メモリアル1周年

出張先から失礼します。どうも今晩は、森井です。


別所でやっているデスノサイトが、このほど一周年になったんですわ。
ロリポップさんからの入金催促メールで、それを知るという体たらく…
でも、実際、しみじみと嬉しかったです。


不甲斐ないウェブマスターだし、更新も遅すぎて、来てくれる人にもいっそ申し訳ないような状態。
でも、やっぱり、やっててよかったなあって思う。
サイトのデザインとか寒いのしか作れないけど、寒いなりにも、勉強して頑張って作ってよかったなと思うし、
そうやって土台を作ったおかげで、ものすごい嬉しい言葉とか、こっちのほうが「へえ!」って驚くような感想とか、もらえるのが、本当に嬉しい。
つくづく、見てくれる人のおかげだな、と思っています。

 書き手 > 読み手  なのか??

本当に、「読んでくれる人」の存在って、ものすごく大きい。


よく、同人界には(といって、女子同人界しか知らんのですけど)、
「『活動』してなければオタクとして存在価値が低い」みたいな価値観がありますよね。
てか、「活動」て… 一昔前の「無政府主義者」ワールドですかっ? とちょっと可笑しいんだけど(「活動」してこそ同志と認められる、的な…  笑)
いわく、「読み専」より「描き手(書き手)」の方が上とか。
本を出して初めて、「好きだ」と認められる、「好きな人間」の列に入れる、とか。
「同人サイトをやってないから、あの人は腐女子(ここでの意味合い:一人前のオタク)じゃない」って陰で言われていたこともある。いくらなんでも、その論理は飛躍しすぎだろう、って思うんだけど、その土台にある価値観が何なのかは認識できる。

書き手 > 読み手

っていう価値観が、ありますわよね。


その、
「『活動』してなければ、オタクとして劣位である」という考えについて、
「どう思う?」って、19歳の時からのオタク友達と話していたときに、
彼女が言った言葉が、すばらしかった。
彼女いわく、


「同人は、書かれたものを汲み取ってくれる人がいて、成り立つものだよね。
 すごい作品、っていうけど、本当は、それを読んで感動するっていうことは、
 読んだ人のなかに、『それだけのものがある』っていうことだと思うのね。
 むしろ、そう受けとめられることが、『すごい』んだと思う」


そうだよな、本当、そうだよな… と、思ったわけです。
この人、こんなことを考えていたんだ…! って、ちょっと泣きそうになった。


「読み手」がいてくれるから、或るジャンルにおける、解釈の、巨大な「無意識」のネットが、拡大再生産されていくわけで、その巨大なプールがなかったら、われわれの考えはきっと、とてつもなく痩せたものになる。
「情報の真空地帯にオリジナルは存在しない」って、上野千鶴子氏は言ったけど、それは、全てにおいて、本当にそうだと思う。だから、度を越して「パクリ」なり「盗作」に過敏になったり、同人ネタの「オリジナル性」を妙に囲い込んでいくのは、どうなんだろうな、と思う。


元ネタとして、同一の作品があって、それについての、解釈の巨大なプールを、われわれは共有している。
無意識を汲み上げる海を。
そこから生まれてくるものに、ある種の共時性が含まれていたとしても、何も不思議ではない。


そして、二次創作という意味合いでの「表現」をしていなかったとしても、
「読み手」も、その海を一緒に持っていることに疑いはないと思うわけです。

あなたに出会いたい


まるで同じ海にいる生き物のように、わたしは、自分と、自分の愛するジャンルにいる「書いている人」「読んでいる人」の存在とを、イメージすることがある。


私は、いわゆる読み専だったとしても、或いは同人誌になど縁がなかったとしても、「デスノート」や、「福本作品」について、「思い」を持っている「貴方」と、関わり合いたいし、言葉を交わしたい。
このブログも、同人のサイトも、そのためにやっているんだと思う。
何も作っていなかったとしても、「好き」だったなら、何も関係ないんじゃないのかな、と思う。
ポイントはその部分だけ。そこがあれば、イーブンにかかわりあえるはず。
劣位も何も、ないじゃん。読み専は駄目オタだなんていう考えは、やっぱりすごくヘンだ。
何かを書いたり、作ったりするのは、完全に自分のためにやっていることで、自分の執着、業の範疇ならば、そこに優位性を忍び込ませたりするのは、ほんとうはおかしなことだと思う。自意識のもちどころとして、なにかだいぶ違う。
「表現してる」っていうことに、プライドを… 自分が一所懸命やっている事柄に対してプライドを持つこと自体はおかしくないけれど、その「置きどころ」がおかしくなっちゃうと、なんだか妙だよなと思う。自戒もこめて。

同人アンシャン(?)レジーム


私はずっと、「表現」しないと、何かに「参加」できないんだって思ってた。
好きな気持があるから、そこに「参加」したい。その、「そこ」っていうのが、十代始めの頃の私には、「同人誌」の連れてくる世界、その「同人誌」の集積する、「ジャンル」というものだった。
それは「プチ社会」というようなもの。そして、その「社会」は、どっこい民主主義ではなく(笑)、意外と、階級社会。それはもしかして、同属のなかで階級闘争をしたがる、ヒエラルキーを作りがちな、「女子」の同人界だからなのかな、と、ちょっと思う。
(「モテ」のデモンストレーションなんかも、別領域からの、それよね)


で、十五年近く経った今も、実情はそう変わってないのかもしれない。単なる「読者」でイベントに行くのって(しかも一人で)、すごく、所在ないものがあるもの。それは、自分が、士農工商の「農民」であるという…(笑)、その「引け目」に、どっか、関わっているんじゃないのかな。
で、他ジャンルでいちおう「活動」をしていたら、いちおう、「他藩の武士でございますから…」的な(笑)。
そういう、「自分」の保ち方って、ないですか。どうですか。
私はぶっちゃけ、あります(笑)。


だけど、自分でサイトをやったりイベントに出たりしていると、何かを書くのも、書かないのも、その境目ってすごくあいまいで、ものすごく地続きだなと思う。そしてその分、「自分は、このネタなり、このキャラなりについて、書かないではいられないんだな」っていうことを、ただ平たい事実として、実感したりする。
何かを「書く」のは自分の都合であって、それは、それ以上でも以下でもないのなら、書く方も読む方も、ぜんぜん違いはないよね。
だけどどうも、お互いの間は隔たりあっていて、それがちょっともどかしかったりもするのだった。
書き手は書き手同士、読み手は読み手同士、かたまっていて、その境は、なかなか根深いものがあるのかも。
一昔前までは(今も?)、確実にあった、同人の「書き手」「作家さん」に対する信仰なり崇拝というものは、あれはいったいなんだったのだろう。なんなのだろう。

同人界って不思議。
オンラインが広まって、そのへんが中和されたのか、むしろ、もっと強化されていってるのか、双方向が交じり合って展開していってるようで、女子向け同人をめぐる自意識のあり方、その置き場所とか処理の仕方とか、距離のとり方とかって、とってもむずかしいよな・・・ と、個人的には、いち当事者としては、思うのでした。
みんな、そのへんどうなんでしょうか。
(あんまり、口にしたいようなことじゃないのかもしれないけど)


ともあれ、ようやくと一周年で、つぎは良い二周年を迎えられればいいなと、思う次第です。
続けるよ! 照を!!
そして福本もね。