ロイター通信の写真(ロイター/Max Rossi)

mugisan2005-04-19

ポープの訃報を知らせる記事につけられていた写真です。2005年一月に撮影したものです。なんだかとても彼らしい写真でいいなと思いました。いたずらっ子のような表情です。大好きな写真です。
 今私は結婚して以来初めて猫も子供も居ない時間を味わっています。折角の孤独な時間をしっかり味わって使おうと思っていたら、久し振りに留守電を解除したので電話相談のラッシュです。生き難い人は花が咲こうが、小鳥が鳴こうが自分はこんなにもつらいのだと、訴え続けます。一度自分の中の無力感というド壷にはまったらそから抜け出すのは、大変な努力と気力が要ります。それを、どんなに他者にぶつけても、誰かが空の心を満たしてくはくれないのです。自分が自分の心を満たさなければ、結局は誰も分かってはくれないと、人を恨む事しか出来なくなります。そんなこと初めッからわかっていることです。自分を不幸だと訴える人に向かって、こんな事を言ってみても始まらないのでただ相手が自分で気がつく事を願いながら、その人が自分を見つめる道程を一緒に歩いています。気の重い旅路ではありますが・・・。
 春はいのちが芽生える季節ですが、その芽は真冬に雪の中で、寒風の中で生まれて準備されているのです。春の芽吹きばかりを人生で願っても、かなえられる道理はありません。耐える事を、自ら目的を見つけて迎え撃つ気力がある人だけが、自分を咲かせることができるのだと思います。年齢に関係なく、子供であれ、老人であれそれは変わりないことです。私に、カウンセリングを求めてくる方の中に、他人の解答を自分に当てはめてとりあえず生きたつもりになっている姿が目に付くように思います。私は、貴女の人生を生きることはできないし、あなたは貴女以外の生き方は出来ないのですよ、と繰り返し伝え続ける中でやっとその事が、自分の言葉で語れるようになって初めて、次のステップに進むこころの状態になれる様です。大人になる前の思春期に、当然ぶつかって納得しているはずのプロセスをクリアーしないで大人になって、周囲とのギャップに悩みだす人が増えています。青年期にしっかりと悩み苦しんで自分と出会った人は、きちんと自分の限界も可能性も自分の力で判断できるおとなになれるのでしょう。
 大人になりきれないままに年だけ重ねた人に出会うたびに、このことを思います。

ガールスカウト

姫様がGSになって8年目。私も母親から一歩踏み込んで数年前に、リーダー訓練を受けて資格を取った。今までは、姫様の所属している部門「シニア」のリーダーだったが,今年はその下の「ジュニア」小4から小6までの超ど級の生意気盛りの部門を持つ事になった。その下の小1から小3までのブラウニーも一緒に活動するのでとどのつまり小学生専門になってしまった。今までは「話せばわかる」だったのに。これからは「わかんない」人たちを相手にする事になり、青くなった。
 4月23〜24日はリーダーの準備訓練でキャンプ。その後ジュニアの訓練キャンプがある。6月はカウンセリングの宿泊研修をスタッフとして企画からやらなければならないし、ジュニアキャンプがあって、秋田でまたエンカウンターがあって、大学院は7月後半から8月の前期考査があってそれまで自分自身の課題をどうまとめるのか、並べ立てていたら足元からぞわぞわと寒気が這い登ってくる。細切れでもいいから、時間をかき集めて自分の研究をまとめなければとあせる。じっくりと腰をすえることを、本気で考えたい。
 中学校の担任から役員が決まらなくて候補に挙がっているから引き受けて欲しいと電話が入る。無理だアアと思う。

かすかな音を立てて



手渡されたお骨の袋は
かすかな音を立てて 手の中に納まった
重さを感じない
温度を感じない
気配を感じない

愛するものが 姿を変えて
最早飛び去っていった事を
改めて手の中で確認する

今日は清清しい日だ
旅立ちにはもってこいの日だ
光の按配も上々
風の具合も最高だ

旅立ったものも  見送ったものも
祝福された一瞬
涙で洗い流され
痛みで清められて

最早妨げるものは何もない今日の旅立ち

西行法師

「願わくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」

仙台は花の樹が多い街だと思う。今時分、道を抜けると、白木蓮と桜が競うように花をつけている。緑がまだあまり目立たないので、一面の花の海をぬけて行くような気分になる。個人の庭にある桜にも見事な古木がある。大将が「染井吉野は一斉に植樹したから、そろそろ一斉に寿命が尽きてあちこちで時期を同じくして枯れ始めているそうだ」等という。樹の寿命としては短く大体60から70年くらいで花付きが悪くなってしまうらしい。西行法師が愛でたのは山桜だった。
 何故か大切な人を春に見送る事が続いている。花曇の空が無性に悲しい。いや花の季節だから耐えられるのかもしれない。去年夏近くまで、窓近くの枝先に留ってで慰めてくれた若い鶯が今年は来ない。心待ちにしているのだけれど。

ロイター通信の写真(ロイター/Max Rossi)

ポープの訃報を知らせる記事につけられていた写真です。2005年一月に撮影したものです。なんだかとても彼らしい写真でいいなと思いました。いたずらっ子のような表情です。大好きな写真です。
 今私は結婚して以来初めて猫も子供も居ない時間を味わっています。折角の孤独な時間をしっかり味わって使おうと思っていたら、久し振りに留守電を解除したので電話相談のラッシュです。生き難い人は花が咲こうが、小鳥が鳴こうが自分はこんなにもつらいのだと、訴え続けます。一度自分の中の無力感というド壷にはまったらそから抜け出すのは、大変な努力と気力が要ります。それを、どんなに他者にぶつけても、誰かが空の心を満たしてくはくれないのです。自分が自分の心を満たさなければ、結局は誰も分かってはくれないと、人を恨む事しか出来なくなります。そんなこと初めッからわかっていることです。自分を不幸だと訴える人に向かって、こんな事を言ってみても始まらないのでただ相手が自分で気がつく事を願いながら、その人が自分を見つめる道程を一緒に歩いています。気の重い旅路ではありますが・・・。
 春はいのちが芽生える季節ですが、その芽は真冬に雪の中で、寒風の中で生まれて準備されているのです。春の芽吹きばかりを人生で願っても、かなえられる道理はありません。耐える事を、自ら目的を見つけて迎え撃つ気力がある人だけが、自分を咲かせることができるのだと思います。年齢に関係なく、子供であれ、老人であれそれは変わりないことです。私に、カウンセリングを求めてくる方の中に、他人の解答を自分に当てはめてとりあえず生きたつもりになっている姿が目に付くように思います。私は、貴女の人生を生きることはできないし、あなたは貴女以外の生き方は出来ないのですよ、と繰り返し伝え続ける中でやっとその事が、自分の言葉で語れるようになって初めて、次のステップに進むこころの状態になれる様です。大人になる前の思春期に、当然ぶつかって納得しているはずのプロセスをクリアーしないで大人になって、周囲とのギャップに悩みだす人が増えています。青年期にしっかりと悩み苦しんで自分と出会った人は、きちんと自分の限界も可能性も自分の力で判断できるおとなになれるのでしょう。
 大人になりきれないままに年だけ重ねた人に出会うたびに、このことを思います。

ガールスカウト

姫様がGSになって8年目。私も母親から一歩踏み込んで数年前に、リーダー訓練を受けて資格を取った。今までは、姫様の所属している部門「シニア」のリーダーだったが,今年はその下の「ジュニア」小4から小6までの超ど級の生意気盛りの部門を持つ事になった。その下の小1から小3までのブラウニーも一緒に活動するのでとどのつまり小学生専門になってしまった。今までは「話せばわかる」だったのに。これからは「わかんない」人たちを相手にする事になり、青くなった。
 4月23〜24日はリーダーの準備訓練でキャンプ。その後ジュニアの訓練キャンプがある。6月はカウンセリングの宿泊研修をスタッフとして企画からやらなければならないし、ジュニアキャンプがあって、秋田でまたエンカウンターがあって、大学院は7月後半から8月の前期考査があってそれまで自分自身の課題をどうまとめるのか、並べ立てていたら足元からぞわぞわと寒気が這い登ってくる。細切れでもいいから、時間をかき集めて自分の研究をまとめなければとあせる。じっくりと腰をすえることを、本気で考えたい。
 中学校の担任から役員が決まらなくて候補に挙がっているから引き受けて欲しいと電話が入る。無理だアアと思う。

かすかな音を立てて



手渡されたお骨の袋は
かすかな音を立てて 手の中に納まった
重さを感じない
温度を感じない
気配を感じない

愛するものが 姿を変えて
最早飛び去っていった事を
改めて手の中で確認する

今日は清清しい日だ
旅立ちにはもってこいの日だ
光の按配も上々
風の具合も最高だ

旅立ったものも  見送ったものも
祝福された一瞬
涙で洗い流され
痛みで清められて

最早妨げるものは何もない今日の旅立ち

西行法師

「願わくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」

仙台は花の樹が多い街だと思う。今時分、道を抜けると、白木蓮と桜が競うように花をつけている。緑がまだあまり目立たないので、一面の花の海をぬけて行くような気分になる。個人の庭にある桜にも見事な古木がある。大将が「染井吉野は一斉に植樹したから、そろそろ一斉に寿命が尽きてあちこちで時期を同じくして枯れ始めているそうだ」等という。樹の寿命としては短く大体60から70年くらいで花付きが悪くなってしまうらしい。西行法師が愛でたのは山桜だった。
 何故か大切な人を春に見送る事が続いている。花曇の空が無性に悲しい。いや花の季節だから耐えられるのかもしれない。去年夏近くまで、窓近くの枝先に留ってで慰めてくれた若い鶯が今年は来ない。心待ちにしているのだけれど。