2012-02-10
■[わが友] 小説「旅立ちの予感」 
小中学校時代の友、英ちゃんから同人誌が送られてきた。
封を開けてみると、同人誌は233ページの大冊だ。英ちゃんは編集委員になっている。
早速中をのぞいてみると、英ちゃんの小説は50ページに渡っている。原稿用紙200枚だ。
この同人誌は、大阪文学学校で学んだ人たちで作っている。英ちゃんは、大阪文学学校で学んで、65歳から小説を書き出した。
英ちゃんの作品のタイトルは「旅立ちの予感」、読み始めたら止まらなくなった。
「拝啓、友子さま、しばらく会っていませんが元気ですか。」
小説は、わが娘への遺言という形式になっている。
英ちゃんは、五歳のときに生母を亡くし、継母になった人は英ちゃんを虐待し二年で亡くなってしまった。続いて三人目の母が来るが、父は結核になり、英ちゃんが小学校六年のときに亡くなってしまった。
中学を卒業した英ちゃんは、パン屋に住み込み、働いた金をすべて三人目の母に送らねばならなかった。
小説は、過去と現在とを行き来しながら、英ちゃんの人生をリアルに語っていく。
山深い村から家出同然で出てきて喫茶店のウエイトレスになって働いていた女の子と結婚したこと、
貧苦の中で子どもも生まれ将来を夢見る日々が到来しかけたときに、妻は男を作り、小学生だった二人の子どもを残して出て行ったこと、
英ちゃんは、男手一つで身を削って子どもを育てた。誰の支援も受けず、頼ることのできる人は、叔父夫婦だけだった。
英ちゃんはあるとき、自分自身まったく知らなかった自分の出生の秘密を知る。
小説を読みながら、今まで知ることのなかった膨大な悲惨に圧倒される想いだった。
中学校を卒業してから、手紙のやり取りは何回かあった。直接会ったこともある。英ちゃんはいつも淡々としていて、理性的だった。彼は大手のレストランのシェフになった。そのレストランのテーブルに座って、二人でひと時を過したことがあったが、英ちゃんは自分の人生の苦悩を語ったことは一度もなかった。
住む家や食べるものにも苦労しながら、英ちゃんは友に救いを求めることがなかった。同窓生はみんな遠く離れて住んでいたし、会うこともめったになかった。同窓生の関係が希薄だったこともある。
最近では、あの東北地震の日の夜の大阪で、大災害を全く知らないまま同窓生3人で食事をし酒を飲んだ。その会話にも彼の過去は出てこなかった。
「旅立ちの予感」を読み終わって、思った。それにしても、支援を求める人が誰もいないで呻吟していた彼を、同窓生のだれも知らないでいたのかと。なんとみずくさい友情かと。
遺言のなかに、彼は今病をもち、この先が見えてきたことから、こんなことを考えていた。
「私は若いころ山登りが好きでした。とりわけ身近にあり、大阪の屋根とうたわれる金剛山には三十二回登りました。
そうそう、あなたが小学一年生のときの冬、ところどころアイスバーンになった山道を私に手をひかれて登ったことを憶えていませんか。私はアイゼンをつけ、あなたはゴム長に荒縄を巻いた姿で、弱音ひとつ吐かずに自力で登りきりました。あなたは終始笑顔をふりまき、同行した七、八人の若い女性社員の人気の的でした。
その山は、あなたの住む大和高田から左前方に見えるはずです。奈良県側の頂上近くに、うっそうとした水源涵養林がありますが、その茂みのなかに、私の遺骨のかけらを砕いて散骨してほしいのです。法要もいりません。あなたや、あなたの家族が金剛山を眺望するたびに私を偲んでくれればそれでいいのです。気ままな私の願いをどうか聞き届けてください。」
彼はこの文章の前段で、離婚に至る苦悩を書く筆が重く鈍ってしまって意欲が萎えてしまっていたのだが、死後について書いたことで、気持ちが解放され、再びその時の悲しみを書き始めている。金剛山のブナ林のなかに、自分の骨の断片を埋めてほしい、その遺言を書ききることによって、英ちゃんはまた力を得ていた。
小説の最後は、次の言葉だった。
「友子、私の子どもに生まれてきてくれてありがとう。父は幸せ者でした。もう、なにも思い残すことはありません。」
ぼくは、返事を送った。
友として、何もできなかったことに胸が痛むよ。
散骨は、ぼくも同じ、願いだよ。
このすごい小説をよくぞよくぞ書ききりました。
書くことは生きることだね。
2012-02-08
■[発見・創造] 部屋の中の水たまりと水滴のナゾ 
冬の間、部屋の中に鉢物を入れて、枯れないようにしているなかに、ベンジャミンという名の、木の高さ80センチほどになるのがある。
今は、南のよく日の当たる窓際に置いている。昨日の朝、「あれー」と家内がすっとんきょうな叫び声をあげた。
見ると、ベンジャミンの鉢を置いてある木の台に、直径5、6センチほどの水たまりができている。
「何? この水」
「ありゃ、水だ。どこから落ちてきたんだ?」
「あっ、今落ちた。」
家内が水たまりに落下した水滴を見たらしい。
「おかしいなあ。天井?」
「雨漏りかな。」
「いやあ、天井に水滴もないし濡れてもいないよ。」
椅子を踏み台にして天井を調べてみたが、水で漏れてもいないし、その痕跡もない。
おかしいな、と水たまりの上にヒモをたらして、その真上を調べると、ベンジャミンの木の数枚の葉にぶつかった。
このうちのどれかから水が落ちてくるとしたら、葉が濡れているはずだと、さわったり観察したりしたが、白と緑の斑入りの葉っぱは乾いていて、すべすべしている。
それなのに、30秒から1分ほどすると、また水たまりに小さな小さな水がポチッと落ちるのが見えた。
もし、これが雨漏りのような水滴だと、ひとつの水滴はもっと大きいはずだが、この水滴は、一滴の重さで落ちてくるほどではなく、極端に小さい。
不思議だ。いったいどこから落ちてくるのだろう。
ベンジャミンの幹や枝、葉を観察するが、水の出所が分からない。
ベンジャミンから出てくるのか、他のところから落ちてくるのか、それを調べてみよう、と鉢を少し移動させて、鉢の根本に新聞紙を広げた。
すると、極小の水滴が新聞紙にぽつんと落ちた。
原因はベンジャミンにあるぞ。
いったいどこから来るのか。
謎を残して仕事に出かけ、翌朝また観察した。
水が落ちて濡れている新聞紙の、5、6センチの楕円形の部分の真上にあるベンジャミンの数枚の葉の下に手のひらを開いて、じっと待ってみた。
数分したとき、ピッと水が飛んできて、手のひらの親指の付け根に落ちた。
水滴は数十分の一ミリほどの小さなもので、それが点々と5ミリほどの間をおいて六つほど縦に並んでいる。こんな極小の水でも、冷たい感触があった。
おかしいぞ、この水は落下してはいない。どこかから噴出している。
そうすると、水たまりの真上ではなく、垂直の線からずれたところだ。
そのとき、細い枝の一部が膨らんでいるのが見えた。
顔を近づけて、眼鏡をただして見た。
「これだー、原因がわかったぞー。」
思わず叫んだ。一匹の虫、この冬の間生きのびていた虫、ヨコバイの仲間だ。
体長1センチ近くで、緑色の翅をもち、お尻が黒っぽい。見つめていると、ヨコバイの尻から、ピッと水が出た。
ベンジャミンの樹液を吸って、こうしてお尻からオシッコをして生きている。それにしてもこんな小さな一匹の虫が水たまりを作るほどオシッコを出し続けるとは驚きだった。
調べてみると、頭の部分に黒点があり、お尻が黒っぽい、ツマグロオオヨコバイという種だ。植物の液汁を吸って成長することから稲などの作物や花卉に害を与える虫だと言われている。
ヨコバイは、全世界に約20,000種が知られ、日本に生息するものはおよそ550種程度が確認されているが、十分には解明されていないらしい。植物が生育している環境であれば何らかの種が生息する。セミの仲間に入り、オスがメスを呼ぶ発音機能を持っているが、人間の耳には聞こえない極短波なので、鳴き声は知られていないということだ。
この懸命に生きているヨコバイ、このままベンジャミンの樹液を吸わせて、春まで待ってやろうかと思ったが、家内はベンジャミンが弱ると困るというので、今日は外も暖かいし、ピンセットでつまんで家の外に出してやった。
ヨコバイは翅を広げて飛んでいった。すまんのう。
2012-02-06
■[日本社会] 高齢化社会の孤独 
車を運転しながら、白髪頭の彼はぽつりぽつり話し出した。
「吉田さんだから、こんなこと話すんだけれど‥‥、」
改まっていったい何? ぼくは助手席に座っていた。
車のライトは雪道を遠くまで照らしている。
「みんな子どもを大学に入れて、よい仕事に就けるだろうと、この辺りの親たちもやってきたけれど、
ところが大学を出たら、都会で就職して、そっちに住んで、そのままもうここには帰ってこんようになってる。
それだから、わたしは二人の子どもを大学に行かせなかったんですよ。
息子は高校を出て大手の会社に入って、初めは地元で勤務していたけれど、去年から都会勤務になって嫁と一緒に都会へ行ってしもうた。家族一緒に住めなくなったよ。
今になって思うんだけど、やっぱり大学出のほうが会社では有利だから、大学に行かせるべきだったかと。
こちらに帰ってきてほしいと思うけれど、こちらに転勤を希望すれば、それなら会社を辞めなさい、と会社は言うだろうね。」
一昨年大病をした彼は、その後は元気になったが、息子たちがいない老夫婦だけの生活が寂しい。
「吉田さんのところはどうですか。」
「いやあ、私の息子たちも、長男は東京、次男は神戸で世帯を持っていますが、私が終の棲家を安曇野にと考えた七年ほど前は、あまりそんなことは考えずにこちらに移住して来たけれど、今ときどき、その時の選択はよかったのかなあと考えることがありますよ。」
多くの家で、息子が町に出て独立してしまい、親元に戻ってくることが少ないということになるとこの地域もどうなるだろう。
「私たち夫婦も、お隣も、そのまた隣も、あと10年経てば、どうです、ご近所みんな同じような高齢化夫婦ですよ。
四年ほど前、福岡に住んでいた私の仕事仲間がね、東京に住んでいる息子が近くで一緒に住もうと言うもんだから、東京に引越ししたと言うんですよ。
公団住宅だったかな、空き家抽選に応募したら部屋が当たって、そこに引越しした。そうしたら、全く便利な暮らしで、ちょっと歩いたら図書館はある、病院はある、区役所もすぐのところだし、散歩すれば緑の公園もある、バスも地下鉄も高齢者はタダ、家賃は安い、そして近くの息子家族とも毎日会える、この決断はよかったと絶賛するんですよ。」
その話を聞いた時、東京は便利で暮らしやすくても、やはり自然の豊かなところがいいと思ったものだが、最近は少し見方が変わってきて、地域社会を支えていく若者が今後どうなっていくか、これはかなり深刻な問題をはらんできていると思うようになった。
十数年前、かねて考えていた「森の学校」をつくろうと、廃校を探して奈良の山間を巡ったことがあった。山また山のなか、大峰山に至る行者街道を探索していると、街道から奥まったところに小さな集落があり、そこに明治期の木造校舎がこつぜんと建っているのに出会った。それは眺めているだけでもなつかしくなってくるものだった。
廃校になってからも地区民の活動の場に体育館は使用されていたが、グランドには草が生い茂り、フジ蔓がはいのぼる校舎は老朽化して使えないということであった。
近くには清流があり、森は深く、自然のなかでの体験学習にはもってこいだと思って、その地区の区長さんを訪ねると、七十歳は過ぎたかと思われる区長さんは自転車で学校まで来てくださった。
「この校舎は、映画の撮影にも使われたことがありますよ。でも今は危険で使えません。この地区は、イチニ、イチニ、ヤスメ、ヤスメですよ」
と言う。ぼくは、「12、12、‥‥」と掛け声をかけて行進し、「ヤスメ」で停止してヤスメの姿勢をする隊列を想像した。
が、すぐになるほどと合点がいった。
「イチニ」は一人暮らしと二人暮らし、「ヤスメ」は空き家、すなわち高齢者の一人暮らしの隣は高齢者の夫婦、それが続いて人住まぬ家が並んでいる。ここは限界集落だと言うのだった。
その地をもっと探すと、廃校は四校見つかった。そしていずれも行政は、なすすべを失っていた。峠のてっぺんで見つけた、これも明治初期に建てられた小学校の廃校には、創立時の記念碑があり、そこに「学校に希望をたくして未来を築いていこう」という意味の文章があった。
学校と子どもたちは地域の希望であったのだ。
吉野郡での「森の学校づくり」は実現しなかった。行政も許可しなかった。
熊野古道につらなるあの限界集落は今どうなっているだろう。人住まぬ廃村になっているだろうか。
ぼくの住むこの地は、松本市に隣接する安曇野市だから、まだ若い住民の転入もある。限界集落にはならないだろう。
しかし、周囲を見回して一軒一軒見ていくと、子どもの姿は少なく、一人暮らし、二人暮しの高齢者が圧倒的だ。あと10年後、20年後になると、日本全体が人口減になり、高齢者がさらに増加するように、この地もまた生産人口と子ども人口は激減していく。
それにもかかわらず、その変化を予想して社会をつくっていくという意識的な取り組みは行政にも住民にも全く無い。
2012-02-02
■[詩の玉手箱] 福島の百姓詩人の詩『百姓』 
斎藤諭吉は、明治43年、福島県豊川村で生まれた。高等小学校を卒業し、百姓となる。「農民文学」に作品を発表した。
百姓
おれは百姓というコトバが好きだ
語感が大変いい
農民なんて おかしくって
それに漁民もそうだが 民とは何事だ
おれの畏敬するある友人は 名刺をつくり
バカでかい字で 百姓 と印刷し その下に 村野田吾作 とした
これは全国どこでも まかりとおる立派な堂々たる肩書きだ
この百姓という二字の鮮明さよ
この堂々たる百姓のおれは
いくら正月でも
わが郷土の生んだ大偉人 小原庄助翁のようなことはできない
なにせ この深雪では わが家の屋根の雪下ろしだ
それができると さっそく町の酒屋さんから電話で
あした雪下ろしに来てくれ とのこと
日当は一日二千円 終業後は酒をごっぞうするという
おれはすぐ引き受けた
この正月 一日二千円と酒にありつける
すこしぐらいけがしても と かくごして
高い屋根の上から市内を見下ろし
スコップと木べらを振るう
おろした雪を一輪車で始末する
ああ この堂々たる 庄助翁の末えいも
正月でも ほかの家の屋根の雪下ろしをしなければ
札が手に入らないのだな 酒が飲めないのだな
おれはふぶきの街を バカ長い柄の木べらをかつぎ
ふら ふら ふら と
孫のみやげをふところに
孫のよろこぶ顔を思い浮かべ
ふら ふら ふら とわが家へ急ぐ
「おれの畏敬するある友人は 名刺をつくり
バカでかい字で 百姓 と印刷し その下に 村野田吾作 とした
これは全国どこでも まかりとおる立派な堂々たる肩書きだ
この百姓という二字の鮮明さよ」
なるほど、その反骨の気概とユーモア、それこそ「畏敬する友人」の大きさだ。「村野田吾作」とは、よくつけたものだ。「村の田吾作」、広辞苑には「田吾作」を「農民をいやしんでいう語」とある。「田子(たご)」は、農民のことだが、ぼくが子どものころ、「たんご」に便槽の下肥えをくみ取り、畑にまいた。大阪では「たんご」と呼んでいた「たご」。「たんご」は下肥えを入れる大きな木桶で、大人は天秤棒(てんびんぼう)の前と後ろに「たんご」を二つ吊るして運んだ。力のない子どもだった兄とぼくは、前と後ろをかつぎ、天秤棒の真ん中に「たんご」を一つ吊るした。雨の降らない夏の日には、「たんご」に池の水をくんで、畑に運んだ。天秤棒が肩にくい込んで痛くてたまらず、途中で「たんご」を下ろしてしまうことがあった。
「この堂々たる百姓のおれは
いくら正月でも
わが郷土の生んだ大偉人 小原庄助翁のようなことはできない」
有名な酒豪「小原庄助さん」を「わが郷土の生んだ大偉人」と言うユーモア。
「小原庄助さん、なんで身上(しんしょう)つぶした。
朝寝 朝酒 朝湯が大好きで、それで身上つぶした。
あ〜 もっともだぁ、もっともだぁ。」
小原庄助さんとは誰か、よく分からない。
実体が分からない人物だが、酒をこよなく愛した、おおらかなお人よしのイメージがある。
磐梯山の良い水、会津の良い米を原料に、良い技で醸された良い酒、酒を愛する良い飲み手。
作者は、そんな庄助さんのまねはできないが、
雪下ろしのアルバイトで酒も飲め、いくらかの礼金で孫への土産も買えるというもんだ。
2012-01-31
■[人間] 永山則夫とドストエフスキー 
永山則夫は、1968年69年に、連続ピストル射殺事件を引き起こした元死刑囚である。
永山は、逮捕から死刑執行まで、獄中で創作活動を続けた。彼の小説は新日本文学賞を受賞している。
北海道網走番外地に生まれたが、家庭は崩壊状態。永山が5歳のときに、母親は実家に逃げ帰ってしまう。4人兄弟は、漁港で魚を拾ったりして生き延びた。
1965年、東京に集団就職。本籍が「網走無番地」であったことから疎外され、職は定まらず、1967年、定時制高校に入学。職を転々としてついに犯罪に走った。盗んだ拳銃で、東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺。判決は死刑。
獄中で文字を学びつつ、おびただしい本を読み、日記をつけ、独学で執筆活動を開始する。そして『無知の涙』『木橋』『捨て子ごっこ』等を発表した。印税は被害者遺族へ送る。
死刑執行されたのは48歳だった。死後、弁護人たちによって「永山子ども基金」が創設され、著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付されている。貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの永山の願いである。
永山は手記『無知の涙』のなかで、こんなことを書いている。
「私に、自身が失ったと思うものは何かと質問されたらば、私は何もないという。否、それよりも得たと思うものが多大にあるという。私の現存在が、思惟する有象無象の精神内部の現象を、私がすべて接吻しても決して悔恨するものではないという。淫猥な言語を吐く自己も、テロリストの自己も、嫌悪するところの卑劣漢と変化した自己も、すべて愛し抱擁すべく私の存在なのだ。ああ、私はこれらそれぞれの自己にあつい接吻をしよう。そして、この精神状態になるとき、ドストエフスキーのラスコリーニコフが、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャが、地面に接吻する心理が理解可能なものとなる。この心理状態は、深層で全くの自己自身だけがいとおしい心理になった時起こるものなのだ。
瞬間的とも永遠的とも判別されえない精神状態が自己内で続きに続いたとき、そこに地上があるのである。この自己の全存在を置いて在る地球!
この愛して愛して愛しぬいても、その愛は足らない永遠の地球!」
「(ドストエフスキーの)物語のような世界が現実にあの時代、つまりロシアと名乗っていた時代にあったのであるならば、そのころのツアー政府の時代がいかに悪徳の横行した世界であったかということが想起される。ロシア文学は貧困生活の描写だ‥‥。
問題なのは、ドストエフスキーの文学世界がこの現代資本主義の日本に現実に見られるということなのだ。ドストエフスキーは一世紀以前の人だ。その人のいう世界が未だ私の目の前に見られるということは、いったいどう考えたらいいのだ。私はラスコリーニコフを真似した訳ではない。それなのに私はあの事件と同様な状態におちいってしまった。」
ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公、ラスコリーニコフは、貧しいインテリ青年だった。父ははやく亡くなり、年金で暮らす母と、妹が、苦しい家計の中から、大学で学ぶラスコリーニコフに送金していたが、彼は、貧苦に耐えて大学を出たところで、せいぜい安月給の官吏か教師になれるのが関の山だと、大学を辞めてしまった。そしてうつ状態におちいり、生きていくことも苦痛になる。
とじこもって空想の世界にいた彼は、空想を照明するために、二人を斧で殺害してしまう。殺されたのは、金貸しの老婆とその妹リザベータ。ラスコリーニコフは、「社会にとって益にならない」老婆を殺し、その金を奪って事業を起し、有為の青年たちを援助するのは正しいと考えたのだった。妹リザベータは、たまたま帰ってきたときに巻き添えとなった。
ロシア文学者・中村健之介のドストエフスキー論は文章に力がある。
彼は次のようなことを書いている。
「作者がリザベータの帰宅を早めて、起こらなくてもよかったはずの出会いと殺人をラスコリーニコフに与えたのは、この『被害者による加害者の赦し(ゆるし)』を語りたかったからなのではないかと思われる。
ドストエフスキーの世界では、正義の要求は、いつも最後は、人の罪はすべて赦されるのではないかというこの『赦し』の要求にのみこまれてしまう。敵同士が赦しあい抱き合う和解への要求、際限のない寛容への願望、それが若いときから晩年まで衰えることなく続いたドストエフスキーの希求である。
‥‥リザベータとソーニャが殺人者ラスコリーニコフに対して示した罪の赦しの論理は、法律家でなくても、あまりにも寛容な、無際限の赦しと見えるだろう。‥‥しかし、ドストエフスキーは、ひたすら赦しだけを求め続けた。ドストエフスキーは、生きていながら『死せる生』に閉じ込められている青年ラスコリーニコフが、そこを脱して『生ける生』に至るという蘇生の物語を書きたかった。リザベーダは、こういう作者の意図に従って、ラスコリーニコフを蘇生へと向かわせるために、犠牲となったのである。『まことに苦しまずば、まことに喜ばれず』ということばは、『死せる生』に閉じ込められて苦しんでいるラスコリーニコフへのメッセージだった。そしてソーニャはリザベーダの十字架を肌につけて、シベリアの流刑地へ向かうラスコリーニコフに同行する。ソーニャの入っていけない獄舎の中では、リザベーダがソーニャに贈った『あの福音書』がラスコリーニコフの寝床の枕の下に置かれていたのである。」
2012-01-29
■[日本社会] 「さらば原発 長野県民集会」で知ったこと 
「さらば原発 県民集会」に参加した。会場の松本文化会館は、浅間温泉の手前にあり、松本市内の道路には雪はなかった。会場に入ると、やっぱりこの世相、参加者は高齢者が圧倒的だ。若い人たちはどこへ行ってしまったのだろう。それでも会場に小さな子どもを連れて参加している若いお母さんがちらほら見えたのは、母親として切実な問題だからだ。参加者は700人ほどだった。
基調提言は、元信州大学学長の宮地良彦氏と信濃毎日新聞主筆の中馬清福氏の二人。
宮地氏は物理学者として原子力の平和利用という道の間違いを歴史を振り返りながら、文明そのものの問い直しのときだと話され、中馬氏は本当の豊かさとは何か、我々は明確に脱原発の方向に舵を切り換えるべきであり、日本人が忘れている直接民主主義の意思表示をいまこそ行使すべきだと訴えられた。
フォトジャーナリスト・山本宗輔氏は、震災直後に福島原発近くまで潜入して放射線を測定しながら現地を写してきた映像をスクリーンに映し、大手メディアの報道しなかった事故直後の生々しいゴーストタウンの実態を語った。カメラがひとつの病院に入ると、いくつものベッドや車椅子が病院玄関の外に放置されていて、そこまで入院患者は運ばれてきてそこから緊急避難の車に乗せられていった病人たちと医師・看護師たちの、動顚し、狼狽し、パニックに陥ったであろう様子や、そこにはその後誰も戻ってこなかったことを如実に示す映像には、観客の中からため息が聞こえた。
昨年12月に撮影された、酪農家の牛舎でミイラ化したまま放置されている牛たちの映像は悲しく、その場面でもかすかなうなり声のような観客の吐息を聞いた。
集会は、被災者の体験談や詩の朗読、合唱などを織り交ぜ、三時間半におよんだ。
途中の休憩時間に、前の席の人が、数枚のチラシをくれた。それはリニア中央新幹線への警告ともいえるもので、東京、神奈川、山梨、長野、千葉などのリニア新幹線の計画沿線にある市民団体のつくったチラシだった。
リニア新幹線の計画が出たとき、長野県といくつかの都市は、ぜひともルートをわが町へと、誘致のラブコールを送っていたが、この運動体の訴える内容は全く逆で、読んで目が覚める思いがした。
JR東海がすすめるリニア新幹線は、東京―名古屋間で5.4兆円、東京―大阪間で9兆300億円という試算らしいが、たぶんそれよりもっと莫大な額になるだろうという予測である。それを借金によってまかなう。その負債をどう返済するのか。
南アルプスのどてっぱらにトンネルを貫通させて走らせるというのも環境にどのような被害を与えるか。
そしてこのリニアカーを走らせる電気はどうなるのか、そのためには原発3基分とも5基分とも(この会の発言者の中でも意見が異なっていた)言われる電力が必要になる。運動団体は、
「基礎データが非公開となっているためにあくまで推論による計算でありますが、原発数基分が必要だということは間違いのない事実なのです。」
「南アルプスは世界自然遺産の指定を目指しているほど、自然環境や生態系が豊かなところです。そこに20キロものトンネルを掘れば、大きな自然破壊はまぬかれません。また南アルプスには中央構造線や糸魚川静岡構造線などの大断層があり、こんな危険なところにトンネルを掘るのは無謀です。」
そして、車両と走行速度への危険、走行時の強い電磁波の危険などがある。
とんでもない計画だった。その計画に対してなんら警戒心をもってこなかった。
発展することはよいことだ、進歩することはよいことだ、夢の新幹線は、誇りうる技術だ、と原発神話のそのうえに、まだ発展神話がまかりとおっている。
この国の足下に大きな落とし穴が開いているというのに。
いったいこの国はどうなるのだろう。
2012-01-28
■[少年の世界] ドストエフスキーの語る「善き思い出」 
この文章に出会ったとき、ぼくはしばらく考え込み、遠い幼いころのことを思い出そうとした。
「ドミートリーの母親はかれが幼いころ家を出てペテルブルグで亡くなり、父親は家に女を引っぱりこんではどんちゃん騒ぎの毎日であったから、ドミートリーは放り出されて、地べたをはいずりまわるような少年時代をすごしていたのである。その小さなドミートリーに赤の他人のドイツ人の医者がクルミを一フント(400g)与えて、お祈りの言葉を教えてくれる。それが、陽の射さないドミートリーの少年時代のほとんど唯一の美しい思い出なのである。
そんなことを20年経ってもドミートリーは覚えていて、老いたその医師を訪ねる。
『そうか、君があのときの坊主か、立派な男になりおったなあ』と老医師は大いに喜ぶ。二人は涙で顔をくしゃくしゃにしながら笑って抱き合い、思い出話にふける。ドミートリーは乱暴者なのだが、暖かな人の善意をよろこび、『善い思い出』を大切にする心を持っているのである。」
カラマーゾフ家には三人の息子がいた。長男ドミートリー、次男イワン、三男アレクセイ(愛称アリョーシャ)である。父と長男は、24歳のグルーシェニカに夢中になっている。
「グルーシェニカの場合も幼いときに聞いて大事に心にとどめている話が出てくる。ある百姓の女から聞いたのであるが、地獄で苦しんでいる人たちを助けるために、ネギを差し出してやる、という話である。これを換骨奪胎して芥川龍之介は『蜘蛛の糸』という物語を書いているのだが、その話がグルーシェニカは大好きなのである。彼女は堅気の人たちからは避けられるような女なのだが、そういう善い話はしっかり覚えていて、心の安らぎを得、知らない間に自分を冷酷さや愚かな高慢さから救っていたのである。
ドストエフスキーは、小さいときに人間の内に植えつけられた『善い思い出』というものが非常に大事なものであると考えていた。これはドストエフスキーの晩年になってはっきり打ち出されてきたひとつの思想である。
『美しいものの印象、これこそ幼いときになければならないものだ』とかれは言っている。『カラマーゾフの兄弟』では、ゾシマ長老が、九歳のとき、十七歳で亡くなった兄マルケルから『ぼくの代わりに生きてくれ』と言われた記憶を生涯の心の支えとしてきたことを語っている。ゾシマがアリョーシャを愛し、この青年を自分のいわば精神的後継者のように育てるのは、アリョーシャが亡きマルケルに『実によく似ている』からなのである。アリョーシャもまた、彼を慕う少年たちを前にしてゾシマと同じ考えを一生懸命語っている。『善い思い出』というものがその人間を守り養い、人間に生きる意味を与え、死を乗り越えて人と人との結びつきを生むのだ、という考えである。」
ロシア文学・文化の研究家、中村健之助の「ドストエフスキー人物事典」(講談社学術文庫)を読んで、そのあまりに詳細でみごとな人物のとらえ方に感嘆した。そしてこの幼き日の思い出の文章が心に残った。
ぼくはドストエフスキーから離れて、自分のこと、日本人のこと、そして日本の子どもたちのことを考えた。
その人間を守り養い、人間に生きる意味を与え、死を乗り越えて人と人との結びつきを生む『善き思い出』、どんな『善き思い出』を心に刻んでいるだろうか。どんな『善き思い出』を子どもたちに語っているだろうか。
2012-01-27
■[現代社会] 槙枝元文さんのリーダー像 『稔るほど頭を垂れる稲穂かな』 
蚕のこたつ。冬の蚕室で使われた。
「もしもし、槙枝ですが。3月8日から一ヶ月、先生のご都合はどうでしょうか。」
ゆったりとした声が、少ししゃがれている。まぎれもない槙枝元文さんだ。中国からやってくる技能研修生に対する日本語指導への教師要請は、槙枝さんからじきじきにやってくるのが常だった。日本語研修は、東京に本部のある財団法人・日中技能者交流センターの事業の一つで、槙枝さんはセンターの産みの親であり、初代理事長だった。
それまでぼくの知っていた槙枝さんは、日教組委員長から総評議長へと労働運動のトップで活躍している槙枝さんであったが、引退して余生を日中友好事業につくされる槙枝さんは全くの好々爺で、体からすっかり「闘争」というものが抜けてしまっていた。
教師たち一人ひとりに電話をかけ、その都合を聞き、手帳に名前を書いて必要なメンバーをそろえるという仕事は、他の職員がやればいいものでああったが、槙枝さんはそれを自分で行ない、トップの椅子に座って指示をするようなリーダーではなかった。庶民に直接接しなければ庶民のことは分からない、直接その人と話さなければその人が分からない、それを実践しておられた。
一ヶ月の研修での指導が終わり、教師たちが全国各地へ戻っていく前の日、閉講式にやってきた槙枝さんは、教師一人ひとりと面談された。
「今回は、どうでしたか。」
ニコニコと笑いながら、庶民代表という表情で話を聞かれる。
「次はまた来てもらえますかな。希望はありますかな。」
こうして一ヶ月の教師たちの実態を知り、次のスケジュールに備えておられた。
槙枝さんの泊まる宿は研修所近くのビジネスホテルだった。
閉講式の前夜は一ヶ月の合宿指導を終えた教師たちを慰労する食事会が用意された。研修所は愛知の西尾と岐阜羽島にあったが、岐阜へ来られたときは、ウナギの店がお決まりの会場だった。場所をどこにするか、それを決めるのは教師たちだったが、槙枝さんが大のウナギの蒲焼好きだったから、長良川で獲れたウナギと称して、ウナギの炭火焼きをたべさせてくれる定番の店があった。その店のウナギの蒲焼はまことにうまかった。槙枝さんは、
「東京の蒲焼と関西の蒲焼はちがうんだよ。私は岡山だから関西の蒲焼が食べたくてね。関西のは焼き方がちがうんだね。おいしいね。」
そう言って、うまそうに食べておられた。
槙枝さんはヘビースモーカーだった。いつもふところにピースの箱を忍ばせていて、ときどき青い箱から一本を抜き出して火をつける。
「このおかげで、長生きしているんですよ。ハハハ。」
「畑のほうはどうですか。」
ぼくは槙枝さんが家庭菜園を作っておられることを知っていたから、どんな野菜を作っておられるのか、よく聞いた。野菜談義は、ふーっと心も体も軽くする会話になった。教職員組合の運動や労働運動のトップであったときは、土に触れることなどできなかった。それが今はできる喜びがひしひしと伝わってくる、楽しい会話になった。
「帰ったら、畑の草引きだね。」
「私も、約一反近くを耕していますよ。草対策は猛烈です。
「その広さだとたいへんだね。」
ぼくは同僚としみじみと話す。
「槙枝さんは、まさに『稔るほど頭を垂れる稲穂かな』の人ですね。」
「ほんとうに、私などなかなかそうなれないです。」
槙枝さんは、1986年国連の提唱する「国際平和年」に、日本は唯一の被爆国であり、意見の違いを超えて、国民的な核廃絶の運動を起こそうと、労働運動と住民運動とが連帯する運動に加わられた。
「私は左翼でもない、右翼でもない、そういう幅広い運動を起したい」、それが槙枝さんの願いだった。
それから25年後、福島原発事故が起きた。
「核兵器も原発もなくそう」という国民的な運動の盛り上がりはどうなっているのだろう。
二年前、槙枝さんはこの世を去られた。
この28日、「サラバ原発 長野県民集会」が松本市で開かれる。3月11日には「サラバ原発長野県大行進」が計画されている。参加しよう。
2012-01-25
■[安曇野] 道祖神の祭り 
一月の十日すぎ、アルプス公園から穂高町の塚原の集落のほうへ下りてくると、夫婦の道祖神の前に一人の老婦人が空を見上げ、デジタルカメラを顔に近づけておられる。はて何だろうと見ると、一本の丸太の木に飾りがついたのが立っている。
不思議なものがあるぞ、近づいていくと、高さ8メートルほどの、ヒノキの間伐材のような丸柱だ。先端に葉のついた竹がつけられ、その下に柳の木か桑の木か、細いまっすぐな枝がバッテン形にして柱にくくりつけられ、それが五段になって枝の先端をワラ縄が上から下までつないでいる。
縄と木の枝には、色紙を輪にしてつないだ飾りや、女の子が昔遊んだお手玉のような巾着袋、ワラを束ねて俵の形にしたのが、たくさんぶらさがっている。
安曇野に来て6年になるが、今まで見たことがなかった。こんな伝統行事が行われていたとは知らなかった。
「いったいこれは何ですか。」
ご婦人に訊くと、これは道祖神の祭りで、この上にもっと大きなのがある、そこは常念岳もバックに見えてよいと教えてくれた。
それを見てみたい、今来た道をバックすることにした。ランと一緒に八幡さんの横を通って、暮れてきた雪道をもどっていった。
五百メートルほど山のほうに上ったところに来て見回すと、以前見つけた畑の中にある道祖神の脇に、飾りが風に翻る柱が見えた。
雪のあぜ道を通っていった。ネコかキツネの足跡を踏んでいくと、小川の傍に昔の道がなくなり行き止まりになっているところに、道祖神や庚申塔、二十三夜塔などの石塔がひっそりとたたずんでいる。
もう暗くなりかけていた。常念岳が夕映えのかげりをバックにそびえている。
人影は無かった。
色紙の飾りがかすかに風になる。
飾りのなかに福俵の飾りがあった。そこに御幣が取り付けられている。
気温はしんしんと下がり、体も冷えてきていたが、この発見は気分を高揚させた。
それから十五日の日曜日、もう一度行ってみた。
朝の七時過ぎだった。
塚原の集落の人たちが道祖神の周りに集まっていた。
聞けば、飾り柱を倒すのだという。
大人たちがいて、子どもたちもいた。
大人たちが柱を長年やってきた手順で、静かに倒し、飾りの中の巾着を子どもたちがはずした。
このお手玉のような丸い巾着は、また集落の一軒一軒に返されて、それぞれの家の軒先に吊るされるのだという。家々に配るのは子どもたちだ。
五穀豊穣を願い、家内安全を祈る、初春の道祖神祭りだった。柱の下のほうに、墨で御柱と書かれている。そういうことか、諏訪大社の御柱とは一風異なる、その地の御柱祭がこんなところにあったのだった。
後に調べてみると、三郷地区では男性のシンボルも飾りつけられているらしい。
柱の正面はその年の恵方に向けて立てられる。
遠山郷の人のこんな文章があった。
「御柱とは何か。この問いは、諏訪信仰を研究する人々にとって永遠のテーマです。おそらくは未来永劫、結論の出ない問題なのかもしれません。けれど当の氏子の人達にしてみれば、祭りの起源などたいした問題ではないはずです。大切なのは祭りを受け継ぐ固い意志と、その充実感なのではないでしょうか。
皆で力を合わせて山から曳いてきた御柱が、天を衝いてそそり立つ。それを見上げたときの達成感なくしては、御柱祭もこれほどまでに大きな行事として発展してこなかったでしょう。 」
道祖神の飾り御柱を最初見たとき、頭にひらめいたぼくの印象は、チベットの丘の上になびくあのたくさんの色の小旗だった。
チベット人は、家の屋上などに、経文を印刷した魔除けと祈りの旗「ルンタ」(タルチョー)を掲げる。悪霊や災難を祓い清め、生きとし生けるものが平和で健康に過ごせるようにと祈願を込めて。
2012-01-23
■[健康] 雪道の対話 
カーテンを開くと、雪原を疾走する黒い影があった。西へ視界を横切っていく黒い一本の頭・胴・しっぽは、キツネだ。
野性の確かな力感に、人の野性は刺激され、幾ばくか興奮が湧く。
夜が明け、山へ帰っていくのに遅れたキツネは全速力で山に向かう。
キツネがまだいてくれて、よかった。野生がいる環境こそ人間の生きる環境だと思う。
雪降り、雲低く垂れこめ、視界きかず。
フードのついた真っ赤な羽毛ジャケットを着て、朝のウォーキングに出る。ランは左横に付いて歩く。
気温が少し上がったために、雪は融けやすくなっていた。
いつものコースを行く。雪のなかに二人の人影があった。降雪の中で話をしている。犬もいる。
犬はゴールデンレトリバーであると見えた。すると一人は秀武さんだ。
ということは秀武さんは外出できたのだ。
話しているもう一人は、最近よく出会う近くの人で、子どもの柴犬を連れている。
「やーやー、お久しぶりです。」
「今日やっと外出しましたよ。」
秀武さんはこの二ヶ月ほど腰の病気で動けず、ずっと家にこもって病院で治療を受けていた。寝ていても寝返りもうてない痛さだった。やっと痛みが和らぎ散歩に出ることができるようになったのだ。
「よかった、よかった。」
この二ヶ月間、なかなか腰椎の神経の圧迫を除くことができず、腰痛はおさまらなかった。神経をマヒさせるための注射を打ち続けてきて、やっと痛みが軽くなってきた。何をしても効きめがなく、途方に暮れていたが、やっと歩けるようになった。
シバのおじさんと別れて、秀武さんの家の近くまで歩きながら、ひとしきり治療の話をした。
秀さんの紺色のジャケットのフードにも雪が落ちる。
若いころに秀さんは腰を悪くし手術をした。それが完全に治っていなかった。腰の爆弾は、それからときどき痛みとなって現れてきていたが、とうとうまた破裂したのだった。
「年をとると、いろいろな病気も出てきますね。」
「体の動かし方も、気をつけないとね。重いものを持つときも腰に負担をかけないようにしないといかんです。」
「私もね、この正月は痛い正月でした。」
12月に不整脈が出て、つづいて帯状疱疹、ウイルスで傷つけられた神経の痛みは今も治らず、腹部に腫れができ、さらに先日発見したのが腎臓結石、二月にはレーザー光線を照射して結石を打ち砕くことになっている。
病気知らずでやってきて、体力に自信があった自分だけれど、この五年は二年おきに大きな発症がある。
秀さんの腰痛も、春の田起こしまでにはよくなってほしい。
「この年になると、病気とは一生つきあっていかんならんですな。」
「お大事にしてください。」
秀さんの家への入り口、柿の木のところで別れた。
長い間、元気に働いてくれた体だ。お互い無理をしないで、体を調整して使うことだ。
2012-01-21
■[東日本大震災] 地震の日も報道を続けた河北新報 
大震災に遭遇した一つの地方新聞社が、壊滅的な大打撃を受けたにもかかわらず、その日の3月11日も、なんとしてもこの震災を報道しなければならないと被災地を走りまわり、写真を撮り、紙面を作り、自社の機械では印刷できない中、新潟の地方新聞社の機械を使わせてもらって発行した。それから一日も休まずに被災地に新聞を配ろうと奮闘し続けた記録『河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙』(文芸春秋)を読んだ。
驚くべき使命感であった。新聞社魂とはこういうものかと思った。
「われわれは地域の住民に支えられて百年以上、この地で新聞を出すことができた。その住民が大震災で苦しんでいる。今こそ恩に報いる時だ。いかなる状況になっても新聞を出し続ける。それが使命であり、読者への恩返しだ。」
震災対策会議で社長はそう号令を発した。合言葉は「いまこそ東北のために」だった。
河北新報社は1897年に生まれ、創刊以来114年、宮城県を中心に東北六県を区域にする地域ブロック紙である。戦時中も終戦時も、一日も休まず発刊を続けてきた。1945年7月10日の仙台空襲では社屋の周りが火の海になったが社員が懸命に消火して被災を免れた。
「河北は福島県の白河以北を意味し、東北地方を表現している。明治維新以来、東北地方は『白河以北一山百文』と軽視された。一山百文とは『一山で百文の価値しかない荒地ばかり』という侮蔑的な表現だ。これに反発心を抱き、あえて『河北』と題し、『東北振興』と『不羈独立』を社是とした。」
震災の日、自力で新聞を発行することは出来ない状態にあった。
仙台から260キロ離れた新潟市の新潟新報社、そことは「緊急時の新聞発行相互支援協定」を結んでいた。一方の新聞社が紙面制作できないとき、もう一方が代わりに制作を引き受けるという支援関係である。この協定は、2004年の中越地震を経験した新潟日報社の呼びかけで生まれたものだった。
河北は新潟に連絡を取る。新潟からの応答は、「任せてください」。
だが、データを送るインターネットが不通になっていた。それは共同通信社の技術員のおかげで共同通信のネットワークを使わせてもらうことができた。
3・11、夕刊の号外が配られた。
ずたずたになった道路、販売店も津波で流され、店員も購読者も亡くなっている。
社員は自分たちでおにぎりをつくり、それを糧に、輸送路を確保し、どこに新聞をとどけたらいいのか自力で調査して、新聞を発行し送り続けた。
いちばん喜ばれたのは避難所だった。
新聞がこんなに待たれ、こんなに喜ばれたことは今までなかったことだった。
河北新報社を支援する動きも大きかった。
他社の新聞社や異業種の会社30社以上から応援が来た。
中国新聞社からは、記者、カメラマン、運転手がセットで仙台に乗り込んできた。
「河北新報の取材クルーとして、自由に使ってください。」と、そして電動機付き自転車25台。
河北新報は、この恩に報いるために、今後の災害に備え、他社への援助ができるように心構えをつくっているという。
「東日本大震災報道」で、河北新報は2011年度新聞協会賞を受賞した。
この本の最後に、次の文章がある。
「今も、私たちの東北は大震災のただ中にある。
被災地にある新聞社として、河北新聞社が伝えなければならない状況があり続けている。伝えなければならない声、伝えていきたい声がある。
震災発生以来、被災地や避難先を取材し続けている。津波で肉親を失いながらも職場にとどまって被害などを伝えた記者、避難所から出勤して書き続けた記者もいた。
国難とも言われる東日本大震災を軸にした報道、紙面づくりが、東北の再生に向け、私たちができるいちばんの仕事だと考えている。
何が起きたのか、何が起きているのか、記録し、歴史として刻み、新しい時代に継いで行く役割が、新聞にはある。」
この使命感の自覚は、新たな歴史を刻むことになるだろう。
2012-01-20
■[東日本大震災] 新庁舎建設より被災地救援を 
大震災の後、直接被災しなかった人も呆然とし、被災地の人たちは途方に暮れて気力も失せがちであったそのどん底から這い上がり立ち上がりはじめて10ヶ月、そこには三つの助力を必要とした。
一つは自助、
生きるために自分の出来ることは何か、可能な限り自分の力を搾り出す。
二つ目は共助、
被災者同士で助け合い、力を出し合って生きのびる。そしてボランティアが差しのべる助けを受ける。
三つ目は公助、
すなわち国からの援助。
この公助が遅れている。崩壊した住民の生活、壊滅状態の地域産業、消滅した社会システム、これらに必要な巨額の資金が決定的に足りない。被災地の県も市町村も、自由に使える復興資金がなくて困っている。そして政府は政府で、予算不足に頭を悩ましている。国の債務が膨大になり、世界の金融経済の危機状況からすれば日本もこれからきわめて危ない。
「この期に及んで」とは言わせない。
状況のどんづまりなんてない。
80億の安曇野新本庁舎を建てるという計画はもうストップできない段階に来ているという既成事実がある。それにもかかわらず、ぼくはつぶやく。
「この期に及んでまだ反対するか」とは言わせない。
「この期に及んでいようが主張する」。
どうぞ、この資金を被災地に回してください。私たちの市では、使わなくてもいけるのです。
80億円かけて新しい安曇野市役所の本庁舎を建てるのだと、行政トップの人たちは突き進んできましたが、この80億円をどうか被災地に回してください。
「合併特例債を使わなければ損だ」「合併特例債と復興資金は別物だ。この際これを使うべきだ」という意見が、市議会にも行政にもあります。3・11以後も、それに依拠して計画は進められてきました。
この意見にはエゴイズムを感じます。
被災地への思いが消えています。
国を一つの家族にたとえます。家族の一員が危機的状態にあるとき、「それはそれ」として切り離し、自分のことだけ考えることはできません。家族みんなは危機的な一人を助けるために自分のもてる力を投入するでしょう。
この国難のときに、「東北地方の問題は東北の問題、われわれの権利はわれわれの権利、取れるものは取れ、国から借りれるものは借りよ」、そのように聞こえてきます。
5町村が合併して6年。安曇野市はそれまでの建物を使って政治を行なってきました。不便もあっただろうし、効率の悪い点もあっただろうけれど、それでもやれてきたのです。本庁舎を建てなければやれないことはなかったのです。りっぱな議場もあるのです。市庁舎の現建物の中には、空室もたくさんあります。
工夫すれば、いくらでも既設の建物・施設を活用して、今までよりも能率よく、市民に密着した行政が生み出せるでしょう。
新しい庁舎をつくるということがいつのまにやら既成の事実のように念頭にあるから、既存のものを工夫して活用するアイデアが乏しくなるのです。
新しいものは建てない、そこに立脚したとき、こんこんとアイデアは湧いてきます。
新しい本庁舎建設にかける資金も、国の資金と市の資金、もとをただせば民からの税金です。
多くの額が負債になります。
借金漬けになって破綻する自治体や国にならないように、市民が監視し、方向をたださねばなりません。
今いちばん苦しんでいる被災地の自治体や住民たちを救済するために資金を優先することこそが政治モラルです。そのことに何の躊躇もありません。
喜んで市民は、この考え方に賛成するでしょう。
エゴということでは、沖縄に基地負担を押し付けてきたのも国や他県住民のエゴだった。
そして国政は党エゴをむきだしにし、党内には派閥や人脈のエゴがある。
地方政治の内部矛盾にも、隠れたエゴがごろごろ存在し、行政をゆがめている。
2500年前、孔子が説いた政治道徳は、仁だった。すなわち思いやり。この根底には、万人の平等思想がある。
すべての人の尊厳を守ろうとする思想とモラルが政治に存在しなければならないと提唱したのだった。これは、きわめて現代に生きる思想ではないか。
kajii hidekazu
2007年『一身独立して一国独立す』の記事から参りました。
仰られている様に震災よりも目の前の物(お金)に心まで支配される民族に成り果てましたよね。
私達日本人が65年の洗脳から目覚めるチャンスなのに、情けないですよね。
michimasa1937
同調性バイアスという行動の偏りが社会にあります。自分の考えをしっかりさせて行動するのではなく、みんながそうするから自分もそうすると、みんなに同調しながら世渡りしていく行動パターンです。地方においても、しばしば力をもつ人に同調して、身の保全を考える人たちが多数を占めることがあります。影のボスがいると、そうなりやすい。今自分の住んでいるところから、是々非々の意見開陳が率直にできる土壌をつくっていかなければ、国の政治も変わらない。論語に「君子は和して同ぜず」とあります。協調して共につくっていく姿勢をもちながら、しかし自分の意見はしっかり持って、簡単に妥協してしまわない、このことは日本の風土の中で、まだまだ確立できていないと思います。一身独立して一国独立す。
2012-01-15
■[戦争と平和] 「北極圏のアウシュビッツ 知られざる世界文化遺産」 
市の図書館の本棚に、大きな写真集が表紙の目立つように置かれていた。目に留まった文字は「北極圏のアウシュビッツ」、サブタイトルに、「知られざる世界文化遺産」とある。
手にとるとずっしり重く、扉を開いたらドストエフスキーの「死の家の記録」の一文があった。
「どんなりっぱな人間でも、習慣によって鈍化されると、野獣におとらぬまでに暴虐になれるものだということである。血と権力は人を酔わせる。‥‥人間の尊厳への復帰と懺悔による贖罪と復活は、ほとんど不可能となる。」
写真家、亀山哲郎は単身、極北の島へ、その悲惨の歴史をたずねていった。そこは北海に浮かぶ群島、ソロフスキと呼ばれていた。一年の半分は白夜の世界、ソロフスキはもともとロシア正教会の教会と修道院がつくられ、北の聖地として信者が集まった。革命が起こり、ロシアはソビエトになり、スターリンが権力を握ると、島は良心の囚人が送り込まれる収容所になった。体制の犠牲者になった人は数え切れず、2000万人とも言われている。その規模は、ナチスのユダヤ人虐殺に肩を並べる。
ソロフスキの虐殺が知られるようになったのは、ソルジェニーツィンの「収容所群島」が出版されてからで、ソ連が消滅してロシアになってから現地にも入れるようになり、真相が次第に明らかになった。が、今もって謎が多く、ロシアになってからも国家としてこの犯罪に向かい合っていない。
ソロフスキは今は世界文化遺産に指定されている。だがそれは負の遺産としてではなく、ロシア正教会の歴史的建造物としてであり、今も島に残る収容所として使われてきた建物などは遺産に指定されていない。
写真に写されているタマネギのような形をした屋根を持つ建物も風景も美しい。収容可能人数をはるかに越える囚人たちは人の上に人が横たわって夜を越したという木造建物も風雪に耐えて美しい。過去の悲劇を内に秘めた遺跡は、深い沈黙のなかにある。
亀山がモスクワからこの極北の島に入るのは容易なことではなかった。世界文化遺産であるにもかかわらず、観光客は行かない。
ソロフスキの経てきた歴史、ロシアが経てきた歴史、それはとてつもなく巨大な揺れだった。
亀山の接するロシア人は、純朴で愉快な人たちだった。この愛すべき人たちの国でどうしてこんなことが起こったのか、写真に添えられた紀行エッセイは亀山の疑問をつづる。
「残虐や残忍性を声高に非難することは簡単なことだが、なぜそのような土壌が生まれ育っていったのか、という人間の心のうちに、目を向けることが最も大切なことではないか。」
権力を行使する側の人間の精神よりも、良心や正義を標榜する善良な市民の側の精神に目を向ける必要があるのではないか。
写真集の最後に、東大教授の塩川伸明の文章「時代の磁場」が掲載されている。
塩川は、今なお改めて問わねばならないと次のように投げかける。
「何よりもまず、このような悲惨な現象がどういう要因から生じたのか」、「そしてまた、どうして人びとはこのような暴虐を受容してきたのか」、「後世の地点から眺めると、どうしてそんな非道がまかりとおったのかと、いぶかられるようなことも、その当時の多くの人には『やむを得ない』『必要悪』として受容され正当化されていたのではないか」。
「悲惨な現実が大なり小なり知られていても、それを正当化するメンタリティがあったというのが歴史的現実であり、そうしたメンタリティ成立のメカニズムを明らかにする必要がある。」
ソ連の中で生きていた人たちが恐怖政治の中におかれていたことはいうまでもないが、それにもかかわらず壮大な英雄的な国家建設という目標を国民が分かちもっていたという事実がある。壮大な理想の実現という夢への陶酔と巨大な犠牲との共存、そのことと現在の世界を照らし合わせてみよ、今はどうなのか。敢然と悪と戦う「正義の戦争」という「理想」を掲げた「巨悪」が、今も世界をばっこしているではないか。
つい最近のことだ。広島平和公園の原爆慰霊碑に刻まれた碑文にペンキがかけられていた。
「安らかにお眠りください。過ちは繰り返しませぬから。」
この「過ちは繰り返しませぬから」にペンキがかけられていたのだ。
この一句については当初から異論があった。原爆を落とされた側が、何ゆえ反省を誓わなければいけないのかと。
しかし、原爆を投下したアメリカの罪は明らかであるが、原爆投下にいたる戦争をはじめた日本、それを許して戦争に邁進してしまった国民の責任、なぜそうなったのかを問わずに、どうして犠牲者を慰霊できよう。
再びそういうことが起こらないような国をつくっていくのは、国民の責任であり仕事である。犠牲者に語りかかける痛恨の叫びは、「過ちは繰り返しませぬから」と、胸底からしぼりだす声以外になかったのだ。
2012-01-12
■[希望] 中尾佐助の見たブータンと現代文明 
中尾佐助が1958年に探検したブータンは電気もまだ家々に来ず、自動車もないブータンだった。それから中尾は23年後の1981年にブータンを再訪している。その時のことを中尾はこう書いている。
「(23年前)この小国に初めて入り、つくづく感嘆したのは、ブータン人が全部豊かな生活をしていることだった。水田の稲、畑の麦、山地の牧畜を組み合わせ、米の飯と乳製品、肉(ヤクの乾燥肉)を毎日民衆が食べていた。家屋は二、三階建てで非常に大きく、しかも稲作の低地と麦作の高地に同じような大きな家を持っている人も多かった。アジアの中に、民衆の生活がこんなに安定した国は一つもない。もちろんごく少しばかり貧民がいたが、それはなんと十年前に解放された奴隷たちだけであった。まだ都市ができておらず、城の周りに村があるだけの社会、技術文明も近代的なものは何一つ存在しないという社会で、私は一つの古代的なユートピアが達成されたのを見たという実感であった。人間の歴史の中には、こういうことがあり得たのかと自問自答したのだった。その隔絶し完成された小さなブータンに、外界に通ずる一本の道が1963年にできた。20年前のことだ。それから毎日、トラックと乗用車があらゆる文明をこの古代的社会に運び込んでくる。そこに何が起こったか、私はそれを今回見に行ったのだった。
インドからブータンに入る国境の町、プンツォーリンは今やブータン最大の都市となっている。そこから自動車で一日行程の首都ティンプーは、決定的にブータン風の都市である。20年前には、小さな城と、水田の間に農家が散在し、木地師や紙づくり職人の小屋と二、三軒の小売屋があっただけの場所に大きな都市が出現していた。その都市の家屋は、命令によって西洋風でもインド風でもない、ブータン風の建造物になっていて、その中に電灯が入っている。そういう形にブータンは近代化をはじめている。」(「秘境ブータン」岩波現代文庫)
それから現代に至るまで、ブータンは守るべき伝統と、近代化のはざまのなかをくぐってきた。
発電所の建設、貿易、スーパーマーケットの出現、教育の推進、都市化、それらの近代化に対して、宗教(チベット仏教)や自然はしっかり守られている。
東京農大教授で、照葉樹林文化研究会の山口裕文が糸杉の木のことを書いている。
人間生活と強くかかわるブータンの自然は、この50年間でおおよそ変わっていない。中尾が1958年に馬上から見た、ブータンの国樹であるイトスギは、2010年、同じところに大きく育っている。
「近代化の変容のなかで魂で守られたイトスギは、変わらない姿を持ち続けているのである。
道路網や送電などインフラの整備によって近代化はますます進んでいる。それを示すかのように、飛行場や観光地の駐車場などに、ブタナやセイヨウタンポポなどの外来種が侵入し、生態系の劣化も具現しつつある。中尾の予測した近代化や文明化にともなう問題の表れの一つと見られる。」(「秘境ブータン」岩波現代文庫)
中尾がブータンにはじめて入ったとき、何日も何日も照葉樹林地帯を馬で越えた。
ブータンから中国雲南省、長江流域、台湾、日本へと続く照葉樹林、それは中尾の研究テーマ、照葉樹林文化論となっていった。
照葉樹林は、日本でも国土を守る重要な樹木であった。しっかり根を張り、山の崩壊を防ぎ、水を蓄える。照葉樹林から流れ出る川が海に注ぐところに、豊かな漁場が生まれる。
その日本の照葉樹の森は、戦後の開発で根こそぎ失われた。田園地帯の開発は、里山をつぶし、雑木林を伐採してしまった。今、照葉樹林はかろうじて寺社林に残されている。照葉樹林は、スダジイ、アラカシ、クスノキ 、ヤブツバキ、タブなどの常緑の広葉樹である。
失った照葉樹林をとりもどす、日本で始まっているプロジェクトのなかに次のような計画がある。
宮崎県綾町では、「綾の森」照葉樹林をより豊かな森にして未来へ残そうと、綾町、宮崎県、九州森林管理局、NPO団体、(財)日本自然保護協会等が、復元プロジェクト計画を立てている。約1万haを舞台に、町民や民間団体、企業がつながり、保護林の新設 人工林から照葉樹林への復元 森林環境教育など住民参画型の森林づくりを実践し、自然と共生した地域づくりをめざす運動である。
目先の利害を超えて、未来の子孫につながる計画こそ、地方自治体の魂にならねばならない。
こういう希望の灯が日本にも生まれているのだ。
2012-01-11
■[暮らし] 今日も雪 
今日もちらちら雪が舞っている。昨日、種まきが遅かったために、充分大きくならなかった青首大根が雪に埋もれているのを掘ってみた。
土は凍土になっている。スコップに足を掛け、何度も力いっぱい差し込んで、やっと小さな大根を三本、土ごと掘り出した。次に大根にくっついて離れない凍土をたたいてはがす。一本が真ん中でぽきりと折れた。大根も凍っている。
これまた、播くのが遅かったホウレン草と雪菜は、ビニールのトンネルの中にあるのだが、雪に覆われることはないものの、生育はとんと進まない。
昨年の暮れに掘りあげたヤーコンと充分育った白大根のほうは、今は工房の中の発泡スチロールのなかに貯蔵してある。昨日、家内の作ってくれたヤーコンのキンピラがおいしかった。
厳冬期にはいったところだが、どことなく寒は春の兆しを含んでいる。
アジサイの新芽は膨らんでいるし、コブシもライラックも花芽が大きくなっている。
いつのまにやらスイセンの葉っぱが土から伸びてきている。
チャコとチコ、二匹の犬を連れて毎朝散歩しているオバチャンは、
「今朝は、マイ7」とか「今朝は、マイ4」とか、報告してくれる。
マイナス7度、マイナス4度、家の外に温度計が置いてあるらしい。
チャコは、首にネッカチーフを巻き、チコはフードつきの上着を着ている。
我が家のランは何もなし。
「お前の先祖はオオカミだぞ。零下30度でもへっちゃらだったんだぞ。」
と言うのだが、昼間庭に出していると、
雪が降ってきたよ、入れてよ、
風が強くなったよ、入れてよ、
と、催促吠えをする。
「いくじなしめ、お前の先祖はオオカミだぞ。お向かいのマミを見ろ。夜も外の犬小屋で寝ているぞ。」
けれど、真剣な顔でこちらを見てまた吠える。しかたがないね、甘い飼い主はつい家に入れてやる。
二、三日前は空晴れ渡り、満月の夜だった。
月がこうこうと冬空に冴え渡るとき、北アルプスの雪嶺が白く西の空に浮かび上がる。
この幻想的な眺めはわが心を引き付ける。
普段は見えない夜の山が、この満月と雪山の重なりによって、太古の山のようによみがえってくる。
雪が舞っている。
植物も動物も、耐えている。
もうしばらくだ。
















ある日何も無いのにぽたぽたと水滴が落ちているのです。翌日もまた同じこと。不思議で仕方なかったのです。アフリカの樹だから水分が多いと溢れるのかなあと簡単にかたずけていました。
それは虫が寄生しているのですか?
良いことを教えてくださりありがとうございました。