「もっと光を」

 ゲーテは死の間際に、「もっと光を」と言った。この最期の言葉が世に知られるようになって、人のその時の想いとして独立して発せられたりもする。
 ぼくの中学校教員時代、最初の卒業生の正明君から、大きな文字で「もっと光を」と書かれた年賀ハガキを受け取った。正明君が二十歳になる前の正月だったと思う。彼はハガキに、大学生になってから突然目が見えなくなったと書いていた。
 正明君は、ぼくが教員になってつくった中学校の登山部に所属し、小さな体にザックを担ぎ汗をかいて付いてきた。山を見、雲を眺め、星を見詰めた中学時代の正明、その彼を不幸が襲った。
 ハガキは運命の非情を訴えている。ぼくはすぐさま彼の家を訪問した。光の少ない部屋で、彼の想いを聞くばかりで、ぼくはどうすることもできなかった。
 彼からの連絡はその後数年続いたが、ぼくは人生の遍歴によって彼の行方を見失ってしまった。たくさんの卒業生との交流も途絶えさせてしまった。正明君は今はどうしているだろう。

 ドイツ文学者の小塩節が、「もっと光を」について書いた文章がある。


 「ゲーテは長引く風邪を散歩で吹き飛ばそうと、馬で遠出をし、かえってこじらせて肺炎になり、ワイマルの自宅で亡くなった。
 ゲーテは少なくとも六度は生死の境をさまよう大病をし、幾多の故障と闘い、外見からはとてもそうとは思えぬ生来のうつ病気質を自分でコントロールしながら、彼は自分の生を一本の大樹のように育て上げ、常に生産的で前向きの人生を生き抜いた。その生涯は、峻嶮な峰々に立つ老いたモミの木のように見える。どんなに雷に打たれ、風雪に枝を折られようと、たえず頭を上げ、大空に枝を伸ばして天と地を結び、人びとを明るく朗らかにする言葉を刻んで世に送った。
 最期の日。高くて狭い、ドイツらしい寝台から起き上がって、いつものように粗末なひじかけ椅子に腰かけ、遅い朝食をとった。コールドチキンと白ワインの水割りを少々。そして言った。
 『もっと光を』
 久しぶりの陽光が、視力の衰えた重篤患者にはまぶしすぎるだろうと、医師がブラインドを閉めさせていた。それを開けなさい、暗いよ、と言ったのである。
 有名な言葉だが、さほど哲学的な意味があったとは思われない。私の老いた祖母も最期の夜、不審番をしていた私に、『もっとあかりを』と言った。『おばあさん、ゲーテと同じことを言うのかい』と笑う私に、『だんだん目が見えなくなってきたよ』。そして静かに息をひきとったものだった。」


 ゲーテは最期に虚空に手を上げ、指先で一文字を書いた。Wの文字。そして息絶えた。このWが何を意味するのか、死後いろんな学者がその解釈の説を出している。
 ゲーテは82歳。1832年3月22日だった。