誤解を引き受けるということ

少し長いけれども、リンクと引用。

『平野啓一郎さんの「巧みに生きるか、善く生きるか」を巡って』My Life Between Silicon Valley and Japan


若い人たちを見ていて僕はいつも、とにかく生きのびてくれよ、とんでもないことも色々あるこの世の中で何とかサバイバルしてくれよ、といつも願う。気がついたら放り込まれていたこの世の中で「サバイブすること」こそがとりあえず最初に大切で、「善く生きる」のはサバイブしてかなり余裕が出てからでいい、と僕はあえて言い切ってしまおうといつも思っている。そう言い切ることによって生まれる誤解についての責任は引き受けようとも思う。自分だって、後悔しつつもそう生きて来ざるを得なかったわけだし、平野さんが言うように「今の社会は、ノンキに関わって生きていこうとするためには、複雑になりすぎている」からだ。

ただ、最低限何とかサバイブできたあと、人生のある時期以降は「善く生きる」ことを強く意識したい。そういう時間軸の概念を明確に入れて、「巧みに生きるか、善く生きるか」を考えていきたいと思う。ただ「巧みに生きるか、善く生きるか」を全く別の概念として切り分けて二分法的に考えないほうがいい。この二つはかなりの部分で重なり合ったものだからだ。ただ、ギリギリで優先度をつけなければならない局面では「巧みに生きて、サバイブするほうを最優先にすべきだ」と僕は思う。特に、まだ何者にもなれていない若いときには。

「「巧みに、うまく」生きているだけでは、結局のところ、満たされないんじゃないか」と思う段階をできるだけ早く持てれば、それは人生トータルで「善く生きる」ということになるのではないか。まじめな若い人ほど、そう少しいい加減に考えてでも、生きのびてほしい、と僕はいつも願う。


あぁ、そうなのか、いいのか、堂々とサバイバルしてもいいのか。


まず喰ってかなきゃらなんのよ、っていうのは当たり前な論理ですよ。
でも、このエントリを読んでるときには、
気のいい、思わずみんなが敬愛するような類の先輩に、
「ま、そう気張るなや、若者よ!」と、ポンと肩をたたかれたような気がしてしまう。


だって、僕も何やらちょっと肩の力が抜けたのだから。
僕は、よく「まじめすぎだよ」「もっと肩の力抜けよ」という評価を周囲の人々からいただくが、正直な反応は「んなこと言われたって抜き方わかんねーんだからしょーがないんじゃねーか」と思っていたわけですが。
でも、このエントリは、確実に、すっと僕の肩から力を吸い出していった。


彼は発言の影響力が大きく、ネットも実名公開だ。
梅田さん本人が、「そう言い切ることによって生まれる誤解についての責任は引き受けようとも思う。」という通り、かなりのリスクを伴う発言に思う。おそらくは、ある種の緊張を持ちながらこのエントリをUPされたのではないだろうか。

ふと思い出したのは、岡本太郎さんの言葉。

 誤解される人の姿は美しい。

 人は誤解を恐れる。だが本当に生きる者は誤解される。誤解される分量に応じてその人は強く豊かなのだ。誤解の満鑑飾となって誇らかに華やぐのだ。

どうして、梅田さんの上記エントリはすっと入るのか、まだうまく書ききれない。

メッセージ自体は単純。同じ趣旨のことを声高に主張する人もいる。
しかし、単純な、年長者からのお説教とは明らかに違う。
その1線を画すものが何なのか。

  1. 私心が見られない
  2. 誤解を引き受けている
  3. 人への視点が優しい
  4. 衒学趣味じゃない
  5. 読み手への配慮
    1. 当該記事だけ読んでも十分に読み手が完結できる

いくつか挙げられるかなぁ・・・。
このテーマは、今日はこの辺で置いとこう。
また、再会したらそのときに、その先へ。


ただ、梅田さんが、このネットの誰とも知れない人々に向けてリスクを背負ってこのエントリを送り出したであろうということ。
その心的態度があってこそ、人の心に染み込む力をこのエントリが持っているということ。
そして、そのことを感謝をしたいということ。