ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』

 186x年、満座の観衆が見守る中で、轟雷と共に円錐型の巨大な砲弾が発射された。目標は──月!

「同志諸君。ここにおられる方で、まだ月を眺めたことのない方、月の話を聞いたことのない方はいないと思います。ここで私が月の話を始めたからといって驚かないで頂きたい。おそらくはこの未知の世界のコロンブスたることが、我々のために残された勤めなのです。御静聴くだされ、満腔の御支持を仰ぐことができるなら、私は諸君を月世界の征服者に致してみせましょう。合衆国三十六州に、さらに月の名前を加えてみせます!」(高山宏・訳)

 南北戦争時に北軍の火砲局長を務めあげ、その財力と技術力をもってヘンリー・ハント将軍に伍する戦功をあげたインペイ・バービケイン──退役砲兵達が集い、メリーランド州に設立したボルチモア大砲クラブの会長の座にあった人物の獅子吼の如き演説によって、その空前にして絶後の大計画は幕を開けた。全長270メートルにも及ぶ巨大な大砲を鋳造し、夜空に輝く月世界へと砲弾を撃ち込む! 計画の前に立ちふさがるあらゆる障壁を打ち壊し、勇気と智謀溢れるバービケインと天才的数学者にして大砲気違いのJ・T・マストンら一癖も二癖もある大砲クラブの面々、これに、砲弾に自ら乗り込み月世界へと赴かんとはるばる海を越えてフランスからやってきた冒険野郎ミシェル・アルダンと、最初は大砲クラブに敵対し、後に同志となったニコル大尉を加えた面々は、無理にして無茶、無茶にして無謀な計画を推し通し、ついにはフロリダ州に設置されたコロンビアード砲から、バービーケインとアルダン、ニコル大尉ら3名を乗せた弾丸が月世界めがけて発射されたのである。


 以上が、ジュール・ヴェルヌ南北戦争終結した1865年に発表した『月世界旅行』のあらましだ。打ち出された砲弾が月の周囲を巡って再び地球の引力圏に戻り、太平洋に着水するまでを描いた『地球から月へ』(邦題『月世界へ行く』)、そして189x年に大砲クラブのお馴染みの面々が再び奇想天外な大計画に挑む『上を下に』(邦題『地軸変更計画』)をもってボルチモア大砲クラブ3部作を構成するこの空想科学小説は、単なるアイディア上の勝利というだけではなく、地球から発射された弾体が地球の引力圏を脱して月へと到達するための方法を数式という極めて現実的な形で示し、後世において宇宙空間を目指した科学者達に計り知れぬ影響を与えた。まだ「宇宙開発」という言葉すら存在しなかった時代、ロケット工学を生み出し、「ロケットの父」と呼ばれるコンスタンチン・ツィオルコフスキーロバート・ゴダード、ヘルマン・オーベルト、そして彼らの意思を受け継ぎ、アメリカのアポロ計画においてついに月面へと人間を送り込むに至ったヴェルナー・フォン・ブラウンといった草創期のパイオニア達の全てが、ヴェルヌの『月世界旅行』の愛読者であったことは余りにも有名である。
 しかしながら、その多大なる功績にも関わらず、これらの科学者達が大砲クラブの名誉会員に名前を連ねることは出来ないのだ。何となれば、ロケット工学者である彼らでは、ボルチモア大砲クラブに入会するにあたって、たった一つだけ存在した必要不可欠の規約──「大砲を発明したことがあるか、少なくとも改良したことがなくてはならない」を満たすことができないからである。
 近現代の宇宙開発史の中で一人だけ、この条件をクリアし、ボルチモア大砲クラブの後継者たることを堂々と名乗ることができる科学者がいた。本稿では、その人物について語ろうと思う。

月世界旅行―詳注版 (ちくま文庫)

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月世界へ行く (新装版) (創元SF文庫)

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地軸変更計画 (創元SF文庫)

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[なお、本稿は森瀬の個人サークル「大砲倶楽部」の機関誌、『夏冬至点』2005年冬号に掲載されたものです。]