「空気なんて読めなくていい。」

本日衣笠キャンパスにて貼りだしたビラの文面の全文は以下の通りです。

「いま大学は自由な空間か」

この大学では「勝手」に壁にビラを貼ることが「違反」とみなされる。
壁に残されたビラは、明くる日にはすべて綺麗に剥がされ、
このキャンパスはいつもの整然とした姿へ戻ってゆく。

どんなビラにもそこには創作した学生たちの声が込められている。
それは「規制」を破ってでも、それでも発せざるをえなかった声だったのかもしれない。
しかし、その「内容」は顧みられることすらなく、すべて剥がされ、かき消されてしまう。

整然としたキャンパス――。
入学式にサークルの勧誘を行うこともできず、勧誘活動を学生たち自身が規制する。
掲示板の枠外に貼られたビラは剥がされ、企画ひとつ自由に打つことも許されない。
そして、「政治的なもの」は大学に持ち込んではいけないと「指導」される。
けれども、それがなぜなされるのかを、わたしたちはよくわかってはいない。
そうであることが当然であるとわたしたちが思いこんでいる、その理由も含めて。

わたしたちは、わたしたち自身で考え行動することができる。
だから、いくらでも、好きなだけビラを貼って撒けばいいし、学内に「政治的なもの」を持ち込めばいい。
「卒業までに、空気の読める大人になろう」と呼びかけるこの大学を、
そして、「この大学が自由である」と信じてきたわたしたちを、いま疑い問うべきなのだ。

「大学」がもっと、混沌とした場であるために。
混沌とした場に生まれる、予期せぬ出会いのなかにある「自由」を。

立命館大学とすべての大学が、「大学」たらんことを願って。

「選択の失敗」論への応答

 わたしたちがtwitterを通して提起した主張に対しては、多くの賛同意見だけでなく当然少なからず批判的な意見も寄せられました。特に、「立命館大学へ進学したことが悪い」、「文句があるなら他の大学へ移ればよい」といった「選択の失敗」を非難するものが多く見受けられます。こうした意見についてわたしたちの見解をここで短いですが示しておきたいと思います。

 こうした意見には、まず人びとには「選択の自由」(この場合はその選択のための努力も含まれています)が与えられており、その選択を誤ったのは各人の自己責任なのだから、その失敗を反省すべきであって、それを他者に向けるなという考えが根底にあるように思われます。 しかし、そうした「選択の自由」を標榜することにより、すべての責任を個人の「選択の失敗」に帰することで、生じる問題を「私的な問題」として矮小化させてしまい、大学の持つ問題性を覆い隠してしまいます。これは問題を感じている人が去っても解決されることでは決してありませんし、「立命館だけでなく自分の大学でも問題となっている」というリプライも多くいただいています。
 また、「私立大学はそもそも金儲けをすることが前提だ」という意見もありますが、11/16付の京都新聞朝刊6面の当大学副学長のインタビューにもあるように、大学側も大学をただ教育サービスとして消費されるものだとは言えず、建前ではあるとしても大学の持つ公的な役割を意識せざるをえません。

 問題を自己の問題として矮小化してしまうことなく、大学・社会の一構成員として、立命館大学だけでなく日本における大学の現状を問い直し、あるべき大学とは何かをわたしたち自身が模索していくべく、私たちは実際に主張し、また活動しています。