小林秀雄著『本居宣長』 二度目の読み返しに入っている

小林秀雄著『本居宣長
二度目の読み返しに入っている。

先月の28日から1週間掛けて『本居宣長』を読み終えた。
すかさず、2度目の読み返しに入っている。

読み落としが無かったかを確認しながら読み進んでいる。

小林秀雄著の文庫本(上)(下)2冊であるが、なかなかの読み応え。
以前購入した同名のハードカバーの本がどうしても見つからず、やむなく別途購入した。
インターネットのサイトには『小林秀雄の文章は旧仮名遣いでないと、
その文体の味わいがでない』等と書かれていたりするが、今回の目的は
本居宣長の書いた文章』を理解する事なので、旧仮名遣いには拘らなかった。
文庫本を購入して得をしたのは、別途購入要であった
本居宣長補記 I 』『本居宣長補記 II 』が付いていた事である。
おまけに(本当の意味でのおまけ)江藤 淳氏との対談まで載っている。

以前ホフシュタッターの原本『Gödel Escher Bach』を購入した時も、
同じ様に改訂版には補記が附いていたこともあり2度目の『ラッキー』で有る。

小林本『本居宣長』の有り難さは、原典を『孫引き』する必要が殆どない事。
目下本居宣長の『原典』を改めて国会図書館の資料室から読み始めようとしている。
こちらの方は、少々字体を判別する為の労力が必要となるので、
時間がかなり掛かる事とは思うが、これも又楽しい作業という事にしていきたい。

昨年末から日本語の『訓読み』について考えていた。
訓読みと『音読み』の温度差に戸惑っていた。
個人的に『漢字』(特に旧漢字)が大好きだった事もあって
色々漢字の成り立ちを考えてきた。
学ぶところが、沢山ある。
それにひかえ『訓読み』の元の意味が判らない。
この言葉は何処から来たのだろう?
疑問符ばかりがついてまわる。
この事があり、以前から決めていた
一生掛けて勉強する対象として
ベルクソン』『本居宣長』を挙げていたので、
未だ時間がある内に勉強を開始しようと
漸く重い腰を上げた次第である。

先ずは、慣れない世界なので『道案内』を
小林秀雄氏にお願いした。
小林秀雄氏とは図らずも『ベルクソン』繋がり
というのが、妙なご縁という感じもする。

小林秀雄著『本居宣長』の文の端端に
ベルクソンの影響か(?)と言うのを匂わせる
話の進め方や、説明を見つけてしまう。

大学時代に『無情という事』『モーツァルト』を
愛読して以来約半世紀ぶりの再会という事。

「縁は異なもの」ですね。