ミントの人物伝その83−2〔第795歩〕

強靭な体力と、冷静で柔軟な対応力。
探検家になるために生まれてきたような人物です。

ミントの人物伝(その83−2)


北西航路成功の余韻がさめて
アムンセンは、次にいよいよ北極点を目指すことにした。

ふたたびナンセンに会い
今度は彼からフラム号を譲り受けることが出来た。
かつてナンセンが北極に挑んだ際に乗った伝説の船である。

アムンセンとフラム号の名前の効果は抜群で、
探検資金も順調に集めることが出来た。

「なんだって!本当か?」

準備にあわただしいときに、衝撃的なニュースが飛び込んできた。
1909年4月6日にアメリカのロバート・ピアリー
北極点に到達したというのである。

ーよし、目的地を変更しようー

アムンセンは目標を
北極点と真逆の南極点に変更する。
これがアムンセンの運命を決定することになる。

だが出資者や隊員には告げなかった。
どんな反対があるかわからないからだ。
秘密裏のままに準備を進め、
1910年8月10日に「北極探検」のためノルウェーを出航した。

出航後、マデイラ諸島の首都フンシャルに寄港したさいに、
隊員に向かって言った。
「みんな聞いてほしい。
行先は北極ではない、南極だ。
我々は南極点を目指そうと思う」

アムンセンはこのとき、
反対するものは、直ちに下船して去ってもかまわない、と言ったが
隊員はみなこの計画に賛意を示し、計画はスムーズに変更された。

同時にノルウェーにもその旨の電報を打ち、
これは出資者の手が届かなくなってから公表された。

また、同じく南極探検の途上にあったイギリス海軍大佐
ロバート・スコット宛に「われら南極に向かわんとす」との電報を送っている。
事前の連絡なしにいきなり南極で出会うのは無礼だろう、と考えたのだ。
スコット隊もイギリスの威信をかけて、この探検を成功させようとしていた。

ロバート・スコット

また、白瀬矗(しらせのぶ)率いる日本隊の動向にも一時は注目したが、
準備の様子を聞いただけで、ライバルにはなりえないと判断した。
実際、当時の日本隊は根本的に準備不足だった。


1911年1月14日、
アムンセン隊は、ロス棚氷の北東部にあるクジラ湾から南極に入り、
そこにフラムハイム基地を建設した。
スコットはすでに1月2日に西側のロス島に上陸し、エバンス基地を建設している。

スコットが島の地盤の上に基地を設営したのに対し
アムンセンが「大氷床」と呼ばれる氷の上に基地を建設したのは理由があった。
この場所がきわめて安定していることは調査ずみであったし
南極点までの距離は1500kmで、スコットよりも100kmほど短かかったのである。


アムンセン、スコット両隊は半年以上をかけて周囲の探索を行い、
きたるべき探検の準備を行った。

その間にスコット隊が挨拶にやってきた。
騎士道的な出会いと言っていいが
スコット隊は「雪上車(動力そり)」と「馬」を移動手段にしていることが分かった。 

アムンセンは馬ではなくエスキモー(グリーンランド)犬を採用していた。
なぜならエスキモー犬は身軽で忍耐強く、酷寒に慣れている。
さらに食糧面で扱いやすいし、犬は値段も安いのである。

アムンセンは犬を貸し出すことも提案したが、受け入れられなかったという。
のちにこのことがスコット隊にとって大きな不幸を
呼び込むことになってしまうのだが。

1911年10月20日、アムンセンは4人の選抜隊とともにフラムハイムを出発し、
4台の犬ぞりを1台あたり13頭、計52頭に引かせて南極横断を開始する。
みな耐水性に優れたアザラシの毛皮服を着用していた。

比較的好天にも恵まれて、アムンセン隊は順調に距離を伸ばす。
犬ぞりは一日に約40km走破した。
アムンセンはナンセンのアドバイスを思いだし
先行して一人、スキーで進んだ。

12月7日、南緯88度23分の地点を通過する。
ここはかつてシャクルトンが到達した箇所である。
この先は人類未踏の地といっていい。

そして・・

1911年12月14日、
ついにアムンセンは人類初の南極点到達を果たした。
アムンセン39歳。


ー私は子供のころから北極点を目指してきた。
その私がいま、正反対の南極点に立っているー

南極点のアムンセン一行


帰路も順調で、
1912年1月25日に一人の犠牲者も出すことなく
フラムハイムへと帰還した。


さて一方のスコット隊はどうなったか?

雪上車は故障しやすい内燃機関を利用していたため
すぐに動かなくなった。
おまけに馬は体重が重く、雪中での行動に不向きだったため、
次々に死んでいった。

ようやくスコット隊が南極点に到達したとき
そこにはノルウェーの国旗が掲げられていた。
アムンセンに遅れること32日だったのだ。

スコットは膝をついてつぶやいたという。
「神よ、ここはなんと恐ろしい場所でしょうか・・」

さらに残酷な運命が彼らを待っていた。
失意の帰路、5人全員が遭難死をしてしまうのである。

このことでアムンセンは
悲劇の英雄スコットをひいきにするイギリスでは
冷たく扱われることになる。


帰還後は多くの講演活動をこなし、探検旅行の費用の負債を返済した。
特にアメリカにおいては英雄としてたたえられ、自国よりも多くの時間を
アメリカで過ごした。

独立間もないノルウェーにおいては、もちろん国民的英雄となった。


1926年4月には飛行船ノルゲ号で北極点へ到達し、
同行者のオスカー・ウィスチングと共に
人類史上初めて両極点への到達を果たした人物となった。

1927年には報知新聞の招待で来日している。
新発明である飛行機や飛行艇を探検に使うことに熱心であり、
その購入や探検費用に講演収入を使い果たし、破産の憂き目にもあった。

1928年6月18日
遭難したイタリア探検隊のノビレ隊の捜索に赴き、
北極を飛行機で探検中に行方不明となる。

その後、現在まで
機体および遺体の発見には至っていない。


ノルウェーでは今でも
アムンセンの数々の功績が語り継がれている。


(了)


(参考文献)
Wikipedia
サイエンスチャンネル「偉人たちの夢」
「極地探検家の栄光と悲劇 アムンゼンエドワール・カリック
画像はWikipedia、Web から借用いたしました。


[平成29年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20171231


[平成28年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20161231


[平成27年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20151231


[平成26年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20141231


[平成25年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20131231


[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230


[人物伝]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20140930


[YAMAPの記録]
https://yamap.co.jp/mypage/199626



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