の校庭には、できるかぎり木製の遊具やベンチなどを置きたいものだし、学校林をつくりたい。

 幼稚園は、ドイツの幼児教育者、フリードリヒ・フレーベルが世界で最初に設立した。彼は幼稚園の教育内容は、遊びや作業を中心にすべきものと考え、そのために遊具を考案し、花壇や菜園や果樹園からなる庭を幼稚園に必ず設置すべきであると主張した。1837年、世界初の幼稚園として「一般ドイツ幼稚園」が開設される。

 「森の幼稚園」はデンマークで誕生した。1950年代デンマークで一人のお母さんが森の中で保育をしたのが始まりとされている。「森の幼稚園」はドイツにも広がり、現在ドイツ全土で300以上になる。日本では2005年から毎年「森のようちえん全国フォーラム」が開催され、「森のようちえん全国ネットワーク」が設立されているが数は少ない。

 ドイツでは自然体験を重視する。連邦環境省は、自然でのハイキングを学校プログラムに取り入れるプロジェクトを新しく始めた。「学校ハイキング」と呼ばれるもので、生徒たちは一週間のうちの一日を野外で過ごす。このプロジェクトは2014年から、小学校3校において三年間の計画で実験的に行なわれている。生物多様性への関心を高めることが目的で、自然を子どもたちが五感を使って体感し、環境を守ることの大切さを学ぶ。環境教育の先進国ドイツならではの試みだ。

 ミュンヘン日本人国際学校の教諭を体験してきた栃木県の小学校教諭、橋本和美さんは、ドイツの環境教育についてこんな小論文を書いている。

《概要》

(1)環境に配慮した学校づくり

 ドイツでは自然を大切にした学校づくりが行われている。天然木を利用した校舎,森の中の学校など,自然と調和した学校が数多く見られる。

 ドイツにおける環境教育の概念は「ビオトープ」である。現地の小学校では、泥遊び場や生け垣を使った迷路、畑などを校庭に作っている。子どもたちは切り株に座り、土を掘り返し、落ち葉に寝転がる。大木が生い茂り、鳥のさえずりが絶えない空間がある。自然を肌で学び感じている。

 建物の屋根に植物を植えている。緑化された屋根は,雨水を保持し、周辺の気候を改善し、小動物の大切な庭や休息の場となっている。また、断熱性を補ったり、屋根の気密性を守ったり、利点も多い。ミュンヘン日本人国際学校体育館の屋根部分にも土が盛ってあり、草が植えてある。春になれば花が咲き、蝶や小鳥たちがたくさんやってくる。

 (2)自然体験

 ドイツの森林にはさまざまな形の自然体験道がある。ドイツでは一年を通して散歩やハイキングを楽しむ人たちを見かけるが、「森の音に耳を澄ます」「植物に触れて匂いを確かめる」「自然の中にある物を使って音楽を楽しむ」「木登りをする」など、思い思いに自然に触れ、楽しんでいる。

 (3)環境教育の実践

 ドイツ各地には「森の学校」と呼ばれる地域の自然保護や環境教育を行うエコセンターがある。そこでは自然観察の魅力的なイベントが随時開かれ、五感を使った自然体感を行い、豊かな感性を育てている。博物館動物園などでも環境学習プログラムを随時行っている。子ども自身が体験を通じ、考えながら環境を守ることの大切さを学ぶ。小学校に入ると、環境教育プロジェクトに参加し、五感から得た知識をさらに深め、一人一人が環境大使となって、環境保全活動に携わるようになる。

 ミュンヘンギムナジウム学校では、自然界のプロセスや生態系における相互依存についての学習が、「教科の枠を越えた授業」の時間に設定して数ヶ月単位で行なわれている。複数の教科の共通テーマとして環境を扱い、様々な視点から知識を深める。例えば「エネルギー」をテーマに、化学と政治の授業を組合せて実施。化学の授業では,様々なエネルギー源について自然科学を元に調べ、政治の授業では脱原発とエネルギー転換についてディスカッションを行う。

  一方,短期間で学年・学校を挙げて一つのテーマに取り組む「プロジェクト」もあり、実践的な環境学習プロジェクトを実施するため、自然学校(機関)や環境学習センターに講師を依頼し、アドバイスをしてもらっている。

 <まとめ>

 「ドイツ人の環境意識は大変高い。ドイツの人々は健康で人間らしく生きるために環境を守り,動植物の世界を乱獲から守り、破壊や損失を除去するために行動している。ミュンヘン市内の公園などでは子どもたちが里親になった樹木や小川なども見られる。木には小鳥の巣箱がかけられ、近くにはえさ台が置かれている。自分たちの手で自然を大切に育てることで、自然と環境に対する責任感を身につけている。」

 ドイツの小学校教育は伝統的に地域を重視する。1919年から「郷土科」という教科が設定されている。こんな調査がある。

 「1998年に連邦自然保護庁が作成したドイツ国内の生物に関するレッド・リストによれば、調査した16,000の動物種のうち3%が絶滅し、36%が絶滅危惧種であった。また、在来のシダ・種子植物3,000種のうち1.6%が絶滅し、26.8%が絶滅危惧種であった 。」

 「ビオトープ」はドイツで生まれた概念で、生物の生息環境を意味する生物学の用語だ。「ビオ」は「バイオ」のことであり、ドイツ連邦自然保護局では「ビオトープ」を、「有機的に結びついた生物群の生息空間」と位置づけている。日本でもこの概念が導入され、学校や地域で、生命が生まれ循環する環境づくりが目指された。しかし日本の現実は、教科書オンリーで、教師が教え生徒が受け身の授業がほとんどになっている。学校から出て、社会や自然、生活体験から学び発見し、創造する実践とは遠く隔たってしまっている。子どもたちが野外に出て自然を観察し、自然と対話するような授業や「ビオトープ」をつくって活用する教育実践はほとんど空洞化している。

 最も重要な『生命を知り、生命から学び、感じ、考える教育』に手が回らず、子どもたちと野山・森に入ってたっぷりと遊び、自然を体験する実践が少なくなっている日本の教育、どんな人間が育つか、未来はどうなるか、この危機感の共有がまったく乏しい。


  ストリートミュージシャン

 

 何人かの辻音楽師に出会った。

 今の呼び名はストリートミュージシャン

 街かどに立って曲を演奏する。

 フランクフルトの街で、

 老いたバイオリン弾きに出会った。

 四角い小さなスピーカーを路上に置いて、

 スピーカーから流れるオーケストラの音色に合わせ、

 彼はバイオリンを弾いていた。

 朝は街中にいたが、午後は川の橋のたもとにいた。

 彼の前を人は通り過ぎていき、

 前に置かれた箱には、何枚かのコインが入っていた。

 街の広場に行くと、

 男がホルンを吹き、女がアコーデオンを弾いていた。

 陽気な女は演奏しながら踊りを踊った。

 十人ほどの旅の人たちが、二人の前に立って、

 ニコニコ演奏を聞いていた。中からご婦人の一人が出てきて、曲に合わせて踊りを始めた。

 アコーディオン弾きは、もっと陽気に踊りながら演奏した。

 旅の人たちは愉快そうに笑った。

 一人二人と出ていって、帽子にコインを投げ入れた。

  

 ローテンブルグの西の公園にはマロニエの花が咲いていた。

 ギターの音色が聞こえてきたから行ってみると、「ドイツ民謡」と書かれた札が置かれ、民族衣装の男が木の前に立ってギターを弾いていた。男の前の箱にCDのケースが数枚ある。

 「菩提樹の曲、あるよ。ローレライ、あるよ。」

 と言いながらギターを弾く。なんとも素朴な演奏だった。おじさんの演奏を録音したCDは一枚12ユーロドイツ民謡は好きだから旅の記念に一枚買った。

 ミュンヘンの街でもミュージシャンに出会った。にぎやかな歩行者天国を行くと、チロル民謡が聞こえてきた。歩道に箱を置き、その上でチロルの民族衣装を着けた男がアコーデオンを弾いて歌っている。人びとは聞くともなく、男の横を通りすぎていく。一人のご婦人がつつっと近づくと、男に向かい合い、ご婦人もチロルの歌を歌いだした。二人はしばらく二人だけの演奏会をした。婦人もチロルの人だったのかもしれない。ミュンヘンから山を越えればチロルだ。

 歩道の端に座って、リコーダーを吹いている男がいた。その向こうにも、リコーダーを吹く男がいた。日本の小学生も吹くリコーダー。いかにも困窮者風の男たちは、うつむき加減に笛を吹く。道行く人は男に関心を示す様子がなく、前に置かれた小さな紙の器に、いくらもお金が入っていなかった。

 森の道で、椅子に腰かけ、小さな手回しオルガンを弾く人がいた。木で作られた珍しい楽器に興味を抱いて話しかける人がいた。ぼくも腰をおろして、その楽器をよく観察して曲を聴きたかったが、そのままそこを通り過ぎた。何人か聴いている人があったら、たぶん立ち止まって聴いただろうに。

 1990年8月、ノルウェーオスロの通りで出会ったギター弾きは、ビートルズの「イマジン」を熱唱していた。二十代の青年で、若い情熱が伝わってくる。ジョン・レノンが歌ったこと

は単なる夢想にすぎないと思われたが、実現できないと決めつめていることは、人びとの心の中にある単純な壁だと思えた。その前年の1989年11月9日にベルリンの壁は崩壊した。若者は、ただただ歌い続けていた。

 「想像してごらん、国なんかないんだと。

 簡単なことだよ。

 殺す理由も死ぬ理由も無く、宗教も無い。

 みんなが平和に生きていると。

 想像してごらん、天国なんかないんだと。

 簡単なことだよ。

 この地下に地獄なんて無く、

 僕たちの上には ただ空があるだけ。

 想像してごらん みんながただ、今を生きているって。」 

 メイン通りだったが、立ち止まる人はいなかった。ぼくは歌を聴きながら、ゆっくり前を通り過ぎた。

   

   動物園へ行った

 朝からトラムに乗って家内と動物園へ出かけた。どこの停留場で降りたらいいか、乗り場にいた市民に聞いて路面電車に乗った。駅には駅名が書いてある。駅名を見て、近くにいた若者に確かめると、動物園ならここで降りて、向こうの通りを右へ10分ぐらいと言った。電車はその間、停車したまま待ってくれていた。若者が、発車しないように措置をしてくれていたらしい。

 朝のフランクフルト動物園は静かだった。人も少ない。入ってすぐに左手がインドライオンテリトリーだ。インドにライオンがいたとは知らなかった。濠に囲まれたかなり広い台地のインドの自然に、二頭のインドライオンは寄り添って、遠くを見ながら伏せていた。たてがみの色が濃く、風格があった。

 背丈ほどの草がぼうぼうと生えているところは、オオカミの暮らす草原だった。飼育員のおばさんが中に入って何かしている。オオカミはそれを知っていて、おばさんを見ながら距離を取り、おばさんが動くと後をつけていた。おばさんは、ときどき後ろを振りかえりながら出口から出ていった。オオカミも風格があった。オオカミは群れの動物だが、いったい何頭ここにいるのだろう。ライオンの園もオオカミの園も、木立が取り囲んでおり、人間は木立の合間から中をのぞくという感じだ。

 柵やネットのない自由な鳥スペースで、ヒナを連れて歩いている鳥がいる。フラミンゴが群れている。野生のフラミンゴの群れの数にはとても及ばないが。

 爬虫類館と水族館を合わせた「エキゾタリウム」ではガラス越しに珍しい動物を見る。小動物がおもしろい。自分の住む穴の中から小石を口にくわえて一生懸命外に運び出している魚が、クリクリ目玉でかわいい。ハキリアリもせっせと木の葉を切り取って運んでいた。地下室に入っていくと、暗がりの中に夜行性動物を観察できるところもあった。ネズミの仲間が木登りをしている。

 午前10時に、近くの教会の鐘が鳴った。鐘の音はとても大きく感じられ、10分以上も鳴り響く。鐘の音に動物たちは驚かないかと思ったが、彼らはそれには慣れて、この街の住民同様にへっちゃらのようだ。

 動物園の動物は、できるかぎりふるさとの環境に近くなるように棲み家を用意されている。しかしそれでも彼らの願うところではない。ここに4500の動物が生きる。その生命空間をつくることは、人間自身のあるべき環境をつくることにも通じる。動物たちの住む自然環境、すなわち土、空気、水、食べもの、音、植生、それらは彼らにとって適切なものか、吟味されながら用意されている。しかし、チェルノブイリ原発事故が起きたとき、放射性物質ヨーロッパ全土を汚染した。この動物園にも放射性ストロンチウムは落下しただろう。さらにまた人間が開発した化学物質、オゾン層の破壊、地球温暖化による気候変動、戦争による環境破壊など、彼らはとめどもなく続く生命・生態系への攻撃にさらされている。

 一方、野生動物たちのふるさとを見れば、人間によって破壊され、野生動物の安全な居住区は激減した。多くの生物が絶滅を危惧されている。彼らの安住の地はいずこにありや。

 動物園の動物を考えるということは、地球環境、生物環境、人間環境を考えることに通じる。

 アムジー(クロウタドリ)が樹の枝にとまってさえずっている。12時にまた教会の鐘が鳴り渡った。動物園の入口には長蛇の列ができていた。子どもを連れた家族連れが多い。鋭敏な感性を持ち、好奇心の塊である子どもたちが、ここで楽しみ、発見するものは数限りない。

 「沈黙の春」を著し、地球・人類の危機を世界に訴え警鐘を鳴らしたレイチェル・カーソンが遺した文章がある。特に子どもの育ちにかかわる、親、教師への重要なメッセージである。

 「子どもたちの世界は新鮮で美しく、驚異と感激にあふれている。子どもたちが、生来の驚異の感覚を生き生きと保ち続けるためには、その感覚をわかちあえるような大人が少なくとも一人、子どものかたわらにいて、われわれの住んでいる世界の歓喜、感激、神秘などをその子どもと一緒に再発見する必要がある。

 私は、子どもにとっても、子どもを教育しようと努力する親にとっても、『知る』ことは、『感じる』ことの半分の重要性さえももっていないと信じている。もしも、もろもろの事実が、将来、知識や知恵を生みだす種子であるとするならば、情緒や感覚は、この種子を育む肥沃な土壌である。幼年期は、この土壌をたくわえるときである。美的な感覚、新しい未知なるものへの感激、思いやり、あわれみ、感嘆、愛情といった感情、このような情念がひとたび喚起されれば、その対象となるものについて知識を求めるようになるはずである。それは永続的な意義を持っている。消化する能力がまだ備わっていない子どもに、もろもろの事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるようになるための道を切り開いてやることの方がはるかに大切である。」(ポール・ブルックスレイチェル・カーソン」上遠恵子訳) 

 

    日本の景観を想う

 中山道の木曽路を馬篭から峠を越えて妻籠まで歩いて旅籠(はたご)に泊った外国人たちが、その美を「こここそが歴史的日本の美であり、日本一だ」とほめ讃えていた。

 妻籠は、1976年に国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地に選ばれた。経済成長こそが最高の価値であるかのように、伝統的な町並みをつぶして新しい街をつくっていく巨大な開発の波の中、いち早く地域を挙げて景観保全活動に取り組んだ妻籠宿の住民の叡智は高く評価されている。

 初めて妻籠を訪れたのは、1970年1月末だった。スキー道具を南木曽駅に預けてぶらりと妻と入った妻籠宿、「藤乙」という屋号の旅籠に泊った。他に客のいない冬の宿、老いた女将は、宿近くに墓地のある島崎藤村の詩「初恋」に詠われたおゆうさまの思い出や、小説「夜明け前」の話をしてくれた。翌日、峠を歩いて越え馬篭宿で泊った。宿は、藤村の四男、楠雄さんの経営する「四方(よも)木屋(きや)」だった。

 子どもが生まれてからも、毎年家族で妻籠を訪れた。泊った民宿「大高取」は、あららぎ川のほとりにある歴史的な古民家で、そこが30年に及ぶぼくらの郷(さと)になった。一家は、牛を飼っていた。御主人は妻籠宿を伝統的建造物群、歴史的遺産として保存する運動の担い手でもあった。復元活動は、街道筋の電柱を撤去し、看板類を全部とり払い、江戸時代からの建物と街並みを復元して、すっきり調和した屋並みの、江戸時代を彷彿させる景観に戻した。宿場妻籠は、山間の谷間にあり、わずかな農地しかなかった。国道から離れ、宿場を維持して未来を描くにも困難な状況だったが、復活した宿場町は人を呼んだ。時代祭や盆踊りが行われ、秋の時代祭の日には、村人たちは江戸時代の人びとに扮装し、嫁入り行列が行なわれた。大高取のばば様は、囲炉裏で五平餅を焼いてくれた。

 妻籠に続いて薮原宿、奈良井宿と、次々と木曽路の中山道宿場の伝統的建造物群が復元されるようになった。観光客が木曽路にやってきた。しかし、江戸時代の街道はほとんど昔の姿を消していた。国道19号線は車の往来の激しい、人の歩ける道ではなくなった。高度経済成長とともに、日本のどこを見ても歴史的街道は姿を消し、その価値を惜しむ声は政治に反映することはなかった。江戸時代中山道は消えた。

 写真家石川文洋氏が木曽路を歩いて痛感した。「歩く道がない」。それは、実際にぼくも体験したことであった。薮原と奈良井の間だったか、ひとりの外国人の若者が、ザックを背にしてテクテク歩いていた。車が疾駆する国道19号線。19号線には歩道はない。排気ガスを吸いながら、身の危険を感じて歩いている彼に、「こっちの脇道を歩きましょう」、と声をかけたかったが、こっちの脇道も次の宿場に通じているのかどうかも分からない。結局声をかけられずじまいだった。 

        

 「歩く人のための街道」をつくれないか。もしそれをつくることができれば、日本の文化の大きな変革につながるだろう。美濃路から宿場をつなぎ、馬篭、妻籠、須原、上松、福島、宮ノ越、薮原、奈良井、贄川、本山、洗馬、そして中山道を「江戸」へ向かって復元する。そしてもう一方、松本平、安曇野、大町、白馬、小谷、糸魚川へと、「塩の道」につなぐ長大な歩く人のための街道を取り戻す。そのような壮大な街道計画が、日本でなぜ生まれてこないのか。自動車道はあまねく通し、鉄道は全国に新幹線を張り巡らし、なおもリニア新幹線へとスピードを追求するが、ゆっくり自然を愛でて歩く人の道はつくられない。日本人は歩く文化を喪失したのだろうか。

 イタリアのガイド、マルコは、古い道を探して保全する活動を続けていた。彼はこんな印象深いことを語っていた。

 「道は動脈であり静脈です。徒歩でしか通れないたくさんの美しい道を、歩いて使わなければ、イタリアという体は死んでしまいます。失われた道を使い続けてほしい。イタリアをいちばん楽しむ方法は、歩くことです。イタリアには数えきれないほど美しい場所があります。車で、あっという間に通り過ぎてしまえば、おいしい食事を味わわないで済ませてしまうのと同じです。」

 昔からドイツ人は、イタリアにあこがれた。ドイツからオーストリアアルプスの峠を越えれば、そこには、陽光輝く、明るく美しいイタリアがあると、イタリアを恋い焦がれた。モーツァルトゲーテもそうだった。

 現代日本はいまだ自然と暮らしの調和した環境を、文化として取り戻していない。日本の自然は深遠で美しい。しかし、暮らしの中に自然が豊かに生きているような都市計画は進められてはこなかった。日本では街並みが「醜い」といわれる。人工物と自然が調和していない。

 妻籠という小さな宿場づくりで取り組まれたことは、街道筋からの電柱の移転、看板・のぼりの撤去、郵便局、休憩所などの現代の建造物を歴史的建造物と調和するように、一つひとつを具体的に検討して、全体を歴史遺産として復元したのだった。

 ドイツの景観は、面として保護されている。全国に多種多様な街道を配し、街、樹木、森・草地を保護・復元し、たくさんの種類の生物が住める環境を生みだしている。

 では法的にはどう規定しているのだろうか。ドイツ連邦自然保護法とドイツ環境政策の三原則は次のとおりである。  

  ドイツ連邦自然保護

 第1章・第1条。

 自然と景観は、その固有の価値に基づいて、人の生活基盤として、また将来の世代に対する責任において、人の住んでいない地域と同様に人の住んでいる地域においても、自然と景観の多様さ、特色、美しさと観光的価値が長く保証されるように、保護され、保存され、開発され、必要のある場合は復元されなければならない。

 第1章・第4条。

 各人は自然保護及び景観保存の目的と原則を実現するために自らの可能性に基づいて寄与しなければならず、自然と景観が不可避的な状況によって損われる以上には損なわれないように行動しなければならない。

   

  ドイツ環境政策の三原則

 1、予防原則環境負荷は基本的に減少させなければならない。国は、自然に対するリスクを認識した場合は介入する義務を負う。国の指示と禁令は環境負荷を最小限に制限するものでなければならない。

 2、自己責任原則:産業は自己のもたらす環境負荷の費用を負担しなければならない。産業はできるだけエコロジー的に、またそれによって長期に渡って低コストで生産することを推進しなければならない。

 3、協力原則:国は、法律と罰則によってではなく自発的な基盤に基づいて産業と協力し合わなければならない。

 ドイツ連邦建設法典は、建築物と周辺との調和を規定した。ビオトープの概念は、1986年の自然保護法において、初めて使用されている。

 ドイツ連邦自然保護法の2009年改正法では、さらに生物多様性が重視され、種及びビオトープの保護に関する規定が拡充された。景観計画では、自然・景観保護の目的を具体化し、それを実現する手段としての景観計画の策定を決めている。

    

 かくしてドイツでは、「Land」 をより美しくするという考えをもって全的に実践されている。川があれば、川が美の要素になる。村があれば、村のたたずまいが美の要素となる。教会の塔があれば、塔は景観を引き立てる。道はなつかしい心の風景をかきたてる。

 ぼくは空想する。日本の江戸時代の景観はどんなだったろうと。すべて徒歩で旅した江戸時代。桜の季節、新緑の季節、紅葉の錦の季節、木枯らし吹く季節、雪の季節、街道をゆく人たちの見た風景を想像する。そしてまた西行等が旅した平安時代はどうだったろうと。ニホンオオカミエゾオオカミも日本の生態系に役立っていた。歴史のなかで、美は人の心に根ざして、人間を育んだ。日本の芸術文化はその風土の中から生まれた。

    

    人びとの中の「古層」

 ドイツを指すジャーマン(GERMAN)をドイツ語で発音するとゲルマン

 原始ゲルマン人は土地共有性を実施し、自給自足的村落を形成した。霊魂崇拝、自然崇拝が行なわれ、彼らの神は森の中に住んでいた。今もドイツ人は森の民。霊魂崇拝、自然崇拝、これは日本に似ている。古代日本はアニミズムで、山にも森にも川にも木々にも神がいた。

 原始ゲルマン人の現住地はスカンジナビアからバルト海沿岸の地だった。やがてゲルマン人はいろんな民族との相克・融合、支配・被支配を繰り返してきて現代至り、EUの一員となった。

 ヨーロッパ歴史学の樺山紘一は、「歴史の古層」「歴史的な基層」という言葉を使って、現代の人間のなかに潜んでいる古い歴史の「記憶」の存在について述べている。

 「人間の中の記憶というものは100年、200年の長期波動で築かれていったもので、これが人間社会をつくりあげる決定的な力を果たしたに違いない。こうしてでき上がってきた記憶体系というものが、どうやって共有されて、どうやってそれ以後に導入されたものとの間に関係を取り結ぶのか、こういうことを考えるのが、本来の歴史学だと思う。」

 記録に残っていない先史の時代の人びとの生活、社会を結んだ人びとの知られざる歴史があり、そこには自然と人間、異民族同士の交流、融合があって、そこから生み出されてきた記憶がある。それが「歴史の古層」「歴史的な基層」であり、今も隠れて存在している。ところが、19世紀になって、ナショナリズムが政治と結びつくと、民族の純粋性とかいうファンタジーがつくられ、「歴史の古層」「歴史的な基層」がないがしろにされ、「純粋なゲルマン民族」というような誤解体系がつくりあげられてしまった。そして「純粋なドイツ人」とか「純粋な日本人」とか唱導されて、ドイツではユダヤ人への迫害になった。歴史を考えれば、「純粋」なんていうものは考えられない。

 そして樺山紘一はこう考察している。

 「ゲルマン人やローマ人が来る前に、ヨーロッパには人が住んでいた。だからストーンヘンジみたいなものができた。クロマニヨン人は5万年前にいて、そのときからヨーロッパ人がおり、ヨーロッパの自然と付き合っていたはずで、今のヨーロッパ人はその子孫だ。5万年も8万年もかかっているから生物学的には子孫としての要素はきわめて薄いかもしれないが、ヨーロッパの自然の中で生命を営むという生活体系に関して言えば、戦争があろうが疾病があろうが何らかの形で記憶として受け継がれているにちがいない。

    

 200年前まで、ヨーロッパはかなりの部分、森林だった。人間の中に深い森があった。魔女とか妖精とかが棲んでいた。今でもヨーロッパの人の心には妖精が棲んでいる。イギリス人は特にそうで、窓の桟とか、鴨居とかに必ず妖精がいるから、窓はまたいではいけないと子どもに教える。」

     

 生命誌研究家の中村桂子氏は、

「純粋なドイツ人とか純粋な日本人とかは存在しないということは、ゲノムの研究からも言える。ゲノムには記憶には残っていないものも、そのことが記録されている」

と述べている。

 日本人はヨーロッパをどれほど認識してきただろうか。日本がヨーロッパを知らないのは、日本がヨーロッパ文化を取り入れたのが明治維新後だったからである。だから「ヨーロッパの古層」が入ってこなかった。

 日本人はアニミズムだと言うけれど、ヨーロッパ人もきわめて長い間、アニミスティックな世界に生きている。

 ドイツでもオーストリアでも、お店に行くと、妖精の人形が売られている。家内は、魔法使いのおばあさんの人形をインスブルッグで買って日本に持って帰ってきた。部屋の壁にかかって、いつもぼくらを見ている。

 

 歴史性をもった美しい風土

 かつてイギリスワーズワース(1770〜1850)のふるさとを旅した時、その美しい風土のなかで、こんな言葉を聞いた。

 「この美は100年以上も前から人びとによってつくられてきた。この景色は、100年後も変わらず、人びとによって守り継がれていくだろう。」

 美しい郷土の永遠性への誓い、誇りと愛が現れている。

 イギリスは18世紀末から始まった産業革命によって環境は惨憺たる破壊に至る。森が滅んだ。エディンバラの古都さえ煤煙によって黒くなった。そこから人びとは立ちあがる。国木田独歩の小説「武蔵野」に影響を与えたワーズワースもその一人だった。「ピーターラビットのお話」を書いたビアトリクス・ポッター(1866〜1943)も、美しい湖水地方を取り戻す運動に参加した。そして「一人の百万ポンドよりも百万人の一ポンド」を合言葉に、たくさんの人々が自然遺産、歴史遺産を自分たち国民の宝であると、ナショナルトラスト運動に参加する。やがて自然と歴史、文化を保存するこの運動は世界に広がり、「世界遺産」の取り組みにつながっていった。

 イギリスは、パブリック・フットパスの思想も稔らせた。人間は歩く権利を持っている、この大地を、自由に安全に心ゆくまで自然のなかに浸りながら歩く。それは誰もが持っている権利であると、国土の至る所に毛細血管のように、車の通らない、人間が歩くためだけの小道をめぐらし、既にある小道をつなぎながら、私有地も歩けるようにした。パブリック・フットパスには、小さな標識があるだけ、それを見て、連綿と続く小道を歩く。

 ドイツは、イギリスの影響を強く受けた。第二次世界大戦後のドイツ市民は、爆撃で破壊された街の残骸を拾い集め、200年前、300年前の歴史的建造物を復元し、広大な緑の森を全土に蘇らせ、美しい街を復興させた。それがドイツの風土の美となった。二つの大戦を経たドイツ市民たちの、自然の中に還りたいと思う意志の結果だった。、その思いには永遠性を感じる。

 小塩節が「ザルツブルグの小径」に書いていたエッセイに「フィッシャー・ディースカウの歌う『冬の旅』」がある。

 「フィッシャー・ディースカウのなまの声を聴いたのは、1962年、おそろしく寒いドイツの冬の日が初めてだった。

 何年か前から私は彼の『冬の旅』のレコードをすり減るぐらい聴いていた。冬のさなか、中部ドイツカッセルの町で彼の『冬の旅』の夕べがあるという。90キロの道をボロ車で出かけていった。菩提樹の並木がどこまでも続くくねくね道は、つるつるに凍っている。裸の菩提樹の木肌に粉雪が吹きつけられていて、まるで年老いた山の狩人のような表情だ。朝十時ごろに昇った冬の太陽は、地平線のすぐ上の灰色の層雲のかげに終日じっとかくれていて、三時ごろにはもう沈んでしまう。雪の丘を黒いカラスが飛び去っていく。」

   

 シューベルト歌曲集「冬の旅」。作曲した1827年の翌年、シューベルト亡くなる。「冬の旅」最後の第二十四歌に「辻音楽師」という歌が入っている。

 村はずれで一人の年老いた辻音楽師と出会う。虚ろな眼で、凍える指で、手回しオルガン(ライアー)を弾いている。若者は自分と同じ孤独な辻音楽師にたずねる。

 「老人よ、お前についていこうか。僕の歌に合わせてライアーを回してくれないか?」

    凍った地面に 靴もはかず

    足もともよろよろと おぼつかない

    それなのに銭受けの小皿は

    いつになっても からのままだ。

  

 ドイツ人のメランコリーについてこんな文章がある。

 「ドイツの冬はきびしくて長い。このような気候風土が精神面に大きな影響を与える。冬に耐え、陽光の降り注ぐ春を待ちわびる。逃れることのできない冬の季節が生み出す薄暗い日の出や日没のたそがれの雰囲気を、むしろ安らぎに似たものと受け止めてきた。薄明はドイツ人の好きな言葉であり、彼らはその中で、もの思いにふけり、音楽に耳を傾ける。このような気候風土とかかわる性向は、ドイツにメランコリーの色調を帯びた芸術作品が多く生まれたことと無関係ではないだろう。」

                    (藤井あゆみ)

 長い厳しい冬を経て、春の陽光に輝く自然の美と豊かさを讃える。自然風土の影響は大きい。合わせて時代と社会の変動が人間の精神に大きな影響を与える。戦乱の時代をいくつも経験して、今EUのなかでドイツは大きな位置を占めている。同時に、国内に新たな葛藤と対立をはらんでいる。

   

 ナチスドイツによるユダヤ人絶滅施設、強制収容所から生きて帰ってきたフランクルは、その収容所体験記録「夜と霧」のなかに、死に瀕した一人の若い女性と一本の木のことを書いている。フランクルユダヤ人精神科医であり、収容された人びとを生き抜くように支えた。

 彼女は収容所の窓から外を見て横たわっていた。窓の外にカスタニエンの樹があり、花盛りだった。彼女はフランクルに言った。

 「あの樹は私のただ一つの友だちですの。この樹とよく話をしますの。あの樹はこう申しましたの。私はここにいる。私はここにいる。私はいるのだ。永遠のいのちだ‥‥」

 死に瀕したその女性は、窓の外に樹があったおかげで、樹の命に支えられ、絶望の淵に沈むことなく人生を終えることができた。

  ヘッセは書いていた。

 「国家主義の錯覚を徹底的に清算して、人間となる道を歩むためには、勝利者や中立国民より、国家主義の悪夢を仮借なく知らされたドイツ人のほうが、有利な立場に置かれている。それによって、他国民より人間価値においてまさり、道(タオ)により近づくように希望する。」

 道(タオ)は中国、老子の思想である。

 ヘッセノーベル賞を受けた。ヘッセは次のように謝辞を述べた。

 「精神の二つの病気が二度の世界大戦を引き起こした。すなわち、技術の誇大妄想と、国民主義誇大妄想である。

 それに対する抵抗が最も重要な課題である。」

2016-07-17

[]  草の勢い   草の勢いを含むブックマーク




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 ジャガイモの二畝をやっと掘り切った。

 ドイツの旅から帰ってきたら、黒豆畑の草は腰の丈ほどにもなっていた。あまりにひどい。

「怠けたらこのありさまです」

と、クルミのおばさんに言い訳したくなるほど。

 それを取り切ってから数日後、大阪で滝尾君と森君に会う前に、ジャガイモを四分の一ほど掘って、それまでに収穫したタマネギとニンニクとを合わせ、適当な量を二人の土産にした。その時すでにジャガイモ畑はかなりの草ぼうぼうだった。

 腰の丈ほどにもなっていたのはアカザだ。この草の成長スピードには目を見張る。スベリヒユ生命力も尋常ではなく、地をはって広がっているのを引き抜いて土の上に置いておくと、生きのびている。カモジグサは無数の根っこをはりめぐらして土をつかんでいる。夏の炎暑で土がからからに乾燥しても、わずかな水分を細い根っこ集団が吸い上げる。

 雨の日は畑へ行かず、かんかん照りの日も敬遠すると、この時季の草の生長は猛烈で、数日で畑はジャングルだ。

 畑に残したジャガイモ四分の三を、息を切らしながら掘った。備中鍬を畝の両脇から、イモに傷つけないように打ちこみ、草の根を掘り起こす。根株のすごいのは、鍬を根の下に打ちこんで、鍬の柄を前方に押してテコの応用で掘り起こす。これが少々力がいる。そうしてジャガイモを土の中から備中鍬でかくと、ころころ転がり出る。一メートル進むだけで息がはずむ。汗がだくだく流れ、シャツを絞れば流れるほどになる。昨日一日と今日の午前で、イモは全部収穫した。さらに草刈り機で黒豆の畑の畝間と周囲を刈った。

 地這いトマトが稔りだした。赤いのを今日3個、味見で持って帰った。ニジュウヤホシテントウが発生している。ジャガイモの葉もこの虫でやられた。今トマトが食べられている。

 大阪へお土産にもっていったジャガイモを蒸してバターで食べたらおいしかったと、滝尾君が電話で言っていた。彼も150坪ほど野菜作りをしていたが、今はひざが痛くて、仏壇の前に正座もできず、野菜作りはしていないと言う。ひざの故障は二足歩行の人間の宿命だろうか。杖をついて歩く高齢者の姿をよく見かける。

2016-07-13

[] 友のありがたさ  友のありがたさを含むブックマーク


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 都ホテルのロビーにある喫茶室に向かっていくと、中の席に座っているじいさんが、じいっとこちらを注視している。彼らの一人だな。ぼくはストックを上げて知らせた。それにしても見たことのない人だ。喫茶室に入る。そのじいさんと一緒に、森君と滝尾君がテーブルを囲んで座っている。

「おうー、ひさしぶり」

 二人は、小学校時代からの面影があって、まちがうことはない。それにしても、こちらを見て笑っているのは誰なのか。

「おまえ、だれやあ」

 その男は、ずっこけた。

「忘れたんかあ。ほんまに頼むでえ」

「え? ほんまにあんた誰や?」

 森君が、

「鈴木やがな、柳一や」

「えー? ほんまあ? 鈴木はこんな顔をしてへんかったで。ほんまかあ」

「おれやがな、鈴木やがな」

「ほんまに鈴木かあ?」

「しょうないなあ。ほんまやがな」

「そうかあ、すっかり昔の面影ないなあ。森と滝尾は昔の顔が残っているけど、鈴木の顔はまったく変わってしもうたなあ」

「オレ、吉田とおうたのは20年以上前になるなあ」

「うん、そのときの顔とも違うでえ。」

 二十数年前、中学校時代の同窓会のときに、鈴木とも会っている。それから後に、彼もいくつか大病をして、無理のできない体になっている。心臓もよくない。鈴木の頭は白髪、

「大病をやってきて、今もあかん。身長は5センチ縮んだで」

「それは同じやな。オレも4センチほど縮んだ」

 滝尾もきれいな白髪になっていた。風格が出ていた。森は、ぼくと同じ、ひざの軟骨をやられて、杖をついている。

「オレも、あたまはこうや」

 ぼくはキャップを脱いで、我が坊主頭を見せる。

 それから積もる話が全面展開となった。小学校時代からの追憶。忘れて記憶に残っていないこと、初めて聞く話。

 戦争が終わって森が中国山西省の大同から引き揚げてきたのは小学校2年生の時だと言う。

アメリカ軍の上陸用舟艇とか言うてたなあ。それに乗って、日本に帰ってきたんや。船の中は鉄板の床で、その上に横になってなあ。あかんぼを連れたお母さんもいて、赤ちゃんが死ぬんや。そうしたら赤ちゃんを海に入れて葬るんや。中国から引き揚げる時、財産を日本に送ったけど全部日本に届いていなかったよ」

「そうかあ。その話、オレ今地元の公民館で外国人の日本語教室で教えているんやけど、同じスタッフの高橋さんと言う人も上海から引き揚げてきた人で、その人が言うてたが、海を渡ってくるとき、赤ちゃんが次々死ぬんや。その子らを水葬するたびに、汽笛が鳴るんだって、夜中に何回も汽笛が鳴ったと言うてたなあ」

 赤ちゃんが死んでいったのも、お母さんが栄養失調で、お乳も出なかったために、飢え死んでいったのだ。

 引き揚げてきた森君のお父さんは印刷職人で、家族みんなを養い、再び印刷所を開いた。その後を森が引き継いだのだが、その二代にわたる困難は想像に難くない。

「ぼくは、大阪市内から疎開して藤井寺小学校に転入したんやが、大阪空襲の後や」

とぼくが言うと、滝尾も大阪北区から疎開してきたと言う。

北区やったら、大阪空襲で壊滅的な被害やなあ」

「家も丸焼けや」

 鈴木はもとから藤井寺か。

「オレは小学校に入る前に北海道から移住してきたんや。父が亡くなってな。ほんで母と兄弟で果樹園をやりだしたんや」

「そうすると、オレら四人は、地の者じゃなかったんやなあ」

 地の者からすれば、よそから来たものは、よそ者いじめるつもりはなかったにしても、見方や扱いは異なっていた。

「森は、いじめられたら、相手の頭にかみついていたなあ。歯形がデコについてたで」

と言うと、森は豪快に笑った。小柄な森は抵抗するには噛みつくしかない。

「オレら、四人組と言われたね」

「ほんま? それいつ?」

「六年の時や」

「そう言えば、オレら、彰一に抵抗したなあ」

「彰一はガキ大将というほどのことはなかったけどねえ。なにしろ在日韓国人の徐君の存在感が強かったからなあ」

 松村先生が師範学校を出て赴任してきた四年生の初め、

「松村先生、朝礼台で赴任のあいさつのとき、『おれを兄貴と思え』と言ったなあ」

「あの先生が、学芸会で演劇をやったり、弁論大会をしたりして。徐君が野口英世の主役をやって、火傷の障害差別されたとき泣くシーンがあった。ほんまに涙流して演じたんや。あれから、徐君がヒーローになっていったのや」

 滝尾君も波瀾に満ちた困苦の人生だった。実の両親が亡くなって、中学を出てからパンをつくる職人から料理人になった。今彼は、小説を書いている。老境に入ってから大阪文学学校に通い、文章を書き出したのだ。「あべの文学」と「かわちの」の同人文芸誌に彼は自分の人生をつづっている。

 四人は、二時間半、ロビー喫茶室で何度もコーヒーのお代わりをしてもらって盛り上がった。帰りに、

「これ読んで」

 滝尾君が、手書き原稿をコピーした、三篇のエッセイを手渡してくれた。その一つに、「天皇の料理番」というタイトルがついていた。テレビドラマで見たのと同じタイトルだったから、興味深々で読んだ。

 昭和19年、戦局は悪化。小学一年生の滝尾は習字練習をしていた。そのとき、西洋料理の職人だった父が、習字の文鎮になるだろうと、大切に保存していた布にくるまれた青銅製の軍艦の置物をくれた。その置物がどういう意味をもつものであるか、折しも訪れた祖母が教えてくれた。滝尾が生まれる前にお父さんは天皇陛下のご飯をつくり、それでいただいたものだという。滝尾は詳しい話を父にせがむと、10年ほど前、海軍の大演習のとき、父は公募で選ばれて戦艦厨房に入った、そこへ天皇陛下が来艦して演習をご覧になった、父はそのときに料理をつくって召し上がってもらった、という話をしてくれた。 

 滝尾はその話を聞いて感激し、自分も料理の職人になると言ったが、父は、「包丁の峰打ち」が飛んでくるような厳しい世界に息子が進むことに反対した。その後お父さんは結核で亡くなり、結局彼はその厳しい料理の世界へ進んでいった。

 エッセイは、父への思いを深く刻んだすぐれた作品になっていた。

2016-07-08

[] チルコット委員会の報告  チルコット委員会の報告を含むブックマーク



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 参議院選、結果はどう出るだろう。御厨貴氏は、「国民が与党に3分の2を与えることになれば、ある種の堰を切ったようになる」と述べていた。「堰を切ったようになる」、堤防の一部が切れれば、もう止めようとしても止まらなくなり、洪水は一挙に堤防を崩してしまう。与党にとって3分の2は大勝利、いよいよ憲法を変えることに着手する。護憲野党はこの国の平和が崩れていく危機の到来と受け止める。それにしても出会う人出会う人、みんなのんきなものだ。「堰が切れるか」というような人びとの危機感はあまり感じられない。職場でも、隣近所でも、市民運動の場でも、国政の話題が出てこない。

 9日、10日と大阪へ出かけるから、ぼくは不在者投票をしてきた。夕方投票所に行くと、他に投票する人の姿はなく、係の人たちも手持無沙汰で、おしゃべりに花が咲いていた。

 世界の各地でテロが起こっている。日本人も巻き込まれた。バグダッドで起きた大規模テロでは、約250人の犠牲者が出た。

 7年越しで公表された英国チルコット委員会の、イラク戦争調査報告書は、膨大な記録だという。報告書は開戦当時の英政権の判断と対応を厳しく批判し、当時の首相ブレア氏の、米ブッシュ政権の対イラク策に根拠なく追従した経緯を明らかにした。当時のブレア政権は、

 「何があっても行動を共にする」

アメリカイラク攻撃に歩調を合わせた。

 「イラク問題で米国を完全に支持しなければ米英協力の重要な分野が損なわれる」

 「米国政策に影響力を及ぼすには、完全に協力し、内部から説得することが最善」

 と、元ブレア政権

 報告書では、イラク占領を続けた英政府の姿勢も厳しく批判した。戦後のイラクでは、宗派対立や民族対立が高まり、テロが活発化する中でISが生まれて、内戦下の隣国シリア実効支配を広げた。IS関連のテロ中東だけでなく、欧州アジアにも広がった。

 「イラクで軍事行動をとれば、アルカイダなどテロ組織の脅威が高まり、イラクの兵器がテロリストの手に渡る可能性がある」

 情報機関がブレア氏に対して03年2月に警告していた。

 イラク侵攻は、誤った情報による「大義なき戦争」だった。「堰を切ったように」テロは広がった。報告書は、英国の自己点検産物である。

 日本の小泉首相開戦後、間髪をいれず米国への「支持」を表明し、ブッシュ政権に追従した。そして日本は自衛隊派遣に踏みきる。

 かくして動乱の火種は拡大した。イギリスの元首相ブレアは、「言い逃れはせず、全責任をとる」と。

 ブッシュアメリカに追随した日本はイラク戦争に対する徹底した自己検証を行なわず、あやまちを糊塗して、新たな「堰を切る」ための既成事実を安倍政権は積み重ねている。

 厳しい自己検証ということでは、アメリカベトナム戦争についてもかつて行なわれた。ベトナムアメリカ政府、軍の関係者が共同で、ベトナム戦争を検証した結果、明らかにされたのは、この戦争は、アメリカベトナムに対する誤った見方に発したものであったこと、事実を正しく見極めることができていなかったこと、そして戦争の途中で何度も戦争を止める機会があったのに、その機会を生かさず、戦闘をエスカレートしていったこと、その結論は、「この戦争はしなくてもよい戦争だった」。

 この戦争はまちがった戦争だった。ではなぜ戦争を始める前に判断できなかったのか。

 いったん「堰を切った」怒涛は止めることができない。軍備拡張、他民族排斥、愛国心高揚、思考停止政権追随、異論排除……、人びとは「平和は欲するが、この時局に至ればやむを得ない」と、「堰を切った」怒涛に流される。その道をかつて歩んだ。にもかかわらず、その事実の認識は人びとに継承され共有されているか、あやしくなってきた。

2016-07-04

[] 今年の虫、小鳥、その他生物  今年の虫、小鳥、その他生物を含むブックマーク


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 安曇野に越してきたとき、「蚊がいない」といううれしい発見があった。中古の家の庭は数本の木が植わっていたが、草がほとんど生えていなかった。周囲は水田とタマネギ畑、蚊の発生するところがない。だから蚊がいない。それから11年たって庭は、草も木も盛んに育った。梅雨時の草の勢いは目を見張るほどだ。毎年庭中に有機物を入れてきた結果、ミミズがたくさん住んでいる。それを食べるモグラは我が世の春、そこらじゅうに穴が開いている。その穴にノネズミが住んでいる。それをねらって、冬の間は野良ネコがやってきて待ち伏せをし、そこへキツネが来て、ネコと対決した。ノネズミは冬の間にゴボウを食べ、さらに太ネギの白根を食べ、どちらも地中を移動して、甘い根っこを食べている。

 こういう生物多様性の庭になると、蚊も一枚加わるのは必定。夕方庭で作業していると、ぷーんとやってくる。したがってコウモリ様が工房にお住まいになる。最初来たとき、蚊もいないのに、犬のランにフィラリアの薬を毎月食べさせる必要があるのかと思いつつも、薬を与えてきた。今は薬を与えねば危ない。中村さんの犬は薬を与えなかったために、心臓にフィラリア寄生して、死んでしまった。もう一つ、以前住んでいた奈良ではゴキブリがいた。それがここではいない。ところが、先日ゴキブリの小さなのを家内が発見したというから、要注意。

 モズが庭をえさ場にしている。去年はそのモズがカッコウのヒナを育てていた。親よりも体の大きな小鳥が巣だってしばらく親のモズから餌をもらっていたから、変だなと観察したら、どうもヒナはカッコウのようで、たぶん托卵だと思う。今年は托卵ではないようだ。巣立って来たヒナは親鳥と同じモズだ。今年もカッコウの鳴き声が遠く近くで聞こえるが、声が少ない。

 年によって差異があるのは、蜂の巣。アシナガバチの巣が去年は少なく、今年も少ないようだ。一昨年はたいへん多く、軒先に10個以上の巣があった。バラの花に寄ってくるカナブンも、去年は多かったが今年はいない。

 ジャガイモ畑をたまにのぞくと草がぼうぼうと生え、草の中にジャガイモが隠れるほどになっていた。それがニジュウヤホシテントウ繁殖に適していたのか、今ジャガイモはほとんど葉を食べられてしまった。それでも数株掘ってみたら、イモは手ごろなのが入っていた。早速ふかしてバターをぬって食べる。うまい。品種は「北灯り」。

 差異で大きかったのは、ヒバリ雲雀)。ずっとヒバリがいない、ヒバリがいないと、ぼくは嘆いていたが、今年は家の近くのソバ畑に何羽もの姿があった。麦畑とソバ畑が増えているのが幸いしたか。ツバメはやはり全体的に少ない。日本野鳥の会からの通信でも少なくなっているということだ。それも、営巣を嫌がる人間が巣を壊すからという原因があるらしい。

 ラズベリーブルーベリーがよく生っている。おかげで毎日少しずつ食べられる。ムラサキツユクサとヤグルマソウが大繁殖

 今年は久しぶりにマツバボタンの種をまいた。ぼくの好きなポーチュラカだ。あちこちに定植して、今花を咲かせ始めている。小さな小さな草花がいい。

長井長井 2016/07/08 11:55 吉田先生

ご無沙汰いたしております。
お元気そうで本当に感激です。

加美中学校で3年の時に担任していただきました
長井です。

ばちこ先生に出会えたのは先生のお陰でした。
ばちこ先生にも非常にお世話になりました。

吉田先生、その節は本当にありがとうございました。
若さ、と書いて愚かと読む、そんな生徒の私に
ご指導いただいて、心から感謝しています。
吉田先生は私の人生を良い方向に変えて下さいました。

ばちこ先生のご指導もあり大学に行くことが叶いまして、
夢だったイギリスにも留学でき、まともな人と結婚もでき、
第二子妊娠出産の間に通信で教員免許を取得し、
現在は私立小学校にて非常勤で英語を教えていますが、
学生時代の自身のことを思い出すと、
今だに、宿題忘れや教科書忘れの子ども達には強く言えません。

思えば、吉田先生はいつも明るく元気に挨拶をして下さいました。
片手をあげて、「お早う!!」、と。
ふと気づくと、自分も吉田先生の真似をして生徒達に
挨拶をしています。

実はそんな風に思い始めたのはつい最近で、
無性に吉田先生にお礼が言いたくなりました。

加美中学校 吉田先生、で検索をして
ここにたどり着きました。

吉田先生、本当に本当にありがとうございます。

どうぞ体調にお気を付けてお過ごし下さいませ。

ありがとうございます。

長井

michimasa1937michimasa1937 2016/07/08 21:26 長井さん、こんなに暖かいメールをくれて、うれしく思います。長い年月がたち、私の記憶もあやしくなってきています。「ばちこ先生」に教えてもらったという不思議な関係についても、はてなというありさまで、ごめんなさい。私の人生の波乱に満ちた遍歴のゆえに、記憶を支える資料がいっさい喪失してしまっています。私のメールアドレスは、「yoshidamichi@hotmail.com」です。そちらに連絡してくださるとうれしいです。

2016-06-30

[] 人間の顔に現れるもの、人間の心に潜むもの  人間の顔に現れるもの、人間の心に潜むものを含むブックマーク



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 写真家で作家でもある藤原新也に、秋山訓子が質問した。その記事が載っている。

 「顔で政治家を判断できますか?」

 藤原は即答した。

 「顔っていうのは残酷なまでにその人の内面を表す。写真家ならシャッタースピードの2分の1秒もあれば判断できるかな」

 それならと、秋山は問いかける。参院選、投票する人を顔で決めるのはどうでしょうと。

 藤原は応える。

 「ただしプロの撮った写真はうそもつけるから写真で判断しないほうがいい。テレビ画像か、できれば生(なま)。無駄な情報が肥大している時代には感覚で情報処理をした方が効率がいい。

 できれば30秒くらいじっと見て、脳裏に刻みつけたらいい。6年後、同じ人が立候補していたら、それを思い出すのだ。変化もまた顔に表れる。6年がどんなものだったか、わかるだろうから。」

 話が前都知事舛添要一氏の辞任問題に及んだ。

 「彼を批判するタレントや評論家の人相も日増しに悪くなったと感じる。時間が経過し、舛添さんの表情や声が憔悴していく中で、人々の人相が批判からイジメモードに変わった」

 そこで秋山は記事をこう締めくくった。

 「それは、日本人全体かもしれない。政治家の顔を見て投票に行こう。その前に鏡をのぞいてから。」

 秋山訓子は朝日新聞編集委員

 「人々の人相が批判からイジメモードに変わった」、「それは、日本人全体かもしれない」。

 うーん、微妙だなあと、ぼくはうなった。多くの人が批判した。メディアも盛んに批判報道した。批判は当然だと思うし、どうしてこんなバカげたことを舛添氏は感じとれなかったのか不思議にも思った。

 その動きの中にいじめのモードが胚胎したという。顔にそれが現れていたという。

 一つの見方として、日本も不寛容社会になりつつあるという意見がある。今のイギリスアメリカのトランプ旋風も、その国民感情が現れている。

 ヘイトスピーチをやっている人たちの顔の相はどんなだろう。憎悪や嫌悪の感情が顔に現れているかもしれない。他者の悲しみや苦しみに思いをはせて、その気持ちを共有し共に生きようとする感情や意識と、自己の城を守り同胞との繁栄を求め、「敵」をつくって排斥する愛国意識と、人はこの二つの間を揺れ動く。イギリスで、EU離脱に賛成した人が次々と国民投票後に、「こんなはずじゃなかった」と悔いているというのも、感情の移り変わりでもある。一面を見て判断してきたことが、別の一面に気づくことによって、誤りであったと変化する。かなり皮相的な考えと感情の変化だ。

 哲学者柄谷行人が、憲法9条の根源について意見を述べている。(朝日6月14日オピニオン欄)

 安倍政権解釈改憲して安全保障関連法を整え「海外派兵」できる体制を作った。しかし、9条は変えられない。このことは皮相的な判断や感情の問題ではない。実に人間の内なるものに由来する。

 「9条は日本人の意識の問題ではなく、無意識の問題だからです。無意識というと通常は潜在意識のようなものと混同されます。潜在意識はたんに意識されないものであり、宣伝その他の操作によって変えることができます。それに対して、私がいう無意識は、フロイトが『超自我』と呼ぶものですが、それは状況の変化によって変わることはないし、宣伝や教育その他の意識的な操作によって変えることもできません。フロイト超自我について、外に向けられた攻撃性が内に向けられたときに生じるといっています。超自我は、内にある死の欲動が、外に向けられて攻撃欲動に転じたあと、さらに内に向けられたときに生じる。つまり、外から来たように見えるけれども、内から来るのです。その意味で、日本人の超自我は、戦争の後、憲法9条として形成されたといえます。

 9条は確かに、占領軍によって押しつけられたものです。しかし、その後すぐ米国が、日本の再軍備を迫ったとき、日本人はそれを退けた。そのときすでに、9条は自発的なものとなっていたのです。おそらく占領軍の強制がなければ、9条のようなものはできなかったでしょう。しかし、この9条がその後も保持されたのは、日本人の反省からではなく、それが内部に根ざすものであったからです。この過程は精神分析をもってこないと理解できません。たとえば、戦後の日本のことは、ドイツと比較するとわかります。ドイツは第2次大戦に対する反省が深いということで称賛されます。が、ドイツには9条のようなものはなく徴兵制もあった。意識的な反省にもとづくと、たぶんそのような形をとるのでしょう。

 一方、日本人には倫理性や反省が欠けているといわれますが、そうではない。それは9条という形をとって存在するのです。いいかえれば、無意識において存在する。フロイトは、超自我は個人の心理よりも『文化』において顕著に示される、といっています。この場合、文化は茶の湯生け花のようなものを意味するのではない。むしろ、9条こそが日本の『文化』であるといえます」

 そして柄谷の視点は、憲法1条と9条のつながりに行く。天皇制を存続させることと、戦争を放棄すること、すなわち1条の象徴天皇規定と9条戦争放棄のセッティング。1条のためには9条が欠かせない。この先行形態は既に徳川の国制にあった。徳川体制における軍事力放棄象徴天皇制のセッティング。

 柄谷は、この憲法の価値をこう述べた。

「私は、9条が日本に深く定着した謎を解明できたと思っています。それでも、なぜそれが日本に、という謎が残ります。日本人が9条を作ったのではなく、9条のほうが日本に来たのですから。それは、困難と感謝の二重の意味で『有(あ)り難(がた)い』と思います」

「9条こそが日本の『文化』である」、この文化は、江戸時代から始まっている。江戸時代260年が醸成したいろんな文化は、戦争のない平和な社会だからこそ生みだせた。そして第二次世界大戦後に9条という新たな文化を生んだ。

 EUも第一次、第二次の世界大戦を経て、戦争のないEUという理想をかかげ、その理想実現に向けて実働を始めた結果として生まれた。だから、これから長い時間をかけて困難を克服していけば、新たな文化として結実してくるはず。日本も憲法9条という文化を内在化させ、理想の道を歩んできたのだから。

 なるほどと思う。視界が広がった感じがする。

 

 

2016-06-28

[] ドクダミ、コウモリ、草  ドクダミ、コウモリ、草を含むブックマーク


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 今年はドクダミの乾燥がうまくいった。ドクダミ茶にするには、花の時期の今がいちばんいい。

 庭に広がって咲いているドクダミの花から10センチほど茎を摘み取る。それを使わなくなった古い網戸を利用して干す。網戸は物置に置いてあるのを4枚出してきて、ランが木陰で昼寝をしている横に立て懸け、水道のホースから水をほとばしらせて洗った。乾いた網戸を工房のなかに少し浮かした状態で寝かせて並べ、

その上に摘んだドクダミを広げて載せた。風通しの良いところで日陰干し、窓を全開する。

 一昨年は、コウモリが原因で、干したドクダミが使えなかった。どこからか侵入するコウモリが、夜中に工房のなかを飛び回り、床に糞を落とす。飢えて死んだコウモリの死骸はこれまで4、5匹見つけた。それで去年から蚊取り線香でコウモリの侵入を防ぐことにしている。この匂いと立ちこめる除虫菊のガスをいやがってコウモリは退散するわけで。

 今年も、薪ストーブの横に、蚊取り線香に火をつけて置いた。毎夕、三本の蚊取りを焚く。夜中じゅうそれは細い煙を上げ、閉め切った室内に蚊取り線香の煙が香りとともに立ちこめる。コウモリは、薪ストーブの煙突が天井屋根を突き抜けている近くにひそみ、そこで子育てをしているように思われ、今年も糞がいくつか見つかった。屋根材はぼくが葺いたガルバニウム鋼板の波板で、もうすでに日中は屋根材の下は熱くて住めたものではないのだが、やはりコウモリは営巣しているらしい。不思議だ。ここ数日蚊取りを焚いたら、糞がなくなった。ドクダミの葉も、緑色をかなり残して、乾燥した。今年はこのお茶が飲める。

 畑に一週間ほど行かなかったら、またもや草のジャングルになっていた。五月の旅行のあとは、ひどかった。それをなんとか克服した後、雨が何回か降り、一週間の怠けがまた元の黙阿弥だ。備中鍬で掘りながらニンニクを採り、草を除いた。タマネギも全部収穫した。今年はネギ坊主のできる、いわゆる「とうだち」したのが多く、どうしてこんなに「とうだち」するのか、クルミのおばさんに聞いたら、

「苗を植える時期じゃないかね」

とおっしゃる。調べてみたら、植える時期と冬の間の肥料も関係しているようだ。

 午後6時を回って畑で草取りをしていると、クルミのおばさんは、

「もう上がりましょ。つかれますよ」

と声をかけに来てくれる。

「草がひどくて、わたしは怠け者だからこんなに伸びて」

と言うと、

「同じ、同じ。私とこも同じだよ。草は元気だからね」

 まったく草の勢いは猛烈だ。

2016-06-23

[] あの子は無事だったろうか、ひとつの葛藤  あの子は無事だったろうか、ひとつの葛藤を含むブックマーク



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 夕方5時過ぎ、勤務を終えての帰り道、ぼくは時速40キロほどでミニカを走らせていた。道路に沿って幅の狭い歩道がある。そこを小さな自転車が走ってくる。全速力でペダルをこぐのは、小さな男の子だ。幼児が幼児用の自転車に乗って、懸命に走ってくる。一生懸命だなあ、急いでいるんだなあ、幼児のこのひたむきさ、かわいいなあ、と思っている間にその子は、ぼくの車の横を後ろへと走り過ぎていった。その子の姿を追って、ぼくは車の左のバックミラーをちらっと見た。すると、その子が自転車ごと転倒する瞬間が目に入った。わあ、倒れたぞ。自転車は横転し、子どもは前に投げ出され、ヘルメットか何かが前方に飛び散った。男の子は上向きになって倒れている。すぐ起き上がると思っていたが、起き上がらない。意識を失ったか、頭を打ったか。

 ぼくは運転中だ。その現場から車は離れて、すぐにもう何も見えなくなった。まったく瞬間の目撃だったが、ぼくの頭にはいろんなことがひらめいた。車を止めて、子どもを助けに行くか、いや後続車が後に何台か続いている、それはできない、けれど子どもが怪我をしていたらどうする、たぶん大丈夫だ、子ども自転車を全力を挙げてこいではいたが速度はたかがしれている、もう起き上がっているだろう。思いはひらめくが、ぼくは運転は続けた。男の子の倒れたところは、一軒の民家が横にあり、歩道の幅は1.5mほどしかない。そのすぐ前方に進入路があり、一台の車らしきものが止まっている。ずんずん離れていく車からかすかに目に入った。あの車のドライバーが目の前で子どもが倒れたのを目撃したとしたら、その人が助けているだろう。さらに後続でその地点に来ていた車がハザードランプを付けたようにも見えた。確かかどうかは分からないが。そのドライバーも、もし子どもが倒れたままだったら、救急車を呼んだりしているかもしれない。たぶん誰かが助けているだろう。その人たちに子どものことは任せよう。

 そうしてぼくは走行を続けた。あれやこれやと思考が変転したが、ほんのわずかな時間だった。

 それからしばらく空白時間があって、運転中のぼくの頭がまたぐるぐる想いをめぐらせだした。後続の車の誰かが、子どもを気づかって停車し、対応してくれただろうなんて、それはどうだかわからない楽観だ。その楽観視は何だ。傍観者的思考ではないか。あえて楽観して、なすべきことから逃避しているだけではないか。後続車もそうして、みんな傍観して通り過ぎていたらどうなる。

 もし他に車がなく、ぼくの車が一台だけだったら、たぶん引き返しただろう。後続車が続く状態だったから、流れにまかしてしまった。結果として見捨てた。だれかがそれをするだろうと他者に依存した。あてのない、確証のない依存だ。後続車が何台あろうとも、子どもの命にかかわることだったら、車を左に止めてでも、脇道に入ってでも、子どものところに駆けつけるべきだった。倒れた原因は、歩道のきわにある道路標識の支柱にぶつかったからか。怪我は下手をすると大きいかもしれない。

 多数の動きが同方向にあるとき、結局それに流され、同調してしまう。そして言い訳的な理屈を持ちだしてしまう。そういうことを、これまでも繰り返してきたのではなかったか。

 あの子、無事だったろうか。

 翌日、出勤の道中でその現場の横を通った。気になったがやはり通り過ぎて、ことは過去へと流れていってしまった。

2016-06-21

[] 人びとの中の「古層」  人びとの中の「古層」を含むブックマーク



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 ドイツを指すジャーマン・GERMANをドイツ語発音するとゲルマン

 原始ゲルマン人は土地共有性を実施し、自給自足的村落を形成したそうだ。霊魂崇拝、自然崇拝が行なわれ、彼らの神は森の中に住んでいた。だから今もドイツ人は森の民。霊魂崇拝、自然崇拝、これは日本に似ている。日本はアニミズムで、山にも森にも川にも木々にも神がいた。

 原始ゲルマン人の現住地はスカンジナビアからバルト海沿岸の地だった。やがてゲルマン人はいろんな民族との相克・融合、支配・被支配を繰り返し、EUの国々をつくり現代にいたっている。

 ヨーロッパ歴史学樺山紘一は、「歴史の古層」「歴史的な基層」という言葉を使って、記録にも遺跡にも残ってはいないが、現代にいたるまで人間のなかに潜んでいる「記憶」があると、こんなことを述べている。

 「人間の中の記憶というものは100年、200年の長期波動で築かれていったもので、これが人間社会をつくりあげる決定的な力を果たしたに違いない。こうしてでき上がってきた記憶体系というものが、どうやって共有されて、どうやってそれ以後に導入されたものとの間に関係を取り結ぶのか、こういうことを考えるのが、本来の歴史学だと思う。」

 記録に残っていない先史の時代の人びとの生活、社会を結んだ人びとの知られざる歴史があり、そこには自然と人間、異民族同士の交流、融合があって、そこから生み出されてきた記憶がある。それが「歴史の古層」「歴史的な基層」であり、今も隠れて存在している。ところが、19世紀になって、ナショナリズムが政治と結びつくと、民族の純粋性とかいうファンタジーがつくられ、「歴史の古層」「歴史的な基層」がないがしろにされて、純粋なゲルマン民族というような誤解体系がつくりあげられてしまった。そして純粋なドイツ人とか純粋な日本人とか唱導されて、ドイツではユダヤ人への迫害になった。歴史を考えれば、「純粋」なんていうものは考えられない。

 樺山氏と対談している生命誌研究家の中村桂子氏は、「純粋なドイツ人とか純粋な日本人とかは存在しないということは、ゲノムの研究からも言える。ゲノムには記憶には残っていないものも、そのことが記録されている」(「ゲノムの見る夢」青土社)と言う。

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 「ゲルマン人やローマ人が来る前に、ヨーロッパには人が住んでいた。だからストーンヘンジみたいなものができた。クロマニヨン人は5万年前にいて、そのときからヨーロッパ人がおり、ヨーロッパの自然と付き合っていたはずで、今のヨーロッパ人はその子孫だ。5万年も8万年もかかっているから生物学的には子孫としての要素はきわめて薄いかもしれないが、ヨーロッパの自然の中で生命を営むという生活体系に関して言えば、戦争があろうが疾病があろうが何らかの形で記憶として受け継がれているにちがいない。」

 人間が支配するようになって、多くの生物の種が滅んだ。日本ではオオカミが絶滅し、ヨーロッパの森にはサルがいない。

 「200年前まで、ヨーロッパはかなりの部分、森林だった。人間の中に深い森があった。魔女とか妖精とかが棲んでいた。今でもヨーロッパの人の心には妖精が棲んでいる。イギリス人は特にそうで、窓の桟とか、鴨居とかに必ず妖精がいるから、窓はまたいではいけないと子どもに教える。」

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 日本がヨーロッパを知らないのは、日本がヨーロッパ文化を取り入れたのが20世紀につくられたものだったからで、「ヨーロッパの古層」が入ってこなかった。

 「日本人はアニミズムだと言うけれど、ヨーロッパ人もきわめて長い間、アニミスティックな世界に生きている。ヨーロッパ人は、古層の上にヘレニズムを接合した。イスラムもそうした。ビザンチン、東ヨーロッパ世界もそれぞれのやり方でそうした。」

 人間の古層をたずねるという学問はおもしろそうだ。旅をしながら、空想をたくましくし、妖精の世界にも遊んでみたい。

 ドイツでもオーストリアでも、お店に行くと、妖精の人形が売られている。家内は、魔法使いのおばあさんの人形をインスブルッグで買って日本に持って帰ってきた。部屋の壁にかかって、いつもぼくらを見ている。

2016-06-17

[] 日本の景観美を想う  日本の景観美を想うを含むブックマーク


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 最近見た映像だが、木曽路馬篭から妻籠まで歩いて旅籠(はたご)に泊った外国人たちが、その美を「こここそが歴史的日本の美であり、日本一だ」とほめ讃えていた。ぼくが初めて妻籠を訪れたのは、人の気の絶えた1970年一月末だった。志賀高原に行き、帰りの道中、スキー道具を駅に預けてぶらりと寄って、飛び込んだ宿が「藤乙」という屋号だった。他に客のない宿の夜、老いた女将は、囲炉裏の傍で、新婚のぼくらを温かく迎え、宿近くに墓地のある島崎藤村の詩「初恋」に詠われたおゆうさまの話や、小説「夜明け前」の話をしてくれた。翌日、峠を越えて馬篭宿で泊った。宿は、藤村の四男、楠雄さんの経営する「四方木屋」だった。

 それから子どもが生まれ、毎年家族で妻籠を訪れるようになった。民宿「大高取」は妻籠の集落から離れていたが、あららぎ川のほとりにある歴史的な古民家で、そこが30年に及ぶぼくらの妻籠の郷になった。一家は、牛を飼っていた。御主人は妻籠宿を伝統的建造物群、歴史的遺産として保存する運動の担い手でもあった。復元活動は、街道筋の電柱撤去し、看板類を全部とり払い、建物をできるかぎり江戸時代様式に復元して、すっきりとした屋並みの、江戸時代を彷彿させる景観に戻した。中山道宿場妻籠は、山間の谷間にあり、わずかな農地しかなかった。この宿場を維持して未来を描くにも困難な経済状況だったが、完璧な復元という村おこしは、人を呼んだ。時代祭盆踊りが行われ、時代祭の日には、村人たちは刀を差し、江戸時代の人びとに扮装した。宿のおばあちゃんは、囲炉裏で五平餅を焼いてくれた。幼い子どもらは、長火ばしをもって、ほだ木を燃やした。

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 妻籠に続いて次々と木曽路中山道宿場の伝統的建造物群が、復元されるようになった。薮原宿、奈良井宿、観光客が木曽路にやってきた。しかし、江戸時代大名行列も盛んだった街道はほとんど昔の姿を消していた。木曽路宿場は点でしかない。地域を面として、江戸時代中山道として復元されていない。宿場宿場をつなぐ、歩く人のための街道が復元されていない。

 写真家石川文洋氏が木曽路を歩いて痛感した。「歩く道がない」。それは、実際にぼくも体験したことであった。薮原と奈良井の間だったか、ひとりの外国の若者が、ザックを背にしてテクテク歩いていた。車が疾駆する国道19号線だった。19号線には歩道はない。排気ガスを吸いながら、身の危険を感じて歩いている彼に、「こっちの脇道を歩いてくださいよ」、と声をかけたかったが、こっちの脇道も次の宿場に通じているのかどうかも分からない。結局声をかけられずじまいだった。

 「歩く人のための街道」をつくる、美濃路から出発して、宿場をつなぎ、馬篭妻籠、須原、上松、福島宮ノ越、薮原、奈良井贄川、本山、洗馬、そして松本平を通過し、安曇野、大町、白馬、小谷、さらに糸魚川へと、「中山道」を「塩の道」につなぐ長大な歩く人のための街道。そのような壮大な街道計画がなぜ生まれてこないのか。日本人は歩く文化を喪失したのか。つくづくそう思った。経済発展至上主義にとらえられて、やせ細った発想しか浮かばないのだろう。

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 日本はいまだ人間復興として自然と文化の調和した環境文化が面として生み出されていない。日本では街並みが「醜い」といわれる。「醜い」と感じられるのは、街並みだけではなく人工の建設物群全体に言えるのだが、それが多くの人たちに「醜い」とは感じられていない。人間の感覚の問題だろうか。だから面的な調和の整った環境が生まれない。

 妻籠という小さな宿場づくりで取り組まれたことは、電柱をどうする、看板・のぼりはどうする、自動販売機はどうする、郵便局の店構えやポストはどうする、休憩所・オアシスはどうする、建造物と自然との調和はどうする、これらを具体的に解決するように、宿場全体を「面的」にとらえ、実践に移されたのだった。


 ドイツ景観は、面として保護されている。全国に多種多様な街道を通し、街、樹木、森・草地を保護・復元し、たくさんの種類の生物が住める環境を生みだしている。

 1986年に改正されたドイツ連邦自然保護法はこう規定する。

 第1章・第1条。

 「自然と景観は、その固有の価値に基づいて、人の生活基盤として、また将来の世代に対する責任において、人の住んでいない地域と同様に人の住んでいる地域においても、自然と景観の多様さ、特色、美しさと観光的価値が長く保証されるように、保護され、保存され、開発され、必要のある場合は復元されなければならない。」

 第1章・第4条。

 「各人は自然保護及び景観保存の目的と原則を実現するために自らの可能性に基づいて寄与しなければならず、自然と景観が不可避的な状況によって損われる以上には損なわれないように行動しなければならない。」

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 ドイツ環境政策の三原則。

 1、「予防原則環境負荷は基本的に減少させなければならない。国は、自然に対するリスクを認識した場合は介入する義務を負う。国の指示と禁令は環境負荷を最小限に制限するものでなければならない。

 2、「自己責任原則:産業は自己のもたらす環境負荷の費用を負担しなければならない。産業はできるだけエコロジー的に、またそれによって長期に渡って低コストで生産することを推進しなければならない。

 3、「協力原則:国は、法律と罰則によってではなく自発的な基盤に基づいて産業と協力し合わなければならない。」

 ドイツ連邦建設法典は、建築物と周辺との調和を規定した。ビオトープの概念は、1986年の自然保護法において、初めて使用されている。

ドイツ連邦自然保護法の2009年改正法では、さらに生物多様性が重視され、種及びビオトープの保護に関する規定が拡充された。景観計画では、自然・景観保護の目的を具体化し、それを実現する手段としての景観計画の策定を決めている。

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 かくしてドイツでは、「Land」 をより美しくするという考えが全的に実践されている。川があれば、川が美の要素になる。村があれば、村のたたずまいが美の要素となる。教会の塔があれば、塔は景観を引き立てる。道はなつかしい心の風景をかきたてる。

 ぼくは空想する。日本の江戸時代景観はどんなだったろうと。すべて徒歩で旅した江戸時代。桜の季節、新緑の季節、紅葉の錦の季節、木枯らし吹く季節、雪の季節、街道をゆく人たちの見た風景を想像する。そしてまた西行等が旅した平安時代はどうだったろうと。どちらの時代も長い年月にわたって戦争がなく、平和がつづいた。ニホンオオカミエゾオオカミも日本の生態系に役立っていた。

 貧富の差、身分の差はあったけれども、それでもそのなかで、美はどのように人の心に根ざして、人間を育んでいただろうかと想像する。日本の芸術文化はその風土の中から生まれた。