大阪へ


大阪国立国際美術館で、森山大道on the road展が開催中で、6日には作家の講演会もあるようだから、ではそれに合わせて京都や大阪に旅行しようかな。というのが今回の旅行のきっかけ。それで調べてみたら他にも行って見たい写真展がいくつかあって、結局、森山大道講演会は断念することにしたのだが、そういう経緯で今日は大阪へ。本当は京都のコヤマトミオでも、今日から、森山大道×蜷川実花なんていうのも始まるのだが、そこまで予定に組むのは無理だった。
 9時半に美術館に到着。講演会の整理券をもらうための列が、既に百人くらいできている。その列はずっと炎天下にのびている。今日は朝から暑い。

 講演会には行かないことにしたので、列には並ばずに、肥後橋あたりをスナップしながら散歩。上の写真なんか、昨日、京都植物園で撮った写真より気に入っている。私と同じように大道展の始まる10時までの時間にカメラを持って散歩している人を何人か見掛ける。川沿いの蔦がからまる廃墟のような建物の軒先には、夏草の濃い緑の中に、オレンジのカンナの花が二つか三つ咲いている。そんなとこにカメラを持った人が集まっている。なんだか檪の樹に集まる甲虫みたいだ。見ると、ミラーレスの方が二人、一眼レフのフィルムが一人。街撮りとか、ストリートスナップとか、お散歩写真とか、若干の気分の違いで言い方が違うが、大きな括りでは似たようなもので (乱暴かな?)、そして写真をやらない人がたまにそういう写真を見ると、『普通、こんなとこを撮ったりしないのに、面白いとこに目が行って流石ね』なんて誉めたりして下さるからアマチュアカメラマンは、結構簡単にいい気分になれる。実際には『普通は撮らない面白いところ』なんかではなくて、街撮り共通の標準被写体、もしくは標準被写体として認識される基準がある。たとえばこの廃墟のカンナみたいな。
 初めてギターを手にしたときには、昔だったら(今もかな)まずCとかGとかFのコードを覚える。あと、マイナーコードも一つ、二つ。それで循環コードをガチャガチャやればまずはよくて(「戦争を知らない子供たち」の伴奏ができる)、でもギターを手にしたことがない人から見ると、その程度でも、すごーい!と思う。そんなところが写真にもあるかも。
 そんなに自虐的というか、あまのじゃくにならなくても、では、こういう考え方は?ジャズのスタンダードのように、誰もが知っている曲があり、それをミュージシャンたちは独自の解釈とかなんとかで新しい色合いに仕立てようとしている。
 そう考えて、あらためて・・・このギターのコードやスタンダード曲のような位置付けの街撮り標準被写体があるのではないか? アスファルトの隙間から伸びている雑草、仕舞屋やブロック塀の上の猫、風に煽られる樹、カバーのかかった車、都会の空や雲、交差点や駅に続く道に人がいい感じに配置された一瞬。あるいは、端が破れたりしているポスター、ショーウインドウの中のものとウインドウに反射した風景、街角の花、干された洗濯物。飲食店内のテレビ、ホームやバス停で待っている人、等々。
しかしなぁ、これをどんどん挙げていってみたら、いつのまにか都市を形作るありとあらゆるものを含んでいたりしてね。そうだとしたら、ストリートスナップは都市を逆に飲み込み、包含し、規格化してしまう。でも都市は易々と変貌を重ねるから、たかがストリートスナップにそんな勝機はないけど。
 スタンダード被写体を撮っていても、そこにはかならず作家の個が現れるから、それが私写真の基本的考え方で、云々、というのは置いておいて、ここではどちらかと言えば、集団による、即ち個としては無名の「同時代ストリートスナップ群衆」のことをつらつら考えて行きたい。
 例えばどこかの大きな美術館で、同時代ストリートスナップ展というのを企画してくれたらどんな風に見えるのかな?上述したようなスタンダード被写体を百くらい設定して、公募したり、既存の著名な写真集からピックアップしたり、ネット上から拾い集め、一つ一つの写真の作家名などは示さずに、ただ設定した項目別に、いや、もしかしたらごちゃ混ぜでもいいかもしれないが、大量に展示する。そういう写真展をやったら、同時代の人々の喜怒哀楽の在りかとかが一番露になるかもしれない。

 森山大道の写真が、こういうスタンダード被写体を繰り返し撮っていることは、清水穣がその分類例まで記述していたと思うし、周知のことだ。だから、どきどきアマチュアカメラマンの誰かは、展示されている中に自分の写真を紛らせてもわからないんじゃないか、とか、こんな写真なら自分でも撮れる、とか言い始める。そういうのは、ジョージよりギターが上手いビートルズコピーバンドが、もしかして俺たちってビートルズ越えたんじゃぁないんかな?と勘違いするようなものだ。
 森山大道が「写真よさようなら」に行き当たってしまった苦悩の実際は本人でないとわからないが(軽はずみにああだこうだとは言えないが)、「光と影」以降のなんていうか強靭で変わらない繰り返しと集積は、自身の言う写真はコピー機と言う認識に裏打ちされている。だから、見る方にはときとして、またこれかぁ、とか、もう見飽きたなぁ、とか、いつも同じ、とか、そんな気持ちが起きることもあるのだが、(中には森山大道が生み出したスタンダード被写体もあるのだろう)大量の都市光景のスタンダード被写体を多く含む写真(コピー)の中にいると、そういうちょっと辟易とした思いも含めて全部が、森山大道にまんまとはまってしまっているということなのかも。

 見終わってから近くのcalo bookshop & cafe。途中でカレーを食べる。

 十三へ移動し、若木信吾の写真展をブルームギャラリーで鑑賞。いやー、ほんと暑くなった。会場でTさんと合流し、十三駅近くの昭和な喫茶店でアイスコーヒーを飲む。Tさんは宮本輝の短編恋愛小説の舞台となった中之島の図書館を見たくなったのが大阪に来た理由の一つだとおっしゃるからずいぶんと乙女だなあと思ったのだが、考えてみたら私だって、若木信吾の星影のワルツの映画を見て、浜松の砂丘に行ってみたりしているなあ、と思う。恋愛小説かどうかが分かれ目か?四人席に二人で座っていたのだが、混んでくると、大阪のおばちゃんたちは、どんどん相席ですぐ隣、肩が触れるくらいのところにも座ってくるのだった。いいと思います。若木信吾は肩の力が抜けていたな。

 中崎へ。ニアイコールギャラリー(だいたいおんなじギャラリーって意味ですね)オープン記念で須田塾大阪のホイさんの「長い午後」。会場で亞林さんと合流。ホイさんはこの写真展に合わせてニセアカシア出版所から写真集を出版した。亞林さんとM本さんが編集とデザイン。編集途中からお二人に進行を見せてもらっていたのだが、それらの写真を壁に展示されて改めてみると新鮮。なんかソ連時代のスパイの活躍する映画のような写真に感じる。緊迫感が漂う。街スナップでもそこに写っている女性たちが能面のようだったり、どこか異様である。須田さん直系という感じもする。とにかく写真一枚一枚が微熱を帯びて高いポジションに浮遊しているのだ。

 夜、比較的早くに京都に戻る。Tとバンコクキッチンという店でタイ料理を食べる。どれもうまくて食べ過ぎてしまった。そのあと夜の丸太町あたりを歩く。借りている5DⅡのISOを1600だったか3200だったかにして、カメラを橋の欄干に置いて、F1.2で10秒くらい露出すると、鴨川デルタで学生たちが輪になって飲んでいる様子が、肉眼ではまったく見えないのにしっかりと写るのだった。





結局すべてストリートスナップの典型に分類できるわけだなあ。